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2023/01/01

迎春書初電子化注第二弾 恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その1) /「はしがき」・「一 戰火に燒け失せた澄江堂」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)によれば、
その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 冒頭の「はしがき」は原本では全体が五字下げで、しかもポイント落ちだが、ブログ版ではそれを無視した。

 なお、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。]

 

 

芥川龍之介のことなど

 

 

  は し が き

 秋田屋書店の八束氏がねんごろに勧めて吳れられるままに、ここにかかげた標題の下に幾回かにわたつて執筆したいと思ふ。「芥川龍之介のことなど」といふ標題をえらんだわけは、執筆にとりかかるたび每に心の向かふにまかせて、芥川自身のことのほかに、何かしらそれに関係のあることや、それから思ひついたことなどをも書いて見たいと思ふからである。多くは故人のおもひ出を書くこととなるだらうと思ふのであるが、別に時の順序にしたがふといふのでもなく、ことがらの順序にしたがふといふこともせず、およそどのくらゐの回数書きつづけるかといふことについても全く見当が立たない。つまり至つてわがままな書きかたなので、あらかじめその点について讀者諸氏の寬恕をおねがひして置く次第である。

[やぶちゃん注:「秋田屋書店の八束氏」本篇が連載された雑誌『智慧』の出版元の店主八束清。同雑誌は本連載開始の前年昭和二一(一九二六)年に創刊号が発刊されている。sumus2013氏のブログ「林哲夫の文画な日々2」の「小沢信男と富士正晴」に、中尾務氏による論考からの引用として、『〈八束〉は、八束清。八束は、戦前、富士正晴と弘文堂書房で同僚。一九四三年、八束は弘文堂書房を退職して、大和書院に入社するが、大和書院は、翌四四年の企業合同時に、ほか五社と秋田屋を創設。八束は、京都北白川追分町の秋田屋編輯室に勤めていた。(秋田屋本社は、大阪。)』とある人物であろうと思われる。古書店の書誌を見ても、創刊号が何月に出たかも判らず、雑誌がどういったジャンルのものであるかも不明であるが、古書店の創刊号の表示に『吉井勇他』とあるから、文芸誌であったことは判る。]

 

 

         戰火に燒け失せた澄江堂

 

 芥川龍之介が昭和二年の夏に亡くなつたあと、彼の住みなれてゐた田端の家――澄江堂――には、未亡人とをさない男の子たちとのほかに、三人の老人たちが住みつづけてゐた。三人の老人といふのは、故人の両親と伯母さんとである。私は高等学校の学生時代に、そのころ新宿にあつた芥川の家にしばしば遊びに行つたものであつて、時には泊めてもらつたこともあつた。京都大学の学生時代から大学院の学生であつたころにはいく度か上京して滯在すると、芥川の家に――そのころは田端に移つてゐた――泊めてもらつたものであつた。それで、おのづと故人の両親や伯母さんにはよほど親しくなつたところから、故人の亡くなつた後にも、筍とか、松茸とかいつたような、京都の名產のものの出盛らうとする季節には、客車便でそれを田端の家に送りとどけた。さうすると、未亡人が礼狀をしたためて寄越され、その中には三老人たちの消息も書いてあるので、いつも故人の亡きあとの芥川家の生活の平安をいのるやうな氣もちでそれを読んだものであつた。

 だが、その後、三人の年老いた人たちが次々に此の世を去つて行つてしまつてからは、親しい年老いた人々のなぐさめにもと思つて季節の物を送るといふやうなこともなくなり、しぜん芥川家との交渉も疎遠となつて行つた。それでも、故人がかかりつけのお医者としてたよりとしてゐた下島さんの令息が京大の文学部に在学してゐたころは、下島さんの手紙や、令息が帰省のたび每にもたらす噂話によつて、芥川家の様子を知ることが出來たのであつたが、下島君が卒業して、文藝春秋社に入社してからあとは、さうしたよすがも無くなつてしまつた。

