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2023/01/27

死靈解脫物語聞書下(2) 祐天和尚累を勸化し給ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。標題の「附」は「つけたり」と読む。]

 

  祐天和尚累を勸化(かんけ)し給ふ事

 

Yuutenkuru

 

[やぶちゃん注:本シークエンスの挿絵左右見開きでのワン・カット二枚であるが、右から左へ時制移動があり、それが垣根で分けられてある。底本には挿絵はなく、これは所持する国書刊行会『江戸文庫』版に挿入された東京大学総合図書館蔵本のそれをトリミング補正した。枠外は清拭したが、絵の内部は、一切、手をつけていない(因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である)。キャプションがある。右の図は、前の章の終りの、事態の終息の見通しがないことに困り切って相談する場面で、右中央にいる男の右に、

「てらおとこ

  權兵衛」

とあり、向かい合っている中央上の左に、

「名ぬし

 三郞右門」

で、「三郞右衞門」の略。

中央手前から左幅にかけてが、祐天一行の到来を描く。以下の祐天の決心の発言から見て、四人の内(本文によれば、祐天を含めて全部で八名の僧が出向いているが、残りの四人は画面下方の外にいるのであろう。これから調伏する祐天を際立たせるためにも、ごちゃごやと八人を描く必要を絵師は感じなかったものと思われる。正解である)、左幅の方の墨染めを着た菊に対しているのが、祐天と思われる。独り、家内に横たわったのが、菊で、

「きく

 くるしみぬる」

と右に記されてある。]

 

 去程(さるほど)に、權兵衞、弘經寺に歸る道すがら、思ふやう、

『誠や、祐天和尚、「かの累が怨㚑(おんれう)のありさま、直(ぢき)に見てまし。」と仰られし。よき折から、人もなきに、御供(とも)、仕(し)、見(みせ)參らせん。』

と思ひ、歸りける所に、寺の門外に、意專(いせん)・敎傳(きやでん)・殘應(ざんおう)などゝ聞えし、所化衆(しよけしう)、五、六人、並居(なみゐ)給(たまへ)るに、

「かく。」

と、いへば、

「よくこそ知らせたれ。祐天和尙の御出あらば、我我も、行ん。」

とて、みなみな、用意をぞ、せられける。

[やぶちゃん注:「祐天」は、寛永十四年四月八日(一六三七年五月三十一日)生まれで、『増上寺の檀通上人に弟子入りした』ものの、『暗愚のため』に『経文が覚えられず』、『破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参』籠し、『不動尊から剣を喉に刺し込まれる』という『夢を見て』、『智慧を授かり、以後』、浄土宗では珍しい調伏の法力を発揮することで既に知られていたようである(以上の引用は当該ウィキ)。茨城県守谷市本町にある浄土宗八幡山雲天寺の公式サイトのこちらによれば、『飯沼弘経寺の末寺である当山雲天寺において、祐天上人が「七ヵ日説法」を説かれたのは、飯沼弘経寺の第』三十『世住職になられた時ではなく、以前の師僧檀通上人に随行した時のことであり』、『寛文』九(一六六九)年三十三歳の『とき、当時雲天寺住職から本堂落慶入仏法要(本堂落慶入仏供養一七日)の談義僧派遣の依頼あってのことで、この際に檀信徒を前に』七『日間にわたる「七ヵ日説法」を説かれたとされてい』るともあり、『この縁ある弘経寺に在寺していたときに、現在の常総市にある法蔵寺の当時住職とともに累怨霊を解脱しており、この怨霊解脱に使った百萬遍珠数』(一つの珠の直径が五センチメートル以上ほどある珠数)『と、怨霊の遷った累と菊の木像が寄進され、現在もなお残って』いるともあった。これによって、祐天と弘経寺との深い関係が窺われ、さらに、この事件より三十年後のことであるが、元禄一三(一七〇〇)年、祐天は第五代『将軍綱吉公の台命により』、『再び飯沼の地に戻り、弘経寺の住職となっ』てもいるのである。以上から、本寛文十二(一六七二年)年三月当時、祐天は満三十五であることが判る。]

 さて、權兵衞は祐天和尚の寮に行き、

「かやうかやうの次㐧にて、さいわひ、只今、見る人も御座なく候に、門前に居(ゐ)られし所化衆をも、御つれあそばし、羽生へ御越なさるべうもや、あらん。」

と、いへば、和尚、聞もあへたまわず、

「よくこそ告(つげ)たれ、いざ、行(ゆく)へし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、既に出んとしたまひしが、

