芥川龍之介 京都日記 (正規表現・オリジナル注釈版)
[やぶちゃん注:本篇は大正七(一九一八)年七月二十二日及び七月二十九日附『大阪毎日新聞に初出であるが、初出の際には、各章に数字が附せられて、「一 光悅寺」・「二 竹」・「三 舞妓」となっていたが、後の作品集「點心」(大正一一(一九二二)年金星堂刊)に収録される際に以下のように改められた。なお、「三 舞妓」は単独で後の作品集「梅・馬・鶯」(大正一五・昭和元(一九二六)年十二月二十五日(改元当日)新潮社刊)に再録されてある。
本篇を電子化注するのは、現在、進行中の恒藤恭「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介のことなど」の「三十 京都の竹」に本篇の一部が有意に引用されていることから、再読したところ、この作品は幾つか注が必要だ感じたことによる(私は至って京都に冥いことによる。誰かのためではなく――私自身に対して――注が必要だ――という理由である)。
底本は岩波旧全集一九七七年九月発行の「芥川龍之介全集」第二巻を用いる。踊り字「〱」は私が生理的に嫌いなので正字化した。但し、加工データとして「青空文庫」の同作こちら(新字旧仮名・筑摩全集類聚「芥川龍之介全集」第四巻底本・入力:土屋隆氏/校正:松永正敏氏)の下方にあるテキスト・ファイルを使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
なお、本篇は、大正七(一九一八)年六月の横須賀海軍機関学校嘱託教官であった芥川龍之介が、職務として広島の江田島にあった海軍兵学校参観のために出張した(出発は同年五月三十日)、その帰りに個人的に京都に立ち寄った際の経験を元にした作品である。龍之介は、この年の二月十三日に、嫌で嫌で仕方がなかったこの英語教官を辞任する内諾を機関学校から得ており、その直後に大阪毎日新聞社社友となっていた。六月二日頃には、彼は途中下車した京都で、英文学者で文芸評論家であった厨川白村(くりやがわはくそん)に面会しており、四日に業務としての江田島海軍兵学校参観をこなし、その日の内に、同行していた海軍機関学校数学教授黒須康之介(こうのすけ)と一緒に奈良に泊っており、五日には京都に滞在しており、その日から十日頃の鎌倉への帰宅の閉区間が(途中の六日には大阪に行き、社友となった大阪毎日新聞社を訪れ、文藝部長であった詩人薄田泣菫と面会している)本篇のロケーションとなろう。新全集の宮坂年譜では同年六月五日の条に『小林雨郊の案内で光悦寺や上木屋町の茶屋などを訪れた』と、本篇全体が、この一日のロケーションとしてあるように記されてはある。確かに、「光悅寺」と「舞妓」のそれは確かにこの日の経験であると考えてよいし、「光悅寺」で案内する小林氏が「洋傘」(筑摩版では『かうもり』とルビする)を持っているから、夜に雨が降ったとしておかしくはない。ただ、鎌倉への帰宅までの大阪訪問を終えた後に動向不明日の部分あるので、以上のように私は用心のために広げて採っているのである。実は、芥川龍之介の知られている年譜的事実には、こうしたブラック・ボックスの、如何にも怪しい不明の痕跡があらゆるところにあるのである。例えば? そうさ、最晩年の、私のサイト版の芥川龍之介「東北・北海道・新潟」の冒頭注をご覧あれかし。]
京 都 日 記
光 悅 寺
光悅寺へ行つたら、本堂の橫手の松の中に小さな家が二軒立つてゐる。それがいづれも妙に納つてゐる所を見ると、物置きなんぞの類ではないらしい。らしい所か、その一軒には大倉喜八郞氏の書いた額さへも懸つてゐる。そこで案内をしてくれた小林雨郊君をつかまへて、「これは何です」と尋ねたら、「光悅會で建てた茶席です」と云ふ答へがあつた。
自分は急に、光悅會がくだらなくなつた。
「あの連中は光悅に御出入を申しつけた氣でゐるやうぢやありませんか。」[やぶちゃん注:底本の編者「後記」によれば、初出では、終わりの部分が『申しつけた氣でゐますね。』となっていたのを、単行本収録の際に改めている。]
