死靈解脫物語聞書下(1) 累が㚑亦來る事附名主後悔之事
[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。標題の「附」は「つけたり」と読む。]
死靈解脫物語聞書下
累が㚑(れう)亦來る事附名主後悔之事
去(さんぬ)る二月廿八日、斎(とき)の座席にて、累が㚑魂、忽(たちまち)、はなれ、菊、本復(ほんふく)する故に、
「聖霊、得脱、疑ひなし。」
と、人々、安堵の思ひをなし、みなみな、信心、観喜する所に、亦、明(あく)る三月十日の早朝より、累が㚑、來(きたり)て、菊を責(せむ)る事、例のごとし。
時に、父も、夫も、あわてふためき、早々、名主・年寄に、
「かく。」
と告(つぐ)れば、兩人、おどろき、則(すなはち)、來(きたり)て、菊に向ひ、
「累は、何(いづ)くに在るぞ。亦、何として、來(きた)る。」
と、いへば、菊がいわく、
「『約束の石仏をも、いまだ、立てず、其上、我に成佛をも、遂(とげ)させず、大勢、打寄(うちより)、僞りを構へて、亡者をたぶらかす。』と、いふて、我を、せめ申。」
と、いへば、名主、聞も[やぶちゃん注:「ききも」。]あへず、
「是は。思ひもよらぬ事哉(かな)。累、能(よく)聞け。其石佛は、明後(めうご)、十二日には、かならず、出來(しゆつらい)する故に、我々、昨日(さくじつ)、弘經寺(ぐきやうじ)方丈樣(はうじやうさま)へ罷出(まかりいで)、石塔開眼(せきとうかいげん)の事、兩役者を以て、申上る所に、方丈の仰せには、『其石佛の因緣、具(つぶさ)に聞傳(ききつた)へたり。出來(でき)次第に、持來(もちきた)れ。かならず、我、開眼せん。』と、直(じき)に仰せを蒙りし上は、縱(たち)ひ、汝が心は變化(へんくわ)して、石塔、望(のぞみ)は、止むとても、方丈の御意(ぎよい)、重(おも)ければ、是非、明後日(めうごにち)は立(たて)る也。かほど、決定(けつでう)したる事共を、汝、知らぬ事、あらじ。よしよし、是は、菊がからだの有故に、ゑ[やぶちゃん注:ママ。不可能の呼応の副詞「え」。]知れぬ者の寄添(よりそふ)て、いろいろの難題を懸け、所の者に迷惑させんためなるべし。此上は、慈悲も善事も、詮(せん)なし。只、其儘に捨置(すてお)き、かたく、此事、取持(とりもつ)べからず。」
と、名主・年寄、大きに立腹して、各(みな)各、家に歸れば、与右衞門も、金五郞も、苦しむ菊をたゞひとり、其儘、家に捨置き、㙒山(のやま)のかせぎに出(いで)たるは、せんかたつきたる、しわざなり。
[やぶちゃん注:「去(さんぬ)る二月廿八日、斎(とき)の座席にて……」「死靈解脫物語聞書上(6) 羽生村の者とも親兄弟の後生をたつぬる事」の最後のシークエンスを指す。
「明る三月十日」前話の頭の時制は、寛文十二年二月二十七日(グレゴリオ暦一六七二年三月二十六日)であったが、最後の念仏供養のシーンは徹夜で行われ、翌朝二月二十八日がコーダとなっている。同年二月は小の月であるから、その次の日の二月二十九日で二月は終わっていることから、その「二月」が「明」けて「三月」となっての意である。則ち、二月二十七日、或いは、遅くとも二十八日未明に菊に憑依していた累の霊は、落ちていたのである。それから、纔か十一日か十二日後の、この寛文十二年三月十日(グレゴリオ暦一六七二年四月七日)に再び憑依したのである。]
かゝりける所に、弘經寺の若黨に、權兵衞(ごんびやうへ)といふ男、山𢌞(まはり)の次(つい)でに、名主が舘(たち)に行(ゆき)けるが、三郞左衞門、常よりも、顏色、靑ざめて、物(もの)あんじ姿(すがた)なり。
權兵衞、其故を問(とひ)ければ、名主がいわく、
「さればこそ。權兵衞殿、かゝる難儀成(なる)事、また、今朝(けさ)より出(いで)きたれ。其故は、昨日(きのふ)、貴方(きほう)も聞(きゝ)給ふごとく、累が石佛、十二日には出來(しゅつらい)する故に、御開眼の訴訟(そしやう)、首尾能(よく)かなふ所に、彼(かの)累、今朝(こんてう)より來(き)て、また、菊を責(せむ)る故、其子細を尋ぬれば、『石佛をも、たてず、我が本意をも、叶へず。』とて、ひたすら、菊を責(せめ)候也。『此上は、是非なき事。』とて、すて置歸り候へとも、つくつく[やぶちゃん注:ママ。]、此事を案じ候に、まづ、さし当(あたり)、明後日、石佛、出來仕(つかまつ)り、方丈樣へ持參の上にて、何(なに)とか、申上べき。すでに此間(あいた[やぶちゃん注:ママ。])、『地下中(ちけちう)、打寄(うちより)、一夜別時(やべつじ)の念仏にて、聖㚑(せいれう)、得脫(とくだつ)仕る。』と、昨(さく)日、申上たる所に、『また、來り候。』とは、ことの始終をも見さだめず、あまりそさうなる申事[やぶちゃん注:「まをしごと」。]と、思召(おほしめし)もいかゞなり。そのうへ、此㚑付(れうつき)しより、このかた、村中の者共、親兄弟の𢙣事をかたられ、隣鄕(りんごう)・他鄕(たごう)の聞所(きくところ)、證拠たゞしき『はぢ』を、さらす。しかれども、今までは、死(しに)さりたるものゝ𢙣事なれば、子孫の面[やぶちゃん注:「つら」。]をよごす分[やぶちゃん注:「ぶん」。]にして、当時、させる難義、なし。此うへに、また、いかなる𢙣事をか、いゝ出し、生たるものゝ身の上、地頭・代官へも、もれ聞(きこ)え、一〻[やぶちゃん注:「いちいち」。]、詮義に及ぶならば、村中、滅亡のもとひならんも、いさしらず、せんなき事に懸り合(あい)、村中へも、苦勞をかけ、我等も、難義を仕まつる。」
と、くどきたてゝぞ、後悔(こうかい)す。
權兵衞、つぶさに此事を聞居(きゝゐ)けるが、名主が後悔、遠慮の段、一々、道理至極して、あいさつも出がたきほどなりしが、やうやうに、もてなし、名主が所を立出(たちいて[やぶちゃん注:ママ。])て、すぐに菊が家に行き、そのありさまを見てあれば、たゞ一人、あをさまにたをれ居て、苦痛する事、例のごとし。
權兵衞も、餘り、ふびんに思ひければ、庭に立(たち)ながら、名主が今のものがたり、石佛出來(てき[やぶちゃん注:ママ。])あらましまで、證拠たゝしく[やぶちゃん注:ママ。]云聞(いゝきか)すれども、
「いつわるものを。」
と、時々、返荅(へんたう)して、苦痛は、さらに止(やま)ざれば、權兵衞も、あきれつゝ、打捨(うちす)て、寺にそ[やぶちゃん注:ママ。]歸りける。
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