恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十一) (標題に「二〇」とあるのは誤り)
[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。
各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。
なお、この書簡は、本書の先行する「芥川龍之介のことなど」の「九 帰京後の挨拶の手紙」で、一度、丸々、出ている書簡である。律儀というよりも、恒藤恭の自身宛の芥川龍之介書簡を編年体(一部に大きな間違いはあるが)で資料として読者に供するという学者らしい配慮と言うべきである。再掲すると、原書簡は「芥川龍之介書簡抄71 / 大正六(一九一七)年書簡より(三) 塚本文宛・井川(恒藤)恭宛」で電子化注してある。]
二〇(大正六年 田端から京都へ)
先達はいろいろ御厄介になつて難有う。
その上、お土產まで頂いて、甚だ恐縮した。早速御礼を申上げる筈の所、かへつたら、母が丹毒でねてゐた爲、何かと用にかまけて、大へん遅くなつた。
かへつた時は、まだ四十度近い熱で、右の腕が腿ほどの太さに、赤く腫れ上つて、見るのも氣味の惡い位だつた。何しろ、命に関する病氣だから、家中ほんとう[やぶちゃん注:ママ。原書簡も同じ。]にびつくりしたが、幸とその後の経過がよく、医者が心配した急性腎臟炎も起らずにしまつた。今朝、患部を切つて、炎傷から出る膿水をとつたが、それが大きな丼に一ぱいあつた。今熱を計つたら卅七度に下つてゐる。このあんばいでは、近々快癒するだらうと思ふ。医者も、もう心配はないと云つてゐる。
何しろ、かへつたら、芝の伯母や何かが、泊りがけで、看護に來てゐたには、實際びつくりした。尤も腕でよかつたが。
医者曰く、「傳染の媒介は、一番が理髮店で、耳や鼻を剃る時に、かみそりがする事が多い。さう云ふのは、顏へ來る。顏がまつ赤に腫れ上つて、髮の毛が皆ぬけるのだから、女の患者などは、恢復期に向つてゐても、鏡を見て氣絕したのさへあつた」と。用心しないと、あぶないよ、実際。
とりあへず御礼かたがた、御わびまで。
まだごたごたしてゐる。
廿一日夜 龍
[やぶちゃん注:「関する」恒藤恭が読み替えているのだが、ここは原書簡では「關る」であり、素直に読むならば、私は「かかはる」と訓じていると思う。]
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