恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その36) /「三十六 私たちのクラス」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。
文中の人名注は、比較的知られていないかとも思われる人物のみに限った。]
三十六 私たちのクラス
「同級生」といふものに何かしら特殊の親しみを感ずると云ふのは、おそらく大ていの 人々に共通な心理だらうと思う。曾ての同級生であつた人に出会ふと、その人をはじめその他の者たちと共に幾ばくかの年月のあひだを過ごした学校時代のことが漠然と意識の底から浮き上りさうなけはひが感せられ、過去における自分みづからの生涯の一と区切りとつながりを持つて現れた相手の人の上に、自分みづからの過去をなつかしむ感情を投射しようとするからではなからうか。
私自身の場合について云へば、小学校時代の同級生であつた少年少女たちの中の幾人かについては、今でもかなりはつきりした記憶をもつてゐるけれど、彼らが現在でもなほ生存してゐるかどうかも分らない。中学校時代のクラスメートの中で比較的親しかつた者たちは、おほむね死んでしまつたやうであるし、その他の者たちの消息もわからなくなつた。さすがに大学生時代の同級生については比較的によく消息のわかつてゐる人々が多いけれど、なにしろ私の属してゐた法科は学生の数が多かつたので、同級生の全体が一つのまとまつたクラスメートの集團をかたちづくつてゐたといふ感じが稀薄である。ところが、高等学校時代にあつては、四十人足らずの数の靑年たちが同一のクラスをかたちづくりながら三年間を過ごしたものであるし、卒業後におけるその人々の消息も槪して割合によくわかつてゐるので、その時代のクラスメートは、私にとつては如何にもクラスメートらしく感ぜられるのである。
私は明治四十三年の九月に一高の英文科に入学したが、それは第一部乙類とよばれてゐ た。そのクラスにはたしか三十六、七人の生徒がゐたと記憶してゐるが、その中の十人ばかりは、有名なドイツ語の敎授岩元先生のきびしい採点のために落第した人たちで、山本有三、土屋文明の両君などもこのダループに属してぬた。残りの新入生の中で八人は無試驗で入学した人たちであつた。(当時は各地の中学校から推薦された成績優秀の者につき、高等学校で銓衡を行ひ、無試驗で入学を許可する制度が行はれてゐた。)旱く亡くなつた佐野文夫はその一人であつたし、芥川龍之介及び現在の人としては久米正雄、長崎太郞の両君などもこのグループに属してゐた。第三のグループ、つまり試驗を受けて新しく入学した者たちの中には、菊池寛、成瀨正一、石田幹之助などの人々がゐた。私自身もその一人であつた,松岡讓君も無試驗入学者の一人であつたかと思ふが、いくらか記憶があいまいである。
いろいろと特色のあるクラスだつたが、なかんづく山本有三、土屋文明、芥川龍之介、 久米正雄、菊池寬、松岡讓と云つたやうに、後年作家として重きを成すに至つた人々、また成瀨正一、佐野文夫のごとく其れに準ずる人々を包容してゐた点において、著しい特色のあるクラスだつた。
だが、曾てのクラスメートの中で、私が確実に知つてゐるだけでも、四分の一ばかりはすでに此の世の人ではないが、この春のはじめに菊池寬がその一人に加はつた。
[やぶちゃん注:「明治四十三年」一九一〇年。
「岩元先生」岩元禎(てい 明治二(一八六九)年~昭和一六(一九四一)年)。一高のドイツ語及び哲学担当の教授。士族の長男として鹿児島県に生まれ、明治二二(一八八九)年に鹿児島高等中学造士館を卒業後、明治二十四年に第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科を卒業し、明治二十七年の東京帝国大学文科大学哲学科(ラファエル・フォン・ケーベルに師事)卒業後は、大学院に在籍しつつ、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。明治三二(一八九九)年から第一高等学校でドイツ語を教えたが、極めて採点が厳しい名物教授として知られ、安倍能成や山本有三らは、岩元の採点によって落第の憂き目を見た学生であった。学習院高等科時代の志賀直哉に家庭教師としてドイツ語を教えていたこともあったという。一高では、哲学の授業も担当し、授業の冒頭で述べ、且つ、教科書の表紙に書かれていた自身の言葉に「哲學は吾人の有限を以て宇宙を包括せんとする企圖なり」がある。著書に「哲学概論」(没後の編)がある。以上は彼のウィキに拠った。そこでも一説としてあるが、岩波新全集の関口氏の「人名解説索引」にも、かの夏目『漱石の「三四郎」の広田先生のモデルとされる』とある。
「銓衡」「選考」に同じ。
「佐野文夫」後の戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部佐野文夫(明治(二五(一八九二)年~昭和六(一九三一)年)。「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」の私の注「佐野」を参照されたい。
「長崎太郞」(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)。高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)出身。京都帝国大学法科大学を卒業後、日本郵船株式会社に入社し、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集、特に芥川龍之介も好きだったブレイクの関連書の収集に力を入れた。帰国後に武蔵高等学校教員となった。昭和四(一九二九)年、京都帝国大学学生主事に就任、昭和二〇(一九四五)年、山口高等学校の校長となって山口大学への昇格に当った。昭和二十四年には京都市立美術専門学校校長となり、新制大学への昇格に当り、翌年、京都市立美術大学の学長に就任している。
「この春のはじめに菊池寬がその一人に加はつた」芥川龍之介の盟友にして文藝春秋社を興し、芥川賞・直木賞・菊池寛賞の創設に携わった、男気のある作家菊池寛は、本編の初出の昭和二三(一九四八)年の春三月六日に狭心症の発作を起こし、白玉楼中の人となっていた。満五十九であった。以下に続く二章は菊池寛の追想に当てられてある。]
« 恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その35) /「三十五 俳人としての芥川龍之介」 | トップページ | 恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その37) /「三十七 入学当初のころの菊池寬のこと」 »