小林君は自分の毒口を聞いて、にやにや笑ひ出した。
「これが出來たので鷹ケ峯と鷲ケ峯とが續いてゐる所が見えなくなりました。茶席など造るより、あの邊の雜木でも拂へばよろしいにな。」
小林君が洋傘で指さした方を見ると、成程もぢやもぢや生え繁つた初夏の雜木の梢が鷹ケ峯の左の裾を、鬱陶しく隱してゐる。あれがなくなつたら、山ばかりでなく、向うに光つてゐる大竹藪もよく見えるやうになるだらう。第一その方が茶席を造るよりは、手數がかゝらないのに違ひない。
それから二人で庫裡へ行つて、住職の坊さんに寶物を見せて貰つた。その中に一つ、銀の桔梗と金の薄とが入り亂れた上に美しい手蹟で歌を書いた、八寸四方位の小さな軸がある。これは薄の葉の垂れた工合が、殊に出來が面白い。小林君は專門家だけに、それを床柱にぶら下げて貰つて、「よろしいな。銀もよう燒けてゐる」とか何とか云つてゐる。自分は敷島を啣へて、まだ佛頂面をしてゐたが、やはりこの繪を見てゐると、落着きのある、朗な好い心もちになつて來た。
が、暫くすると住職の坊さんが、小林君の方を向いて、こんな事を云つた。
「もう少しすると、又一つ茶席が建ちます。」
小林君もこれには聊か驚いたらしい。
「又光悅會ですか。」
「いいえ、今度は個人でございます。」
自分は忌々しいのを通り越して、へんな心もちになつた。一體光悅をどう思つてゐるのだか、光悅寺をどう思つてゐるのだか、もう一つ序に鷹ケ峯をどう思つてゐるのだか、かうなると、到底自分には分らない。そんなに茶席が建てたければ、茶屋四郞次郞の邸跡や何かの麥畑でも、もつと買占めて、むやみに圍ひを並べたらよからう。さうしてその茶席の軒へ額でも提灯でもべた一面に懸けるが好い。さうすれば自分も始めから、わざわざ光悅寺などへやつて來はしない。さうとも。誰が來るものか。
後で外へ出たら、小林君が「好い時に來ました。この上茶席が建つたらどうもなりません。」と云つた。さう思つて見れば確に好い時に來たのである。が、一つの茶席もない、更に好い時に來なかつたのは、返す返すも遺憾に違ひない。――自分は依然として佛頂面をしながら、小林君と一しよに竹藪の後に立つてゐる寂しい光悅寺の門を出た。
竹
或雨あがりの晚に車に乘つて、京都の町を通つたら、暫くして車夫が、どこへつけますとか、どこへつけやはりますとか、何とか云つた。どこへつけるつて、宿へつけるのにきまつてゐるから、宿だよ、宿だよと桐油の後から、二度ばかり聲をかけた。車夫はその御宿がわかりませんと云つて、往來のまん中に立ち止まつた儘、動かない。さう云はれて見ると、自分も急に當惑した。宿の名前は知つてゐるが、宿の町所は覺えてゐない。しかもその名前なるものが、甚平凡を極めてゐるのだから、それだけでは、いくら賢明な車夫にしても到底滿足に歸られなからう。
困つたなと思つてゐると、車夫が桐油を外してこの邊ぢやおへんかと云ふ。提灯の明りで見ると、車の前には竹藪があつた。それが暗の中に萬竿の靑をつらねて、重なり合つた葉が寒さうに濡て光つてゐる。自分は大へんな所へ來たと思つたから、こんな田舍ぢやないよ、橫町を二つばかり曲ると、四條の大橋へ出る所なんだと說明した。すると車夫が呆れた顏をして、こゝも四條の近所どすがなと云つた。そこでへええ、さうかね、ぢやもう少し賑かな方へ行つて見てくれ、さうしたら分るだらうと、まあ一時を糊塗して置いた。所がその儘、車が動き出して、とつつきの橫丁を左へ曲つたと思ふと、突然歌舞練場の前へ出てしまったから奇體である。それも丁度都踊りの時分だつたから、兩側には祇園團子の赤い提灯が、行儀よく火を入れて並んでゐる。自分は始めてさつきの竹藪が、建仁寺だつたのに氣がついた。が、あの暗を拂つてゐる竹藪と、この陽氣な色町とが、向ひ合つてゐると云ふ事は、どう考へても、噓のやうな氣がした。その後、宿へは無事に辿りついたが、當時の狐につままれたやうな心もちは、今日でもはつきり覺えてゐる。……
