恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その6) /「六 芥川家の人々」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。
注の年譜的事実は、概ね、新全集の宮坂覺氏のそれに拠った。]
六 芥 川 家 の 人 々
芥川龍之介は新原敏三氏の長男として明治二十五年三月一日に生まれた。幼年のときに――何歲のときであつたかは私は知らない――実母の兄に当る芥川道章氏の養子となつた。芥川の十一歲の年に実母は亡くなり、その妹が代つて敏三氏の後妻となつて、二人のあひだに生まれた得二君が新原家を嗣いだやうに思ふ。
[やぶちゃん注:「新原敏三」(姓は「にいはら」と読む 嘉永三(一八五〇)年九月六日~大正八(一九一九)年三月十六日(死因はスペイン風邪))は二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の庄司達也氏の「新原敏三・新原家」によると、『周防国玖珂』(くが)『郡生見村湯屋(現、山口県玖珂郡美和町大字生見』(現在は山口県岩国市美和町(みわまち)生見(いくみ)。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『に農家の三男として生まれた』とあり、慶応二(一八六六)年に『火蓋を切った四境戦争(長州征伐)に』、敏三は、数え十七歳で『大林源治の変名を用いて長州軍の農兵隊である「御楯隊」(後の整武隊)の器械方(砲兵隊)下士卒として参戦』、七月二十八日に『あった芸州口(現、広島県大竹市付近)の戦闘で負傷し、戦線を離脱した』とあり、その後は、しばらく消息が途絶えるが、明治九(一八七六)年九月に『千葉県成田三里塚の官営牧場「下総御料牧場」に「雇」として入所』、『その後、神奈川県仙石原の耕牧舎牧場』に移って、『実業家渋沢栄一のもとで次第に頭角を現していった』(長州征伐は幕府軍が小倉口・石州口・芸州口・大島口の四方から攻めたために長州側では「四境(しきょう)戦争」と呼ぶ)。『後には東京における耕牧舎の牛乳販売の管理者として、外国人居留地に隣接する築地入船町(現、中央区明石町)に本店を置き』(明治一六(一八八三)年)、『府下北豊島郡金杉村、芝、四谷に支店を設け、事業を拡大していった』とある。龍之介の芥川実母フク(万延元(一八六〇)年十月九日~明治三四(一九〇二)年十一月二十八日)との結婚は明治一八(一八八五)年三月で、待望の長男龍之介の生誕は七年後であった(出生地は東京市京橋区入船町(現在の中央区明石町のこの附近)。しかし、その年の八か月後の十月末に母フクが精神に異常をきたしたため(私は重い強迫神経症を疑っている。未だに年譜などで発狂と記すのは、そろそろ考えた方がいいと思う。なお、その発症原因の一つには四年前の明治二一(一九八八)年四月に長女ソメが僅か満二歳九ヶ月あまりで脳膜炎で急逝したことが挙げられるが、どうも実父敏三絡みの隠された原因もあるやには聴いている。因みに、この「ソメ」とは、芥川龍之介の名掌品「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月発行の『改造』初出)の「二」に出る『初ちやん』のことである。同作は実母フクや実父敏三も記されてある。しかし、私はこの夭折した姉「初ちやん」への龍之介の感懐は読むたびに目頭が熱くなるのである。なお、私は今回調べてみて、これは「はつちやん」ではなく、「ソメちやん」と読むのが本当は正しいことを発見した)、龍之介は本所区小泉町(現在の墨田区両国三丁目のこの附近)にあったフクの実家で兄の道章が当主であった芥川家に預けられた。
