恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十八) (標題に「二七」とあるのは誤り)
[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。ここから最後までは、総てそちらで注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。
各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。
なお、以下のクレジットは四月二十八日の誤りである。原書簡は「芥川龍之介書簡抄96 / 大正九(一九二〇)年(一) 三通」の三通目で電子化注してある。さらに、前の書簡(大正七(一九一八)年三月十一日)から実に二年も飛んでいる点も特異点である。]
二七(大正九年四月二十七日 田端から京都へ)
啓
手紙及雜誌難有う。君の論文は門外漢にも面白くよめた。法律哲学と云ふものはあんなものとは思はなかつた。正体がわかつたら大に敬服した。外の論文はちよいちよい引繰り返して見た。[やぶちゃん注:原書簡では句点なしで「がとても讀む氣は出なかつた」と続く。]
本がまだ屆かない由、日本の郵便制度は甚しく僕を悩ませる。君のも入れると二十册送つた本の中、先方へ屆かないのが既に四册出來た訳だ 郵便局は盜人の巢窟のやうな氣がして頗不安だ。二、三日中に今度は書留め小包で御送りする。
素戔嗚の尊なんか感心しちやいかん。第一君の估券[やぶちゃん注:ママ。「沽券」が正しい。]に関る。それより四月号の中央公論に書いた「秋」と云ふ小說を讀んでくれ給へ。この方は五、六行を除いて、あとは大抵書けてゐると云ふ自信がある。但しスサノオも廿三回位から持直すつもりでゐる。さうしたら褒めてくれ給へ。去る二十一日僕の弟の母[やぶちゃん注:実母フクの妹で新原敏三の後妻に入ったフユ。芥川龍之介からは叔母に当たる。]が腹膜炎でなくなつた。それやこれやでスサノオの尊は書き出す時からやつつけ仕事だつたのだ。去年は親父[やぶちゃん注:実父新原敏三。]に死なれ、今年は叔母に死なれ、僕も大分うき世の苦勞を積んだわけだ。どうも同志社なぞには倉田百三氏に感服する人が多かりさうな氣がする。違つたら御免。この間藏六[やぶちゃん注:藤岡蔵六。一高時代の二人の級友。]が感服してゐるのを見たら、ふとそんな氣がしたのだ。赤ん坊は比呂志とつけた[やぶちゃん注:長男。四月十日出生。就学年を上げるために三月三十日生まれで出生届を出している。]。菊池を Godfather にしたのだ。[やぶちゃん注:原書簡ではここに「赤ん坊が出來ると人間は妙に腰が据るね」とあるのをカットしている。]赤ん坊の出來ない内は一人前の人間ぢやないね。經驗の上では片羽の人間だね。大きな男の子で、目方は今月十日生れだが、もう一貫三百目ある。今ふと思ひ出したから書くが、この前君が東京へ來た時一しよに「鉢の木」で飯を食つたらう。(中略)[やぶちゃん注:略部分は原書簡参照。]久保正夫の講師は好いね。世の中はさう云ふものだ。さう云ふものだから腹を立てる必要はない。同時にさう云ふものだと云つて諦め切る必要もなささうだ。僕はこの頃になつてやつと active serenity の境に達しかけてゐる。もう少し成佛すると、好い小說も書けるし、人間も向上するのだが、遺憾ながらまだ其処まで行かない。相不変女には好く惚れる。惚れてゐないと寂しいのだね。惚れながらつくづく考へる事は、惚れる本能が煩惱即菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと、向上即墮落の因緣だと云ふ事だよ。理屈で云へば平凡だが、しみじみさう思ひ当る所まで行くと。妙に自分を大切にする氣が出て來る。実際惚れるばかりでなく、人間の欲望は皆殺人劍活人劍だ。菊池は追々藝術家を廃業してソオシアリストの店を出しさうだ。元來さう云ふ人間なんだから仕方がないと思つてゐる。但しこの仕方がないと云ふ意味は実に困つてゐると云ふ次第ぢやない。当に然る可しと云ふ事だよ。むやみに長くなつたから、この辺で切り上げる。
近 作 二 三
白桃は沾(うる)み緋桃は煙りけり
晝見ゆる星うらうらと霞かな
春の夜や小暗き風呂に沈み居る
奧さんに――と云ふより雅子さんと云ふ方が親しい氣がするが――によろしく。
さやうなら
四月廿七日 一人の子の父
二人の子の父樣
座 右
二 伸
僕の信用し難き人間を報告する(但し作物その他には相当に敬意を表する事もないではないが)(以下略)[やぶちゃん注:恒藤恭が略した部分は原書簡参照。「福田德三、賀川豐彥 堺枯川、生田長江 倉田百三 和田三造 鈴木文治」と七人をフル・ネームで挙げており、武者小路は「實際ソオシアリストも人亂しだ 武者小路」「実篤なぞは其處へ行くと嬉しい氣がするが」、その「御弟子は皆嫌ひ」とブチかましている。]
[やぶちゃん注:「さようなら」は「よろしく。」の後に二十三字明けで、同行にあるが、改行した。原書簡では「――によろしく さやうなら」である。]
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