それ以來自分が氣をつけて見ると、京都界隈にはどこへ行つても竹藪がある。どんな賑な町中でも、こればかりは決して油斷が出來ない。一つ家並を外れたと思ふと、すぐ竹藪が出現する。と思ふと、忽ち又町になる。殊に今云つた建仁寺の竹藪の如きは、その後も祇園を通りぬける度に、必ず棒喝の如く自分の眼前へとび出して來たものである。……
が、慣れて見ると、不思議に京都の竹は、少しも剛健な氣がしない。如何にも町慣れた、やさしい竹だと云ふ氣がする。根が吸ひ上げる水も、白粉の匂ひがしてゐさうだと云ふ氣がする。もう一つ形容すると、始めから琳派の畫工の筆に上る爲に、生えて來た竹だと云ふ氣がする。これなら町中へ生えてゐても、勿論少しも差支へはない。何なら祇園のまん中にでも、光悅の蒔繪にあるやうな太いやつが二三本、玉立してゐてくれたら、猶更以て結構だと思ふ。
裸 根 も 春 雨 竹 の 靑 さ か な
大阪へ行つて、龍村さんに何か書けと云はれた時、自分は京都の竹を思ひ出して、こんな句を書いた。それ程竹の多い京都の竹は、京都らしく出來上つてゐるのである。
舞 妓
上木屋町のお茶屋で、酒を飮んでゐたら、そこにゐた藝者が一人、むやみにはしやぎ𢌞つた。それが自分には、どうも躁狂の下地らしい氣がした。少し氣味が惡くなつたから、その方の相手を小林君に一任して、隣にゐた舞妓の方を向くと、これはおとなしく、椿餅を食べてゐる。生際の白粉が薄くなつて、健康らしい皮膚が、黑く顏を出してゐる丈でも、こつちの方が遙に賴もしい氣がする。子供らしくつて可愛かつたから、體操を知つてゐるかいと訊いて見た。すると、體操は忘れたが、繩飛びなら覺えてゐると云ふ答へがあつた。ぢややつてお見せと云ひたかつたが、三味線の音がし出したから見合せた。尤もさう云つても、恐らくやりはしなかつたらう。
この三味線に合せて、小林君が大津繪のかへ唄を歌つた。何でも文句は半切に書いたのが内にしまつてあつて、それを見ながらでないと、理想的には歌へないのださうである。時々あぶなくなると、そこにゐた二三人の藝者が加勢をした。更にその藝者があぶなくなると、おまつさんなる老妓が加勢をした。その色々の聲が、大津繪を補綴して行く工合は、丁度張り交ぜの屛風でも見る時と、同じやうな心もちだつた。自分は可笑しくなつたから、途中であはゝと笑ひ出した。すると小林君もそれに釣りこまれて、とうとう自分で大津繪を笑殺してしまつた。後はおまつさんが獨りでしまひまで歌つた。[やぶちゃん注:底本の編者「後記」によれば、初出以下、単行本二種の収録でも第二文の「半切に書いたのが」が、総て「半切に書いたが」となっており、底本では最初の『元版全集に拠って訂した』とある。]
それから小林君が、舞妓に踊を所望した。おまつさんは、座敷が狹いから、唐紙を明けて、次の間で踊ると好いと云ふ。そこで椿餅を食べてゐた舞妓が、素直に次の間へ行つて、京の四季を踊つた。遺憾ながらかう云ふ踊になると、自分にはうまいのだかまづいのだかわからない。が、花簪が傾いたり、だらりの帶が動いたり、舞扇が光つたりして、甚綺麗だつたから、鴨ロオスを突つきながら、面白がつて眺めてゐた。
しかし實を云ふと、面白がつて見てゐたのは、單に綺麗だつたからばかりではない。舞妓は風を引いてゐたと見えて、下を向くやうな所へ來ると、必ず恰好の好い鼻の奧で、春泥を踏むやうな音がかすかにした。それがひねつこびた敎坊の子供らしくなくつて、如何にも自然な好い心もちがした。自分は醉つてゐて、妙に嬉しかつたから、踊がすむと、その舞妓に羊羹だの椿餅だのをとつてやつた。もし舞妓にきまりの惡い思ひをさせる惧がなかつたなら、お前は丁度五度鼻洟を啜つたぜと、云つてやりたかつた位である。
間もなく躁狂の藝者が歸つたので、座敷は急に靜になつた。窓硝子の外を覗いて見ると、廣告の電燈の光が、川の水に映つてゐる。空は曇つてゐるので、東山もどこにあるのだか、判然しない。自分は反動的に氣がふさぎ出したから、小林君に又大津繪でも唄ひませんかと、云つた。小林君は脇息によりかゝりながら、子供のやうに笑つて、いやいやをした。やはり大分醉がまはつてゐたのだらう。舞妓は椿餅にも飽きたと見えて、獨りで折鶴を拵へてゐる。おまつさんと外の藝者とは、小さな聲で、誰かの噂か何かしてゐる。――自分は東京を出て以來、この派手なお茶屋の中で、始めて旅愁らしい、寂しい感情を味つた。
