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« 下島勳「芥川龍之介終焉の前後」 | トップページ | 死靈解脫物語聞書下(5) 顯誉上人助か㚑魂を弔給ふ事 »

2023/01/29

下島勳「芥川君の日常」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和九(一九三四)年二月二十八日の午後六時二十五分から中央放送局(当時の日本放送協会(NHK)の放送時の呼称)『趣味講座』で口演放送されたものを活字化したものである。後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。太字は底本では傍点「◦」。一部に注を挿入した。]

 

芥 川 君 の 日 常

 

 三月一日即ち明日は、芥川龍之介君が生きておりますと、四十三年の誕生日に當りますので、これから彼が日常生活の一斷面についてのお話をして、その俤を偲びたいと思ひます。

 芥川君と私の關係でありますが、それは同じ田端に偶然住むやうになり、醫者としての私はその職務上から彼が帝大卒業の年ごろから懇意となつたのであります。

 初め芥川君を知つた時分の私は、まだ野狐の臭さ味など取れきれない頃で、今から考えるととかなり變物に見えなたこでありませう。勿論今でも變物にかはりはありませんが――併し若い新進の文學者には、かヘつて其變物が或は興味を惹いたのかも知れません。尤も私といふ人間も、文學や美術にはまんざら趣味のない方ではなかつたから、親子ほど年は違つてゐましたが、よく話も合ひますので、忽ちの間に懇親になつてしまひました。――實を申しますと當時私としましては、何となく理想の中で求めてゐた人にでも、偶然逢つたやうな心特ちがしたのであります。

 さて懇意の度が深まるに隨つてそろそろ讀書を勸めて來るのでした。それは西洋各國小說の代表的傑作といふものでした。尤も嫌ひでないから若干は勿論讀んでゐたのです。初めはマアこれを讀んでごらんなさい。――これも讀んでごらんなさい。――といふやうなことでしたが、これを是非お讀みなさいになり、遂にこれを讀む必要がありますにまで發展して來たのです。もともと下地は好きなり御意はよしで、つい三四牟ばかりの中に、――こう申しては變かも知れませんが、ルネツサンス後の代表的小說と稱せられる飜譯書のあらましは讀んだことになつたんださうです。だからマア西洋文學に對する槪念を摑むことの出來たのは、全く芥川君の指導によつたわけでありまして、卒直に申しますと芥川といふ人はもの好な人物で、この老人に先づある程度の基礎的新智識を吹きこみながら、當時の文壇殊に自分の新作を味あはせ、一面自分の話し相手としたり、批評の聽き手としたり――といつたやうなことになるのではないかと思はれぬことはありません。この點からいふと私の先生だつたり柔順な友人だつたこいふこととになると思ひます。併しこれがために自分の抱いてゐた硏究が中止になつてしまひました。が、そんなことは勿論犠牲にして悔いないほどのほんとの魂の幸福を得たわけであります。

[やぶちゃん注:「自分の抱いてゐた硏究」医師としてのそれか? 下島は俳人井上井月の研究家としても知られているが、「芥川龍之介終焉の前後」の私の冒頭注で述べたように、井月は芥川も好きな俳人であったし、下島の「井月の句集」には芥川龍之介の跋文を貰うなど、寧ろかなりの益を受けているから、「中止になつてしまひました」という謂いはとてものことに当たらないと私は思う。]

 芥川君は天才とはいはれるほど、非常に優れた頭腦の持主でありました。それは如何なる程度に良かつたか? 勿論創作家或が學者としての芥川君は既に定評がありますが、端的な謂はゆる頭の良い具體的事実、たとへぱ讀書の速度及び其態度、記憶力及び想像力、感受性の異常等々につきましても興味のあるお話がありますが、今はさういふことには全然觸れません。

 一體聰明をもつてきこへた然も江戶つ子の芥川君に、洒落氣と皮肉の伴なうのは不思議はありませんが、それでゐながらばかばかしいほど間の拔けたそそつかしいところもあり、またまた冷徹の理智家と評判の高かつた彼が、案外惡戲づきの茶目さんで、さながら子供のやうな一面のあつたことをご存じない方が多くはなからうかと思ひますので、今回は主としてこの方面の實例についてお話したいと思ひます。