「実母の兄に当る芥川道章氏の養子となつた」法的決着が下って正式に芥川家の養子となったのは、明治三七(一九〇四)年。同年五月四日に審判が行われ、同月十日に新原家の推定家督相続人廃除の判決が出、同年八月には芥川家に入籍している。当時、龍之介は満十二歲で江東尋常小学校高等科三年であった。養父母については、先行するこちらで既注済み。
「芥川の十一歲の年に実母は亡くなり」数え。満十歳であった。
「その妹が代つて敏三氏の後妻となつて」龍之介の実母フクの末妹フユ(文久二(一八六二)年十月九日~大正九(一九二〇)年四月二十日)が後妻となった。
「得二」新原得二(一八九九)年七月十一日~昭和五(一九三〇)年二月十八日)は龍之介の異母弟。フユとの間に生まれた。新全集人名解説索引によれば、上智大学に入ったが、中退した。『父に似た野性的な激しい性格で』、『岡本綺堂について戯曲「虚無の実」を書いたりしたが』、『文筆に満足』せず、後には『日蓮宗に入』信した。龍之介もいろいろと世話を焼いたが、結局、物にならず、満三十で早逝している。]
芥川が一高に入学した明治四十三年に芥川家は本所小泉町から新宿一丁目に移轉した。そのころは、四谷見附から新宿へ向けて走る電車が終點に近づいて行くと、電車涌りに新宿の遊廓の建物がならんでゐるのが窓から見えたものであつた。たしか三丁目で下車して少し引返し、左りへ折れて二、三町ばかり行くと、千坪くらゐの廣さの方形の草原を前にして芥川の住んでゐた家がぽつんと建つてゐた。樫の木などが疎らに生えてゐる地面を十四、五間へだてて牛舍があつた。芥川の実父新原氏はそこと今一つほかの場所で牧場を経営してゐた。いま一つの方のことは知らないけれど、新宿の方のは牧場といつても小規模のものだつた。しかしホルスタイン種か何かの骨骼のたくましい牛を幾頭も飼つてゐた。
芥川の住んでゐた家も新原氏の所有に属するものであつた。大正三年十月には芥川家は田端に轉居したから、芥川は高等学校時代を通じて新宿に住んでゐたわけであるが、一高の二年生だつた一年間は寮生活を送り、そのあひだと土曜日の午後から日曜日にかけて自宅に帰るならひだつた。
[やぶちゃん注:「芥川が一高に入学した明治四十三年」この年(龍之介満十八)の三月、府立第三中学校を卒業、四月には一高の一部乙類(文科)への進学と英文科志望を決めて受験勉強に励んだが、八月五日、『官報』で一高への成績優秀者の推薦無試験入学(この年に導入されたもの)で合格を知った(龍之介は無試験合格組の第四位であった)。入学は九月十一日日曜日、入学式は二日後の十三日にあった。
「芥川家は本所小泉町から新宿一丁目に移轉した」この明治四三(一九一〇)年の秋から翌年の二月にかけて、芥川家は本所小泉町から、府下豊多摩群内藤新宿(現在の新宿区新宿二丁目(新宿御苑の北直近附近)の実父敏三の経営する耕牧舎牧場脇にあった敏三所有の家に転居している。この家は実は葛巻義定(明治一六(一八八三)年十一月三日~昭和二三(一九四八)年十月十三日)・ヒサ(龍之介の実姉:明治二一(一八八八)年三月十九日~昭和三一(一九五六)年六月二十八日:婚姻届けは明治四二(一九〇九)年三月四日で、二人の間には、後に龍之介が面倒を見て龍之介の書生役となり、龍之介の死後は原稿や資料保存を行った義敏(明治四十二年八月二十一日~昭和(一九八五)年十二月十六日)と、左登子(明治四十三年十一月二十八日~平成一一(一九九九)年十一月)の二子が生まれている。)の新居として敏三が建てたものであったが、龍之介一高入学の同日に二人は離婚しており、空き家となっていた。転居が長期に亙っているのは、十月に龍之介と伯母フキが、まず、移り、翌年二月頃までに養父母道章・儔が移ったとする資料があるためである。因みに、ヒサは、その後、弁護士西川豊と再婚するが(大正五(一九一六)年五月八日婚姻届提出)、龍之介の自死の年、自宅への放火の嫌疑をかけられ、取り調べ中に失踪、昭和二(一九二七)年一月六日、千葉県山武郡の土気(とけ)トンネルで鉄道自殺を遂げた。なお後にヒサは最初の夫義定と再々婚している。]