[やぶちゃん注:「三老人」養父芥川道章(嘉永二(一八四九)年一月六日~昭和三(一九二八)年六月二十七日:龍之介の養育を受けた当時は東京府勤務)、彼の妻で養母芥川儔(とも 安政四(一八五七)年四月十一日~昭和一二(一九三七)年五月十四日)、龍之介の母新原(にいはら)フクの姉にして道章の妹でもあった伯母の芥川フキ(安政三(一九五六)年八月二十九日~昭和一三(一九三八)年八月四日:龍之介にとっては生活的にも精神的にも重要な人物で、生涯、独身で道章・儔と同居しており、龍之介の養育は主に彼女が面倒を見ている。龍之介の大正一五(一九二六)年十月に『改造』に発表した「點鬼簿」の「三」の中で、実父新原敏三から、『僕は一夜大森の魚榮でアイスクリイムを勸められながら、露骨に實家へ逃げて來いと口説かれたことを覺えてゐる。僕の父はかう云ふ時には頗る巧言令色を弄した。が、生憎その勸誘は一度も効を奏さなかつた。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛してゐたからだつた。』と述べていることでも明らかである。なお、龍之介が自死の前に最後に会話したのはこのフキであった。次注参照)を指す。以上の三人の生没年月日は三人全部のそれを掲載する研究書が少ないのだが、所持する一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄氏の編著になる「年表作家読本 芥川龍之介」の十四ページに載った二種の系図に拠った。

「下島さん」下島勳(いさをし(いさおし) 明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)は芥川家の近所に住む芥川龍之介及び芥川家の主治医。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期をも看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、空谷と号した。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった(それを渡すように言った相手がフキだったのである)。私は十年前にサイト版で下島氏の「芥川龍之介氏のこと」(昭和二(一九二七)年九月号『改造 芥川龍之介特輯』初出)を電子化してある。ここに出る「令息」は不詳。]

 ことに、近年一度も上京の機会がなかつたので、東京の空襲のことが傳へられるごとに、田端のあたりはどうであつたらうかと遙かに思ひを馳せて案じるばかりであつた。終戰後折り折り東京からたづねて來る知人や所用の客に、田端の辺の戰災の模樣を尋ねて見ても、正確な狀況を話して吳れる人はひとりもなかつた。下島さんか、菊池寛君かに手紙を出して尋ねて見ようかとも思つたこともあつたけれど、ついそれも実行しないでゐるうちに、夏になつて東京から訪ねて來たN君が、かなり確からしい口調で、田端の駅の上方一帶は無事の筈だと話して吳れたのですつかり安心した。[やぶちゃん注:「N君」不詳。]

 七月の下旬に、塩尻淸市君が「河童」の英訳を秋田屋から出版されるについて、芥川家の諒解を得て欲しいといふ依賴を受けた。それで、ずゐぶん久しぶりに。未亡人あてに御無沙汰のおわび旁々、その依賴の趣旨をつたへる手紙を書いたが、そのときは澄江堂は戰禍をまぬがれてゐたこととばかり思ひ込んでゐたので、そのことについての慶びの言葉をかき、近況を知らせて頂きたい旨をしたためた。無論、アドレスも元のままにその手紙を発送した。

