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2023/01/18

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十七) (標題に「二六」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。ここから最後までは、概ねてそちらで注でリンクを示し(一通はちょっと別な形で電子化してある)、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    二六(大正大正七年三月十一日 田端から京都へ)

 

 拜 啓

 御祝の品難有う。今日東京へ歸つて拜見した。

 うちはやつと見つかつたが、引越すのは多分今月廿日頃になるだらうと思ふ。鎌倉でも、橋[やぶちゃん注:原書簡は橋名の「亂橋」(みだればし)となっている。後注参照。]と停車場との中間にある寂しい通りだ。間數(まかず)は八疊二間、六疊一間、四疊二間、湯殿、台所と云ふのだから少し廣すぎる。が、蓮池があつて、芭蕉があつて、一寸周囲は風流だ。もし東京へ來る序ででもあつたら寄つてくれ給へ。番地その他はまだ僕も知らない。いづれ引越しの時通知する。

 例の通り薄給の身だから、これからも財政は少し辛(つら)いかも知れないと思つてゐる。兎に角人間は二十五を越すと、生活を間題にするやうになると云ふよりは、物質の力を意識し出すやうになるのだ。だから、金も欲しいが、欲しがつてもとれさうもないから、別に儲ける算段もしないでゐる。

 学校の方はいゝ加減にしてゐるから、本をよむ暇は大分ある。この頃ハムレットを讀んで大に感心した。その前にはメジュア、フオアメジユア[やぶちゃん注:原書簡では「メジユア フオアメジユア」。恒藤の転写ミスであろう。]を讀んでやつぱり感心した。僕の学校は一体クラシックスに事を缺かない丈が便利だ。バイロンのケインなんぞは初版がある。古ぼけた本をよんでゐるのは甚いゝ。その代り沙翁のあとで独訳のハムスンを読んだから妙な氣がした。新しいものもちよいちよい瞥見してゐる。あんまり面白いものも出なさうだね。

 その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない。谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ。さうして平安朝小說を書くさうだ。僕は今度はゆつくり寺めぐりがしたいと思つてゐる。

 あとは後便にゆづる。

 末ながら雅子樣によろしく

 別封は前に書いたが出さずにしまつたものだ。以上

    三月十一日                 龍

 

[やぶちゃん注:原書簡は「芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通」の八通目で電子化注してある。諸注してあるが、ここでは以下を補足しておく。

「橋」文中注で示した「亂橋」は固有名詞であり、私はこれを外してしまった恒藤恭には、鎌倉の郷土史を手掛けている私としては、甚だ不満である。鎌倉市材木座二丁目のここ(グーグル・マップ・データ)にある。鎌倉名数の一つである「鎌倉十橋」の一つで、材木座の日蓮宗妙長寺の門前から少し海岸寄りにある橋(グーグル・マップ・データ)であったが、道路上は、現在、ほぼ暗渠化している。但し、上流部には小流が確認出来、現在は欄干様の後代のそれが、上下流の部分が配されてあり、よすがを残し、碑もある(後の二つのリンクは孰れもストリートビュー画像)。芥川が、それほど知られていないこの橋名を出しているのは、彼の尊敬する泉鏡花の初期作品「星あかり」が、この妙長寺や乱橋をロケーションとしているからと推察する。「星あかり」は明治三一(一八九八)年八月発行の『太陽』に「みだれ橋」の標題で発表され、後の明治三十六年一月に春陽堂から刊行された作品集「田每(たごと)かゞみ」に収録した際、「星あかり」と改題されている。私は昨年、この偏愛する一篇を正規表現PDF縦書版でマニアックな注を附して公開してあるので、是非、読まれたい。芥川好みのドッペルゲンガーらしき怪異も描かれており、恒藤恭が読んでいたかどうかは判らないが、芥川の確信犯の仕儀と心得る。なお、上記の地図の北の横須賀線の踏切の向こう側に「辻薬師堂」(正しくは「辻の薬師」)があるが、その鉄道を挟んだ西側に芥川龍之介の新婚の新居はあった(当時の鎌倉町大町字(あざ)辻の小山別邸の離れの建物を借り受けたもの)。本書簡から八日後の三月二十九日、芥川龍之介はここに転居している。宮坂年譜によれば、『当初は伯母フキも同居したが、翌月中旬には田端に帰る。フキは、以後も時々鎌倉を訪れた』とある。場所は現在の鎌倉市材木座一丁目の元八幡(鶴岡八幡宮の元宮である由比若宮)の南東直近のこの中央附近である(グーグル・マップ・データ)。既に述べたが、私の父方の実家は北西二百メートル余りの直近にある。この「辻」というのは、鎌倉時代にここに「車大路」と「小町大路」との辻があったことに由来する。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行 教恩寺/長善寺/亂橋/材木座」の「長善寺」(この雑誌発刊時には横須賀線敷設のために、この廃寺となっているので、この項立て自体はおかしい)の項を見られたい。

「その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない」新全集の宮坂年譜によれば、この四月は三月から書き始めていた「地獄變」(五月一日(後者は二日)から二十二日まで『大阪毎日新聞』及び前記の系列新聞である『東京日日新聞』に連載)が、海軍機関学校の公務の多忙と重なり、脱稿が下旬まで延び、『精神的疲労は重く、月末には診察を受けている』という有様であった。但し、「出張」と言っており、これは五月三十日に出発した広島の江田島海軍兵学校参観を指すので、この時には具体な出張日程が示されていなかったものと思われる。先行する『恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その30) /「三十 京都の竹」』が、その出張後の京都訪問を指す。そのために電子化注した「芥川龍之介 京都日記 (正規表現・オリジナル注釈版)」も参照されたい。但し、この時、恒藤と逢ったかどうかは、確認出来なかった

「谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ。さうして平安朝小說を書くさうだ」谷崎がこの時期に京都に転居した事実はなく。「平安朝小說」というのも、この時期、それらしいものはないように思う。]

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