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2023/01/08

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その27・28) /「二十七 台湾航路」・「二十八 ゼーランヂヤの丘」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。但し、本「二十七 台湾航路」は一見、芥川龍之介と無関係な印象を受けるが、「二十八 ゼーランヂヤの丘」が続きとなっており、そこで芥川に関わった話が語られるという形をとった続き物として読むべきものと判断し、カップリングした。但し、「二十七 台湾航路」の方の末尾には例の特異点の執筆クレジット「一九四八・二・七」があり、この日付挿入を考えると、この日付では、「二十七 台湾航路」は『智慧』の昭和二三(一九四八)年六月二十五日発行の八回目(全九回なので、まだ、十三章もあることから、かなり不審な気もするのだが)の初出ということになり、「二十八 ゼーランヂヤの丘」は最終回七月二十五日発行のそれに、分割して載せられたものかとも思われる。しかし、続編であることは疑いようがない。

 

        二十七 台 湾 航 路

 

 昭和十一年のことである。台北帝國大学の文政学部から法理学の講義をして吳れるやうにといふ依賴を受けたので、十二月二日に神戶から乘船し、五日に台北に到着、二十五日まで滞在した後、その日の夕かたキールンから帰航の途に就いて、二十九日に京都にかヘつて來た。

 当時私は大阪商科大学の専任講師だつたので、台北大学へ承諾の返事をする前に学長の河田さんの了解を得て置くために学長室をおとづれた。丁度、何か用談のために本庄栄治郞氏が來て居られたが、河田さんと本庄さんとが差し向ひで話して居られるテーブルの一角に置かれた椅子にこしかけて、二人の会話が一段落つくのを待つたうへ、私は河田さんに要件について話した。すると、河田さんは自分も二回台湾に行つたことがあるといふことを前置きにして、いろいろその時の経驗を話されたが、二度ながら其の旅行は先生にとつてあまり愉快なものではなかつたらしく、記憶に残つてゐる不愉快な印象ばかりを話された。まへの時も後の時も海上の風波が荒かつたことや、季節が酷熱の甚しい折りからであつたことなどが、そのやうな先生の台湾旅行についての感じをかなり力强く制約したのであつたらしいことが察せられた。

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年当時の恒藤恭は、既に注した昭和八年に発生した「滝川事件」において、京都帝大法学部教授を辞任、直後には菊池寛から文藝春秋社に誘われたが、大阪商科大学(後の大阪市立大学)学長河田嗣郎(かわたしろう)の招聘に応じ、同年九月に大阪商大専任講師となっていた。なお、立命館大学非常勤講師も兼任し、当時、立命館大学学長(事務取扱)だった織田萬(おだよろず)の後任学長候補として新聞に取り沙汰されたこともあった(当該ウィキに拠る)。

「台北帝國大学」臺北帝國大學は日本統治時代(「日清戦争」の結果、「下関条約」によって台湾が清から日本に割譲された明治二八(一八九五)年から、「第二次世界大戦」が終結して日本の降伏後、中華民国政府の出先機関台湾省行政長官公署によって台湾の管轄権行使が開始された昭和二〇(一九四五)年十月二十五日まで)の昭和三(一九二八)年三月に七校目の帝国大学として設立された。内地の帝国大学が文部省の管轄であったのに対し、台北帝国大学は台湾総督府の管轄であった。当初は文政学部と理農学部の二学部が設置され、昭和三年四月に開講していた。文政学部は哲学科・史学科・文学科・政学科の四学科で、国語学と国文学・東洋史学・哲学と哲学史・心理学・土俗学と人種学・憲法・行政法の各講座で構成されていた(当該ウィキに拠る)。

「河田さん」河田嗣郎(かわたしろう 明治一六(一八八三)年~昭和一七(一九四二)年)は経済学者。京都帝国大学経済学部教授を経て、大阪商科大学初代学長。となった山口県玖珂(くが)郡の生まれ。

「本庄栄治郞」(明治二一(一八八八)年~昭和四八(一九七三)年)は経済学者。後に大阪商科大学第二代学長となった。京の西陣生まれ。]

 いささか出鼻をくじかれた氣味ではあつたけれど、私は未知の台湾に対して相当に强い好奇心と深い興味をもつてゐたので、いづれかと云へば思ひとどまつた方がよからうといふ意味の河田さんの言葉によつて心を動かされることなく、持ち出した用件についての了解を得た。

