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2023/01/17

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十二) (標題に「二一」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    二一(大正六年八月二十九日 鎌倉から京都へ)

 

 御無沙汰した。

 雅子さんも相不変御壯健な事と思ふ。僕は暑中休暇を全部東京で費した。赤木の桁平さんと京都へ行くつもりだつたが、向うにある事件が始まつたので、行けなくなつた。松島見物にゆく計画もあつたが、矢張おじやんになつた。

 東京では每日本をよんだり、ものを書いたりして甚だ太平に消閑した。消極的に屋内にばかりゐたから、芝居とか何とか云ふものには一向足を入れなかつた 人にもうちへ來たお客のお相手をした丈で、諸方へ甚御無沙汰をした。每日暑い思をして橫須賀の町をてくてく步いてゐたあとだから、東京の暑さも大して苦にならなかつた。胃の具合も大へんに好い。槪して鎌倉住みになつてから、体が丈夫になつたやうだ。

 來年の三月頃鎌倉へうちを持つ筈だが、まだ漫然とした予想だけで、少しも確実にはなつてゐない。しかし下宿生活は心そこから嫌になつた。

 実は学校もやめてしまつて閉靜に暮したいのだが、いろんな事情がさう云ふ事を許さない。花に浣いだり[やぶちゃん注:「そそいだり」。]、本を讀んだりしてばかりゐられたら、さぞ好いだらうと思ふが、思ふだけだから悲惨だ。僕は元來東洋的エピキュリアンだからな。この間も支那人の隠居趣味を吹聽した本を讀んで、大に同情した。

 東京でぶらぶらしてゐた間に義理でつくつた俳句を御らんに入れる。これを臆面もなく画帖や扇子へ書きちらかしたんだよ。

   論して曰牡丹を以て貢せよ[やぶちゃん注:「論」はママ。原書簡では「諭」である。これでは句意がおかしくなる。恒藤恭の判読の誤りか、誤植である。]

   あの牡丹の紋つけたのが柏莚ぢや

   牡丹切つて阿嬌の罪をゆるされし

       ×

   魚の目を箸でつつくや冴返る

   後でや高尾太夫も冴返る

   二階より簪落して冴返る

       ×

   春寒やお関所破り女なる

   新道は石ころばかり春寒き

       ×

   人相書に曰蝙蝠の入墨あり

       ×

   銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ

 あとは忘れちまつた。

    八月廿九日            芥 川 龍 之 介

 

[やぶちゃん注:最後の署名は、底本では四字上げ下インデント。本原書簡は未電子化であったので、昨夕、「芥川龍之介書簡抄156 追加 大正六(一九一七)年八月二十九日 井川恭宛」として電子化注しておいたので参照されたい。

 なお、句については、既に、私が強力な句「餓鬼」となって蒐集したオリジナルの「芥川龍之介俳句全集」(こちらで全五巻)の各所で注しているが、ここで少し纏めておく。まず、この十句は俳人芥川我鬼誕生前のプレ作品群で、一句も最後に自らが厳撰した句群(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」)には含まれていない。これらの句の半分は、過去に見た歌舞伎見物のシークエンスを素材としているものと私は推察する。

「諭して」「さとして」。「教え導いて」。後の「貢」は「みつぎ」。ここは風流者・隠者の嘯(うそぶ)きのポーズであり、ここに出る「牡丹」は歌舞伎役者市川団十郎家において二代目以降の花とされているものであり、これは二代目の贔屓方であった江戸城大奥方の女性が彼に送った着物の柄が牡丹であったからとされることを受けて一句を構築したものと私には思われる。

