芥川龍之介書簡抄153 追加 大正三(一九一四)年四月二十一日 井川恭宛
大正三(一九一四)年四月二十一日(消印)・京都市吉田京都大學寄宿合内 井川恭樣・新宿二ノ七一 芥川龍之介
昨夜ノラとハンネレとをみた
孔雀のノラ一人であとは皆下手だつた ハンネレに至つては舞臺監督の此脚本の解釋が疎漏であるばかりでなく道具も演出法も甚貧弱なものであつた 第一ハンネレのゴツトワルドに對する love を省いたのなどはハウプトマンに對する冒瀆の甚しいものであらう 最後に勸工場の二階のやうな天國で寒冷紗の翼をはやした天使が安息香くさい振香爐をもつて七八人出て來たときにはふき出したかつた位である
長田幹彥氏の祇園をよんだ つまらなかつた
シングをよろしく願ふ 山宮さんもかへつて來た
すゞかけの芽が大きくなつた 今日から天氣が惡くなると新聞に出てゐる 雨がまたつゞくのだらう
佐野はほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に退學になつた 何でも哲學科の硏究室の本か何かもち出したのを見つかつて誰かになぐられてそれから退校されたと云ふ事だ 卒業の時のいろんな事に裏書きをするやうな事をしたから上田さんも出したのだろ
其後おとうさんがつれに來たのを途中でまいてしまつて姿かかくしたさうだが又淺草でつかまつて東北のおぢさんの所へおくられたさうだ かはいさうだけど仕方がなかろ あんまり思ひきつた事をしすぎるやうだ
二食にしてから弁當が入らないので甚便利だ 之から少しべんきやうする
いつか君がワイルドのサロメの中の「癩病のやうに白い」と云ふ句をいゝと云つたろ あれはエンシエント マリナーの中の句だ アアサア ランサムが「ワイルドの竪琴は借物だつた」と云つたのも少しはほんとらしい
からだの具合もいゝ 御健康を祈る
恭 君 龍
[やぶちゃん注:最後の署名は四字上げ下インデントであるが、引き上げた。
「ノラ」ノルウェーの劇作家で詩人のヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)の名作「人形の家」(Et dukkehjem :一八七九年執筆で、同年デンマーク王立劇場で初演)のこと。この時の上演は上山草人(坪内逍遙の『文芸協会』を経て、妻の山川浦路らと『近代劇協会』を設立して新劇俳優として活動、大正八(一九一九)に渡米して、映画俳優に転じ、戦前のハリウッドで活躍したが、トーキーになって英語が喋れず、仕事が減り、帰国した。晩年の黒澤明の「七人の侍」の琵琶法師役が知られる)夫妻の『近代劇協会』第五回公演として、同年四月十七日から二十六日まで有楽座で以下のハウプトマンのそれとのカップリング上演として行われ、芥川龍之介は二十日に観ている。こちらは森鷗外の大正二(一九一三)年の翻訳になるもので、邦題は「ノラ」であった。
「ハンネレ」「沈鐘」(Die versunkene Glocke :一八九六年初演の童話詩劇で全五幕)で知られるドイツの劇作家・小説家・詩人ゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann 一八六二~一九四六年)の戯曲「ハンネレの昇天」(Hanneles Himmelfahrt:二幕・一八九三年初演)。訳は森鷗外とされるが、ある信頼出来る資料では、実際には小山内薫の代訳か? とあった。私は未読未見。ドイツでハウプトマン生誕七十年記念として一九三四年に製作された映画の梗概が、サイト「映画com.」に載るので参照されたい。
「孔雀」女優衣川孔雀(きぬがわ じゃく 明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年)。当該ウィキによれば、『スペイン公使館一等書記官牛円競一の娘で』、『本名を牛円貞子という。横浜市出身。実践女学校卒』。この大正二年に、『カフェで働』いていたのを、『上山草人に見出されて衣川孔雀の芸名を与えられ、草人の「ファウスト」のグレートヒェン役でデビュー。松井須磨子に並ぶ女優との評価を受ける。妻・山川浦路のある草人の公然たる愛人となり、ヘンリック・イプセンの「ノラ」で主演したり』した。翌大正三年には『草人との子である女児を生み、農家に里子に出』したが、『病死』し、『翌年にも女児を生む』も、これも『病死』した。大正四(一九一五)年頃には草人を見限って、『泉鏡花の弟子の歯科医寺木定芳と結婚』した。大正十二年の『年関東大震災の』際、『鎌倉にあって寺木との間に生まれた二児を失』っているが、『草人は』、『この事件を小説』「蛇酒」として書き、『谷崎潤一郎の推薦で刊行された』とある。今回、いろいろ調べるうち、上山草人が甚だ嫌いになった。
「ゴツトワルド」Gottwald。不幸な主人公ハンネレを救わんと気遣う「教師」役の役名。前掲リンクのシノプシスを参照されたい。
「勸工場」(かんこうば)日本特有の百貨商品陳列所。明治一〇(一八七七)年に上野公園で開設した第一回内国勧業博覧会で、閉会後、出品者に売れ残りの品を返したが、出品者の希望により、その一部を残留陳列して販売することになり、翌年、商工業の見本館が開設された。これが勧工場の始まりで、開設場所には、麹町辰ノ口の旧幕府伝奏屋敷の建物が当てられた。 明治一五(一八八二)年頃が最盛期で、東京市内十五区の各中心地を始めとして、大阪・名古屋その他にも設けられた。現在の百貨店の走りとも言えるが、営利を主眼とせず、産業の振興を目的とする極めて独自の形式を持つものであった。ただ、各地に出現するに従って、品質が低下し,明治末には旧来の呉服店から脱皮しつつあった百貨店に取って代られ、関東大震災後に消滅した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「寒冷紗」(かんれいしや(かんれいしゃ))は薄地に織られ、紗によく似た感じに仕上げられた平織の綿織物。元は薄地の麻織物であったが、その風合いに似せて、手ざわりが粗い、強(こわ)めの綿織物が製織されるようになり、寧ろ、木綿のものが一般化するようになった。綿製の寒冷紗は四十番手ほどの単糸で、織る際に経(たて)糸に強糊(こわのり)を附けてあり、漂白した後、さらに強糊仕上げをする。また、色無地・捺染(なっせん)加工したものもある。良質のものはハンカチーフ地に使用され、他にカーテン地・造花用・人形の衣装等にも広く用いられる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
