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2023/01/12

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その40) /「四十 卒業直後の芥川の書簡」 * 「芥川龍之介のことなど」~了

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。

 なお、本篇を以って「芥川龍之介のことなど」は終わっている。]

 

        四十 卒業直後の芥川の書簡

 

 六月二十日に卒業試驗は終つた。その翌日の午前、新宿に芥川をおとづれ、赤城行きの打ち合せをした。二十二日あさ芥川龍之介、長崎太郞、藤岡蔵六と私との四人が上野駅から出発した。三年間一緖にすごした高等学校生活の名残りを惜しむための旅行であつた。

 先づ赤城山の中腹にたどりつき、湖畔の宿に一泊した。あくる日のあさ絕頂を窮めた後、下山して、前橋を經由、伊香保の溫泉で一泊、二十四日は榛名山に登つた。その翌日、芥川と藤岡とは帰京し、長崎と私との二人は妙義山から軽井沢にまはつた上帰京した。

 月末には私はそのころ松江に住んでゐた母の許に帰省したので、卒業式には参列しなかつた。次にかかげるのは、松江にかへつた私に吳れた芥川の手紙の文句である。封筒の消印は、内藤新宿、大正二年七月十八日――松江、七月十九日となつてゐる。深い感激のこころを以てそれを読んだことが思ひ出される。

 私などの到底及び難い、すぐれた天才的な能力をもつてゐる友人として、私は芥川に深く敬服してゐたものであつた。それだのに、あべこべに芥川から、彼自身を過度に卑下した文句をつらねた手紙をもらつて、甚だ忸怩たるものがあつた。私が書かれるに全く値ひしないやうな過褒のことばが、その中にはくり返し書かれてあつたからである。そのやうな事情から、芥川龍之介全集編集部に宛てて、故人の書簡のうつしを送つた際には、この手紙のうつしを送ることはしなかつた。昭和二年七月二十四日に芥川が自殺してから満二十一年の歲月が経過したが、生き延びた私はこの歲月のあひだを碌々として爲すことも無く過ごして來たものである。全集第七巻「書簡集」が出版されたのは昭和四年であるが、そのころ読み返して、箱の中に納めて置いたのを、久しぶりにまた読み返して、故人に対して今さらに心恥かしい思ひを新たにせずには居れない。

[やぶちゃん注:以下一行空けで、最後まで全体が一字下げで組まれている。ブログでは引き上げた。]

 

 卒業式をすませてから何と云ふ事もなくくらしてしまつた。人が來たり、人を訪ねたりする。ほかの人に遇はない日は一日もない。休みになつた割合に忙しいのでこまる。本も二、三册よんだ。

 この休暇にかぎつて、今から休みの日數が非常に少いやうな氣がしてゐる。もうすぐに新学期にはいる。学校がはじまる。それがいやで仕方がない。いやだと云ふ中には、大分新しい大学の生活と云ふ不氣味な感じが含まれてゐるのは云ふまでもないが、同時にまた君がゐなくなつたあとの三年のさびしさを予感するのも、いやな感じを起させる大きな Factor になつてゐる。顧ると自分の生活は何時でも影のうすい生活のやうな氣がする。自已の烙印を刻するものが何もないやうな氣がする。自分のオリギナリテートの弱い、始終他人の思想と感情とからつくられた生活のやうな氣がする。「やうな氣がする」に止めておいてくれるのは、自分の VANITY であらう。実際かうしたみすぼらしい生活だとしか考へられない。

 たとへば、自分が何かしやべつてゐる。しやべつてゐるのは自分の舌だが、舌をうごかしてゐるのは自分ではない。無意識に之をやつてゐる人は幸福だらうが、意識した以上こんな不快な自己屈辱を感ずる事は外にはない。此いやさが高じると、随分思ひ切つた事までして自已を主張してみたくなる。自分はここで三年間の自分の我儘に對する君の寬大な態度を感謝するのを最適当だと信ずる。自分は一高生活の記憶はすべて消滅しても、君と一緖にゐた事を忘却することは決してないだらうと思ふ。こんな事を云ふと、安つぽい感情のエキザジェレーションのやうに聞えるからしれないが、自分が感情を誇張するのを輕蔑してゐる事は君もつてゐるだらう。兎に角自分は始終君の才能の波動を自分の心の上に感じてゐた。此事は君が京都の大学へゆく事になり、自分が独り東京にのこる事になつた今日、殊に痛切に思返へされる。遠慮なく云はせてくれ給へ。自分と君との間には感情の相違がある。感覚の相違がある。君は君の感情なり感覚なりを justify する爲によく說明をする(自分は之を好かない)。僕も同樣に說明する事が出來る(この相違から君と僕の間の趣味の相違は起るのだが)。かうした相違は橫の相違で、竪の相違ではないからである。対等に権利のある相違で、高低の批判を下す可らざる相違だからである。しかし理智の相違はさうはゆかない。自分が君の透徹した理智の前に立つた時に、自己の姿は如何に曖昧に、如何に貪弱に見えたらう。君の論理の地盤は如何に堅固に、如何に緻密に見えたらう。之は思想上の問題についてばかりではない。実行上の君の ability の前に自分は如何に自分の弱小を感じたらう。こんな事がある。二年の時、僕が寮へはいつて間もなくであつた。散步をしてかへつて見ると誰もゐない。一寸本をよむ氣にならなかつたので、口笛をふきながら室の中をあるいてゐると、君の机の上にある白い本が見えた。何氣なくあけて見ると、フランス語のマーテルリンクであつた。(其時まで僕は君がふらんす語が出來る事をしらなかつた)。自分はその本の表紙をとぢる時に、讃嘆と云ふより寧ろ不快な氣がした。その時に感じた不快な氣はその後數月に亘つて僕を剌戟して、何册かの本をよませたのであつた。

