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2023/01/30

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 寂照飛鉢の話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。漢文脈の「々」は正字化した。]

 

     寂照飛鉢の話  (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 印度の聖人が鉢を飛《とば》して食を受《うけ》た例は、佛典に數(しばし)ば見るが、吾邦にも越《こし》の泰澄(たいちよう)の沙彌臥行者(しやみふぎげうしや[やぶちゃん注:ママ。「しやみふせ(り)のぎやうじや」が正しい。])は、自分は室内に臥し乍ら、海舶過《すぐ》るごとに、鉢を飛して供を乞ふ(「元亨釋書」)。また、「宇治拾遺(うじしうゐ[やぶちゃん注:ママ。「うぢしふゐ」が正しい。])に、信貴山(しぎさん)の聖僧、常に鉢を山下に飛して食を受けた話、有り。「古事談」卷三に、淨藏、鉢を飛し、北の方、王城に往《ゆき》て食を受來《うけきた》らしむるが常なりしに、三日續けて空で歸るから、調べると、山中の老僧の大鉢が飛んで來て、淨藏の鉢中の物を奪ひ去るのだつた、と載せ居る。匡房《まさふさ》卿の「續本朝往生傳」に、大江定基、出家して、法名寂照、長德中、宋に入り、安居之終、列於衆僧末、彼朝高僧、修飛鉢法、受齋食之時、不自行向、次至寂照、寂照心中大耻、深念本朝神明佛法、食頃觀念、爰寂照之鉢、飛繞佛堂、三匝受齋食而來、異國之人悉垂感淚、皆曰、日本國不ㇾ知ㇾ人、令奝然渡海、似ㇾ表無人、令寂照入宋、似ㇾ不ㇾ惜ㇾ人云々〔安居の終はりに、衆僧(しゆそう)の末(すゑ)に列(つらな)りぬ。彼(か)の朝(てう)の高僧、飛鉢(ひはつ)の法を修(しゆ)して、齋食(さいじき)を受くるの時、自(みづか)ら行き向かはず、次いで寂照に至る。寂照、心の中に大いに耻ぢて、深く本朝の神明・佛法を念じ、食頃(しばし)して觀念せり。爰(ここ)に寂照の鉢、佛堂を飛び繞(めぐ)ること、三匝(みめぐ)りして、齋食を受けて、來れり。異國の人、悉くに感淚を垂れ、皆、曰く、「日本國は人を知らず。奝然(てうねん)をして渡海せしめしは、人なきを表はすに似たり。寂照をして、入宋せしむるは、人を惜しまざるに似たり。」云々〕。「大江氏系圖」を見ると、寂照は匡房の曾祖父匡衡の從弟に當る。他人でないから、據《よりどころ》ろ有て言《いふ》たものだろう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「越の泰澄(たいちよう)の沙彌臥行者」奈良時代の修験道の僧泰澄(天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は越前国生まれで、加賀白山を開山したと伝えられる、「越の大徳」と称された名僧の弟子(生没年未詳)。アーカイブされた「能登出身の仙人―2 臥行者」によれば、『臥行者のことは、金沢文庫および密谷本』「泰澄和尚伝記」『によると、泰澄』二十一『歳の』大宝二(七〇二)年『能登島の小沙弥が弟子とり、臥行者と名づけられた。その頃から臥行者は、「飛鉢(ひはつ)の呪法」がききめをあらわすようになったと』伝えられる。和銅五 (七一二) 年、『この臥行者』『が、日本海を航行する船に、越知山(丹生郡朝日町越知山)から佐波理(さはり:銅と鈴の合金)の鉢』『を飛ばして布施を求めていた。山頂から思いっきり飛ばした鉢が、鳥のように飛び、船の船頭の足元に届くのを見て、越知山から大声で「われらの師匠のため、鉢一杯の布施を頼み申す」と言うのである。その法力に驚いた船頭たちが、鉢に米を入れると、鉢は空へ舞い上がり、越知山山頂の彼のもとに戻っていくのであった』。『ある時、出羽の船頭神部浄定が都に納める米俵を積んで、越知山の前の海を航行していた』が、『臥行者がいつものとおり』、『鉢を飛ばして布施を求めると、船長は』、『これは出羽の国から京へ運ぶ官米だから』、『といって断った。すると、鉢は越知山に飛び戻り、鉢の後に続いて米俵も次々と飛び去っていった。神部浄定は驚き、近くの港に船を寄せると、越知山山頂に駆け登った』。『山頂にあった小さな寺の前庭に行くと、米俵が積み上げられていた。船頭は、臥行者に詫びてから、奪われた米は官米であり、それを弁償するために、これから出羽の百姓たちが苦しい暮らしを続けなければならない、と哀願し許してもらい』、『船に帰ってみると』、『米俵はもとのように積まれてい』たため、『泰澄の人格に打たれた船頭は発心し、官米を送り届けると、都からの帰路に弟子入りし浄定(きよさだ)行者と呼ばれるようにな』ったとある。リンク先には、まだ続きがあるが、ここまでとするが、アーカイブなので、保存しておかれる方がよかろう。