[やぶちゃん注:「七月」初出時期と前後から、敗戦の翌年の昭和二一(一九四六)年七月である。

『塩尻淸市君が「河童」の英訳を秋田屋から出版されるについて、芥川家の諒解を得て欲しいといふ依賴を受けた』芥川龍之介の「河童」の英訳本は翻訳家塩尻清市氏の訳で書店「秋田屋」から昭和二二(一九四七)年に刊行されている(書名は‘ KAPPA ’)。「大阪公立大学図書館」公式サイト内のこちらの書誌レビューに、『芥川の親友、恒藤恭による日本語序文つき』(☜)とあり、『「河童」は戦前にも中国語・ドイツ語訳などがあるが、英訳の刊行は本書が初めてであったようだ。恒藤の序文には、大正の初期に芥川がしばしば河童の絵を描いていたとある。芥川が河童の絵を描き始めたのは大正九』(一九二〇)『年頃と言われており(安藤公美「マルチメディア時代の芥川龍之介の表象」『芥川龍之介研究』第』十二『号など』、本書序文の証言は』、『その定説を』、『数年遡る貴重なものである。河童という、英語圏では知られていないものを理解してもらうため、訳者は江戸時代の文献を引いて』、『河童そのものの詳しい解説“THE KAPPA IN THE JAPANESE FORKLORE“も付している』(奥野久美子氏の文とある)とあった。グーグル画像検索『塩尻清市 「河童」英訳』でオークション・サイトの幾つかの画像が出るが、それらは出版社が「北星堂書店」とあり、奥付の出版年も昭和二十四年十二月となっている。「塩尻淸市」氏については、事績を探し得ないが、昭和一八(一九三三)年にアーネスト・サトー「幕末維新回想記 」を和訳しておられ、また、同姓同名の退官記事が『京都女子大学英文学会』(第十四号・一九七〇年十二月発行)の中に標題で見られるが、同一人物であろうか。]

 八月の上旬になつてから、未亡人からの返簡がとどいた。それには、鵠沼のアドレスが書いてあつたけれど、避暑のために実家に行つて居られるのだらうと推察しただけで、戰禍のことなどは全く思ひ及ばないままに封を切つて読んだ。便箋のはじめの一枚には、こちらからの依賴の件について丁寧なあいさつのことばがしたためてあつたが、二枚目から三枚目にかけて、「今年は仰せの如くお暑さきびしく、昭和二年の夏を思ひ出され、廿四日には宅でも皆々と話し合ひました。田端の家も昨年四月十三日に灰になつてしまひました。子供達は入隊致し居り、一昨年夏、当鵠沼に疎開致して居りました爲に、身は安全ではございましたが、バケツに一杯の水さへもかけませんでした事を実に実に残念に思つて居ります。戰ひも終り、長男、三男は復員致しましたが、次男多加志は此度復員省で調べていただきましたところ、ビルマ國ヤノン縣ヤメセンに於て、昨年四月十二日に戰死致して居ります事がわかり、田端の家が燒けます前日に戰死致しました事を不思議に思つて居る次第でございます。」といふやうにしたためてあつた。

[やぶちゃん注:「鵠沼のアドレス」「避暑のために実家に行つて居られるのだらう」芥川龍之介の未亡人文の母塚本鈴(明治一四(一九八一)年三月九日~昭和一三(一九三八)年九月二日:夫山本善五郎は海軍将校であったが、「日露戦争」で戦死した)は、長男の八洲(文の弟。一高に入学し、将来を期待された)が肺結核を病んでおり、龍之介生前の大正一五(一九一六)年の四月には既に息子八洲の療養のため、鵠沼に転居していた。彼の転地療養探しには龍之介も心を砕いていた。八洲は結局、その後は病床生活を送り、敗戦の前年、昭和一九(一九四四)年六月十日に既に亡くなっている。

「長男」俳優となった芥川比呂志(大正九(一九二〇)年三月三十日~昭和五六(一九八一)年十月二十八日)は「太平洋戦争」勃発のため、慶應義塾大学(仏文科)を繰上卒業させられ、甲種幹部候補生として、群馬県の前橋陸軍予備士官学校(赤城隊)に入校、卒業後の陸軍少尉時代には、帝国陸軍有数の本土防空戦闘機部隊として有名な東京調布の飛行第二百四十四戦隊の整備隊本部附として勤務し、敗戦時は陸軍中尉として滋賀県神崎郡御園村の神崎部隊三谷隊にいた。敗戦後は神奈川県藤沢市鵠沼の母の実家別荘に疎開していた家族の許に復員した。なお、彼の名「ひろし」は親友菊池寛(表記は同じであるが、ペン・ネームでは「くわん(かん)」、本名では「ひろし」と読んだ)の名の読みを万葉仮名に当てたもの(当該ウィキに拠った)。

