死靈解脫物語聞書 電子化注始動 / 死靈解脫物語聞書 上(1) 累が最後之事
[やぶちゃん注:「死靈解脫物語聞書(しりやうげだつものがたりききがき)」は初刊本は元禄三年十一月二十三日(グレゴリオ暦一六九〇年十二月二十三日)に江戸本石町山形屋吉兵衛開版の上・下巻の仮名草子で、下総国(しもうさのくに)羽生(はにゅう)村(現在の茨城県常総市羽生町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ))で、慶長一七(一六一二)年から寛文一二(一六七二)年)までの六十年に亙る、子殺し・妻殺しから始まる親子三代の悪因果の結果として発生した「累(かさね)」(承応から寛文(一六五二~一六七三)頃の存命とする)という女の死霊(しりょう)の憑依事件を、江戸時代最強のゴースト・バスターとして知られる浄土宗の名僧祐天(正字は「祐天」。歴史的仮名遣「いうてん」、現代仮名遣「ゆうてん」。寛永一四(一六三七)年生まれで、享保三(一七一八)年没。享年八十二。陸奥国(後に磐城国)磐城郡新田村(現在のいわき市四倉町上仁井田(よつくらまちかみにいだ)生まれ。号は明蓮社顕誉。徳川綱吉・家宣らの帰依を受け、増上寺の第三十六世法主(ほっす)を継いで大僧正となった)上人が念仏称名によって解脱へと導く仏教説話の勧化(かんげ)本の体裁をとった怪談である。後に浄瑠璃・歌舞伎に仕組まれ、近世演劇で「累物(かさねもの)」と呼ばれる系統を形成し、近代では、落語家初代三遊亭圓朝(天保一〇(一八三九)年~明治三三(一九〇〇)年)によって、落語の怪談噺に作り替えられた「眞景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」が頓に知られる(初め、安政六(一八五九)年に創作され、当時の演目名は「累ヶ淵後日の怪談」であったが、明治二〇(一八八七)年から翌年にかけて、速記録が『やまと新聞』に掲載され、直後に単行本として出版された。因みに、「眞景」は表向きは「実景」で「実話・実説」の意だが、実は当時の欧米の文化移入の中で、霊現象なんぞというものは「神経」の起こすものという近代合理主義に基づく洒落が掛詞になっている。これは圓朝の隣家に住んでいて懇意にしていた漢学者信夫恕軒(しのぶじょけん 天保六(一八三五)年~明治四三(一九一〇)年:後に東京大学講師にもなっている)による発案とされる)。「眞景累ヶ淵」は私の大好きな噺である。
作者は、本文にも出るが、「殘壽」なる人物で、事績は不詳。但し、現在の研究では、祐天上人の直弟子(本文末に祐天の口述筆記を担当したと思われる記載がある)に当たる浄土宗の説教僧の一人であると目されている。
底本は「Wikimedia」にある初版本「死霊解脱物語聞書」(PDF)を視認した。但し、所持する国書刊行会の『叢書江戸文庫』第二十六巻の「近世奇談集成(一)」(高田衛・原道生編。国立国会図書館蔵本底本。私の以上の底本とは同じ年の版乍ら、表記にかなりの異同が認められる)に所収するものをOCRで読み込み、加工データとした。ここに御礼申し上げる。
可能な限り正字表現とするが、底本自体が崩し字なので、略字かどうか迷った場合は正字で示した。また、底本はかなりの読みが振られているが、ブログでは五月蠅くなるだけなので、若い読者を考えて、難読或いは読みが振れると判断したもののみに留めた。歴史的仮名遣の誤りが甚だ多いが、ママ注記をするとこれも邪魔になろうから、敢えて打たなかった。
なお、現在、大物の電子化物を抱えているため、章毎に分割し、注はストイックに附すこととする。句読点や記号は読み易さを考えて『江戸文庫』を参考にしつつ、かなり自由に変更・追加し、段落もオリジナルに成形した。読みの「(○/○)」は右/左の読みである。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。
因みに、ネット上には「国文学資料館」のこちらに同じ初刊本画像があり、底本は「ちり」の部分が詰まってしまって、読みが確認出来ないため、こちらで確認した。また、その末尾には手書きで、「法藏寺過去帳之寫(うつし)」や、「𥿻川累(キヌガハカサネ)ヶ淵(フチ)之啚」及び附記があり(「𥿻川」は「鬼怒川」の別字)、最後にこれを判読して載せたいと思っている。 また、かなり丁寧に電子化されたものが、「Wikisource」のこちらにあるが、一部の表記に疑問があり、また、私はオリジナルに注を附すことから、屋上屋の謗りはお門違いと存ずる。というより、この作品は三十五の時、一度も退屈を感じずに、一気呵成に読んだ、私の所持する数多の怪奇談の中では、頗る特異点の名作であることから、以前から電子化したかったのが、本音である。]
死霊解脱物語聞書 全