 彼の處女出版卽ち羅生門が出ました大正六年九月のある晚のことです。私のところの碌でもない藏幅を見に來られて、座蒲團の上に落着かれたかと思ふ時分に、玄關で婦人の聲がしたのです。書生が飛び出して來意を尋ねますと『只今こちら樣へ髮の毛の長いお方がお出ではござりませぬか』と、さも氣まり惡さうにいふので、書生は勿論芥川氏のことだと合點し『何かご用ですか』と尋ねると、『失禮ですが莨[やぶちゃん注:「たばこ」。]のお錢を戴きませんので』と、もぢもぢしてゐたさうです。書生は早速それを取次いだので、狼狽した彼は玄關へ飛んで行つて代價を仕拂ひ、スマナイスマナイと云ひながら座敷へ戾り、『どうもこのごろ莨を買つて錢を拂はんことがチヨイチヨイあつて困る』といふから、私は『その替りおつりを取らんこともチヨイチヨイあるでせう』といつて笑つたことでありました。

 これは大正九年の春のことです。有樂座で畑中蓼坡、奧村博史君たちが、メーテルリンクの靑い鳥を演じたとき二人で見に行つての歸りでした。何でもキリストの話をしながら田端の庚申さまの邊まで來たと思ふころ急に話を中止してしまつた。そして懷ろへ手を差しこんで腰をひねりながら變な恰好をしてゐるのに氣はついたのですが、一足お先ヘ步き出してゐたので後から急ぎ足の彼は突然『今私が何をしてゐたか知つてゐますか』といふから、『下腹でも搔いてゐる恰好でしたよ』といふと、『實はね、下帶がはづれかゝつたから懷の方へたくし上げてゐたんです』といつてすましてゐました。キリストの話もそれ切りで、夜の十二時ごろお別れしたのでした。

[やぶちゃん注:この観劇は不詳(芥川龍之介の年譜に載らない)。「畑中蓼坡」(はたなかりょうは)は演出家・俳優で、後に映画監督となった。先に不詳としたが、当該ウィキによれば、確かに、大正九(一九二〇)年二月、『民衆座の水谷八重子主演、石井漠振付による』「青い鳥」の演出をしているから、これである。「奧村博史」は洋画家・工芸家で、平塚らいてうの夫である。舞台背景・装飾でも担当したものか。]

 それからこれは、大正十二年五月春陽會の第一回展覽會のときのことです。芥川、室生犀星、渡邊庫助などと同伴で見に行つたのですが、上野公園の入口即ち不忍よりの土堤に茂つてゐる、一寸八ッ手に似た葉の樹木を指して突然『この木の名を何といふのか當てゝみたまへ』ときた。皆面くらつて眼をパチクリやつてゐる。私もさて何の木かな――或は西洋種かも知れないぞと考へてゐるうちに『橡の木だよ。みんな田舍者のくせに駄目だね――ときた』[やぶちゃん注:「――ときた」は鍵括弧外であろう。]。一同啞然たりといつたかたちでありました。

[やぶちゃん注:「渡邊庫助」渡邊庫輔(くらすけ 明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)の誤記。作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。]

 マア斯ういつたやうなことが一寸得意だつたのです。だから、斯ういふやうなことを惡意に解釋した批評家などが、機智を弄するキザな技巧だ――などといつてましたやうですが、併し社會人の彼として斯んなことは、何の考へもない例の茶目式洒落に過ぎなかつたのです。

 これは大正十三年二月雨の降つた翌日でありました。足駄をはいた芥川君と當時牛込神樂坂の上の赤城神社の境内にある奧さんのお里の塚本家まで診察に行き、歸りに神樂坂の洋食屋で夕飯を食べてから、自動車で當時銀座にあつた書畫骨董の入札會などをやつてゐたポーザル[やぶちゃん注:ここの左ページ二行目。異様に印刷が小さいが、「ル」と判読した。]とかなんとかいふ處へ寄つて、落札してゐた俳畫の軸を受けとり、夕方から降り出し霙雪をくぐつて銀座の通りから電車に乘り、動坂停留場で下車するころは咫尺を辨ぜぬ東京では珍らしいほどの大吹雪となつてゐました。幸ひつい先の懇意な藥局へ飛びこんで傘を二木借り一本を芥川君に渡し、ホツとして行くこと六七步――私はふと鞄が手にないのに氣がついて、思はすアツと聲を出して振り向いたその刹那、何とも云はずにトンビの下からヅイと私の前ヘつき出しや。例のヅルさうな表情で、……註をするまでもなく電車へ置き忘れたのを後から持つて來てくれたのです。――傘を渡した時に出してくれるのが普通のやり口ですが、そこが彼の彼たるところで、私の一寸駭く樣子を見たかつたのです。まあ斯ういふ茶目さんでありました。――その翌日女中が足駄の交替に來ました。私も下駄のはき違へでは人後に落ちぬ名人ですが、この時は塚本さんを辭したとき先に外へ出た芥川君が間違へてゐるといふやうな彌次喜多を演じたものです。