安息香(あんそくこう)はツツジ目エゴノキ科エゴノキ属のアンソクコウノキ (Styrax benzoin)、またはその他の同属植物が産出する樹脂で、それらの樹木に傷をつけ、そこから滲み出て固化した樹脂を採集する。主要な成分は安息香酸(芳香族カルボン酸)。香料とする。
「長田幹彥氏の祇園」小説家長田幹彦(明治二〇(一八八七)年~昭和三九(一九六四)年)の「祇園」は情話短編集(大正二(一九一三)年・浜口書店刊)。情話作家として吉井勇と併称されたが、大正五年に赤木桁平から『遊蕩文学』と指弾されたことはかなり有名。私は長田の小説は一篇も読んだことがない。戦後に彼は心霊学に凝ったが、数冊を立ち読みしたが、糞物だった。
「シングをよろしく願ふ」先日電子化注した直前の「芥川龍之介書簡抄152 追加 大正三(一九一四)年三月十九日 井川恭宛」の私の「アイアランド文學を硏究してゐる……」の注を参照されたいが、『新思潮』六月号(第五号・大正三(一九一四)年六月一日発行)を「愛蘭文学号」にする計画が山宮らから出ており、龍之介も乗り気であった。結局この特集号化は成らなかったものの、同号には、龍之介が盟友井川恭に慫慂して、アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の戯曲「海への騎者」(Riders to the Sea:一九〇四年)を訳させたものを掲載し(この作品、確かにどこかで読んだのだが、コピーをとれる状況下でなかったため、手元にない。是非、電子化したいのだが)、芥川も柳川隆之介として翻訳の「春の心臟(イエーツ)」を載せている。「山宮さんもかへつて來た」山宮允(さんぐまこと)のことだが、「かへつて來た」の意味は不詳。山宮は故郷が山形で、何かの都合で帰郷していたか。或いは、やはり先立つ「芥川龍之介書簡抄151 追加 大正三(一九一四)年三月二十一日 井川恭宛」に出る山宮が関わっている「發音矯正會」の方にかかり切りで、暫く『新思潮』の会合には御顔を見せなかったというだけのことかも知れない。
「佐野」後の戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部佐野文夫(明治(二五(一八九二)年昭和六(一九三一)年)。菊池寛が一高を退学になった「マント事件」の真犯人である。詳しくは、「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」を参照されたい。彼には一種の病的な窃盗癖があるように見受けられる。
「卒業の時のいろんな事」東京帝大附属高校に当る第一高等学校の卒業時のごたごたを指す。前記リンク先で注してあるように、「マント事件」の影響で、関係者からも疑われたことから、一旦、休学して山口県で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送ってから復学し、通常よりも遅れて大正二(一九一三)年九月に第一高等学校を卒業していることを指しているようである。
「上田さん」上田萬年(かずとし 慶応三(一八六七)年~昭和一二(一九三七)年)は国語学者で、当時は東京帝国大学文科大学学長であった。尾張藩士の子として江戸で生まれた。東京帝国大学名誉教授を退官後、國學院大學学長を務めた。
『ワイルドのサロメの中の「癩病のやうに白い」』は龍之介の言う通り、記憶違いで、芥川の指示する「エンシエント マリナー」(これ、筑摩全集類聚脚注では『不詳』とするが)は、調べたところ、イギリスのロマン派の詩人サミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge 一七七二年~一八三四年)が一七九七 年から翌年にかけて書いた後に初版を発表した、彼の詩の中で最も長い詩篇「老水夫行」(‘The Rime of the Ancient Mariner’:「古い舟人の吟詠」)の一節である。同作を「Project Gutenberg」のこちらの電子化で調べたところ、パート“PART THE THIRD.”の第十一連の三行目に見出せた。以下に示す。
*
Her lips were red, her looks were free,
Her locks were yellow as gold:
Her skin was as white as leprosy,
The Night-Mare LIFE-IN-DEATH was she,
Who thicks man's blood with cold.
*
「アアサア ランサム」筑摩全集類聚脚注では、これも『不詳』とするが、解せない。イギリスの児童文学作家アーサー・ランサム(Arthur Ransome 一八八四年~一九六七年)。ヨークシャー生まれ。評論家を経て、後にロシアに渡り、新聞特派員として「第一次世界大戦」や「ロシア革命」・「干渉戦争」を報道する傍ら、昔話の研究・収集を行ない、「ピーターおじさんのロシアの昔話」(Old Peter's Russian Tales :一九一六年)に纏めた。一九二九年には記者生活にピリオドを打ち、心の故郷の湖沼地方を舞台にした物語シリーズ「ツバメ号とアマゾン号」(Swallows and Amazons)を執筆。以来、伝統的冒険精神を現実味のある物語で展開したこの一連のシリーズを全十二巻出版した。六冊目の「ツバメ号と伝書バト」(Pigeon Post :一九三六年)ではイギリスの図書館協会から贈られる児童文学賞として知られるカーネギー賞を受賞している。一九三〇年代のリアリズムを代表する作家として知られる(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」他に拠った)。]
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