「まて。しばし。」

と案じたまひて、仰らるゝは、

「いかなる八獄の罪人も、時機相應の願力(ぐわんりき)を仰(あふ)ぎ、一心に賴まんに、うかまずといふ事、あるべからず。然る所に、再三、念佛のくどくをうけて、得脫(とくだつ)したる㚑魂、たち歸り、たち歸り、取付(とりつく)事は、何樣、石仏ばかりの願ひならず。外に、子細の有と見へたり。若(もし)又(また)、外道天魔の障碍(せうげ)か。そのゆへは羽生村の者共、たまたま、因果のことはりを、わきまへ、菩提の道におもむくを、さゑんとて、來れるか。さなくは、狐狸(きつねたぬき)のわざにて、おゝくの人を、たぶらかさんために、取つくにもやあらんに、せんなき事に、かゝりあひ、我が一分(いちぶん)は、ともかくも、師匠の名まで、くだしなば、宗門の瑕瑾(かきん)なり。只、そのまゝに、すておき、所化共も、行べからず。」[やぶちゃん注:「さゑん」「さへん」で、「障へる・支える」、「妨げる・邪魔する」の意であろう。「瑕瑾」傷。名誉を傷つけること。]

と、貞訓(ていきん)を加へたまへば、權兵衞も、

「尤、至極。」

して、

「爾者[やぶちゃん注:「しからば」。]、所化衆をも、留(とめ)申さん。」

とて、門外さして、出て行く。

 あとにて、和尚、おぼしめすは、

「既に此事は、石塔開眼(かいげん)まで、方丈へ訴へ、其領定(れうでう)有上は、縱(たと)ひ、我々、捨置とも、終(つい)には、弘經寺が苦勞に成べき事共也。そのうへ、權兵衞がはなしのてい、村中の難義、此事に究(きわま)るとあれば、いと、ふびんの次第なり。我行て弔(とぶら)はん。累が㚑魂ならば、いふに及ばず、其外、天魔波旬(てんまはじゆん)のわざ、又は、魅魅魍魎の所以(しよい)にもせよ、大願業力(だいぐわんごうりき)の本誓(ほんぜい)、諸佛護念(ごねん)の加被力(かびりき)、一代經卷の金文(きんもん)、虛(むな)しからじ。其上、和漢兩朝の諸典(しよでん)に載(のす)る所、いか成三障四魔をも、たゞちに、しりぞけ、順次、得脫の證拠、數多(すた)、あり。幸成哉、(さいはひ)、時機相應の他力本願、佛力法力、傳授力、爭(いかでか)、以て、しるし、なからん。但し、今まで兩度の念仏にて、いまた[やぶちゃん注:ママ。]、埒[やぶちゃん注:「らち」。]あかで、來(きた)る事、恐は[やぶちゃん注:「おそらくは」。]疑心名利の失(しつ)有て、弔ふ人の、あやまりならんか。我、佛説に眼(まなこ)をさらし、諸人に、これを敎ふといへども、皆、經論の傳説にて、直(ぢき)に現證(げんしやう)を顯す事、なし。善哉(よいかな)や、この次でに、經卷・陀羅尼の德をも、ためし、そのうへには、我宗[やぶちゃん注:「わがしゆう」。]祕賾(ひさく)の本願念佛の功德をも、こゝろみん。もし、それ、持經密呪のしるべもなく、また、證誠の実言(じつごん)、虛(むなしく)して、称名の大利も、顯はれず、菊が苦痛も、やまずんば、二度(ふたゝび)、三衣(さんゑ)は着(ちやく)せじものを。」

と、ひかふる衆を、ふりすて、守り本尊、懷中し、行脚衣、取りて、打かけ、門外さして出給ふは、常の人とは、見えずとぞ。

[やぶちゃん注:「領定」申し立てを受「領」し、その通りに決「定」された事を言うのであろう。

「天魔波旬」人の生命や善根を絶つ悪魔。他化自在天(第六天)の魔王のこと。「波旬」は、サンスクリット語の「パーピーヤス」の漢音写で、「パーパ」(「悪意」の意)ある者の意。仏典では、仏や仏弟子を悩ます悪魔・魔王として登場し、しばしば魔波旬(マーラ・パーピマント)と呼ばれる。「マーラ」(「魔」)は「殺す者」の意で、個人の心理的な意味合いでは、「悟り」(絶対の安定)に対する「煩悩」(不安定な状態)の、集団心理的には新勢力たる「仏教」に対する、旧勢力たる「バラモン教」の象徴と考えられている。

「大願業力」通常の読みは、「たいぐわんごふりき」で、「仏の大いなる本願の力」。特に「阿彌陀仏の本願」の大慈大悲の絶対の働きを指す。「大願力」と「大業力」、或いは「大願」・「大業」・「大力」の意などと解される。

