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2023/01/03

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その8・その9) /「八 嵐山のはるさめ」「九 帰京後の挨拶の手紙」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。但し、今回は次の章が、ダイレクトに続篇となっているので特にカップリングした。

 

         八 嵐山のはるさめ

 

 父親の道章氏を同伴して芥川が京見物に來たことがある。大正六年の春のことであつたかと思ふ。

「江戶つ子の出不精」といつて、生粹の東京人は遠方へ出かけることを億劫がる傾向があつたやうだ。『箱根から東にはお化けは出ない』といふ諺も、いくらかその事と関係がありさうだ。道章氏の場合もその一例であつて、めつたに東京を離れたことはなく、遠方ヘの旅行は、その京見物の時が、最初の、そして最後のことではなかつたかと思ふ。

 

 芥田はその前年の十二月に海軍機関学校の嘱託敎官となり、自分だけは鎌倉に住んでゐた。春の休暇を利用しての旅行であつたが、謂つて見れば、親孝行の上方見物であつた。まへの年の二月には、菊池寬、久米正雄、松岡讓、成瀨正雄などの諸君と第四次の「新思潮」を創刊し、その第一号に載せた「鼻」は、夏目さんの賞讃をうけた。七月には東大の英文科を卒業し、九月の新小說に「芋粥」を、十月の中央公論に「手巾」を発表して、いづれも好評を博した。まだ結婚はしてゐなかつたけれど、たしか既に婚妁は成立してゐたかと思ふ。いろいろの意味において芥川の生活が最もめぐまれた狀態にあつた時であつたので、その京見物の折りの芥川たちはいかにも楽しさうな親子の旅のすがたであつた。何しろずゐぷん以前の事なので、その時のことはほとんど忘れてしまつたけれど、三人で嵐山へ行つたことだけが、不思議とはつきりと頭の中に残つてゐる。

[やぶちゃん注:「箱根から東にはお化けは出ない」江戸代の江戸っ子が生んだ御当地関東の諺で、「箱根からこっちに野暮と化け物は無し」。箱根からこちら側(江戸を中心とした言い方で広域の「東側」「関東」のこと)には、「野暮な人間」と「化け物」はいないということ。江戸っ子が田舎者を相手に自慢した台詞である。前にある、「江戶つ子の出不精」というのは、江戸が一番という誇りの見栄を張った謂いに過ぎまい。

「前年の十二月に海軍機関学校の嘱託敎官となり」大正五(一九一六)年十一月七日に一高時代の恩師(英語教授)であった英文学者畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)の紹介で横須賀に赴き、海軍機関学校就職のための履歴書を提出、翌日には同学校から海軍教育部長に芥川龍之介の「英語学教授嘱託」としての上申が行われ、十三日までには就職が決定され、翌十二月一日に正式に就任している。龍之介満二十四。なお、この大正五年十二月には本書の著者が恒藤雅(まさ 明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年 :日本最初の農学博士の一人であり、本邦の土壌学の創始者にして「ラサ工業」を設立したことで知られる恒藤規隆(安政四(一八五七)年~昭和一三(一九三八)年)の長女)と結婚(婿養子)し、井川から恒藤姓となっている。

「自分だけは鎌倉に住んでゐた」海軍機関学校への就職に伴い、鎌倉和田塚の旧海浜ホテル隣(北)にあった野間西洋洗濯店の離れ(現在の鎌倉市由比ガ浜四丁目八のこの中央附近)の八畳間に下宿している。但し、通勤に嫌気がさしたものか、この京都旅行の五ヶ月後の大正六年九月十四日には、学校に近い横須賀市汐入五百八十番地(現在の横須賀市汐入町三丁目一附近)の尾鷲梅吉方の二階(八畳間)に転居している。しかも、この九月の下旬には、早くも教師生活に嫌気をきたし、文筆業一本に絞ることを考え始めたりもしている。なお、ここでも大学の学生寮の時と同じく、週末には田端の自宅に帰り、月曜に仕事を終えてから、下宿へ戻るという生活であった。