『「宇治拾遺(うじしうゐ)」に、信貴山(しぎさん)の聖僧、常に鉢を山下に飛して食を受けた話、有り」「宇治拾遺物語」の「信濃國の聖(ひじり)の事」。飛倉で知られる「信貴山縁起」に基づくもの。かなり長い。「やたがらすナビ」のこちらで電子化されたものが読める(新字)。

『「古事談」卷三に、淨藏、鉢を飛し、北の方、王城に往て食を受來らしむるが常なりしに、三日續けて空で歸るから、調べると、山中の老僧の大鉢が飛んで來て、淨藏の鉢中の物を奪ひ去るのだつた、と載せ居る』「古事談」巻第三にある、「淨藏貴所(じやうざうきそ)」の飛鉢法の説話。これもかなり知られたものである。国立国会図書館デジタルコレクションの『国史叢書』第十一巻「古事談 續古事談 江談抄」のここから(左ページ)読める。

「續本朝往生傳」の漢文文字列は所持する一九九五年岩波書店刊の『日本思想体系』新装版の「往生伝・法華験記」他の原文と校合し、同書の訓読文と比較したところ、数箇所に問題があったので、修正した。なお、この「大江定基」は次段の「三河入道寂照」と同一人物で、彼の出家の最初の動機は「今昔物語集」(巻第十九 參河守大江定基出家語(參河守大江の定基出家の語(こと))第二)や「宇治拾遺物語」(卷第四 七 三川の入道(にうだう)遁世の事)などで知られるが、愛する妻が死んでも愛おしさのあまり葬送せず、その亡骸の口を吸っていたが、遂に遺体が腐り出し、そのおぞましい腐臭に泣く泣く葬ったことにあった。後者は私の「雨月物語 青頭巾  授業ノート」(サイト版)で電子化しているので参照されたい。]

 「宇治拾遺」には、『今は昔、三河入道寂照と云ふ人、唐土(もろこし)に渡つて後、唐土の王、止(やんごと)なき聖(ひぢり)どもを召集めて、堂を飾りて、僧膳を設けて、經を講じ給ひけるに、王の給はく、「今日の齋莚は手長(てなが)(給仕)の役、有可らず。各《おのおの》我鉢を飛せ遣《やり》て、物は受可し。」との給ふ。其心は日本僧を試みんが爲也。扨、諸僧、一座より次第に鉢を飛せて物を受く。三河入道、末座(ばつざ)に着きたり。其番に當りて、鉢を持《もち》て立《たた》んとす。「爭《いか》で鉢を遣てこそ受《うけ》め。」とて、人々、制し止めけり。寂照、申しけるは、「鉢を飛する事は別の法を行《おこなひ》てする業也。然るに、寂照、未だ此法を傳へ行はず。日本國に於いても、此法、行ふ人有けれど、未だ世には行ふ人、無し。爭でか飛さん。」と言て居たるに、「日本の聖、鉢、遲し。鉢、遲し。」と責ければ、日本《につぽん》の方《かた》に、向《むかひ》て祈念して謂《いは》く、『我國の三寶神祇、助け給へ。恥見せ給ふな。』と念じ入《いり》て居たる程に、鉢(はち)、獨樂(こまつぶり)のように、くるめきて、唐土の僧の鉢よりも、早く飛びて、物を受て歸りぬ。その時、王より始《はじめ》て、「止事《やんごと》なき人なり。」とて、拜みけるとぞ申し傳へたる。』と有る。

[やぶちゃん注:「宇治拾遺物語」の引用は、本来の原文に異様に手が加えらているため(特に平仮名の漢字化)、所持する信頼出来る二種の同作の刊本を参考に大幅に手を加えた。