「加被力」神仏が衆生を助けるために慈悲を加える力。「加威力」(かいりき)とも言う。

「一代經卷」釈迦が生涯に亙って説法した経典の総称。広くは、「経」・「律」・「論」の「三蔵」全体を含む。「大蔵経」「一切経」「蔵経」に同じ。

「金文」有難い総ての「経文」(きょうもん)の意。

「三障四魔」正法(しょうぼう)を信じ行ずる際に、これを阻もうとして起こる働きの総称。三つの「障り」と四つの「魔」。「三障」は「業障」(ごっしょう)・「煩悩障」・「異熟障」(いじゅしょう:「報障」とも言う。これは既に定められてしまっている地獄・餓鬼・畜生等の三悪道や正法誹謗などの報いとして起こる障り)で、「四魔」は「煩悩魔」・「五蘊魔」(ごうんま:心身に苦悩を生じさせるもの。「陰魔」(おんま)とも言う)・「死魔」(生命を奪おうとするもの)・「天魔」(善行を妨げんとするもの。「天子魔」(てんじま)とも。本来は「他化自在天子魔」(たけじざいてんしま)の略で、第六天の魔王他化自在天王による最大最悪の魔障で、生命の根本的な迷いから生ずるもので、権力者などの身に入り込むなどして、あらゆる力を以って修行者に迫害を加えるもの)を指す。

「祕賾」秘奥な事柄。きわめて奥深い真理。

「持經密呪」「持經」本邦では特に「法華経」を受持し、読誦する者を「持経者」と呼び、法華宗・日蓮宗を指す。「密呪」真言密教における仏・菩薩などの本誓(ほんぜい:人々を救済しようとする根源の誓願)を表わす秘密の語である真言や陀羅尼を指す。

「しるべなく」「知る邊」「導」。教導して呉れる対象がなく。

「証誠」「しようじやう」は「真実であると証明すること」を言う。

「三衣」歴史的仮名遣は「さんえ」でよく、「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣を指し、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製したもの)・大衣(だいえ。「鬱多羅僧衣」(うったらそうえ)とも言い、七条の袈裟で上衣とするもの)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に「僧」の代理語として用いている。]

 さて、門前に居られたる、衆僧(しゆそう)に向て、宣(のたま)ふは、

「六人は、歸り、權兵衞、一人は、我を案内して、累が所に、つれ行(ゆけ)。」

と、あれば、六僧のいわく、

「我々も、御供(とも)申行ん[やぶちゃん注:「まをしゆかん」。]。」

といふに、和尚、のたまわく、

「いなとよ。自分は、ふかき所存有故に、覚悟して行也。汝等は、止(とゞ)まれ。」

と、あれば、意專のいわく、

「貴僧は、何とも、覚悟して行たまへ。我々は、只、見物にまからん。」

と、いわれしを、和尚、打ほゝゑみ給ひ、

「尤々[やぶちゃん注:「もつとも、もつとも」。]。いざ、さらば。」

とて、以上八人の連衆(れんじゆ)にて、羽生村さして、行たまふ。

 いそぐに、ほどなく、行つき、彼家(かのいゑ)を見たまへば、茅茨(ほうし)、くづれては、日月霜露([やぶちゃん注:「じつげつ」。]さうろ)も、もるべく、垣壁(かきへき)、破れては、狼狗(らうく)・嵐風(らんふう)も凌(しの)ぎがたきに、土間には、おとる[やぶちゃん注:「劣(おと)る。粗末な。]ふるむしろの、目ごとに、しげき蟣(のみ)・蝨(しらみ)、尻ざしすべきやうもなく、各々、すそを、つまどり、あとやまくらにたゝずみて、菊が苦痛を見たまへば、のみ・しらみの、おそれもなく、けがれ・不淨もわすられて、みなみな、座にぞ、つき給ふ。

[やぶちゃん注:「茅茨」歴史的仮名遣は正しくは「ばうし」。茅(ちがや)と茨(いばら)葺(ふ)いた屋根の意から、そのような「あばら家」を指す。

「蟣(のみ)」これは用字として誤りである。「蟣」は平安頃からある古語で、「きさし」と読み、「虱(しらみ)の卵」を指すからである。

「尻ざしすべきやうもなく」(その時は)気軽に腰をおろすことも出来難く。

「あとやまくらに」「(背の向こうの)後や、枕(元)に」。]

 扨、導師、枕に近寄たまへば、何とかしたりけん、菊が苦痛、忽(たちまち)、やみ、大息(いき)、つゐてぞ、居たりける。

[やぶちゃん注:「導師」言うまでもなく、祐天。即座に法力が発揮される見どころである。]