実父の新原敏三氏には何回か会つたことがあるが、養父の道章氏とはまるで風格のちがつた人だつた。道章氏はいかにも江戶の通人らしい趣のある、ゆつたりとした人であつたけれど、敏三氏は着実な商人風の人でいくらか疳の强さうに見える人だつた。芥川は実父の敏三氏にあまり似てゐない。で、むしろ伯父であり養父である道章氏によく似てゐた。道章氏と敏三氏とが並んで話してゐるのを見ると、どうしても芥川が敏三氏の息子だとは思はれず、道章氏の実子だとしか思はれないくらゐであつた。芥川の容貌はそのやうに道章氏に似てゐたし、趣味などの上からいつても、道章氏と一致する所が多かつたが、爭はれないもので、性質の点では、道章氏ののんびりした性質には似ないで、敏三氏の疳の强さうな性質を多分に受けついだやうである。
芥川の養母は至つて氣だてのやさしい、よく物事に氣のつく婦人で、いかにも人なつこい口調で淀みなく、もの柔かに話す人であつた。新宿のころも、田端に移つてからも、私はしばしば芥川家に泊めてもらつたものであるが、この芥川の阿母さんにはいつもずゐぶん世話になつたものであつた。新宿の家でも、田端の家でも、朝飯にはきつと生玉予が二つと、ほうれん草のひたしと、短冊形の燒海苔四、五枚とが膳のうへにならべてあつた。いつも芥川と私とは芥川の書斎で食事をしたので、他の家族の人々も同じやうな朝飯をたべる慣いであつたか否かは分ちないが、何にせよ一度だつてそれらの三品が欠けてゐたことはないし、またそれ以外の品がついてゐたこともなかつた。
芥川家には、道章氏の妹で、芥川の実母の姉に当る婦人が一しよにくらしてゐた。この伯母さんにも芥川はよく似てゐた。道章氏とおなじく額の廣い、やや眼のくぼんだ顏立ちであつたが、少し藪にらみで、中々勝ち氣な人であつた、その物腰なり、話しぶりなりが芝居に出て來る御殿女中を連想させるやうなところがあつた。どういふ事情からかはしら知らないけれど、一生を独身で通した婦人で、よく氣くばつて芥川の身の廻りの世話などをしでやつてゐたやうである。
[やぶちゃん注:「道章氏の妹で、芥川の実母の姉に当る婦人」既注の芥川フキ。
「少し藪にらみで」フキは幼少時の怪我で、片方の眼が不自由であった。]
芥川は「龍ちやん」とよばれて、これらの三人の老人たちに愛せられつつ、高等学校時代から大学時代をすごした。その後横須賀の海軍機関学校の敎師をつとめてゐたころも、それをやめて每日新聞社に入社し、専門の小說家となつてから後も、かはりなく「龍ちやん」とよばれつつ、大きくなつた子供のやうにふるまつてゐた。
これらの老人の共通の趣味は一中節であつた。長唄とか、淸元とか、歌沢とかにくらべて、一中節は地味な、澁いもので、つつましく靜かなところに特色があるらしいが、とき折りその方の帥匠が來て、老人たちが稽古をしてもらふ場合には、しのびやかな三味線のひびきと唄の声とが、僕たちのゐる二階へつたはつて來るのであつた。
[やぶちゃん注:「一中節」(いちちゆうぶし)は浄瑠璃(三味線音楽)の一流派。初代の都太夫一中が、元禄の末ごろ上方で語り出し、後に江戸に普及した。なお、芥川家の趣味等については短いものだが、私のサイト版芥川龍之介「文學好きの家庭から」を参照されたい。]
昭和二年七月二十四日に芥川が自殺して、先づ此の世を去り、老人たちも次々にその後を追つた。いまでも、芥川のことを心に思ひうかべると、きつと三人の老人のすがたが一しよに浮んで來る。
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