恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その2) /「二 エゴイストについて」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。]
二 エゴイストについて
充分な意味心おけるヱゴイスト、言ひかへると、徹底的なエゴイストといふものは、自分がそのやうなエゴイストであるといふことを、ほとんど自覚せす、臆面もなくエゴイスチックな振るまひをして憚らない人であるやうに思ふ。
なんらかの程度にエゴイストとしての性向をそなへながら生まれるといふことは、萬人に共通な事実である、と言ひ得るであらう。が、エゴイスチックな傾向の猛烈な人は、槪してエゴイストとしての自己の存在について自覚をもたないのに反して、さまでエゴイスチックな傾向の强大でない人の中には、かへつて自己のうちに潜んでゐて、ややともすれば自己の行動や言說を支配しがちなエゴイスチックな頃向について、絕えず强度の自覚をもち、人知れずそれになやまされ、氣苦労をする人が、往々にして見出されるのである。「エゴイスト」の名に充分に値ひする人々が、その事からして心のくるしみをくるしむことがないのに反して、特にエゴイストとして視られるほどでもない性格の人々が自己に附きまとふエゴイズムについていつも銳い意識をもち、それのためにいやされ難い悩みを悩みづづけるといふことは、なんとしても不合理なことがらだと思はざるを得ない。「人生はそれに類した不合理の事態にみたされてゐる」と言つてしまヘば、それまでの話だけれど、さう言ひ切つてしまふことにより、問題を片づけることをしないで、そのやうな不合理な人生の根本的事態のうちに、何かより深い意味をくみ取ることが出来さうにも考へられる。
芥川詣之介はここにあげた第二の種類の型に属する人であつたとおもふ。おそらく大学の学生のころから死の時にいたるまで、彼は自己のうちにひそむエゴイズムを絕えずするどく意識し、どうすることも出來ないところの、そのエゴイズムの存在によつて悩まされつづけながら、生涯を終つたやうにおもふ。しかも他のいろいろの境涯にある人々と比較して、彼が「エゴイスト」といふに足るほどのエゴイストでなかつたことは確かである。彼の生涯の後半を蔽ふ悲劇的色彩を生み出した主因の一つは、そのような事実の中に見出されると信ずる。
そして、「主観的にエゴイストとしての自意識を强度にもつてゐる人は、客観的には、槪して、むしろエゴイストとしての資格に欠けてゐるところのある人である」といふことがらを、芥田ははつきりと認識してゐなかつたのではないか、とも思ふ。しかも、恰もその事実が、晩年における彼の作品をして、眞実味のこもつた。詞子の高いものたらしめたのであつたとも考ヘられる次第である。
[やぶちゃん注:芥川龍之介について――人間のエゴイズムを(時に必要悪としてのそれを)冷徹に解剖し、剔抉した小説を書いた作家――と常套的に評することが多いが、では、「芥川龍之介自身は、エゴイストであったか、なかったか?」という根本的問題を叙述した評論に出逢うことは極めて稀れである。自死の翌々月である昭和二(一九二七)年九月発行の雑誌『文藝春秋』九月号(「芥川龍之介追悼號」)に「闇中問答(遺稿)」(リンク先は私の古いサイト版)の題で掲載された中に、こんな下りがある。
*
或聲 お前は戀愛を輕蔑してゐた。しかし今になつて見れば、畢竟戀愛至上主義者だつた。
僕 いや、僕は今日(こんにち)でも斷じて戀愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。藝術家だ。
或聲 しかしお前は戀愛の爲に父母妻子を抛つたではないか?
僕 譃をつけ。僕は唯僕自身の爲に父母妻子を抛つたのだ。
或聲 ではお前はエゴイストだ。
僕 僕は生憎エゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。
或聲 お前は不幸にも近代のエゴ崇拜にかぶれてゐる。
僕 それでこそ僕は近代人だ。
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芥川龍之介の師夏目漱石も人間のエゴイズムを描き出した作家とされるが、漱石はその精神的疾患(恐らくは強迫神経症)を除外しても、人格的気質を観察するに、事実、頗るエゴイストであった。しかし、私は、芥川龍之介については、作品・アフォリズム・書簡を見るに、ここでの恒藤の見解を文句なく支持するものである。]
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