[やぶちゃん注:以下、三パートに分けて注する。
■①「光悦寺」パートの注
「光悅寺」京都市北区鷹峯光悦町(たかがみねこうえつちょう)にある日蓮宗大虚山(たいきょざん)光悦寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。当該ウィキによれば、書家・陶芸家・蒔絵師・茶人として知られる本阿弥光悦(永禄元(一五五八)年~寛永一四(一六三七)年)は『慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『の初年には』、『この地に別宅を構えていたが、元和元年』(一六一五年)『に徳川家康により』、『付近一帯の土地を与えられた』。「本阿弥行状記」に『よれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な地であったという』。元和五(一六一九)年になって、『本格的にこの地に移り住んだ光悦は、一族や様々な工芸の職人とその家族ら』百『人以上を集住させて一大芸術村、いわゆる』、『光悦村を作り上げた。また』、『自らの屋敷の近くに法華題目堂を建立している』。『光悦の死後の』明暦二(一六五六)年、『屋敷と法華題目堂は日蓮宗の日慈を開山として整備され』、『光悦寺となった』。『光悦は茶道においても一流儀に偏することなく、古田織部や織田有楽斎にも教えを受け、また千宗旦とも深く交わって茶道の奥義を極めた。境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の』七『つの茶室が散在し、さらに庫裏に接して妙秀庵があるが、これらはいずれも大正時代以降の建物である』。『当寺は本阿弥家が去ると』、『次第に廃れていき、明治時代に』は『荒廃していたが、大正時代になって復興された』とある。現在の茶室の一つ茶室「大虚庵」の解説に、『大虚庵とは本阿弥光悦が鷹ヶ峰に営んだ居室の名称であるが、現在ある大虚庵は』大正四(一九一五)年に『新たに建てられたもので、道具商・土橋嘉兵衛』(かへえ)『の寄付、速水宗汲』(はやみそうきゅう)『の設計である。ただし、建設後に光悦会によって改造されており、正面入口の貴人口(障子』三『枚立て)が』、『にじり口に変更されたほか、間取りも当初』とは『変わっている。大虚庵前の竹の垣根は』、『光悦垣』又は『その姿から臥牛(ねうし)垣と呼ばれ』、『徐々に高さの変る独特のものである』とある。
「大倉喜八郞」(天保八(一八三七)年~昭和三(一九二八)年)は政商的実業家にして大倉財閥の創設者。越後国新発田(しばた)の名主の家に生まれた。十八歳で江戸に出て、鰹節店の店員となった。慶応元(一八六五)年の時、銃砲店を開業し、幕末・維新の動乱に乗じて販売を拡大した。維新後は欧米視察の後、明治六(一八七三)年に大倉組商会を設立して貿易及び用達事業に乗り出し、「台湾出兵」・「西南戦争」・「日清戦争」・「日露戦争」の軍需物資調達で巨利を得た。この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事・大倉鉱業・大倉土木の三社を事業の中核とする大倉財閥の体制を確立していった。特に中国大陸への事業進出に積極的で、中国軍閥との関係も深かった。また、渋沢栄一と協力して「東京商法会議所」設立に尽力するなど、財界活動にも力を入れ、「東京電燈」を始め、多数の会社の設立にも関与した。大倉高等商業学校(現在の東京経済大学)や、本邦初の美術館である大倉集古館も設立している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「小林雨郊」(うこう 明治二八(一八九五)年~昭和五一(一九七六)年)は日本画家。京都生まれ。本名は小林才治(五十歳頃に「彩二」と改めている)。京都市立絵画専門学校卒業。家業は三文字屋善兵衛を屋号とする刺繡業。大正一〇(一九二一)年に渡欧、翌年に帰国した。龍之介より三つ年下で、この時に滞在中の世話をしてより後、龍之介が来京の際には度々逢って、交誼を深めた。