 時に和尚、問(とい)たまはく、

「汝は、菊か。累なるか。」

と。

 病人、荅(こた)へ云やう、

「わらわは、菊で御座有が、累は胸にのりかゝつて、我がつらを、ながめ居申[やぶちゃん注:「をりまをす」と読んでおく。]。」

と。

 和尚、又、問たまわく、

「いか樣にして、汝を責るや。」

と。

 菊がいわく、

「水と、沙とを、くれて、息をつがせ申さぬ。」

と。

 和尚、又、問ひたまわく、

「累は、何といふて、左(さ)のごとく、せむるぞや。」

と。

 菊がいわく、

「『はやく、たすけよ、たすけよ。』と、いふて、責申。」

と、いとあわれなる声根(こはね)にて、たえだえしくぞ、荅へける。

 其時、和尚、聞もあへたまわず、

「今、さらば、各々、年來(としこご)所持の經陀羅尼、かゝる時の所用ぞ。」

と、まづ、「阿彌陀經」三卷、中聲(ちうこゑ)に讀誦し、𢌞向、已(おわつ)て、

「扨、累は。」

と問給へは[やぶちゃん注:ママ。]、菊がいわく、

「そのまゝ、胸に居申。」

と。

 次に四誓の偈文(げもん)、三反(べん)、誦(じゆ)し、ゑこうして、又、問たまへば、今度も、同じやうにぞ、荅へける。

[やぶちゃん注:「四誓の偈文」「無量寿経」の一節を指す。千葉県市川市の浄土宗善照寺の「バーチャル寺院:善照寺」のこちらに全偈文と現代語訳が載る。]

 扨、其次に、「心經」、三反、誦じ已て、前のごとく、尋ねたまへば、菊がいわく、

「さてさて、くどき問ごとや。それさまたちの目には、かゝり申さぬか。それほど、それよ、我胸にのり、かゝり、左右の手を、とらへて、つらを詠(なが)めて居るものを。」

と、いふ時、和尚、又、すきま、あらせず、「光明眞言」、七反、くり、「隨求陀羅尼(ずいぐだらに)」、七反、みてゝ[やぶちゃん注:「滿てて」。唱え終わって。]、度[やぶちゃん注:「たび」。]ごとに、右のごとく問たまふに、いつも、同邊(どうへん)にぞ、荅へける。

 其時、和尚、六人の衆僧に向(むかつ)て、のたまわく、

「是、見たまへよ、かたかた[やぶちゃん注:ママ。]。今、誦する所の經・陀羅尼は、一代顯密の中におゐて、何れも、甚深微妙(ぢんじんみめう)なれ共、時機、不相應なる故か、少分[やぶちゃん注:「しやうぶん」。少しの効果。]も、顯益(けんやく)、なし。此上は、我宗(わがしう)の深祕(しんひ)、超世別願(てうせべつぐわん)の称名(しやうみやう)ぞ、我に隨(したがひ)て、唱へよ。」

と、六字づめの念佛、七人一同の中音(ちうおん)にて、半時(はんじ)[やぶちゃん注:現在の一時間相当。]ばかり唱へ畢(おわつ)て、

「さて。累は。」

と問たまへば、また、右のごとくに荅へけり。

[やぶちゃん注:ここまでで、祐天は浄土宗では明らかに禁じられている、修学で得た顕・密の咒(まじない)などまでも修法(しゅほう)してしまっている。しかも、寺を出る際に「見物している」と述べた七名の僧にも、結局、唱和させているのである。多分、これは、その方が見た目の迫力はあるからという理由で、作者が手を加えたものかも知れ

ない。

 

Yutentyoubuku

 

[やぶちゃん注:本シークエンスの挿絵左右見開きでのワン・カット二枚であるが、時制が右から左へ、かなりの時制移動がある。挿絵の出所は前に同じ。キャプションがある。右幅上部に、数珠を左手首に掛け、菊の髪を左手でぐいと摑んで抑え込み、強引に念仏をさせようとする劇的シーンを描き、手前と中央手前から左幅の右斜め部分にかけて、群がり集まった羽生村の村民の見物する様子を描写する。祐天の右上に、

「ゆうてん

 おしやう」

とあり、抑えられた菊の下方に、

「きく

 ねんぶつ

 申べき

  と

 いふ」

とある。菊の足元下方に、

「おの

  おの

 より

  あつまる」

とある。なお、この絵に相当するシークエンスは実は、次の「顯誉上人助(すけ)か㚑魂を弔(とふらひ)給ふ事」の中に、絵だけならば、よりしっくりくる(特に多数の見物人の描写は、そちらの方に酷似する)のだが、一点、菊が「十年申」す「べきと」言「ふ」というキャプションは、そちらとは全く合わない台詞であるから、私はあくまでここで、この挿絵を紹介しておく。左幅の左側三分の二は、最終章「菊が剃髪停止(てうじ)の事」のワン・シーンで、菊が、累の憑依から救われた後日、尼になると言う菊を連れて名主らが弘経寺を訪ねる場面である。左の端にいるのが、菊で、その上方に、

