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2023/01/11

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その37) /「三十七 入学当初のころの菊池寬のこと」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。

 文中の人名注は、比較的知られていないかとも思われる人物のみに限った。]

 

        三十七 入学当初のころの菊池寬のこと

 

 一高時代のクラスメートの中で私が一ばん初めに知り合ひになつたのは、菊池寬であつた。

 と云ふわけは、入学試驗の際に、たしか学課試驗が終つた後に身体檢査があつたときに、 私は丁度菊池寬の次の順番に当つたので、その時にお互ひに言葉を交へたからである。彼はそのころから既に後年における風貌とあまり変りのない顏つき、からだつきをしてゐた。一見したところ、口の周圍から顎にかけて髭が生えて居り、眼鏡の奥からショボショボした眼つきでまともに人を見る顏つきが、怕しい[やぶちゃん注:「おそろしい」。]やうな、それでゐて妙にクシャクシャとしてゐるやうな感じがして、ほかの受驗生たちよりもずつと老成した人らしく見えた。しかも、顏面とは反対に、胴や手足は女性的なまるみを帶びたからだつきをしてゐるのが印象的であつた。

 三帖とぢのノートにしたためた当時の日記を探し出して見たら、――九月十一日に牛込区内左内坂の下宿先を引拂つて、向が岡の寄宿寮に移つたのだが、九月十五日(第五日)のところには次のやうなことを書いてゐる。

 

 朝は数学だ。哲学科の者だけきくのださうだけれど、傍聽しても差支へなからうと思つてゆく。(註・そのころ英文科の中でも將來大学で哲学をやりたい志望の者は幾分ちがつた取りあつかひを受けてゐた。)例の髭先生(菊池君)がきてゐる。

 「やあ、君は哲学科ですか」と問ふと、「いいえ」とわらふ。

 「傍聽しても差支へないでせうね。」

 「ははは、君はどの寮ですか。」

 「僕ですか。南寮の十番です。ついこの向うです。」

 「あ、さうですか。」

 「君はどこです。」

 「東寮の八番です。」

 「君は中学はどこですか。」

 「高松です。」

 「さうですか。高松はあつたかいでせうね。」

 「君はどちらです。」

 「島根縣松江の中学ですよ。」

 「さうですか。でも、ちつとも発音がわからない事はありませんね。」

 「え、僕は島根縣でも石見ですからね。」

 「あ、さうですか。僕たちの所へ松江から來て居た人があつたが、ちよつとも語がわからないんですね。」

 「君はいつから東京に居るんです。」

 「え、僕あ二、三年まへから居るんですよ。」

 やがて先生が來られる。(註・数藤敎授)氣になるほど眼をぱしぱしさせて、「どうも大変たくさん居られるやうですが、数学は哲学の方ばかりなのですが」と見まはされる。コソコソ五、六人出てゆく。そこで出欠をつけられる。哲学科のものだけだ。

 つけ終つて、

 「まだどうも多いやうですね。傍聽もいいですけれど、しまひ迄きいて貰はなくてはいかないです。それから傍聽する人はさういつて出てもらひたいのです。」

  誰だか立つて、

 「試驗されるのですか。」

 と問ふ。

 「さうです。」

 この答へにまた四、五人退却する。三、四人傍聴希望のむねをつげる。

 「今おきめにならんでもいいのです。けふ一時間きいて、そのあとで考へたのちおきめになつて頂きます。」

 「ええ、ここではその大学においでにあつてから哲学では微積分がいるさうですから、その初步をやるのです。それには代数や三角のさらへもやらねばならぬし、解析幾何の一部もやる事になるのですが、一年の間に一週二時間づつやるのだから中々重荷です。まづ微積分のほんの口の所までやるつもりです。」

 

[やぶちゃん注:さて。恒藤恭と菊池寛は果して「しまひ迄」「傍聽」したのだろうか? 恒藤は後に法哲学を修めたから、終えた感じはするが。

「牛込区内左内坂」(さないざか)は現在の新宿区市谷左内町(いちがやさないざかちょう:グーグル・マップ・データ)。

「数藤敎授」一高の数学教授で俳人・歌人でもあった数藤五城(すどうごじょう 明治四(一八七二)年~大正四(一九一五)年)。島根県松江市生まれ。本名は数藤斧三郎、別名を小野三郎(晩年の歌号)。理科大学数学科卒。一高数学教授として、晩年まで務めた。早くから正岡子規に俳句を学んだ。「五城句集」がある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]

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