恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その16) /「十六 最後に会つたときのこと」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。]
十六 最後に会つたときのこと
芥川の自殺した時から数へて十一ケ月ばかり前の大正十五年九月二十六日に私はサン・フランシスコで乗り組んだ郵船大洋丸から下船して、橫浜に上陸した。それから二、三日の後に、当時鵠沼に滯在した芥川をたづねたが、三年振りに会つた彼の容貌は、三年まへの其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの年月がそのあひだに経過したやうな氣がした。旅館あづまやの二階で、問はれるままに、いろいろヨーロッパ留学中のことを話し、また近況について語る彼のことばに耳を傾けた。元來が瘦せてゐる芥川ではあつたが、そのときの彼の肉体の衰へは正視するのもいたはしいやうな程度のものであつた。だが、気力は一向おとろへてゐないもののやうに、意氣軒昂といつたやうな調子で文壇のありさまなどを話して吳れた。しましまた、どうも健康がすぐれず、不眠にくるしんでゐるといふことも訴へた。
[やぶちゃん注:「郵船大洋丸」ドイツ帝国の貨客船として一九一一年に進水したが、「第一次世界大戦」でのドイツ敗戦後の一九一九年にアメリカ海軍軍隊輸送船となり、同年末にはイギリスに、さらに翌一九二〇年には賠償船として日本政府へ引き渡された。本船が「日本郵船」の運行になったのは恒藤が乗船したこの年の五月のことであった。「太平洋戦争」開戦後は日本陸軍輸送船となったが、昭和一七(一九四二)年五月八日午後八時四十分頃、シンガポールに向けて航行中、長崎県の男女(だんじょ)群島近くの東シナ海上で、アメリカの潜水艦「グレナディアー」(USS Grenadier(SS-210))等の雷撃を受け、浸水・沈没した。当時の南方作戦による占領地のインフラ整備に召集された多数の技術者や営業マンらを含む乗客・軍属・船員他八百十七名が殉難した。こうした有識者・技師が多数亡くなったことで、敗戦後の日本のアメリカによる占領地行政は実に二年も遅れたとも評される戦時中の出来事の一つであった(当該ウィキに拠った)。
「それから二、三日の後に、当時鵠沼に滯在した芥川をたづねた」この来訪は恒藤のこの証言以外には日付を確定するソースがない。最新の新全集宮坂年譜でも、七月二十三日『頃』として記されてあるが、その根拠は本篇である。なお、この時は既に旅館「東屋」での宿泊滞在はやめて、同旅館が運営する近くの貸別荘「イの四号」(玄関を含め三間から成っていた)に移っていたが、やはりこの頃に、その裏にあった二階家の借家に移ってもいる。なお、『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』によれば、龍之介が誰よりも早く、自殺の決意を小穴に対して告げたのは、この三ヶ月あまり前の大正十五年四月十五日のことであると記している。
「あづま屋」私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 東屋」を参照されたい。私のそちらの注は芥川龍之介に偏って書いてある。]
ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼氣人に迫るといつたやうな趣をただよはしてゐて、晝食を共にしたりしてお互に話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい氣もちにおそはれることを禁め得なかつた。
[やぶちゃん注:「禁め」「とどめ」。]
万事を抛擲して健康の回復をはかるやうに、くり返してすすめ、京都へかへる前にもう一度たづねるからと言ひ残して別れ、東京へかへつた。いろいろの用事のために、その再訪の約束を果たすことが出來ず、私は妻や二人の子たちと共に京都に向かつて出発した。
その後、つひに再会の機を得ないままに、翌年七月二十四日のよる彼の自殺を知らせる電報をうけ取つたわけであるが、そのよる鴨川の河原からの帰途にはじめて悲報を耳にした瞬間に、一年まへ鵠沼のあづまやの二階で対談したとき心の底から涌き上つた予感の記憶が、あらゆる感情の動きに先んじて力强く再現した。そして、芥川が自殺したことが私にとつては如何にも必然の成り行きだといふやうに感ぜられた次第である。
芥川が自殺を思ひ立つた動機とか、理由とかについて、私はさまざまの機会にさまざまの人々から質問をうけた。それに対して、答へようと思へば、答へになり得るやうないろいろの事情を知つてゐないわけでもないけれど、「ほんたうのことはわからないと言つた方が可いと思ひます。强ひて言ふならば、幾種類かの病氣によつてひき起された肉体の極度の衰弱、それにもとづく心と身体との甚しい不均衡――それが自殺にみちびいた基礎的要因をかたちづくつたといふことは確実だと思ひます。」といふやうなこと以上は、話したこともないし、話さうとも思はなかつた。
夜行列車で上京した翌日、田端の澄江堂にかけつけ、庭に面した階下の部屋に橫たはつてゐるなきがらに当面したときに、私の眼にうつつたものは、あらゆる精神のなやみ、あらゆる肉体の苦痛から完全に解放されたところの、いとも安らかな永眠せる者の表情であつた。
時あつて芥川の死のことを想ふとき、あの残暑の一日、鵠沼で語り合つた時の、人生の苦悩におとろへ盡くした彼の肉体のすがたと、ふかい深い沈默の安らかさに眼を閉ぢてゐた彼の此の世における最後の日の顔つきとが、かはるがはる記憶の中からよみがへつて來るならひである。
[やぶちゃん注:本篇は恐らく恒藤の芥川龍之介関連のものでは、彼と龍之介の最後の会見というシチュエーションから、最も引用されることが多い一篇であるが、今回、初めて元記事を読むことが出来た。恒藤の文章はストイックであるが故に、その龍之介への追憶感情が極めリアルに伝わってくる文章である。]
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