「きく

 びやう

    き

 ほんぶくして」

とあり、名主らしき人物の右に続いて、

「なぬし

 きくを

  つれだつ(「ち」にも見える)」

と記されてある。挿絵は、一貫して概ね本文に即して描かれてある。]

 

 其時、和尚、興(けう)をさまし、前後をかへり見たまへば、いつのほどより、集(あつま)りけん、てん手に、行燈(あんどう)、ともし、つれ、村中の者ども、稻麻竹葦(とうまちくい)と並居(なみゐ)たるが[やぶちゃん注:四種の植物のように群がって立っている様子を言う。]、一人、一人[やぶちゃん注:「ひとり、ひとり」]、和尚に向ひ、

「何(なにかしは)、たれ。」

「それがしは、これ。」

と、一々、名字をなのり、樣々、時宜(しぎ)を述(のぶ)る事、いとかまびすしく聞へければ、和尚、いらつて、のたまはく、

「あな、かしがまし、人々。今、此所にして、汝等が名字を聞て、せん、なし。只、其許(そこもと)を、分けよ。我れ、用事を弁ずるに。」

とて、たちたまへば、ひぢを、たをめ、座を、そばだて、おめおめしくぞ、通りける。

 和尚、すなはち、外に出て、意地(いぢ)の領解(れうげ)を述られしは、物すさましくぞ、聞えける。

[やぶちゃん注:「行燈、ともし、つれ」当初は「つれ」は完了の助動詞の已然形で、確述の意の「確かに、灯(とも)しているのであって」の意かと思ったが、文法的にちゃんと説明出来ないことから、ここは「行燈(あんどん)を灯している人が、互いに連れ合って参っており、」の意でとる。

「時宜」この場にあるそれぞれの民からの形式的な挨拶。

「其許を、分けよ」「この場からは、一度、解散せよ。」の意であろう。なお、ここで名を名乗っているのは、世間に知られた法力僧祐天を一目見、名を挙げることで、彼に知って貰うことによって、ひいては、御利益がある、と思った、浅薄な願いからの名乗りであろう。

「たをめ」「手折(たを)め」、肘を曲げて。威嚇的な動作であろう。

「座を、そばだて」座っていたのを、急にすっくと立ち上がって。同前の仕儀。

「おめおめしく」恥ずかし気のないさま。ここは単に、祐天が民草に威嚇的に出ることを全く気にしていないことを強調しているに過ぎない。]

 其詞にいわく、

「十劫正覚(じつこうしやうがく)の阿弥陀佛、天眼天耳(てんあんてんに)の通[やぶちゃん注:「つう」。通力(つうりき)。]を以て、我がいふ事を、よく、聞れよ。五劫思惟(ごこうしゆい)の善巧(ぜんぎやう)にて、超世別願(てうせべつぐわん)の名を顯し、極重𢙣人(ごくぢうあくにん)、無他方便(むたはうべん)、唯称名字(ゆいしやうみやうじ)、必生我界(ひつしやうがかい)の本願は、たれがためにちかひけるそや[やぶちゃん注:ママ。]。また、常在㚑山(じやうざいれうせん)の釈迦瞿曇(くどん)も、耳(みゝ)を、そばたて、たしかに聞け。彌陀の願意を顯すとて、是爲甚難(ぜいじんなん)の説(せつ)を演(の)べ、我見是利(がけんぜり)のそらごとは、何の利益を見けるぞや。それさへ有に、十方恒沙(ごうじや)の諸佛まで、廣長舌相(くわうちやうぜつさう)の實言(じつごん)は、何を信ぜよとの證誠(しやうせう)ぞや。かゝる不実なる佛敎共が、世に在るゆへ、あらぬそらごとの口まねし、誠の時に至ては、現證(げんしやう)、少しも、なきゆへに、かほどの大場([やぶちゃん注:「おほ」。]ば)で、恥辱に及ぶ。口をしや。但し、此方に[やぶちゃん注:「こなたに」。]、あやまり有(あり)て、そのりやく、顯れずんば、佛をめり、法を譏(そし)る、急(いそ)ひで、守護神をつかはし、只今、我身を、けさくべし。それ、さなき物ならば、我、爰にて、げんぞくし、外道(げだう)の法を學びて、佛法を、破滅せんぞ。」