「三男」作曲家となった芥川也寸志(大正一四(一九二五)年七月十二日~平成元(一九八九)年一月三十一日)は東京音楽学校予科作曲部(現在の東京芸術大学音楽学部作曲科)に合格していたが、その翌年十月、学徒動員で徴兵され、陸軍戸山学校軍楽隊に配属された。敗戦後は東京音楽学校に復籍した。彼の名「やすし」はまさに、この恒藤恭の名「恭」を訓読みして同様に命名されたものである(当該ウィキに拠った)。

「次男多加志」芥川多加志(大正一一(一九二二)年十一月八日~昭和二〇(一九四五)年四月十三日)は昭和一五(一九四〇)年に東京外国語高等学校(現在の東京外語大)仏語部文科入学(但し、重度の肋膜炎で一年余を休学している)、昭和一八(一九四三)年十一月二十八日に出征し、陸軍朝鮮第二十二部隊へ入営したが、翌昭和一九(一九四四)年六月二十九日、ビルマ戦線への起死回生の投入のための陸軍第四十九師団歩兵第一〇六連隊(狼一八七〇二)の一兵士として朝鮮を出発、翌年、ビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦にて、胸部穿透性戦車砲弾破片創を受け、戦死した。僅か満二十三歳であった。多加志は文学嗜好で、最も父龍之介に似ており、生きていれば、作家になっていたと思われる人物であった。彼の名「たかし」は、晩年の盟友で画家の小穴隆一の「隆」に基づき同前で命名されたものであった。なお、私のブログ・カテゴリ「芥川多加志」を、是非、参照されたい。

「ああ、さうだつたのか」と愕くと共に、あのもの靜かな澄江堂のあたりの家並みの在りし日の風趣をまざまざと思ひうかべた。とりわけ澄江堂の隣りの香取秀眞さんのお宅も燒け失せたのだなと、年老いた鑄金の大家の身辺を襲うた戰禍のいたましさを思はずには居れなかつた。篤実なN氏の話だから、よもや間ちがひはないだらうと信じきつてゐたので、故人の死後年々七月二十四日に、河童忌の会合がひらかれた天然自笑軒は無事であつたであらうし、平和も回復したことではあるし、今年は其処での河童忌のあつまりも復活されたことだらうと考へ、未亡人に宛てた手紙の中には「この夏の河童忌には皆さん御会合のことだつたらうと存じます」といふやうなことを書いたのであつたが、未亡人からの近簡をよんで、なんとも愚かしい手紙の文句をしたためたことだつたと、自分のうかつさを愧ぢるこころもちを禁め得なかつた。

[やぶちゃん注:「香取秀眞」(かとりほづま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は鋳金工芸師。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授・帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。

「天然自笑軒」田端の自宅近くにあった会席料理屋「天然自笑軒」。芥川龍之介は文との結婚披露宴をここで行っている。

「禁め」「とどめ」。]

 芥川の自殺の後丁度十八ケ年を経た昨年の七月のなかばに、次男の多加志君は遠い南方の炎暑の地域で戰死し、その翌日には故人の生前をしのぶよすがとなるさまざまの遺書や遺品と共に澄江堂の建物が戰火のために燒けうせてしまつたといふことは、奥さんが手紙の中に書かれてゐるやうに、なにか不思議なめぐり合はせだといふ感じがする。

[やぶちゃん注:「さまざまの遺書や遺品と共に澄江堂の建物が戰火のために燒けうせてしまつた」とあるが、実は遺品・遺書は焼失していない。私の「芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん詳細注2009年版≫」を見られたい。この件については、後の「十匹 澄江堂の遺品について」で修正されるのでお待ちあれ。

