恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その15) /「十五 昭和二年の七月のおもひ出」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。]
十五 昭和二年の七月のおもひ出
芥川が此の世を去つた年――昭和二年の七月は、來る日も來る日もきびしい炎暑がつづいた。自殺の当日の七月二十四日も朝からかんかんと烈日の燃えかがやく日和であつたし、葬儀の行はれた七月二十七日もおなじやうに酷暑の一日であつた。
それ以來、何年振りかに暑さむきびしい夏がおとづれる度每に、芥川のなくなつた年のことを想ひ出すならひとなつた。ことしは六月のあひだは例年よりも凉しい日和がつづいたけれど、七月に入つてから気候が一変して、猛暑の夏の襲來を思はせるやうになつた。[やぶちゃん注:「ことし」初出の書誌情報と後に出る「二十四 人生と藝術」の末尾にあるクレジットから、これは昭和二二(一九五七)年と規定出来る。]
昭和二年のころには、まへにも一寸かいたやうに私は下鴨のただすの森の西側の家に住んでゐた。その年の七月二十四日の朝から夕方までの事は何一つ記憶してゐないが、夜に入つてから独り鴨川の河原に行き、星のかがやく空をながめながち、ぼんやりと凉を納れるどれだけかの時間をすごした後、家の方へ帰つて行くと、あと四、五十步で門のまへにたどりついたあたりで、そのころ私の家にゐた佐久間千代といふ若い婦人が急ぎ足であゆんで來るのに、はたと行き会つた。
「芥田さんが自殺なさつたさうです。知らせの電報が參りました」と彼女は息をはずませて言つた。
その瞬間、私は事の意外に愕くといふよりは、むしろ「ああ、さうか」といかにもきつ然敵に到來せざるを得なかつた事実がつひに到來したのだといふやうな気もちがした。だが、なかば走るやうにして家にかへりつき、電報の文句をよんだ。その朝自殺したといふことと、葬儀の日取りとを知らせる文句であつた。
翌日の夜京都駅発の急行列車の寢台劵を手に入れて、たしか午後八時すぎ発の列車に乘つた。すると、おなじ寢台車に一足先きに田辺元博士が乘つて居られた。しばらくのあひだ並んで腰かけながら話したが、芥川の自殺の動機について尋ねられたのに対して、どのやうに答へたのか覚えてゐない。だが、ふしぎとその時、下の段の寢台にこしかけて、私がはいつて行くと、こころもち驚いたやうな表情をして、「やあ」とあいさつされた田辺さんの顏つきと樣子とが、今でも鮮かに記憶に残つてゐる。
[やぶちゃん注:「佐久間千代」期待ぜずに検索をかけたところ、既に消失している記事(PDF)のキャッシュが検索リストに挙がってきた。そこには大正一一(一九二二)年三十二歳の時、『勉学熱心だったお手伝いの佐久間千代を同志社の聴講生とする』というフレーズが確認出来た。
「田辺元」(たなべはじめ 明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)は哲学者。西田幾多郎とともに『京都学派』を代表する思想家で、この昭和二(一九二七)年に京都帝国大学名誉教授に就任している。田辺自身と芥川龍之介には接点がない(所持する旧全集対象の宮坂覺氏の「芥川龍之介全集総索引」(単行本・岩波書店一九九三年刊)の「人名索引」にも載っていない)と思われるので、何かの用で上京するのに偶然、逢ったものである。恒藤は既に当時、法哲学者として知られていたし、同じ京都帝大であるので、旧知の人物であったのであろう。田辺は報道で芥川龍之介の自死を知っており、恒藤が龍之介と旧知の懇意であることも知っていたのかも知れず、それならば、このシークエンスも腑に落ちるのである。]
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