  (この間二十四行ばかり省略)

 かうして尊敬と可及的君の言動と逆に出ようとする謀叛心とが吸心力[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]と遠心力のやうに自分の心の中に共在してゐた。

  (この間十行ばかり省略)

 自分はこの遠心力も全く無益だったとは思はない。前にも云つたやうに、これがあつた爲に君と自分とは主と隷とにならずにすんだ。けれども又之がある爲に自分は如何にも頑迷に、如何にも幼稚に、君に對して内の EGO を主張した事が度々ある。今から考へると冷汗の出るやうな事がないでもない。よく喧嘩をせずにすんだと思ふ。しかも喧嘩をせずにすんだのは全く自分の力ではない。終始君の寬大な爲であつた。自分が没論理に感情上から卑しい己を立て通した時に、自分の醜い姿が如何に明に君の眼に映じたかは、自分でも知つてゐる。地を換へたなら、自分は必ずかうした態度に出る男を指彈したに相違ない。いくら寬大でも、嘲侮はしたに相違ない。此点で自分は君がよく自分の我儘をゆるしてくれたと思ふ。さうしてさう思つたときに、今まで感じなかつたなつかしさが新しく自分の心にあふれてくる。

 君は自分が君を尊敬していることはしつてゐるだらうと思ふ。けれども自分が如何に君を愛してゐるかは知らないかもしれないと思ふ。我々の思想は隅の隅迄同じ呼吸をしてゐないかもしれない。我々の神経は端の端までもつれあつてはゐないかもしれない。しかし自分は君を理解し得たに近いと信じてゐるし、君も又これを信じて欲しいと思つてゐる。

 一諸にゐて一緖に話してゐる間は感じなかつたが、愈々君が京都へゆくとなつて見ると、自分は大へんさびしく思ふ。時としては惡み、時としては爭つたが、矢張三年間一高にゐた間に一番愛してゐたのは君だつたと思ふ。

 センチメンタルな事をかいたが、笑つてはいけない。こんな事を考へるやうでは少し神經衰弱にかかつたのかもしれないと思ふ。しかし今は眞面目で之をかいてゐる。かきつつある間は少くとも僞を交へずにかいてゐると思つてゐる。自分は月並な友情を感激にみちた文句で表白する程閑人ではない。三年の生活をふりかへつて、しみじみと之を感ずるから書いてゐるのである。

 君のゐなくなつたあとで、自分の生活はどう変るか。遠心力と吸心力とは中心を失つた後にどう働く事が出來るか。それは自分にもわからない。君によつて初めて拍たれた鍵盤は、うつ手がなくなつた後も猶ひびく事が出來るか。出來るとしても、始と同じ音色でひびくだらうか。それも自分にはわからない。

 今時計が十二時をうつた。もうペンを擱かなくてはならない。長々とくだらない事をかいたが、まだ書きたい事は沢山あるやうな氣がする。寢ても、こんな調子では寢つかれさうもない。

  (この間十二行省略)

 村田さんのところへは行つた。君が藪のある所を曲ると云つたから、山伏町で下りて、二番目の橫町をはいつてから藪ばかりさがしたが、藪が出ないうちに先生の門の前へ來てしまつた。村田さんのうちは村田さんのあたまのやうな家ぢやあないか。紅茶を御馳走になつた。女中が小さいくせに大へん丁寧なので感心した。

 よみにくいだらうが我慢してよんでくれ給へ。遅くなつたからもう寢る事にする。

 蚊がくふ。蒸暑い。

 御寺へは八月の二、三日頃ゆく事にした。さようなら。

     十七日夜           龍

   恭  君

 

  追伸 また田中原だか内中原だかわすれたから曖昧に上がきをかく。今度手紙をくれる時かいてくれ給へ。

 

[やぶちゃん注:最後の署名「龍」は八字上げ下インデントであるが、ブログでは引き上げた。

 さて、以上の芥川龍之介の書簡は、原表記(改行を含む)と多少の違いがある箇所もあるが、概ね岩波旧全集に等しい。しかし、省略部(岩波版と同じ)があり、恐らく初めてこの書簡を、ここで読まれた読者は、内心、消化不良の不満を持たれるであろう。

 しかし、ご安心あれ! 私は既に、

「芥川龍之介書簡抄14 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通」の三通目

で、岩波文庫の石割透編「芥川龍之介書簡集」(二〇〇九年)で復元されてあるものを参考に(岩波の新全集原拠)、漢字を概ね正字化し(その際は岩波旧全集のここまでの表記に従った)、芥川龍之介の癖を参考に現代仮名遣を歴史的仮名遣にした推定原書簡復元版を作成しており、オリジナル注も附してあるからである。どうぞ! そちらを改めて読まれたい。

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