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2023/01/15

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十二) (標題に「一一」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで誤ったままで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を一応、終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号。]

 

    一一(大正三年六月十五日 新宿から京都へ)

 

 こつちも試驗で忙しい。心理なんか大抵よまない所が出て悲観しちやつた。六十点とれたかどうか、それさへわからない。苦しむと云ふのと覚えると云ふのとは別々な現象で、其間に必然的な関係はない。それを必然的な関係があると誤断して、その上にそれをひつくりかへして苦めさへすれば覚えるとしたのが試驗の制度だ。此意味で試驗問題をつくる人は中世の INQUISITION の判官にひとしい。事によると更に下等かもしれない。何となれば試驗は陋烈な復讐心が其行爲を規定する主なファクタアになつてるからだ。自分も試驗で苦しんだから若い奴もと云ふやつだ。何とか云ふが、兎に角理屈はぬきにして、いやなものはいやだ。

 靑木堂で岩元さんにあつたら「人間の頭ちふものは大がい際限のあるもんで、午前中よりきかんものだ。それを午すぎに講義をするなんちふ奴は、する奴もする奴だが、きく奴もきく奴さなあ」と云つた。それから、「おらあ自分でやる授業でも午すぎのやつはでたらめをしやべつてるんだが、そのわりに間違はないものだぜ」と云つた。何だか酒屋の番頭に羊羹の拵へ方をきいてるやうな氣がした。

 石田君は勉强して特待になる。谷森君は今日の心理で僕位しくぢつたが、なるかもしれない。久米はなまけてゐて八單位とるさうだ。

 みんなよく一朝事あるときに平生の生活狀態の均衡をやぶつて顧ないでゐられる。この頃僕は肉体的にも精神的にもそんな勢がなくなつてしまつた。

 プリフェアのところへ行つたら、伊太利亞語をやらなくつちやあだめだと云はれた。西班牙語の詩をよんできかせられた。西班牙語が南の語では一番やさしいさうだ。一つ伊太利亞語、西班牙語でもはじめるかなと思つたが、今はもうそんな氣はしなくなつた。しかし伊太利亞語がよめるとちよいといゝな。

 新思潮は一册君の國のうちへおくつた。試驗がこつちより早くすんで、二十日前にはもう君が宍道湖のある町へかヘつてゐるだらうと思つたからだ。例によつて同人一人につき雜誌一册しかもらへないのだから。

 あと一册は今手許にないのですぐに送れない。あさつて試驗で学校へゆくから、その時にする。この手紙より二、三日遅れるだらう。

 あさつてコツトの希臘羅馬文学史の試驗がある。こいつも大変だ。セオクリタス、アポロニウス、サイロピデア、シンサス、アプレリウス――人の名だか本の名だか地名だかわすれてしまふ。   とりあへず。

    六月十五日夜          龍

註1 故岩元禎氏(当時、一高敎授、担当はドイツ語)

 2 イギリス人

 

[やぶちゃん注:この書簡は、電子化していなかったので、先ほど、「芥川龍之介書簡抄154 追加 大正三(一九一四)年六月十五日 井川恭宛」として岩波旧全集の正規表現版で電子化注しておいたので、そちらを参照されたい。]

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