「光悅會」本阿弥光悦の顕彰する組織。小学館「日本大百科全書」では、『遺徳をしのぶ茶会』とし、『春に催される東京の大師会(たいしかい)と、秋に催される京都の光悦会は、現今東西の双璧』『をなす大茶会であり、茶人に欠かせぬ歳時記の一つ』とあって、『例年』十一月十一日から十三日まで、『洛北』『の光悦寺で開かれる。古今の名物、名器が一堂に集まるさまは壮観』であるとあるが、以下の叙述からは明らかに茶道に関わる一種の社会的なハイソサエティの文化団体である。『光悦会は、かねて関西茶道界の力を誇示しようとしていた土橋嘉兵衛』・『山中定次郎(さだじろう)らを世話役に、三井松風庵(しょうふうあん)、益田鈍翁(ますだどんおう)、馬越化生(まごしかせい)、団狸山(だんりざん)などの賛助を得て』、大正四(一九一五)年に『三井松風庵を会長にして発足したもの。光悦寺に大虚庵(たいきょあん)、騎牛庵、本阿弥庵などを建築、同年』十一『月には盛大な茶会を開いて』、『そのスタートを切った。その後、この会を財団法人に改め、会長も益田鈍翁らにかわり』、昭和一〇(一九三五)年には『光悦没後』三百『年を記念して』、『徳友庵を新築、大虚庵を増築した。現在では毎年例日に』東京・京都・大阪・名古屋・金沢の五都市の『美術商が世話役にあたり、にぎわいをみせている』とある。
「鷹ケ峯と鷲ケ峯」所持する筑摩全集類聚「芥川龍之介全集」第四巻の脚注に、『京都市の西北部にそびえる三つの峯を古くから龍ケ峯・鷲ケ峯・天ケ峯と称した。光悦寺はその』峰々の群れの南東の『山麓の地にある』と言える。先の地図を見て貰うと判るが、光悦寺の北西地区は殆んどが地名の頭に「鷹峰」を含む。
「銀もよう燒けてゐる」所謂、経年変化によっていぶし銀になっていることをいう。同前で『銀粉が趣きのある黒ずんだ色に変色していること』とある。
「敷島」国産の吸口付き煙草の銘柄。明治三七(一九〇四)年に発売され、昭和一八(一九四三)年で販売終了した。口付とは、紙巻き煙草に付属した同等か、やや短い「口紙」と呼ばれる、やや厚手の紙で出来た円筒形の吸い口のことで、喫煙時に互い違いの十字や、シンプルに一文字に潰して吸う。確か私の大学時分まで、このタイプの口付きの「朝日」が生き残っていて、吸った覚えがある。
「啣へて」「くはへて」。
「茶屋四郞次郞」(ちややしらうじらう(ちゃやしろうじろう))は安土桃山から江戸にかけての公儀呉服師を世襲した京の豪商の通称。当該ウィキによれば、『当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった』。『正式な名字は中島氏』で、『信濃守護小笠原長時の家臣であった中島宗延』(むねのぶ)『の子の明延』(あきのぶ)『が武士を廃業し、大永年間』(一五二一年~一五二七年:室町後期)『に京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。「茶屋」の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け』百六十『年にわたって本拠とした』。『明延の子の初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。三代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる。十代延国(延因)時代の』寛政一二(一八〇〇)年『には納入価格をめぐって呉服御用差し止めを受け』、文化七(一八〇七)年)『に禁を解かれたものの』、『以降はふるわず、明治維新後』、『間もなく廃業した』。『江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる』とあって、以下、初代から三代までの当主の解説がある。