恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十四) (標題に「一三」とあるのは誤り)
[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。
各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]
一三(大正四年二月二十八日 田端から京都へ)
ある女を昔から知つてゐた。その女がある男と約婚をした。僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐる事を知つた。しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかつた。それからその女の僕に対する感情もある程度の推側以上に何事も知らなかつた。その内にそれらの事が少しづつ知れて來た。最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知つた。
僕は求婚しやうと思つた。そしてその意志を女に問ふ爲にある所で会ふ約束をした。所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された爲に、時が遲れて、それは出來なかつた。しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は與へられた。
家のものにその話をもち出した。そして烈しい反對をうけた。伯母が夜通しないた。僕も夜通し泣いた。あくる朝むづかしい顏をしながら僕が思切ると云つた。それから不愉快な氣まづい日が何日もつゞいた。其中[やぶちゃん注:「そのうち」。]に僕は一度女の所へ手紙を書いた。返事は來なかつた。
一週間程たつてある家のある会合の席でその女にあつた。僕と二、三度世間並な談話を交換した。何かの拍子で女の眼と僕の眼とがあつた時、僕は女の口角の筋肉が急に不随意筋になつたやうな表情を見た。女は誰よりもさきにかヘつた。
あとで其処の主人や細君やその阿母さんと話してゐる中に女の話が出た。細君が女の母の事を「あなたの伯母さま」と云つた。女は僕と從兄妹同志だと云つてゐたのである。
空虛な心の一角を抱いてそこから帰つて來た。それから学校も少しやすんだ。よみかけたイヷンイリイッチもよまなかつた。それは丁度ロランに導かれてトルストイの大いなる水平線が僕の前にひらけつゝある時であつた。大ヘんにさびしかつた。五、六日たつて前の家へ招かれた礼に行つた。その時女がヒポコンデリックになつてゐると云ふ事をきいた。不眠症で二時間位しかねむられないと云ふのである。その時そこの細君に贈つた古版の錦繪の一枚にその女に似た顏があつた。細君はその顏をいゝ顏だ云つた。そして誰かに眼が似てゐるが思出せないと云つた。僕は笑つた。けれどもさびしかつた。
二週間程たつて女から手紙が來た。唯幸福を祈つてゐると云ふのである。其後その女にもその女の母にもあはない。約婚がどうなつたかそれも知らない。芝の叔父の所へよばれて叱られた時に、その女に關する惡評を少しきいた。
不性な[やぶちゃん注:ママ。「無精(ぶしやう)な」の誤った慣用表現。]日を重ねて今日になつた。返事を出さないでしまつた手紙が沢山たまつた。之はその事があつてから始めてかく手紙である。平俗な小說をよむやうな反感を持たずによんで貰へれば幸福だと思ふ。
東京ではすべての上に春がいきづいてゐる。平靜なる、しかも常に休止しない力が悠久なる空に雲雀の声を生まれさせるのも程ない事であらう。すべてが流れてゆく。そしてすべてが必[やぶちゃん注:「かならず」。]止るべき所に止る。学校へも通ひはじめた。イヷンイリイッチもよみはじめた。
唯、かぎりなくさびしい。
二月廿八日 龍
[やぶちゃん注:失恋――見方を変えれば――芥川家の強烈な反対による――民俗社会的破局――の側面も強い吉田彌生との破談の一件を、芥川龍之介が初めて、親友であった著者に詳らかに明かしたもので、芥川龍之介書簡の内、超弩級に重要な一本である。この心傷(トラウマ)は恐らく芥川龍之介の全生活史の中で、実母の精神的欠損に次いで、対人関係(特に女性)に対する思惟についてコペルニクス的転回を与えてしまった事件であった。思うに、芥川龍之介の、この後の彼の短い生涯の中での、夥しい女性関係を引き起こすことになるその根っこは、ここにある。彼の慢性的なPTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)の反側的症状として、龍之介は出逢う女性に反射的に暗示的示唆的モーションをかけて惹き込ませ、恋愛関係を〈模造〉し、而して、同時にそれに神経症的に苦しむことになるという事態を、複数の女性との間に繰り返すことになったのである。或いは、この時のトラウマが、龍之介の中に、『自分は必ず女を虜にすることが出来る、出来ねばならない』という倒立した関係妄想を、終生、形成させたのだとも私は考えている。原書簡は「芥川龍之介書簡抄35 / 大正四(一九一五)年書簡より(一) 井川恭宛 龍之介の吉田彌生との失恋告白書簡」で詳細に正規表現で電子化注してあるので参照されたい。
なお、発信地が「田端」に変わっている。この四箇月ほど前の前年十月末、芥川家は新宿の実父新原敏三所有の家から、新築した東京府北豊島郡滝野川町字田端四三五番地(現在の北区田端一丁目のここ。グーグル・マップ・データ)に転居していた。芥川龍之介の終の棲家となった。]
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