[やぶちゃん注:「牛込神樂坂の上の赤城神社」現在の東京都新宿区赤城元町のここにある(グーグル・マップ・データ)。この当時、塚本家がここにあったことは、私は初めて知った。]

 これは大正十二年六月末の一寸暑い曰でありました。山本さん(有三)に新富座の中幕六代目の鏡獅子の見物に誘はれたので、田端の偶居に芥川君を待ち會せ、午後の五時ごろ動坂下から自動車を飛ばせ、新富座の左手二階の棧敷へ納まつたときは、仁左衞門の萱野三平が腹を切つて例の嗄聲をふり絞つてゐる所でした。

 鏡獅子は六代目得意中の得意の藝なので、勿論惡からう筈もなく、さすがの芥川君も、あの長い白頭の毛を振り廻すもの凄い獅子舞には非常に感心してゐるやうでした。その時分聊か仕舞の稽古をしてゐた私は、能樂の石橋[やぶちゃん注:「しやくきやう」。]から脫化したこの獅子舞の型が、鍛練された腰の力によつて始めてあの重たい白頭を自由に振ることが出來るさうだと知つやかぷりを囁いたところが、『腰の力――腰のちから』と、低く口ずさみながら、ぢつと見いつてゐたのが一寸滑稽に思はれもしました。

 幕が引かれると早速樂屋へ行き、山本さんの紹介で芥川君もこのとき初めて菊五郞に逢つたのです。

 湯を使つて上つて來た――當時十八貫[やぶちゃん注:六十七・五キログラム。]以上といはれた菊五郞は、次幕の阿鬼太郞作、人情一夕話の大工辰五郞の顏を作るべく、挨拶もそこそこにあの偉大なお臀を我等に向けて鏡の前へ胡坐を据ゑ、話し好きで有名なほどあつて、顏を彩りながらも色々の話をした。山本さんが彼の臀部や太腿に触れて見ろといふから、私は一寸さはつてその緊張度に駭いたりしました。

 この日の私は、餘り着たことのない昔流行つた縞絽の羽織を着て出かけたのですが、宅を出た頃から頻りに私の羽織に見とれてゐるらしい芥川君に氣がついた。

『どうもイイね――山本君。いま斯んなイイ柄ゆきのものは何處を探してもありやしない』

 などと云つていたが、谷田橋へ差しかゝつたころ、

『先生――甚だすまないが、この羽織を僕に吳れませんか?』

 といふのでした。私も突然のことで一寸まごついたが、それが冗談ではないらしいので――

『イヤお易い御用だ。早速進呈しませう。――これは大分前の流行品で、然も柄が若くて私のやうな老人にはもう一寸氣恥かしくなつたから滅多に着ないのだがちようど季節ものでもあり、芝居見といふのだから今日はひとつ精々若返つて着て來たのですよ。成るほどスタリといふ物はないといふが、とんだイイ貰ひ手にありついて、羽織も運がイイし第一私が仕合せだ』

 といつたところが、まるで兒童か何かのやうに喜んではしやぎきつたあの稚氣滿々の芥川君が、まだ私の眼の前に彷彿します。山本さんが若しこの話をお聽きになられたら、恐らく同じやうに感淚の新たなものがあらうと思はれます。