 私はあまり船に强い方ではないので、何よりも往復の海上の模樣が氣がかりであつたが、 幸ひに、往きも帰りも、海上平穩といふほどではなかつたものの、さまで荒天といふので もなかつた。そして、十二月の台湾は一年を通じて最も快適な季節らしく、台北に着いてから、「門司で上陸して、雪交りの寒風に吹かれながら町の中を散步したときのことを思ふと、うそのやうな氣がしますよ。こちらは実に好い氣候ですね」と讃嘆したところ、当時台北大学敎授であり、痒いところに手のとどくやうに世話をして吳れた堀豊彦氏が、「いやあ、台湾はいつもこんなだと思はれては困りますよ」と笑つて、事こまかに台湾の四季の氣候、ことに恐ろしく永いあひだ続く暑熱について說明してくれたものであつた。

[やぶちゃん注:「堀豊彦」(明治三二(一八九九)年~昭和六一(一九八六)年)は政治学者。後に東京大学名誉教授。山口県赤間生まれ。]

 とにかく一ばん快適の季節に滯在したことが主因を成したことと思ふが、台湾で過ごし た三週間はほんたうに愉しい三週間であつた。そして、今から回顧すると、まるで二ケ月 か、三ケ月くらいも滯在したのであつたかのやうに、台湾の人事風光に親しんだその滯在のあひだのことが思ひ出されるのである。

 そのころ、私の義妹の一家が台北に住んでゐて、キールンに船が着いたときには、その夫婦が台北大学の三、四人の敎授諸氏と共に埠頭まで出迎へに來てくれてゐた。義妹には二人の男の兒があり、長男の純隆といふのは当時中学校の三年生か四年生かであつたと思ふが、台北に滯在してゐたあひだ私の泊つてゐた敎育会館の宿舍にちよいちよい用事でたづねて吳れた。それから二、三年の後に、この甥は京都に來て同志社大学の豫科に入学し、さらに法学部に進んで、昭和十八年九月に卒業した後、十一月一日には千葉縣佐倉の近衞步兵隊に入隊した。

 ただし卒業後、甥は台北の両親の家に帰り、その土地の航空関係の製造業の会社に就職したのだが、間もなく入隊の命令をうけたので台北を出発した。ところが、かなり九州に近づいたところで乘船富士丸は米艦によつて擊沈され、彼は他の数人の乘客と共に板ぎれにつかまりながら六時間ばかり海上に漂流してゐた。そのあひだに籠のやうなかたちをしたものが浪間に浮いてゐるのに氣がついたので、それに泳ぎついて見ると、それはバナナを入れた籠であつた。富士丸の甲板に積み込んであつたのが、船体が沈沒した爲漂流しはじめたものらしい。たがひに励まし合ひながら水面に浮んでゐた其の人たちは、丁度空腹の時ではあつたし、籠の中からバナナをつかみ出し、水につかつたままでそれをたべた。そのおかげで長時間辛抱して海上に浮かんでゐるうちに、救援に赴いた日本の駆逐艦のボートによつて救ひ上げられて、門司まで運ばれ、そこから汽車に乘つて東上するみちすがら、京都で下車して私の宅に立ち寄つた。船が沈沒したときに、帽子や眼鏡や靴などをうしなつたので、帽子もかぶらず、スリッパをはいたままの姿であつた。そして慌しくその日の夕方の汽車で東上した。

 身のたけは低いが、ずんぐりと肥えてゐて、色白のまる顏にめがねをかけ、まるで少女に対するやうな感じのする甥であつたが、その時も靜かな、やさしい口凋で、ぽつりぽつりと言葉少なに、海上で遭遇した其のやうな危難の経驗について話すのであつた。

 私たち夫婦は京都訳のプラットホームで、列軍の昇降台に立つてゐる彼のすがたを見送つたのであるが、それが溫順な彼のすがたの見納めであつた。といふのは、十一月の末に彼は華北派遣軍所属として出征し、石門にあつた豫備士官学校を卒業した後、陸軍少尉となり、河北省方面における部隊に属してゐたらしいが、終戰後はシベリアに送られ、チェレモホーボといふところにある收容所で生活してゐるうちに発疹チフスに罷り、昭和二十一年二月七日に永眠したからである。

[やぶちゃん注:「チェレモホーボ」不詳。]

 一昨年の春、義妹夫婦は台北を引揚げて京都にたどりつき、法然院の近くに住むこととなつた。永いあひだ彼らの長男の生死は不明であつたが、昨年の夏の終りごろ、嘗ての戰友の一人が東京に帰還し、その人によつて悲しい知らせがつたへられた。そして今年一月末に遺骨が両親の寓居に到着した。