 あの元の新宿の家――となりに飼牛場があり、門の前から東南に向つて四、五百坪ばかりの廣さの、雜草のしげるに任せた廣場があつた――も、東京から來た人々のうわさ話から推して考へると、やはり戰災の襲ふところとなつたものらしい。高等学校の一年生のあひだ、芥川は寄宿寮でくらしたものであるが、私たちは英文科の同じクラスであつた関係から。その一年間といふもの、寄宿寮の中の同じ室で起臥したのであつた。先年一高の校舎が現在の駒場に移された後、その寮はとりこぼたれて、東京帝大の建物がそれに代つたさうである。そんなやうなわけで、この次ぎ上京する機会にめぐまれたとしても、故人と共に起臥したり、雜談したりした靑年のころのことを、再び眼の前にありありと思ひうかべる空間的機緣は、跡かた無く消滅してしまつたわけである。そのやうに考へると、大正二年の夏に、私が生まれ故鄕の松江で一と夏借りて住まつたことのある城のお濠の岸べのささやかな家のことが、一層なつかしく思ひ出されるのであつた。と云ふわけは、その夏、私の勧誘に應じて、芥川がそれまでの彼の経驗としては晨初の長い汽車の一人旅を思ひ立ち、松江にたどり着いて、しばらくのあひだ、そのお濠端の家に滯在し、一しよに松江の市中のあちこちをあるきまはつたり、出雲大社に参諧したりしたからである。その家が現在でもそのままに残存してゐるかどうか分らないけれど、いつか久しぶりに松江をおとづれる機会があつたならば、その家をたづねて、当時の思ひ出をあらたにしたいものと思つてゐる。この夏のはじめに、島根縣の当局の人から、夏期大学風の企てについて講演の依賴を受けたけれど、長迎の汽車旅行をすると肋間神経痛を起す虞れがあるために、その種の依賴はすべて引き受けないことにしてゐる私は、すゐぶん永いあひだおとづれたことのない湖畔の市街をあるきまはつたり、水草が茂り、いろいろの藻のたぐひのうかんでゐる城のお濠にのぞんでゐたその家が、今なほ有るか無いかをたしかめる機会を獲ることを断念するほかはなかつた。

[やぶちゃん注:「城」松江城。

「お濠の岸べのささやかな家」私の『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二」』の冒頭を引く(太字化は今回した)。

   *

  お花畑の町はさびしい町である。[やぶちゃん注:「お花畑」底本の後注に『松江城(千鳥城)西麓の内堀に沿った町の名。井川芥川を迎えるために、松江市中原町一六七の堀端の一軒屋を借りた。この借屋は、前年』、かの作家『志賀直哉が三月滞在していた家で、「濠端の住まひ」』(大正一三(一九二四)年十月執筆。大正十四年一月号『不二』初出。所持する岩波書店「志賀直哉全集」に拠る)『の舞台ともなった家である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

   *

「グーグル・マップ・データ」のサイド・パネルの画像もよすがとして見られたい。]

 文藝春秋の八月號には、故人の長男比呂志君の執筆にかかる「父龍之介の映像」の一篇が載せてある。すなほな、滯りのない筆致で、幼年のころの同君の眼に映じた故人のすがたが生き生きと描いてあるが、二階の八疊の書斎についての描寫をことに興味ふかく読んだ。「靑い絨毯を敷いた、あかるい部屋の中央に小さな紫檀の机と、長大鉢とが、鍵の手に置いてあり、後の二辺を、書き損ひの原稿用紙や、炭取や、つみ重ねた本や、來翰を入れた木の盆や籐の紙屑籠などが、雜然と描き出してゐる。机のむかうの、座蒲團のおいてある所が、自然にそこだけ窪んだやうなかたちで残されてゐて、それは如何にも、父の出かけたあとといふ感じがした。」といふやうなくだりを読んで行くと、なんだか、その部屋が今でもむかしのままに現存してゐて、竹垣をめぐらし、樫の木のかげに八つ手が葉をひろげてゐる庭に、明るい日光をあびながら面してゐるやうに思はれてならないのである。

[やぶちゃん注:『長男比呂志君の執筆にかかる「父龍之介の映像」』昭和二一(一九二六)年八月発行の『文藝春秋』所収。これは現在、岩波文庫の石割透編「芥川追想」(二〇一七年七月刊)で読める。未読の方は恒藤の言う通りで、お勧めである。]

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