 「ユール」の「マルコ・ポロ」紀行(一八七一年板卷一、二六六頁)に、元世祖が供養せし比丘(バツシ)衆、方術に長ぜることを敍《のべ》て、帝、飮む時、其食卓を地上八肘(クビツト)(日本の一丈二尺餘)高き壇に載せ、卓より十步距つて酒等を盛《もつ》た盃を置く。帝、之を飮んとすると、比丘衆、方術もて、誰も觸《ふれ》ぬに盃を自ら帝の前に往《ゆか》しむ。是れ其席に侍する人々、每度、見る所で、時として、一萬人も侍する事有り、全く事實で、虛言でない、と書いて居る。「ユール」、註して云く、一三二三至二八年の間に、支那に三年留つた天主僧「オドリク」も、短く此事を記して云く、幻士、美酒を盛《もつ》た盃をして、空中に飛行し、自ら酒飮まんと欲する諸人の前に往しむ、と。丁度、元の英宗の末年から文宗の初年間、我朝、後醍醐帝御宇の初めに當り、「マルコ」の支那滯在よりは、凡そ三十年後の事だ。「ジェシュケ」の說に、近代の喇嘛《ラマ》僧も術士が盃を飛すと信ず、と。歐州でも、「シモン・マグス」や「ツエサレ・マルテシオ」は、食器や銀盃を手で觸ずに動かしたと古く信ぜられた、と。以上、「ユール」の註だが、熊楠曾て「飛盃(フライイング・カツプス)」と題し、大略、右の通り書集めて、明治三十三年二月の『ノーツ・エンド・キーリス』に出し、濠州土人が弓を用いるを知《しら》ずに、ブーメラングを發明した抔を引き合わせ、多大の誇張は有るにしても、既に多くの人が觀たと云ふ飛鉢の一條は、必ず何か一種の機巧(からくり)を使ふた事實が有たのだろうと評し置《おい》た。其頃、予、「ヘブリウ」語を學ぶのを助けられた「ウヰリアム・ガーペット」てふ奇人有て、當時、羅馬法皇が何とかいふ神通家を「ヴァチカン」から卻《しりぞ》けたるを不當とし、上に引《ひい》た日本國不ㇾ知人云々の語を援《ひ》いて、『ブリチシュ・エンジニヤリング』誌へ書立《かきたて》て居《をつ》た。

[やぶちゃん注:『「ユール」の「マルコ・ポロ」紀行(一八七一年板卷一、二六六頁)』はイギリスの軍人で東洋学者でもあったヘンリー・ユール(Henry Yule 一八二〇年~一八八九年)のマルコ・ポーロの「東方見聞録」の訳注本‘The Travels of Marco Polo’。

「比丘(バツシ)」このルビは底本では判読が出来なかったので(「ペツシ」のようには見える)、国立国会図書館デジタルコレクションの渋沢敬三編「南方熊楠全集」第六巻文集Ⅱ(昭和二七(一九五二)年乾元社刊)の当該部で確認した。因みに、「選集」では『パツシ』のように見える(半濁音の右側が切れていて、これもよく判らないが、そう見える)。「万葉文庫」では『ハツシ』で起こしてある。そもそも「比丘」はサンスクリット語Bhikṣu」(ビクシュ)の漢音写で、現代中国語ではbǐqiū」(ピィーチ(ォ)ウ)である。どれであってもあり得そうな感じがするが、現段階では、私のとっては、唯一の新たなデータとして上記リンク先のそれを採用した。

「八肘(クビツト)(日本の一丈二尺餘)」キュービット(英語:cubit)は古代から西洋の各地で使われてきた長さの単位。「肘から中指の先までの間の長さ」に由来する「身体尺」の一つで、ラテン語で「肘」を意味する 「cubitum」に由来する。時代によって差があるが、概ね「四十三~五十三センチメートル」を「一キュービット」とする。「一丈二尺」は三メートル六十三センチ。

「オドリク」(Odorico da Pordenone ?~一三三一年:「オドリク」は英語読みで、正しくは「オドリコ・ダ・ポルデノーネ」)はイタリア人宣教師。若くして「フランシスコ修道会」に加わり、一三二〇年頃、東方への布教を志して出発した。ペルシア経由で海路インドを経、一三二二年から翌年頃に広東に上陸、一三二五年、現在の北京に到着、三年間滞在し、陸路によりイタリアに帰着した。一三三〇年に見聞を口述している。その内容は布教よりも土地の紹介に重点がおかれ、とくに杭州の仏教寺院の行事の話が貴重である(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「ジェシュケ」不詳。

「シモン・マグス」(Simon Magus)は聖書に登場する人物。当該ウィキによれば、『別名は魔術師シモン』で、『新約聖書外伝の』「ペテロ行伝」『によると、自らの魔術によって空中を浮揚し』、『ペテロに対し』、『挑んだが、ペテロが神に祈りを捧げると』、『忽ち』、『墜落し』て『落命したとされる』とある。