「成瀨正雄」「成瀨正一」(せいいち)の誤り。

「手巾」作品名の読みは「はんけち」。

「まだ結婚はしてゐなかつたけれど、たしか既に婚妁は成立してゐたかと思ふ」龍之介は大正五(一九一六)年二月の中旬、伯母フキ・叔母で実父の後妻であったフユに塚本文(幼馴染みの親友山本喜誉司の姪)を会わせたところ、二人とも好感を持って呉れたことから、前年末から結婚相手として意識し始めていた彼女との結婚の意志を固め、同年六月旬には塚本文との結婚について、芥川・新原・塚本家の家族間で約束がなされたものと推定されている。正式には大正五年十二月に、塚本文との婚約が成立し、彼女が在学している跡見女学校を卒業するのを待って、結婚する旨の縁談契約書が芥川・塚本両家の間で交わされた。因みに、内祝言は大正七年二月二日(龍之介満二十五、文満十七)であった。]

 そのころ私たちは下鴨の糺の森に臨んだ小さな二階家に住んでゐた。四月十一日の夕かた芥川から『ジウニニチアサシチジツク』といふ電報がとどいたので、あくる朝早く起きて、家内と二人で京都駅に行つた。七時すぎに下り列車が着いたけれど、芥田父子のすがたが見えないので、十時の列車まで待つたけれど、やはり二人のすがたは見当らなかつた。「どうしたのだらう。行き違つたのかしら」と不思議がりながら二人は下鴨の家に帰つた。

 はたして行きちがひであつたのかどうか忘れてしまつたけれど、その日の午後芥川父子は俥に乗つてやつて來た。森を見下ろす二階の部屋でしばらく話した後、下鴨神社に案内した。

 芥川たちは駅の前の鳥居楼に宿をとつてゐた。そのあくる日、つまり四月十三日のあさ、そこを訪ねて、先づ東本願寺に二人を案内した後、四條大宮から嵐山電車に乘つた。終点で下車すると、すぐ渡月橋の方へあるいて行つた。橋を渡らないで右へ折れて、とつつきの茶店の赤い毛氈の敷いてある床几にこしかけて休んだ。そこで平たい皿に盛つた花見だんごをたべながら芥川がしきりに東京を出発してからの老人の旅慣れぬ樣子のことなどをしやべつた。

 それから私たちは流れに沿うた堤のみちをぶらぶらあるいて行つて。亀山公園の松林の中にはいつた。晝過ぎになつたんで、小高いところにある茶店に立ち寄つて、簡單な晝食をとつた。そのうちに雨模樣となつた。向ひの山を蔽ふ樹々の濃い翠りいろの中に、ほのかな赤みを帶びた櫻のはなのかたまりが浮きあがつてゐるのが、眼に沁みてうつくしかつた。雨はかすかな絲すぢを白く引いて降り、蓑を着た舟人をのせて、いくつもの筏がゆるやかに眼の下の碧い流れを下つて行つた。

 道章氏は、椽先きの松の木蔭にたたずみながら、感にたへないやうな顏つきで眺めてゐたが、「さくらはやはり松の中に咲いてゐるのが佳いんだな。」と私たちをかへりみて言つた。

 すると芥川が間髮をいれず、「松の中に櫻が咲いてゐるんで感心したのぢやなくて、さくらが咲いてゐるんで松に感心しちやつたのでせう。」といつてわらつた。道章氏も釣りこまれて、わけなく「あはは」とわらつた。

 それから私たちは嵯峨駅から汽車に乘つて二條駅に引き返し、北野の天神に参詣した後、金閣寺を見物した。夕方、四條通りを東へあるいて行き、都踊りを見た。

 その翌日は芥川父子だけが奈良へ見物に行つた。夕がた私と家内とは芥川父子に贈るために二條木屋町へ行つて「大原ふご」を買ひ、四條の繩手上ルで「鷺知らず」を買つたうへ、鳥居楼に行つた。芥川は奈良で買つたのだと言つて、古い鏡を見せて吳れた。親子二人は八時二十分の汽事で京都を去つて行き、私たち二人は圓山公園に寄つて、夜ざくらを見てかへつた。