 羽織は翌朝早速お屆けしあ。縫ひなほされて非常によく似合ふ芥川君の着姿にも幾度か接したのであつた。が、今は遺物となつて同家に保存されてゐるのです。

 この返禮といふ意味かどうかは判らぬが兎に角、その年の暮に大彥で作らせた袴を一着贈られました。その奉書の包み紙に――

  たてまつるこれの袴は木綿ゆゑ絹の着ものにつけたまひそね

 といふ歌が書いてゐつ梵。當時これは面白いと思つてゐたのですが、粗忽な私は何處ヘどうしたのか行衞不明になつたので、甚だ殘念に思つてゐました。ところが、ほど經てふと押入れの反古籠の中から水引のかかつたままのそれを發見して、且つ駭き且つ喜んだことでありました。今は茶掛けの軸に仕立て袴とともに追憶の紀念となつてゐます。

      お も か げ

   なで肩の瘦せも縞絽の羽織かな

――といふ私の句があります。

 芥川君は私が鄕里の信州から送つてくる食ぺものなどを贈つたり、或は今田舍へ行くと松茸や栗の季節だ、天龍川の鮎はうまいなどと鄕里の噂でもすると、。いつでも機嫌がよろしくない、そして斯ういふのです。『あなたは故鄕があるから羨やましい。私には故鄕といふものがない。實に寂しい。よくあなたは故鄕から柿が來たとか何が來とか云つて物を下さるが、時として一種の反感さへ起きる』といふのです。『オヤ變だね、あなたは東京といふ立派な故鄕があるではありませんか』といふと、『イヤ東京は故鄕といふ感じが少しもない。東京などといふ處は決して故鄕とは思はれない。』と强くいふのでありました。

 芥川君は寂しがりやの人戀しやでありました。小穴隆一君なども藝術的理解のほか、このÅ人戀しさの話し相手が、あの親密な交友關係にまで發展したものと解するのが至當かと思はれます。自分の好きな客なら隨分忙しい時でもよく逢つたものです。我々もご家族の診察などすませて逢はずに歸らうとする時でさへ、忙しい中から聲を聽きつけて、マア三十分話して行けといふ、三四十分立つたから歸らうとすると、もう三十分とくる。こん度は原稿は明日の晩までに書けばイイから灯のつくまでとくる。そしてどんなに忙しくても僕は夕方書けないからといふのでありました。夜などこの三十分で隨分おそくまで更す[やぶちゃん注:「ふかす」。]ことがあつたのです。併し非常に忙しい時などは玄關へ面會謝絕の貼り紙を出したことは云ふまでもありません。またこの頃は非常に忙しいやうだからと遠慮して數日訪問しないと、暫く來なかつたが何か變つた事でも出來たのかなどと、一寸厭味に近いことさへ云ふのでありました。

 彼は一寸をかしいくらひ常に私を强いものにしてゐました。――その實特別强くも何ともない私を。尤も私が夢の中の怪物と格鬪した話をしたらそれをひどく感心して、菊池寬氏なんかにまで吹聽しらものです。ところが大正十五年の春私の娘が死んだとき、私が泣いたことに一種の味でも感じてゐたものとみえまして、翌年即ち自決の年の四月ごろ『先生あの時は中々結構でした。――あれでイイ』などと、まるで俳優のしぐさでも褒めてゐるやうなとをいふのでした。――平常强いと信じてゐる私の淚を見て氣の優しい芥川君が、 やはり自分と違つてゐない私を感じたとでもいふ意味だつたかも知れません。それは兎にかく、平常菊池は强いく强いといつてゐたが、彼が終焉の日や葬儀の日の菊池氏が聲淚ともにくだるといふあのありさまを何處からか眺めてゐて、『君中々結構だよ――それでイイ』など云つたと假定したら、果してどんなものでせう。

 私は震災前、何だか都會生活が厭やにもなりまた家事の都合もあつたので、鄕里へ引込まうかと思た[やぶちゃん注:ママ。]ことがありました。その時意中を打ちあけたところが非常なけんまくで『そんなことをしてくれては僕は勿論僕の一家が困る。それは是非思ひ止まつてください』と顏色を變へたものでした。家事上の都合もあるからと云ふと、『信州の一平民が東京へ移住出來ない理由がない』などと丸で暴君のやうな髙飛車をきめこんだことがあります。それが子供の死んだとき室生犀星君に、『先生はこん度こそ田舍へ引込まれるかも知れない』といつてゐたさうです、[やぶちゃん注:読点はママ。]ところが其後心氣も一轉し、また家事の都合も必ずしも私の故鄕を必要としないことになつたのですが、自決の年の三月頃かと思ひます。何かの話の切つかけからか忘れましたが、『先生は田舍が好きならもう引込まれても差支ヘがない』などといふてゐたのです。これはもう私が田舍へ引込をまぬといふことを承知してゐながら、一寸茶目氣分から漏らした言葉であらうと思ひますが、併しこの時分の茶目氣分には既に齒車式悲痛の匂ひがします。