「柏筵」(はくえん)は二代目市川団十郎(元禄元(一六八八)年~宝暦九(一七五九)年)の俳号。彼はかの蕉門の榎本其角との交流もあった。

「阿嬌」は一般には「美人」の普通名詞であるが、ここは漢籍に詳しかった芥川龍之介なれば、その語源である陳阿嬌を指しているように思われる。阿嬌は、漢の武帝の皇后で、大変な美人あったが、武帝より十六歳年上な上に、房事に無関心であった。そのため、武帝も彼女のもとには通わなくなってしまい、代わりに阿嬌の姉の平陽公主、次いで衛子夫(えいしふ)を愛するようになってしまい、後、子のなかった阿嬌は皇后を廃されてしまい、衛子夫が皇后となったいわくつきの悲劇の美女なのである。この句の「罪」は、その房事無関心の罪であり、それへのオマージュとしてのイマジナルな映像であろう。

「冴返る」時季外れの春の季題「冴返る」(春先、暖かくなりかけたかと思うと、再び、寒さがぶり返すことを言う)であるが、この語、芥川我鬼が非常に偏愛した語で、多くの句で頻繁に使用されている。なお、芥川は必ずしも同期的に句を作ることにはあまり拘らず、時に無季と思われる句も読み、新傾向の非定型句や、さらに自由律俳句と見まごう句も一時期には見られる。

「高尾太夫」は、江戸時代の新吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたと言われているが、いずれも京町一丁目三浦屋四郎左衛門方のお抱え遊女であった。ここはそれをシンボライズした一句と思われるが、芥川龍之介の晩年の名随想「本所兩國」(昭和二(一九二七)年五月『東京日日新聞』夕刊に全十五回で連載。リンク先は私の古いサイト版電子化注)の『乘り繼ぎ「一錢蒸汽」』の中で、

   *

駒形は僕の小學時代には大抵「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と發音するやうになつてしまつた。「君は今駒形(こまかた)あたりほとゝぎす」を作つた遊女も或ひは「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の聲に響かせたかつたかも知れない。支那人は「文章は千古の事」と言つた。が、文章もおのづから匂を失つてしまふことは大川の水に變らないのである。

   *

と述懐しており、この句を詠んだ、知られた悲劇の二代目高尾太夫の伝説をイメージしていたのかも知れない。以上に句は万治二(一六五九)年に彼女が伊達綱宗に贈った句とされるものだが、俗説では、高尾は熱心に通う綱宗を徹底して振り続け、結局、彼に惨殺されてしまい、これが「伊達騒動」の火種となったとされる。

「二階より簪落して冴返る」簪(かんざし)を落とすというシーンはないが、私は若き日にこの句を読むに、直ちに「曽根崎心中」のお初が吊行灯を消すと同時に階下に落ちるシークエンスを思い出していた。

「新道」単なる思いつきだが、当時の東京で最も知られた「新道」の名のつくそれは、「食傷新道」(しょくしょうじんみち)である。現在の中央区日本橋一丁目附近で、今は完全な高層ビル街に変貌して往時の印象は全くない。悲惨な大火で知られる「白木屋」は後に「東急百貨店」となり、更にその跡地に現在は「コレド日本橋ビル」があるが、ここにあった細い通りが、「白木屋の横町」「木原店」と呼ばれ、左右共に美味の評判高い小飲食店が目白押しに建ち並んでいた。ここは江戸時代、文字通り、「通一丁目」として、江戸で最も繁華な場所で、明治になってもその面影が残っており、東京一の飲食店街として浅草上野よりも知られた通りであった。俗に「食傷通り」「食傷新道」などとも呼ばれた。「宇野浩二 芥川龍之介 十 ~ (1)」(私の古い分割ブログ版)で、宇野と芥川がここある「中華亭」で食事をしつつ、『聞きとれないような低い声で、「どうも、この家(うち)は、僕には、『鬼門(きもん)』だ、」と、云った。』という、すこぶる印象的なシーンが出る。

「蝙蝠の入墨」言わずもがな、「お富与三郎」で知られる「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」の「源氏店」蝙蝠安の場面を素材とする。蝙蝠安は、ならず者で、頰に蝙蝠の刺青をしている。

「銀漢」天の川。やはり彼が句で好んだ語である。]

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