 シベリアで病死してから丁度二ケ年を経過した昨二月七日を期して、両親の寓居で簡素な告別式がいとなまれた。さまざまの供物のかざられた祭壇の中央に、季節の花にかこまれながら立つてゐる額の中から引き伸しの寫眞の顏がじつと此方を見つめてゐるやうに思はれた。戰鬪帽をかぶり、軍服の双肩から十文字に革紐をかけてゐる姿は、さすがに年少の士官らしい感じがしたが、よく見ると、めがねを通してこちらを見てゐるのは、やはり持ち前の柔和なまなざしをしてゐる二つの瞳であつた。   ――九四八・二・七――

 

        二十八 ゼーランヂヤの丘

 

 台北に到着した翌日か翌々日かに放送局から台湾の印象について放送して吳れないかといふ交渉があつたけれど、その氣になれないからとことわつた。丁度、その年の夏のはじめ頃だつたかと思ふが、大阪放送局のT氏が京都の宅に来訪された。その用向きは、BK[やぶちゃん注:一字づつ、縦書。「NHK大阪放送局」のコール・サイン「JOBK」の略号。]で聽取者から希望番組を募集した結果、「舊友を憶ふ」といふ題目で、芥川龍之介について放送して吳れるやうにといふのであつた。それまで私は一度も放送をしたことがなかつたし、現在とは違つてラヂオに対してあまり興味をもつてゐなかつた。ことに、芥川のことなどについて対世問的に話しをするといふやうなことには全く氣が進まなかつたので、T氏には甚だ氣の毒であつたけれど、辞を厚くしてことわつたのであつた。

 ところで、台北についてから十日ばかり経過したころ、台北大学文学会の神田さんから、その会の集まりで芥川龍之介について話して吳れないかといふ依賴をうけた。「これと云つて皆さんに聞いて頂けるやうな話が出來さうにもありません」と堅く辞退したけれど、懇請をことわり切れなくて、つひに引き受けた。約束の日に台北ホテルに行くと、二階の廣々としたサロンの一隅に、大きい長方形のテーブルをかこんで十四、五人の会員が集まつてゐた。一時間近く取り止めもないことを話したかと思ふが、そのあとで会員諸氏の質問にこたへた。

[やぶちゃん注:「台北大学文学会の神田さん」恐らくは東洋学者・書誌学者の神田喜一郎(明治三〇(一八九七)年~昭和五九(一九八四)年)であろう。当該ウィキによれば、京都市上京区生まれで、大正一〇(一九二一)年三月に京都帝国大学文学部史学科支那史学専攻を卒業、大谷大学教授・宮内省図書寮(圖書)嘱託を経て、昭和四(一九二九)年に台北帝国大学助教授となっているからである。]

 台湾まで來て、其のやうな会合の席上で、芥川のことについて話しをするなどといふことは思ひもよらないことであつた。それから四、五日の後、台北大学の文政学部の助手山下氏と飛行機に乘つて台湾の南端にある高雄まで行き、そのあたりの見物をすませて、汽車で台南に着いた。一旦旅舘で休息してから、よる散步に出ると、本島人の若い男女が白地のゆかた姿で町中をあるいでゐるのが眼についた。あくる日、パスに乘つて安平に到着、昔時のオランダ人の居城ゼーランヂヤを見物した。

 うす雲の空にひろがつてゐる蒸し暑い日和であつたが、もの寂びたゼーランヂヤの城内には私たち二人の外には人影も無かつた。幅のひろい階段風に造られた、ゆつたりした道を登りながら、私はふと新宿の家の二階で、芥川から、かれの少年のころに國姓爺合戰の芝居を見た時の感想をきいた折りのことを思ひ出した。だが、あの芝居の朱色、碧色けんらんたる舞台のあでやかさとは全くちがつて、眼の前にひろがつてゐるのは、古びたオランダの風景画を連想させるやうな、南國の樹木の鈍い綠りいろをところどころに交ヘた、灰色がかつたゼーランヂヤの小丘のたたずまひであつた。

[やぶちゃん注:「安平」「昔時のオランダ人の居城ゼーランヂヤ」私の「女誡扇綺譚 佐藤春夫 始動 / 一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の注を参照されたい。

「國姓爺合戰」(こくせんやかつせん)「の芝居」は近松門左衛門作の人形浄瑠璃(私の好きな文楽作品)。後に歌舞伎化された。全五段。正徳五(一七一五)年に大坂の竹本座で初演された。芥川龍之介が見たのは歌舞伎の方である。]

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