と高声(かうしやう)に呼(よび)わり、たけつて、本の座敷に、なをり給ふ時は、いかなる怨㚑執對人(しうたいじん)も、足をたむべきとは、見へざりけり。

[やぶちゃん注:「十劫正覚の阿弥陀佛」遙か十劫(じっこう)前に成仏した阿弥陀仏のこと。法蔵菩薩が四十八誓願を立てて仏となることを誓って、成仏してから、現在に至るまでの時間を「十劫」と表現し、本願を成就して成仏(「正覺」(しやうがく))したのが十劫の昔であったことから「十劫の弥陀」と称する。因みに、その誓願の内の第十八誓願「縱(たと)ひ、我、佛を得んに、十方(じつぱう)の衆生、至心に信樂(しんぎやう)して我が國に生まれんと欲し、乃至、十念せん。若し生まれずば、正覺を、取らじ。」というもので、「至心・信楽・欲生我国の三心を以って、念仏すれば、必ず、衆生(生きとし生けるものすべて)を往生するようにさせる、そうでなければ、私は、如来にならぬ。」という誓願。現在、既に阿弥陀は如来となっているので、衆生が生まれる以前から総ての衆生は極楽往生することが、決まっているという恐ろしく長い時間をドライヴしている予定調和命題である。本邦の浄土教では、この第十八誓願が特に重要視され、四十八誓願中の「王本願」とも呼ばれている。

「天眼天耳」色界の諸天人の眼と耳を指す。六道衆生の言語と、一切の音響を聞き取ることが出来るとされる。

「五劫思惟の善巧」阿弥陀仏が四十八願を立てる以前に、その誓いに就いて、半分の五劫もの長い間、考え続けたこと。「善巧」は「人々の機根に応じて、巧みに、善に教え導き、仏の利益(りやく)を与えること」を指す。ここはそれを衆生一人一人に総て応じて、洩れなく教示するようにすることを言う。

「超世別願」阿弥陀仏が成就した本願は、諸仏や諸菩薩の「別願」(仏・菩薩がそれぞれ独自の立場に立って発した誓願のことを指す)も及ばない、「世」にも勝れた「超」越的な誓願であることを表わす語。「無量寿経」上に「我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん」と誓い、法然は「十二問答」(禅勝房との問答)の中で、『ただ、極樂の欣(ねが)はしくもなく、念佛の申されざらん事のみこそ、往生の障(さはり)にては、あるべけれ。かるが故に「他力本願」ともいひ、「超世の悲願」ともいふなり。』とある(ここは「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。

「無他方便」「極重惡人 無他方便」恵信僧都源信が「観無量寿経」の説く肝要を簡潔に示した語句の一部。極重の悪人を救う道は、「南無阿彌陀仏」と称名念仏して、極楽に往生する以外、他のてだては、ない、ということ(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。

「唯称名字」「南無阿彌陀佛」の念仏が衆生を救う唯一絶対の本願であることを言うもの。

「必生我界」不詳。「必」ず、衆「生」を「我」の立てた誓願の成就によって、極楽世「界」に導く、という意か。

「常在㚑山」「常在靈鷲山」(じやうざいりやうじゆせん)と同じ。「法華経」の「寿量品」にある自我偈の一句で、「釈迦の寿命は永遠にして、仏身は常住である。」ことを示す言葉。方便のために「入滅」を示した語であったが、実は「死ぬ」ことは、「成仏すること」であり、その後は「常に説法し、衆生を済度しているということ」の意とされるようになった。また、仏を念ずる際に、この言葉は、よく唱えられる。

「瞿曇」釈迦が出家する前の本姓。サンスクリット語「ゴータマ」の漢音写。

「是爲甚難」は「佛說阿彌陀經」の一句。『舍利弗、如我今者、稱讚諸佛、不可思議功德、彼諸佛等、亦稱說我、不可思議功德、而作是言。釋迦牟尼佛、能爲甚難、希有之事、能於娑婆國土、五濁惡世、劫濁(こうじよく)・見濁・煩惱濁・衆生濁・命濁中(みやうじよくちゆう)、得阿耨多羅(とくあのくたら)、三藐(さんみやく)三菩提、爲諸衆生、說是一切世間、難信之法。』。「能(よ)く爲(な)すこと甚だ難(かた)し」。