[やぶちゃん注:表紙題箋。]
死霊解脱物語聞書上
累が最後之事
過(すぎ)にし寬文十二年の春、下總國罡田郡(おかだこほり)羽生村と云(いふ)里に、与右衞門と聞ゆる農民の一子、菊と申娘に、かさねといへる先母(せんぼ/さきのはゝ)の死靈とりつき、因果の理(ことはり)を顯し、天下の人(じん)口におちて、万民の耳をおどろかす事、侍りしか[やぶちゃん注:私は「しが」の誤刻と思う。]、その由來をくわしく尋(たつぬ)るに、彼(か)の累と云女房、顏かたち、類ひなき𢙣女(あくぢよ)にして、剩(あまつさ)へ、心ばへまでも、かだましき、ゑせもの也。しかるに、親のゆづりとして、田畑(でんはた)少々、貯持(たくはへもつ)故に、与右衞門と云貧(まづし)き男、彼(かれ)が家に入甥(むこ)して、住(すみ)けり。
[やぶちゃん注:「寬文十二年」一六七二年。
「かだましき」「姧し・姦し」で「心が捩(ね)じ曲がっている・ひどくひねくれている」の意。]
哀れ成哉(かな)、賤きものゝ渡世ほど、恥がましき事は、なし。此女を守りて、一生を送らん事、隣家(りんか)の見る目、朋友のおもわく、あまり、ほゐなきわざに思ひけるか、本(もと)より、因果を辨(わきま)ふるほどの身にしあらねば、
『何とぞ、此妻を害し、異女(ことおんな)を、むかゑん。』
と、おもひ究めて、有日の事なるに、夫婦もろとも、はたけに出て、「かりまめ」と云物をぬく。
[やぶちゃん注:「かりまめ」「刈豆」。大豆刈りであろう。しかし、思うに、「豆」は女性(女性生殖器の陰核)の隠語であるから、ここで既にして殺害の雰囲気が淫靡に示されていると私は思う。「累物」の一つとして知られる清元の舞踊に「色彩間苅豆」((いろもやうちよつとかりまめ(いろもようちょっとかりまめ)がある。]
[やぶちゃん注:本シークエンスの挿絵左右二枚。底本には挿絵はなく、これは所持する前掲の国書刊行会の「近世奇談集成(一)」に挿入された東京大学総合図書館蔵本のそれをトリミング補正した。枠外は清拭したが、絵の内部は、一切、手をつけていない(因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である)。キャプションがある。右の図は、中央に、
「羽生(はにう)村」
右中央に、
「与右衛門」
左中央やや下に、
「かさね」
左下下方に、
「きぬ川」
で、左の図では、右上に、
「所のもの
見て
ゐる」
右中央やや下に、
「与右衛門急に彼
かさねを
川へ
しづめる」
とあるか。一行目後半「急に彼」(きふにかの)は自信がない。なお、前に掲げた他のネット上のソースでは、挿絵自体が全くない。所持する高田衛先生の「江戸の悪魔祓い師(エクソシスト)」(一九九一年筑摩書房刊)を見ると、この挿絵は、現在、大洲市立図書館蔵の本書で、絵師は西村重長とあった。因みに、この高田先生の一冊は本作での祐天の活躍を皮切りとして、その他の彼の怪奇撲滅のさまを解析した優れた評論集で、是非是非、お薦めの一冊である。]
ぬきおわつて、認(したゝ)め、からげ、彼の女に、おほく、おふせ、其身も少々、背負ひ、暮近くなるまゝに、家地(いゑぢ)をさして歸る時、かさねがいふやう、
「わらわが負たるは、はなはだ、重し。ちと、取わけて持(もち)給へ。」
と、あれば、男のいわく、
「今少し、𥿻川邊まで、負ひ行(ゆけ)。彼(かし)こより、我、かわり持べし。」
と、あるゆへに、是非なく苦しげながら、やうやう、𥿻川邊(へん)にいたるとひとしく、なさけなくも、女を川中へ、つきこみ、男も、つゞゐて、とび入り、女のむないたを、ふまへ、口へは、水底(みなぞこ)の砂をおし込(こみ)、眼を、つつき、咽(のんど)を、しめ、忽ち、せめころしてけり。
すなはち、死骸を川にてあらひ、同村(どうむら)の淨土宗法藏寺といふ菩提所に負ひ行き、
「頓死。」
と、ことはり、土葬し畢(をはん)ぬ。
戒名は
「妙林信女 正保四年八月十一日」
と、慥(たしか)に彼(かの)寺の過去帳に見へたり。
[やぶちゃん注:「法藏寺」現在も羽生町にある浄土宗羽生山往生院法蔵寺。この寺には今も累一族の墓所が現存する(サイト「茨城見聞録」の「羽生山 住生院 法蔵寺と累の伝説|御朱印・祐天桜・累ケ淵」を参照されたい。画像もある)。東直近の鬼怒川に「累が淵」がある。
「正保四年八月十一日」グレゴリオ暦一六四七年九月九日。]
さて、其時、同村の者共、一兩輩(いちりやうはい)、累が最後の有樣、ひそかに是を見るといへども、すがたかたちの見にくきのみならず、心ばへまで、人にうとまる、よほど成ければ、
「実(げ)にも、ことわり、さこそあらめ。」
と、のみいゝて、あながちに男をとがむるわざ、なかりけり。
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