筑摩全集類聚「芥川龍之介全集」第四巻の脚注に、『鷹ケ峯に別荘を建てたのは三代目』とある。前掲ウィキによれば、茶屋四郎次郎清次(ちゃやしろうじろうきよつぐ 天正一二(一五八四)年~元和八(一六二二)年)は『二代の弟で、長谷川藤広の養子となっていたが、兄の急逝のため』、『江戸幕府の命で急遽』、『跡を継いだ。呉服師の一方で』、『藤広の長崎奉行就任後は長崎代官補佐役などを務め』た。慶長一七(一六一二)年、『朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た。その財産によって茶道具を蒐集し、本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心であった』とあるが、三十八で亡くなっている。
■②「竹」パートの注
「桐油」「とうゆ」。「桐油合羽(とうゆがつぱ(とうゆがっぱ))」。通常は桐油紙製の雨合羽で人足などが用いたものを指すが、ここは筑摩全集類聚「芥川龍之介全集」第四巻の脚注にある『桐油合羽の略。人力車の客室のかこい』というのが最もしっくりくる。
「後」「うしろ」。
「甚」「はなはだ」。
「萬竿の靑」「ばんかんのあを」。無数の竹の茎の暗い青緑色を言う。
「一時」(いつとき)「を糊塗」(こと)「して置いた」その場凌ぎとして曖昧に取り繕って誤魔化しておいた。
「歌舞練場」「かぶれんぢやう」。京都の祇園及び先斗町(ぽんとちょう)等の花街にある劇場兼芸妓・舞妓のための歌・舞踊・楽器等の練習場。最初に設立されたのが、ここに出る京最大の花街祇園甲部(こうぶ)の祇園甲部歌舞練場と、先斗町歌舞練場であった。明治五(一八七二)年に開催された「京都博覧会」に協賛して初演された「都をどり」と「鴨川をどり」用の仮設劇場として開設されたが、それらの踊りが好評であったことから、翌明治六年に練習会等にも使用可能な常設劇場を開設したのが個々の始まりであった(当該ウィキに拠った)。
「都踊り」当該ウィキによれば、前注の通り、「第一回京都博覧会」の際、『その余興として万亭の杉浦治郎右衛門と井上流家元の井上八千代(三世 片山春子)が企画したのが』初めで、『京都府知事のすすめで、都踊・鴨川踊・東山名所踊が競演し、ことに都踊が好評で、以後』、『毎年』、『継続し』ている。『時の京都府知事』であった『槇村正直が』自ら『作詞を』担当し、『当時新進であった井上流家元、井上八千代(三世)『片山春子)が伊勢古市の亀の子踊り(伊勢音頭の総踊り)を参考に振付を担当した』。『舞台まで両側の花道が設え』られ、『今までの舞台とは一味違う』、『革新的で、花道からおそろいの衣装を着けた踊り子たちが登場して観客を驚かせた。以来、歌舞伎や源氏物語などを題材にして、明治以来のスタイルを踏襲しながら』、『その年の干支や話題にちなみ、新たなる志向で上演され続けている』とある。
「祇園團子」筑摩全集類聚「芥川龍之介全集」第四巻の脚注に『祇園の近辺で売る白・緑など団子。京都の名物の一。売店にはこの団子の図を染めた提灯をつるす』とある。グーグル画像検索「祇園団子 提灯」をリンクさせておく。
「建仁寺」京都市東山区にある臨済宗建仁寺派東山(とうざん)大本山建仁寺。開基は第二代鎌倉将軍源頼家で、開山は栄西。祇園の南に接する。
「棒喝」「ばうかつ」。禅家の語。修行者を警醒するために警策で打つこと。三十棒をくらわすこと。
「琳派」「りんぱ」。「宗達光琳派」とも呼ぶ。江戸時代を通じて栄えた装飾画の流派。江戸初期の俵屋宗達が創始し、中期の尾形光琳が大成したもので、彼らと関係の深い本阿弥光悦・尾形乾山(けんざん)らの工芸を含めて扱う場合もある。狩野派・土佐派のような幕府や宮廷の御用絵師ではなく、また、世襲の制度を持たず、主として私淑・影響関係によって画系が成立している。日本の美術の伝統に存する装飾美・意匠美を近世の新しい感覚で追求し、その芸術は公卿・大名・町衆の諸層に受け入れられて発展を遂げ、近代の日本画・工芸意匠の世界にも少なからぬ影響を与えている(小学館「日本大百科全書」の冒頭部のみを用いた)。
