恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その12) /「十二 未婚のころの文子夫人」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。]
十二 未婚のころの文子夫人
大正七年に芥川は塚本文子さんと結婚した。よはひは二十七歲。
私は結婚前の芥川夫人に一度だけ会つたことがある。(尤もこの記憶は確かではない。一度だけではなかつたかも知れない。)それは前年の大正六年の正月のことだつたかと思ふが、それよりも前だつたかも分らない。とにかく私が京都から上京して、年末から正月にかけて滯在してゐたあひだのことである。
そのころの塚本家の住居は、芝にあつたのか、麻布にあつたのか、これも忘れてしまつたが、芥川にさそはれて、ある日の午後はじめてそこにおとづれた。十人ばかり集まつてゐた者たちが歌がるたをしてあそんだ。
まだ女学校の生徒らしい樣子のとれてゐない文子さんが、お茶やお菓子などをくばつたりした。大柄な、肉つきの好いからだつきで、ふくよかな頰のいろがうつくしかつた。弟の八洲君も一しよにかるたを取つたかと思ふが、そのころはまだ可愛らしい少年だつた。
夕方そこを辞してのかヘりみち、私たちは文子さんについて語り合つた。とほからず結婚することにきまつてゐた頃のことだつたので、芥川の話しぶりには希望にみちてゐるやうなところがあつた。
文子さんのお父さんは、日露戰爭のとき海軍大学出の少佐として軍艦初瀨に乘り組んでゐたが、旅順の港外で乘艦が機械水雷に触れて沈沒した際に、艦と運命を共にした。そのあと、しつかりした氣性の未亡人のいつくしみ深い養育によつて二人の遺兒は健かに成長したのである。
[やぶちゃん注:龍之介と文の結婚についての経緯は、既に「八 嵐山のはるさめ」の注で年譜的事実を時系列で簡単に纏めてあるが、ここで恒藤が、「とほからず結婚することにきまつてゐた頃のことだつた」と述べていることから、大正五(一九一六)年年始ではなく、最初の述べている大正六年年始である(前年十二月に縁談契約書が両家によって交わされている)。年譜には恒藤(彼は既にこの大正五年の十一月に結婚している。当時は彼は大学院生)の年末年始の滞在は記されていないが、海軍機関学校の冬季休暇は十二月二十一日に始まり、翌年一月九日(この日に鎌倉の下宿に戻っている)までであった。ちょっと気になるのは、新妻雅(まさ)との最初の正月を妻をおいて上京というのはちょっと解せない気がするが、或いは、恭の逆の思いやりで、雅を里帰りさせて父と水入らずの正月を計らったのなら、腑に落ちなくもない。
「塚本家の住居は、芝にあつたのか、麻布にあつたのか」麻布というのは記憶にないが、芥川龍之介の妻文の「二十三年ののちに」(昭和二四(一九四九)年三月発行の『図書』所収。岩波文庫石割透編「芥川追想」で読める)で、芝の新原家(旧芝区新銭座町十六。現在の港区浜松町1―2(グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近)から南南西に直線で三キロ強の位置のここ(現在の港区高輪三丁目)にある東禅寺のそばに、元々の塚本家があったことが、そこに『東禅寺の隣り』とあることから判明した。しかし、これは、恒藤恭の記憶違いで、恒藤が芥川龍之介と知り合い、芥川が文に好意を抱いた頃には、既に塚本鈴と文は本所相生町の芥川の三中の親友山本喜誉司(文の叔父に当たる)の家に移ってからのことであるからであって、芝ではない。その後に或いは麻布に移っているのかも知れないが、芝では絶対にあり得ないのである。恐らく、「昔は、芝に塚本家の大きな家があった。」という話を芥川から聴いたことから、錯誤したものであろう。
「まだ女学校の生徒らしい樣子のとれてゐない文子さん」というより、彼女はまだ跡見女学校在学中で、未だ満十五歳であった。因みに、芥川龍之介(満二十五歳)と結婚したのは大正七(一九一八)年二月二日であったが、この時も、満十七歳で、実は同校在学中であった。縁談契約書では卒業後に結婚するという明文があったのだが、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」のコラム「塚本文との結婚」(六十六ページ)によれば、彼女が『この年数え一九の厄年になるため、迷信深い芥川家ではせめて節分前』(これは旧暦による安全圏内を端としたものであろう。この年の旧暦の元日はグレゴリオ暦で二月十一日に相当するからである)『に式をあげようと早めたという』とあった。
「弟の八洲君」既出既注。当時は満十三歳。
「文子さんのお父さん」山本善五郎(明治二(一八六九)年~明治三七(一九〇四)年五月十五日)は鷺氏の前掲書のコラム「文の父・塚本善五郎」によれば、『飛騨高山の士族であったが、明治維新後、東京へ出て品川の下高輪、東禅寺の一画に一〇室程ある家を構えて住んでいた』。彼は『海軍大学第一四回の卒業生で、卒業時には成績優秀につき』、『恩師の時計と備前長船(おさふね)の刀をもらった』。『明治三七』(一九〇四)『年二月に新造された戦艦「初瀬」に乗り、第一艦隊の参謀少佐』(別資料では「大佐」とある)『として日露戦争に出征し』たが、『旅順港外で艦が機械水雷に触れて轟沈し、御真影を捧げて艦と運命を共にした』。享年三十六であった。『その時』、『妻の鈴は二三歳、文四歳、弟の八洲は一歳であつた』。『塚本家には善五郞の父母が健在であったが、息子の死に力を落して相次いで世を去り、大きな家は不要となったので人に貸し、別に三間の絵を建てて一家はそこに住んだ』。しかし、『母の実家山本家では年若い未亡人一家を案じて里帰りを勧めたので、明治四〇』(一九〇七)年に(龍之介満十五歳)、『一家は本所相生町へ移った』。『この相生町は小泉町の芥川家のすぐ近くで』あり、親友であった『文の叔父喜誉司』(鈴の一番下の弟)『を訪ねて龍之介が』よく『遊びに来』ており、龍之介は文の少女時代から知っていたのであった。]
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