恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その7) /「七 青年芥川の一書簡」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。
ここに出る以下の書簡は、私の所持する岩波の最後の旧全集版初版第十巻(「書簡一」。一九七八年五月刊。第四次編年体全集)には収録されてあり、「芥川龍之介書簡抄36 / 大正四(一九一五)年書簡より(二) 失恋後の沈鬱書簡四通」の四通目で詳しく電子化注してある。そちらで注したものは、ここでは繰り返さない。短歌の語注も附してある。
また、既に疑問を出してあるが、いかなる年譜にも記載がないが、実はこの大正四年三月に井川恭が春休みに龍之介を心配して上京し、芥川家に滞在したのは事実なのである。但し、そのソースは本書(昭和二二(一九四七)年五月刊)である。
最後に恒藤の附記があるが、そこで言っている「芥川龍之介全集」は所謂『第一次元版全集』と呼ばれる、自死の年の昭和二(一九二七)年十一月に開始され、昭和四年二月に刊行を終えた、岩波書店のそれである(全八巻)。その後、昭和九年十月から翌年八月にかけて全十巻の第二次普及版が出ているが、そこでは、恒藤の附記から、この書簡は追加収録されていないと考えてよい。その証拠に、所持する昭和四六(一九七一)年刊の諸全集を参考にしつつ作られたと思しい筑摩書房『全種類聚』版第七巻(「書簡(一)」には、この書簡は掲載されていないからである。]
七 青年芥川の一書簡
私は大正二年七月に一高を卒業して、京大の法科に入学した。九月から、建ち上つたばかりの寄宿舍に住み、卒業するまでの三年間をずつとそこで過ごした。
大疋四年の春休みに上京して、田端の芥川家に休暇のあひだ滯在して、帰洛してから間もなく、次のやうな文句ではじまつてゐる芥川の手紙をうけ取つた。
うちへかへつて「丁度うまく汽車が間にあつてね、十時五十何分かに品川から立ちましたよ」と云つたら「さうかい」と云つて、母や伯母が淚を流した。おやぢまで泣いてゐる。年をとるとセンチメンタルになるものだなと思つた。
それから午少しすぎに、三並さんと藤岡君が來た。三並さんと画や漢学の話をした。
(註―三並さんはそのころ一高のドイツ語の敎授であり、藤岡君は私達の一高時代のクラスメートであった。)
三並さんのやうに、いい加滅な所で妥協してゆくのが現代の日本では一番安全な道だらうと思ふ。
少しとぶ。
昨日帝劇へ行つた。梅幸のお園、お富、松助の蝙蝠安に感心して帰つて來た。
行くときに警視廰の前を通つたら、何となく芝居へゆく事が惡いやうな氣がした。飯も食へなくて泥棒をしてつかまつて、ここへつれて來られる人がゐる事を考へたからである。しかし十步ばかりあるく中に、そんな事は全然氣にならなくなつた。それから芝居をみてゐる中に、自分は何を見てゐるのだらうと思つたら急に心細くなつた。芝居でなくて役者を見るより外に仕方のない事を知つたからである。しかし松尾太夫の冴えた肉声をきいてゐる中に、これも亦何時の間にか忘れてしまつた。
又とぶ。
博物館へ來てゐるルノアルの石版やエッチングを見て又可成感心した。
画をみるのに文学的内容を入れてみるのはまだいい、一番愚劣なのは、描かれてゐる対象を実世界に引入れて、その中へ自分を置いて考へる奴である。バアの石版画をみて、かう云ふ所でパンチをのんだらいいだらうと思ふ男が可成ゐる。実際もゐた。おかげで、踊子やオーケストラのうつくしい画をおちついて見てゐる事が出來なかつた。[やぶちゃん注:旧全集では「画」は三箇所ともに「畫」。同全集の凡例では、この字は両表記を本文で併用したとあるので、不審である。後の「画」も総て同じ。]