「玉立」「ぎよくりつ」。筑摩全集類聚「芥川龍之介全集」第四巻の脚注に『すっきりと清く立っていること』とある。
「裸根も春雨竹の靑さかな」「はだかねもはるさめだけのあをさかな」。この句、大正七(一九一八)年六月五日発行の『ホトトギス』の「雜詠」欄に選ばれている。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句」参照。而してマジックが明らかになる。この句は、「自分は京都の竹を思ひ出して、こんな句を書いた」と述べているが、大嘘であり、この時のシチュエーションよりも、一月以上以前に作られた句であったのである。
「龍村さん」染織研究家の初代龍村平蔵(明治九(一八七六)年~昭和三七(一九六二)年:名前は累代に亙って襲名されており、初代から四代までいる。各人ともに法隆寺・正倉院に伝わる古代裂など伝統的な織物の研究に尽力した)は大阪博労町(現在の大阪市中央区)の両替商平野屋の平野屋平兵衛の孫として生まれ、幼時から茶道・華道・謡・仕舞・俳諧と文芸美術の豊かな環境の中で育った。十六歳の時、祖父が死去し、これ以降、家業が傾き始めたことから、彼は通っていた大阪商業学校を退学、西陣で呉服商の道へと進んだ。当初は販売に従事していたものの、徐々に織物の技術研究に没頭するようになり、明治二七(一八九四)年、十八歳で織元として独立、商売も順調に拡大し、三十代の若さで「高浪織」や「纐纈(こうけち)織」など数々の特許を取得して、周囲に衝撃を与えた(以上は当該ウィキに拠った)。芥川龍之介はこの時が初対面であったが、実は龍之介の幼馴染みである野口真造の紹介があった。これ以来、互いの趣味である俳句を書簡で交わすなど、親交を結んでいる。龍之介には実質的な龍村作品に対する熱烈絶賛の推薦文「龍村平藏氏の藝術」(大正八(一九一九)年十一月十六日附『東京日日新聞』初出)がある(「青空文庫」のこちらで読める。新字旧仮名)。
■③「舞妓」パートの注
「躁狂」当時の躁鬱病の一サイクル。今で言う、双極性障害の躁状態を指す。
「上木屋町」「かみきやまち」。筑摩全集類聚「芥川龍之介全集」第四巻の脚注に『京都市中京区の町名。鴨川に』沿い、『料亭等が多く繁華な地』とある。この鴨川の右岸沿い。
「椿餅」京菓子の一つ。ツバキの葉で上下を挟んだ白い道明寺の餅の中に餡が入っている。冬から初春にかけて茶席などで供される。
「生際」「はえぎは」。
「白粉」「おしろい」。
「大津繪」滋賀県大津市で江戸初期から名産としてきた民俗絵画で、様々な画題を扱っては、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた絵としての「大津絵」(「鬼の寒念佛(かんねぶつ)」がよく知られる)の、その描かれた内容を唄い込んだ元唄・音曲・俗曲を「大津繪節」と言い、ここは、それ。また、大津絵節を元に踊る日本舞踊の一種としての「大津繪踊り」もある。
「補綴」「ほてつ」。補って綴(つづ)り合わせること。忘れた或いは誤った部分を補うこと。
「京の四季」筑摩全集類聚「芥川龍之介全集」第四巻の脚注に『端唄の代表曲。その舞踊』とある。YouTubeのKiyohito Takenaka氏の「京の四季 Traditional Japanese Dance by Geisha」を視聴あれ。
「春泥」「しゆんでい」。
「ひねつこびた」「陳(ひね)こびる・捻こびる」と書く。原義は「時が経って古びる・新しさがなくなる」であるが、ここは「ませた感じになる・若々しさがなく年寄りじみる・素直でなくなる・こまっしゃくれる」の意。
「敎坊」「けうばう」。 遊芸を見せる所。劇場や遊里。
「鼻洟」「はなみづ」。
「啜つたぜ」「すすつたぜ」。芥川龍之介の意識的な確信犯の露悪表現。というより、こんな注をわざわざ附す私自身が頗る露悪的である。]
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