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2023/01/16

芥川龍之介書簡抄156 追加 大正六(一九一七)年八月二十九日 井川恭宛

 

[やぶちゃん注:ここで一言言っておくと、私が「芥川龍之介書簡抄」を昨年作った際のコンセプトは「私が気になる書簡」を選ぶことであった。また、それ以前に私はオリジナルに「芥川龍之介俳句全集」(こちらで全五巻)と、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」、及び、芥川龍之介漢詩全集」を作成した際、俳句・短歌・漢詩に関しては、岩波旧全集と岩波新全集(こちらは新字体が気持ちが悪いので買いそびれて数冊しか所持していないが、当時、勤務していた高校の図書館で借りた)の書簡を総て精査し、それらは漏らさず採ったと考えているため、それらは、原則、書簡の俳句・短歌以外の部分に「気になる」箇所がない限り、その書簡は外してあるのである。逆に、詩篇については、「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」では、書簡を渉猟対象から外しており、冒頭注でも『「全詩集」では毛頭ないことを断って』あり(但し、私はブロブ・カテゴリ『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔』も手掛けており、手を抜いているわけでもないことは言っておく)、詩篇と判断されるものが断片でも含まれるものは概ね採用したのである。「追加」が生じているのは、概ね現在は進行中の恒藤恭「旧友芥川龍之介」に芥川龍之介の恒藤(旧姓井川)宛書簡が多量に出現するために、ちゃんと私の電子化注した原書簡が、別記事と比較並列でき、さらに一括で調べられるようにするための「追加」の仕儀なのであることを御理解戴きたい。見かけや体裁だけを繕うための自慰行為ではないことを明言しておく。]

 

大正六(一九一七)年八月二十九日・消印三十日・京都市外下加茂松原中ノ町 井川恭樣 八月廿九日 芥川龍之介

 

御無沙汰した

雅子さんも相不變御壯健な事と思ふ 僕は暑中休暇を全部東京で費した 赤木の桁平さんと京都へ行くつもりだつたが向うにある事件が始まつたので行けなくなつた 松島見物にゆく計畫もあつたが矢張おじやんになつた

東京では每日本をよんだりものを書いたりして甚[やぶちゃん注:「はなはだ」。]太平に消閑した 消極的に屋内にばかりゐたから芝居とか何とか云ふものには一向足を入れなかつた 人にもうちへ來たお客のお相手をした丈で諸方へ甚御無沙汰をした 每日暑い思をして橫須賀の町をてくてく步いてゐたあとだから東京の暑さも大して苦にならなかつた 胃の具合も大へんに好い 槪して鎌倉住みになつてから体が丈夫になつたやうだ

來年の三月頃鎌倉へうちへ[やぶちゃん注:ママ。]持つ筈だがまだ漫然とした豫想だけで少しも確實にはなつてゐない しかし下宿生活は心そこから嫌になつた

実は學校もやめてしまつて閉靜に暮したいのだがいろんな事情がさう云ふ事を許さない 花に浣いだり[やぶちゃん注:「そそいだり」。]本を讀んだりしてばかりゐられたらさぞ好いだらうと思ふが思ふだけだから悲慘だ 僕は元來東洋的エピキユリアンだからなこの間も支那人の隱居趣味を吹聽した本を讀んで大に同情した

東京でぶらしてゐた[やぶちゃん注:ママ。]間に義理でつくつた俳句を御らんに入れる これを臆面もなく画帖や扇子へ書きちらかしたんだよ

   諭して曰牡丹を以て貢せよ

   あの牡丹の紋つけたのが柏莚ぢや

   牡丹切つて阿嬌の罪をゆるされし

       ×

   魚の目を箸でつつくや冴返る

   後でや高尾太夫も冴返る

   二階より簪落して冴返る

       ×

   春寒やお關所破り女なる

   新道は石ころばかり春寒き

       ×

   人相書に曰蝙蝠の入墨あり

       ×

   銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ

あとは忘れちまつた 頓首

    八月廿九日            芥 川 龍 之 介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:「雅子さん」恒藤恭の妻恒藤雅(まさ 明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年)。日本最初の農学博士の一人であり、本邦の土壌学の創始者にして「ラサ工業」を設立したことで知られる恒藤規隆(安政四(一八五七)年~昭和一三(一九三八)年)の長女。著者は彼女の婿養子として大正五(一九一六)年十一月に結婚、井川から恒藤姓となっている。

