恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その24) /「二十四 人生と藝術」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。
本篇は特異的に文末に「――九四七・一〇・一九――」のクレジットがあるが、これは本篇(或いはそれより前の幾つかを含めて)の記事を書いた日のそれと推定される。現雑誌は確認出来ないが、信頼出来る恒藤恭の著作目録を見ると、初出誌『智慧』での分割発表は、昭和二二(一九五七)五月一日初回で、続いて同月二十五日、八月一日、九月一日、十二月一日の五回分(本篇まで全部と推定される)が同年中に公開されているものと推定出来る。]
二十四 人 生 と 藝 術
『あしたに道を聽けば、ゆふべに死すとも可なり』といふ論語の中の言葉は、道のたふとさを說いたものであらうか、道を聽くことのありがたさを說いたものであらうか、それとも、それほどまでに眞劍に道をきく心のもちかたを敎へたものであらうか。
とにかくきはめて短い文句の中に極度に誇張した思想内容を盛ることによつて、力强く人のこころに訴へようとする表現のしかたではある。
『人生はボードレールの詩の一行に若かず』といふのは、よく引用される有名な芥川龍之介の警句である。それは謂はゆる藝術至上主義の思想を極度に壓縮したかたちで言ひあらはしたものと視られてゐるやうである。『だが、いつたいボードレールの詩集の中から、それ程にもすぐれた價値をそなへた一行をさがし出すことが可能であらうか』と、開き直つて反問することは無用であらう。
ところで、いたづらに雜音に充ち充ちた全人生とくらべて、ボードレールの詩の調子の高さを芥川がひたむきに讃嘆してゐるのだ、と考へるよりは、むしろ、『人生のおそるべき退屈』をしみじみともの語る彼の嘆息を私は此の文句の中に聽き取るのである。
そして、芥川にとつては、藝術の使命は人生のたいくつさを克服することにあつた、とも思ふのである。
――九四七・一〇・一九――
[やぶちゃん注:末尾クレジットは底本では本文最終行の下二字上げインデントであるが、ブログ版では改行して引き上げた。
「あしたに道を聽けば、ゆふべに死すとも可なり」まず、漢文の教科書に載らないことはない、「論語」の「里仁第四」の有名な一節。「子曰。朝聞道。夕死可矣。」(子曰はく、「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆふべ)に死すとも可(か)なり。」と。)。
「それほどまでに眞劍に道をきく心のもちかたを敎へたもの」個人的にはこれがその核心であると私は思う。
「人生はボードレールの詩の一行に若かず」正確には、「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」である。芥川龍之介の死後、昭和二(一九二七)年十月一日発行の雑誌『改造』に掲載された「或阿呆の一生」の本文冒頭を飾る一章の中に出現する(リンク先は私のサイト版で未定稿(草稿)附きである。なお、その公開された最終決定稿では冒頭に久米正雄宛の添え書きを持つ)。以下に全文を示す。
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一 時 代
それは或本屋の二階だつた。二十歲の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………
そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………
彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」
彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………
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「とうとう」はママである。この頗る映像的な沈痛に堕ちたそれは、まさに恒藤恭の言うように、「『人生のおそるべき退屈』をしみじみともの語る彼の嘆息」が直に心の響いてくる。また、「芥川にとつては、藝術の使命は人生のたいくつさを克服すること」であったことも確かである。しかし、芥川龍之介の場合、自身の自信に満ちた自作品さえも、彼自身の恐るべき地獄の死に至る病的退屈を乗り越えることは出来なかったのである。]
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