「我見是利」「阿彌陀經」の一節。『舍利弗、若有善男子、善女人、聞說阿彌陀佛、執持名號、若一日、若二日、若三日、若四日、若五日、若六日、若七日、一心不亂、其人臨命終時、阿彌陀佛、與諸聖衆、現在其前、是人終時、心不顛倒、卽得往生、阿彌陀佛、極樂國土、舍利弗、我見是利、故說此言、若有衆生、聞是說者、應當發願、生彼國土、舍利弗、我見是利、故說此言、若有衆生、聞是說者、應當發願、生彼國土。』(舎利弗、若し、善男子・善女、人、有りて、阿彌陀佛を說くを聞きて、名號を執持すること、若しくは一日、若しくは二日、若しくは三日、若しくは四日、若しくは五日、若しくは六日、若しくは七日、一心不亂ならん。其の人、命、終る時に臨みて、阿彌陀佛、諸の聖衆と與(とも)に其の前に現在したまふ。是の人、命、終る時、心、顚倒せず。卽ち、阿彌陀佛の極樂國土に往生することを得。舍利弗、我是(がぜ)の利を見るが故に、此の言を說く。若し、衆生、有りて、是の說を聞かん者は、應當に發願して、彼の國土に生まるべし。)。以上は、長南瑞生氏のサイト「浄土真宗.jp」の「阿弥陀経とは?」を参考にさせて貰った。

「恒沙」「恆河沙」(ごうがしや)の略。「ガンジス川の砂」の意で、仏教の経典中で「数えきれないほど多い」ということの比喩として、たびたび用いられている。

「廣長舌相」仏に具わっているとされる三十二の優れた相(そう)の一つ。「舌が広く長く、伸ばすと顔一面を覆う」という様態を指し、「嘘・偽りのないこと」を示す相の一つとされる。後に転じて、「仏の説法」を「広長舌」と称し、「雄弁なこと」などの比喩に使用されるようになった。

「怨㚑執對人」怨霊に「對」して調伏退散を「執」行するゴースト・バスターのことか。

「足をたむべきとは、見へざりけり」その祐天の激しい信念には、それに対して、とても「足を踏み止まることが出来るような」同力を持った人物はいないように見えた、の意であろう。]

 されども、

「累は。」

と問給ふに、又、もとのごとく荅る時、和尚、きつと、思ひ付たまふは、

『実(げ)に、実に。われら、あやまりたり。その当人のなき時こそ、我々ばかりの称名𢌞向も、薰發(くほつ)・直出(じきしゆつ)の理(り)に、かなわめ。既に、罪人、爰に在り。彼に、となへさせて爾るべし[やぶちゃん注:「しかるべし」。]。是ぞ、「觀經」に説所(とくところ)の、十𢙣五逆のざい人、臨終、知識の敎化に値(あ)ひ、一声十念(いつしやうじうねん)の功により、決定往生(けつじうわうじやう)と見へたるは、こゝの事ぞ。」[やぶちゃん注:「薫發」「宿善薫發」。前世に積んだ善根が、善い縁に触れて、現われるさまを指し、本来は「正しい仏道修行に入ること」を言う。「直出」不詳。「直ちに本来の姿を自ずから現わすこと」か。「觀經」「觀無量壽經」の略。「十𢙣五逆」「十𢙣」(「𢙣」は「惡」の異体字)は「身」・「口」・「意」の三業(さんごう)が生み出すとする、十種の罪悪。殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口(あっく)・両舌・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見を指す。「五逆」は、五種の最も重い罪とするもので、一般には「父を殺すこと」・「母を殺すこと」・「阿羅漢(あらかん:尊敬や施しを受けるに相応しい真の聖者)を殺すこと」・「僧の和合(仲よく親しみ合う切磋琢磨する僧衆教団の結束)を破ること」・「仏身を傷つけること」を指し、一つでも犯せば、最悪の「無間地獄」に落ちると説かれる。「五無間業」「五逆罪」とも称する。]

と、おもひきわめ、菊に向いて、のたまふは、

「汝、我ことばにしたがひ、十たび、念佛をとなふべし。」

と、あれば、菊がいわく、

「いなとよ、さやうの事、いわんとすれば、累、我(わが)口を、おさへ、となへさせず。」

といふ時、左右にひかへたる百姓共、ことばをそろへて、いふやう、

「それは、御無用に候。その者、念佛する事、かなわぬ子細(しさい)候。いつぞやも、來りし時、是成[やぶちゃん注:「これなる」。]三郞左衞門、今のごとくに、すゝめられ候へば、累が申やう、『おろか成云事や[やぶちゃん注:「おろかなるいひごとや」。]。獄中にて、念佛が申さるゝ物ならば、誰(たれ)の罪人が、地獄にして劫數をへん。』と申候。」

と、いゝも、はてさせず、和尚、いらつて、のたまわく、

「しづまれ、しづまれ、汝等。口のさかしきに、其事も、我、よく聞けり。それはよな、累、來て、菊が身に直(ぢき)に入替りしゆへにこそ、唱ふる事、かなわざらめ、今は、しからず。累は、すでに、別(べち)に居(ゐ)て、我に向ひ、ものをいふは、菊なり。しかれば、累が名代[やぶちゃん注:「みやうだい」。]に、菊に、となへさするぞ。」