「赤木の桁平さん」赤木桁平(あかぎこうへい 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年:芥川より四つ年下)は評論家、後に政治家。ウィキの「赤木桁平」によれば、『本名は池崎忠孝。初めて夏目漱石の伝記を書いた人物として知られ、漱石門下で一歳違い(赤木の方がとし上)という近さから、芥川龍之介との交流も頻繁で、書簡のやり取りも甚だ多い。衆議院議員を戦前・戦中に三期務めた。『岡山県阿哲郡万歳村(現・新見市)生まれ。東京帝国大学法科大学卒業、在学中夏目漱石門下に入り、漱石命名による「赤木桁平」の筆名で文芸評論を書いたが、中でも』、大正五(一九一六)年の『朝日新聞』に載せた「『遊蕩文学』の撲滅」が有名である。これは、当時、花柳界を舞台にした小説が多く、「情話新集」なるシリーズが出ていたのを、「遊蕩文学」と名づけて攻撃したもので、その筆頭たる攻撃目標は近松秋江だったが、ほかに長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄が槍玉に挙げられた。これは論争になったが、久保田や後藤は、攻撃されるほど花柳小説を書いてはいなかったし、当時、東京帝大系で非漱石系の親玉だった小山内薫が反論した中に、なぜ自分や永井荷風が攻撃目標になっていないのか、とあったが、谷崎潤一郎も批判されていなかった。また、もし少しも遊蕩的でない小説を書く者といったら、漱石と小川未明くらいしかいないではないかという反論もあった。谷崎や荷風が攻撃から外されていた点については、赤木が当時谷崎と親しく、谷崎の庇護者だった荷風にも遠慮したからだろうとされている』。卒業後、『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた。その後』、家業のメリヤス業を継いだが、昭和一一(一九三六)年に衆議院議員に当選、第一次『近衛内閣で文部参与官を務めた』。これ以前、昭和四(一九二九)年以降は本名の池崎忠孝で『日米戦争を必然とする立場から盛な著作活動を行な』った。戦後はA級戦犯に指定され、『巣鴨プリズンに収監され』たが、『後に病気のため釈放され』たものの、『公職追放となり』、『そのまま不遇のうちに死去』した、とある。なお、芥川龍之介の書簡では、宛名の関係上、本文内を除くと、本名の池崎忠孝の表記で見かけることの方が遙かに多い。

「向うにある事件が始まつたので行けなくなつた」「松島見物にゆく計畫もあつたが矢張おじやんになつた」とあるのは共通の赤木絡みか。単に「向う」を場所の「京都」に何か「事件が始ま」ったから行けなくなったなら、反対方向の「松島見物」がおじゃんになった理由が説明できないから、違う。ということは、「向う」は「赤木」の方に生じた「事件」ということになろう。当該ウィキによれば、『東京帝大卒業後』のこの大正六年に『『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた』が、『養家の長女との結婚を養父母に反対されるも』、『妊娠がわかり』、翌年に『入籍、長男修吉誕生。帝劇女優とのゴシップを起こしたことをきっかけに退職した』とある。この記載はやや長い期間を圧縮しているのかも知れぬが、赤木側の何らかのトラブル(彼は以上のように文壇でもトラブル・メーカーであった)が原因であった可能性が高いように私には感じられる。

「鎌倉住みになつてから」芥川龍之介は海軍機関学校就任から暫くの間、鎌倉和田塚近くの洗濯屋に下宿していた(但し、通勤に時間がかかるためと思われるが、この書簡の半月後の大正六年九月十四日、職場に近い横須賀市汐入の下宿に移っている。『恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その8・その9) /「八 嵐山のはるさめ」「九 帰京後の挨拶の手紙」』の前者の私の注を参照)。

「來年の三月頃鎌倉へうちへ持つ筈だがまだ漫然とした豫想だけで少しも確實にはなつてゐない」翌大正七(一九一八)年の二月二日に文と結婚し、十三日には大阪毎日新聞社社友の件が決まり、月末には名作「地獄變」を起筆、三月には鎌倉大町辻の旧小山別邸内(グーグル・マップ・データ:因みに、私の父方の実家はこの直ぐ近くである)に転居した。

「浣いだり」「そそいだり」は、「水をやる」というのでなく、その美しい花を「眺めては心を浣(あら)う」の意である。

「エピキユリアン」epicurean。狭義には、古代ギリシアの哲学者エピクロスの哲学説を信奉、継承する人をいう。則ち、その原子論的自然観と快楽主義的倫理観を継承する人であり、近代ではガッサンディ、ホッブズ、コンディヤックがその代表者である。広義には、快楽主義、享楽主義的な生き方を信条とする人をいい、粗野な肉体的快を追求する者である場合も、洗練された精神的快を追求する者である場合もある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「支那人の隱居趣味を吹聽した本」不詳。

「諭して」「さとして」。「教え導いて」。なお、以下の句については、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句」の「三一四 八月二十九日 井川恭宛」の私の注を参照されたい。]

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