 芥川君の莨好きもまた有名なものでしたが、かくいふ私も芥川君に一步も讓らん莨好きだつたのです。あるとき芥川君に僕も止めるから貴君も止めないかと勸めたことがありました。すると私が止めるなら止めてもイイといつてゐましたが、私も斷然止めるほどの勇氣が出ずに一年以上も過ごしました。併し私は非常な勇氣を奮つてとうとう[やぶちゃん注:ママ。]やめ同時にその話しをすると、とぼけたやうな顏をして、『僕は酒も飮まず他に大した嗜好もない。今莨をやめては何の樂しみもないから、これだけは許してください』と泣かんばかりに哀願するのでした。

 晚年の芥川君は、見やうによつては睡眠藥と莨の刺戟で創作をつづけてゐたといつても過言でないほどなので、無理とは知りながらも、あまりに喫し過ぎるのを見かねて忠告すると、『好きなものをやめるなんて慘酷だ。あなたは好きなものをやめたが、それは卑怯といふものだ』などと逆襲するのでした。

 また私が若いころある責任感から自殺しようとした秘話があつて、それには非常な興味と同情をもつてゐてくれましたが、晩年には『それは體力的に助かつたのです』などと言ひ、『若し其時死んでゐたらどうだつたでせう』などと冷淡な皮肉をいふやうになり、終には『實行しない自殺談なんか有難いものではない。恰も自殺しない厭世論と同じことだ。』などといふやうになつたのであります。つまり、あれほど惧れた犬さへこはくなくなり、あれほど尊敬した芭蕉の筆蹟を見ても感興を惹かないといふやうな悲しい狀態となつたのです。

 實は今夕斯ういふことには觸れないつもりでしたが、一寸觸れましたからこれだけのことを申したいのです。當時醫者として老友としてまた藝術及び藝術生活の理解者として、芥川君に對する苦衷が單に煙草や睡眠藥に止まらなかつたといふことを御諒察願ひたいのであります。

 ――時間も迫つてまいりましたから。明るい季節の趣味談を一つしてご免を被らうと存じます。

 今芥川家のお座敷の床に黃檗高泉の梅といふ字を書いた季節の茶掛が、漱石先生の風月相知の額と斜めに相對してかかつてをります。これはどんな茶室へ掛けても立派にをさまる品位ある中々イイ軸であります。この軸は大正八年の二月、ある靑年畫家が人から賴まれ私に買つてくれといつて持つて來たのですが、芥川君の懇望でお讓りしたものであります。それは芥川全集書翰篇二五一の私宛の手紙の末に『御話の高泉の書小生などの手にも入ものに候やこれまた伺上候』のそれであります。當時既に盛名の降々たる芥川君でありましたが、たかが、といつては高泉禪師に失禮ですが、『小生などの手に入るものに候や』といつてゐるところに其ウブさが知られるのであります。そして非常に安値に手にはいつたので、これまで非常に喜ばれたのであります。後にはこの道の趣味も中々發展されましたが、この高泉の軸は芥川君自身として掛物を買はれたイの一番卽ち最初のものでありまして、私には殊に印象の深いものであります。――ではこれで終りとします――。ご淸聽を感謝します。

  (昭和九・二・二八・午後六・二五・中央放送局趣味講座口演)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは下インデントでややポイント落ちであるが、引き上げた。

「黄檗高泉」(おうばくこうせん 一六三三年~元禄八(一六九五)年)は江戸前期の渡来禅僧。福建省生まれ。「高泉」は道号、法諱は「性潡」、別号に「雲外」「曇華道人」。隠元の法嗣慧門如沛(えもんじょはい)の法を嗣ぎ、隠元七十歳の賀に渡来した。塔頭法苑院に住し、金沢の献珠寺や、伏見の天王山仏国寺を開山、次いで、宇治黄檗山万福寺第五代住持となった。当該ウィキが編年体で詳しく書かれてある。この「梅」の掛物は私は見たことがない。

「漱石先生の風月相知の額」『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』に同書の写真を掲げてある。]

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