[やぶちゃん注:「芥川が京見物に來た」ここにある通り、芥川龍之介は大正六(一九一七)年四月十二日に養父道章と二人で、京都・奈良見物に出かけた。この日の午後に京都下鴨の作者の下鴨の新家庭を訪問しており、翌十三日には恒藤恭の案内で、東本願寺(老婆心乍ら言っておくと、芥川家の宗旨は日蓮宗である)・嵐山・清凉寺・金閣寺を巡り、夕刻には都踊りを見学した。十四日に道章と二人で奈良を見物し、午後八時二十分発の列車で東京へ向かった。なお、次の章で語られるが、翌朝、田端に戻ってみると、養母儔(とも)が丹毒(蜂窩織炎(ほうかしきえん)。次の章の最初の注のリンク先の私の注を参照)で高熱を出して床に就いているという騒動があった。私は京都に冥いので、幸い、古くからよく訪ねるサイト「東京紅團」の「芥川龍之介の京都を歩く」の「1」に、詳細地図や、「とつつきの茶店」について、サイト主は『戦前はこの写真』(リンク先にある写真)『の右側に三軒屋という有名な茶店がありました。推定ですが、芥川親子もこの三軒屋で休んだのだとおもいます』と述べられ、旧「三軒屋」や、芥川父子の泊った京都駅前の旧「鳥居楼本館」の写真も揚げておられるので参照されたい。

「大原ふご」不詳。「ふご」は「畚」(魚釣りの魚籠)のような竹細工かとも思ったが、判らぬ。いろいろなフレーズで検索してみたが、正体不詳。京都の方の御教授を乞うものである。

「鷺知らず」は京都名産の小魚の佃煮。当該ウィキによれば、『よく洗った鴨川産の小魚』一『升』(四百九十匁=千八百三十七・五グラム)『につき醤油』七『合を入れ、砂糖・薑を少々加え、数時間煮て製する。このときの調味液の残りは次回に使用し、その不足分のみを補給する。折詰または曲物に入れて販売されていたが、今ではほとんど見ることはできない。なお、使われる小魚は体長約一寸』『程のオイカワ』(コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae ハス属オイカワ Opsariichthys platypus 。所謂、「はや」類の代表的な一種)『の稚魚を使う。「鉄道唱歌」の歌詞に出てくるのが知られる』とある。]

 

       九 帰京後の挨拶の手紙

 

 束京にかへつてから一週間ばかりしてから芥川の吳れた手紙の文句を次にしるす。これも「全集」の第七卷に載つてゐない。

[やぶちゃん注:最後の岩波の正字旧全集には所収し、「芥川龍之介書簡抄71 / 大正六(一九一七)年書簡より(三) 塚本文宛・井川(恒藤)恭宛」(宛名姓は「井川」となっている)で電子化注してある。原書簡を少し整序してある。]

 

 先達はいろいろ御厄介になつて難有う

 その上、お土產まで頂いて、甚恐縮した。早速御禮を申上げる筈の所、かへつたら、母が丹毒でねてゐた爲、何かと用にかまけて 大へん遲くなつた。 

 かへつた時は、まだ四十度近い熱で、右の腕が腿ほどの太さに赤く腫れ上つて、見るのも氣味の惡い位だつた。何しろ命に關る病氣だから、家中ほんとうにびつくりしたが、幸とその後の経過がよく、医者が心配した急性腎臟炎も起らずにしまつた。今朝、患部を切つて、炎傷から出る膿水をとつたが、それが大きな丼に一ぱいあつた。今熱を計つたら卅七度に下つてゐる。このあんばいでは、近々快癒するだらうと思ふ。医者も、もう心配はないと云つてゐる。

 何しろ、かへつたら、芝の伯母や何かが、泊りがけで、看護に來てゐたには、實際びつくりした。尤も腕でよかつたが。

 医者曰く、「傳染の媒介は、一番が理髮店で、耳や鼻を剃る時にかみそりがする事が多い。さう云ふのは、顏へ來る。顏がまつ赤に腫れ上つて、髮の毛が皆ぬけるのだから、女の患者などは、恢復期に向つてゐても、鏡を見て氣絕したのさへあつた」と。用心しないと、あぶないよ、實際。

  とりあへず御礼かたがた、御わびまで。まだごたごたしてゐる。

   廿一日夜           龍

[やぶちゃん注:「芝の伯母」リンク先で既注だが、この「芝の伯母」というのは、実父敏三に後妻で入った実母フクの妹フユのことである。どう転んでも「伯母」ではなく「叔母」なのだが、一面、構造上は「義母」にも当たることから、彼はつい、かく「伯母」と呼んで、心理的に区別しているのであろうと私は思っている。他の書簡でも、フユを「伯母」と呼んでいる例がある。]

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