「ツエサレ・マルテシオ」不詳。

『熊楠曾て「飛盃(フライイング・カツプス)」と題し、大略、右の通り書集めて、明治三十三年二月の『ノーツ・エンド・キーリス』に出し』「Internet archive」のここ(右ページ左下方から次のページにかけて)で原投稿‘FLYING  CUPS’を確認出来る。但し、それは、ここで熊楠が挙げた例とほぼ同じである。]

 「紀伊續風土記」八一、熊野川畔七日卷淵の上の山に、飛鉢森(ひはつのもり)有り。むかし、異僧專念上人、此に棲み、鉢を下して、施物を乞ふ。筏師、戯れに、草鞋《わらぢ》を鉢に入れると、筏師、忽ち、淵に入り、渦に卷《まか》れて七日の間、出《いづ》るを得ず、因《より》て名づく、とある。予、曾て、淋しき熊野の山中で、薄暮近く鼯鼠(むさゝび)如き者が、高い頂から、斜めに下り、又、上ること、數回なるを見て、『鼯鼠が、下から上へ飛ぶは、奇怪。』と、久しく守《まもつ》て居ると、「やえん」と云ふ機械で物を上下するのと分つた。專念上人が鉢を飛ばすとはなく、上下したと有るは、全く「やえん」樣の物を、常人に分らぬ法で使ふたのかと思ふ。唐の釋道宣の「續高僧傳」三三、元魏の時、洛京永寧寺の天竺僧(てんじくそう)勒那漫提(ろくなまんてい)、五明の術に通ず。每見洛下人遠向嵩高少室取ㇾ薪者、自云、百姓如(ゆき)許地(かのちに)、擔負辛苦、我欲暫牽取二山、枕洛水頭人伐ルヲ。乃還ㇾ放去、不以爲一ㇾ難、此但數術耳、但無知者、誣ㇾ我、爲聖所以不一ㇾ敢。〔每(つね)に、洛下の人の、遠く嵩高(すうかう)の少室(せうしつ)に向ひて、薪を取る者を見る。自(みづか)ら言ふ、「百姓、許(か)の地に如(ゆ)き、擔(にな)ひ負ひて、辛苦す。我れ、暫く、二山を牽(ひ)き取り、洛水の頭(ほとり)に枕(まくら)せしめ、人、伐り足(た)るを待ち、乃(すなは)ち、故に還(かへ)し去らんと欲す。以つて難(かた)しとは爲(な)さず、此れ、但(ただ)、數術(まじない)たるのみ。但、無知の者、我れを誣(し)いて、聖(ひじり)とは、敢へてせざる所以(ゆゑん)と爲(な)す。」と。〕是も「やえん」樣の仕掛で、高山巓(こうざんてん)から、手早く薪を下す成案有しを、暫く二山を牽き取る抔と、どうせ、爲る積りは無いのだから、大言したのだろう。又、同書卷卅に、道士陸修靜、北齊に入《いり》て、諸沙門と道術を角(くら)べるに、咒して衣鉢を擧《あげ》たり、轉(ころが)したりした事が有る。(六月十八日より七月十一日夜に至り、草し終る)

[やぶちゃん注:『「紀伊續風土記」八一、熊野川畔七日卷淵の上の山に、飛鉢森(ひはつのもり)有り。……』国立国会図書館デジタルコレクションの「紀伊続風土記」第三輯(仁井田好古等編・明治四三(一九一〇)年帝国地方行政会出版部刊)の「巻之八十一 牟婁郡第十三」の末にある。ここの上段八行目から。

「續高僧傳」は「大蔵経データベース」で校合した。

「嵩高の少室」北魏の首都であった洛陽の東南東にある嵩山(すうざん)の西の峰少室山(標高一四〇五メートル)のこと。

「元魏の時」「天竺僧」「勒那漫提」「元魏」は南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建国され、前秦崩壊後、独立、華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた北魏(三八六年 ~五三四年)のこと。「勒那漫提」は中インド出身の翻訳僧。

「やえん」「野猿」「矢猿」。強靭な縄で作った一種のロープ・ウェイ式の機械。谷を跨いで、木材を搬出したり、人が乗って谷を渡ったりするのに用いる。江戸時代には既にあった。

「陸修靜」南北朝時代の南朝の劉宋(四二〇年~四七九年)の道士(四〇六年~四七七年)。画題として知られる「虎渓三笑図」の主人公慧遠を陶淵明とともに尋ねるのが、彼である。]

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