又とぶ。
浮世絵の会へ行つて、廣重を可成みて來た。そのあくる日、本所へ行つてかへりに一の橋のわきの共用便所へはいつた。あの便所は橋の側の往來よりは余程ひくい河岸にある。丁度、夕方で、雨がぽつぽつふつてゐた。便所を出ると、眼の前に一の橋の橋杭と橋桁が大きく暗い水面に入り違つてゐる。河は夕潮がさして、石垣をうつ水の音がぴちやぴちやする。橋の上を通る傘や蓑、西の空のおぼつかない残照、それから河を下つて來る五大力――すべてが廣重であるのに驚いた。
ぐづぐづしてゐると、今人は古人に若かずと云つて笑はれるだらうと思ふ。
又とぶ。
僕はよく独りでぶらぶらあるく。東京の町をあるく。三越へはいつたり、丸善に入つたりする。
さうすると時々とんでもないものを見る事が出來る。さうして、さう云ふもののつくる doom に沒入して、暫すべてを忘れてしまふ事が出來る。[やぶちゃん注:「doom」はママ。「mood」の誤植であろう。]
さういふ mood をつくるものにはいろいろある。家、空、人、電車、並木――それらのすべての雜多なコムビナチオンに加へられる光と影とのあらゆるグラード。その代りに、之は独りでないとうまく行かない。すきな人も、嫌な人も、同樣に二つの異つた方面からこの興味を破壞するから。
又とぶ。
櫻がよくさいた。櫻の歌四首。
ひなぐもる空もわかなく櫻花ををりにををりさきにけるはや
これやこの道灌山の山櫻ちりたまりたる下水なるかも
あしびきの尾の上の櫻ひえびえと夕かたまけて遠白みたれ
遲櫻夕ひそかにさきてありこの画室(アトリエ)[やぶちゃん注:ルビ。]に人の音せず
又とぶ。
時々大へんさびしくなる。
こんな事は云つてもはじまらないからとばす。
ビアズレーの画をかなり沢山まとめてみて感心した。ビアズレーの画は感受的にのみ興味があると君は云つたかと思ふ。僕はその意味がわからない。(内容の上の興味がないと云ふのなら反対)ひまな時でいいから、もう少しくはしくその事をかいて貰へるといいと思ふ。とぶ。
のどをいためて濕布をしてゐた。鏡で朝、顏をみたら、頸のまはりへ白い布をまきつけてゐるのが、非常に病人らしくみえた。そこで濕布をやめにしてしまつた。さうして帝劇へ行つて、夜の冷い空氣を吸ひながらうちへかヘつて來た。そのせゐで又のどが痛くなつた。のど佛の中に八面体の結晶が出來たやうな氣がするのには困る。
又とぶ。
今日も電車の中の顏が悉く癪にさはつた。sinnlich と云ふ顏に二種類ある。こつちにsinnlich な心もちを起させる顏と、顏そのものが sinnlich な顏と。――電車の中の顏は皆後者である。
帝劇でもいやな奴に沢山あつた。貧乏ないやな奴よりは、金のあるいやな奴の方が余程下等な氣がする。
みんなからよろしく 四月十四日午後
附記 「芥川龍之介全集」の第七卷は「書翰」と題して総計一千一百四十一通の故人の書信を收錄してゐるが、右に載せた書信は收錄されてゐない。実は、全集刊行の当時、故人からの來簡の全部を書き寫して送ることが出來なかつたので、第七卷に收錄されなかつたものが残つたわけである。
[やぶちゃん注:恒藤は凄い! 芥川龍之介の書簡は貸出せずに、書き写して岩波書店の全集編者に送っていたのか? 確かに、編集作業中に原稿や書簡が紛失する事故はよくあったし、内容的に公開を憚る箇所もあったからかも知れず、また、何より原書簡を恒藤が大事なものという意識があったのであろう。しかし、書写したというのは……「凄い」と思うのは私だけだろうか?]
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