と、のたまへば、みな、

「尤。」

と、うけにけり。

 さて菊に向ひ、

「かく。」

と、のたまへば、菊がいわく、

「何と仰られても、念佛となへんとすれば、息ぐるしくて。」

と、いふとき、和尚、

「さては。累が㚑魂にあらず。狐狸(きつねたぬき)のしわざなり。そのゆへは、実(まこと)の累が㚑ならば、菊が唱ふる念佛にて、己(をの)れが成佛せん事のうれしさに、すゝめても、となへさすべきが、おさゆるは、くせものなり。所詮は、菊か[やぶちゃん注:ママ。「が」。]からだのあるゆへに、ゑ知れぬものゝ寄そひて、村中にも難義をかけ、我々にも、恥辱をあたゑんとするぞ。よし。此者を、我に、くれよ。たち所に責めころし、我も爰にて、いかにもなり、萬人の苦勞を、やめん。」

と、のたまひて、かしらかみを、引のばし、弓手(ゆんで)に、

「くるくる」

打まとひ、首(かうべ)を、取(とつ)て、引あげたまふ時、菊は、わなゝく声を出し、

「あゝ、となゑん、となゑん。」

と、いふ時、和尚のいわく、

「さては、累が『しかと、となへよ。』といふか。」

と聞給ヘば、菊、荅て

「中中、さ申。」

といふ故に、

「尒者。」[やぶちゃん注:「しからば」。]

とて、かみ、ふりほどき、手をゆるし、合掌叉手[やぶちゃん注:「さしゆ」。]して、十念を授け給へば、一一に[やぶちゃん注:「いちいちに」。]、受おわんぬ[やぶちゃん注:「うけ畢(をは)んぬ」。]。

「扨(さて)、累は。」

と問たまへば、菊がいわく、

「只今、我が胸より、おりて、右の手を取(とり)、わきに、侍る。」

と、又、十念を授けて、問給へば、

「今、爰(こゝ)を去(さつ)て、窓かうしに、手を、うちかけ、うしろ向ひて、たてる。」

と、いふ。

 また、十念をさづけて、問たまへば、その時、菊、起きなをり、四方上下を見めぐらし、よにも、うれしげなるかほばせにて、

「累は、もはや、見え申さぬ。」

と、いへば、其時、座中の者共、皆、一同に声をあげ、

「近比、御手がら。」

と云(いふ)時、又、菊、いとわびしき音根(こわね)を出し、

「それ、よく、それさまの、うしろへ、累が、また、來(きた)る物を。」

といふ時、和尚、はやくも、心得たまひ、守り本尊を取出し、扉を開き、菊に指向けて、「累がつらは、かやう成しか。」

と問たまへば、菊がいわく、

「いなとよ、かほをば、見ざりしか。」

と、いふて、のびあがり、あなたこなたを、見廻し、

「わかれ、いづちへか、行きけん、たちまち、見へず。」

といふ時、和尚、又、菊に十念を授けたまひ、近所より叩(たゝき)かねを取よせ、念佛しばらく修(つと)め、𢌞向して歸らんとしたまひしが、名主・年寄、兩人に向て、宣ふは、

「此㚑魂のさりやう、いさきか心得がたき所、有。併(しかしながら)、実(まこと)に累が㚑魂ならば、もはや、二度(ふたゝび)、來(きた)るまじ。若、又、狐狸のわざならば、また、來る事も、有べきか。そのやうだいを、見たく思ふに、こよひ一夜(や)、番を、すへて、替(かわ)る事も有ならば、早々、我に、知らせて、たべ。」

と有ければ、名主・年寄、畏(かしこまつ)て、

「我々、兩人、直(ぢき)に罷有らん[やぶちゃん注:「まかりあらん」。]。御心易く思召(おぼしめせ)。」

と、かたく、領定(りやうぢやう)仕れば、悅びいさんで、和尚を始め、以上八人の人々、皆々、寺へぞ、歸られける。

 是時、いかなる日ぞや。寬文十二年三月十日の夜、亥(い)の刻ばかりに、累が廿六年の怨執(おんじう)、悉(ことどと)く、散じ、生死得脫(しやうしとくだつ)の本懷を達せし事、併(しかしながら)、是、本願橫帋(わうし)、をさをさの利益、只、恐は[やぶちゃん注:「おそらくは」であろう。]、決定信心(けつぢやうしんじん)の、導師の手に、あらんのみ。

[やぶちゃん注:「寬文十二年三月十日の夜、亥の刻」グレゴリオ暦一六七二年四月七日の午後七時頃から九時頃。]

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