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2023/01/07

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その26) /「二十六 旅びとの夜の歌」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない。原本のゲーテのドイツ語原詩を横にして比較されたい場合は、ここで横転させて視認出来る)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。

 本篇は底本の中でも、最も長い文章の一つである。太字はママ。ゲーテの原詩は明らかにポイントが大きいので、そのようにしてみたが、どうもブログでは、その強い印象が大きくしただけでは出ないため、特異的に太字にしておいた

 後半に出る、文中の特殊なクォーテーション・マーク(最初のそれが下方位置にあるもの)には悩まされた。同じ形・大きさの閉じる部分と全く同じものを見出すことが出来なかったからである(ここの五ヶ所)。そんな風に見えるようにしたということで、お許しあれかし。また、そこではガタガタになるので、ドイツ語部分はポイントを本文と同じにした。

 本篇は特異的に文末に「――九四七・一二・三〇――」のクレジットがあるが、これは本篇(或いはその前の「二十五 森鷗外の印象」を含めて)の記事を書いた日のそれと推定される。現雑誌は確認出来ないが、信頼出来る恒藤恭の著作目録を見ると、初出誌『智慧』での分割発表から、昭和二三(一九五八)一月一日分ではないかと推定される。

 

        二十六 旅びとの夜の歌

 

 吉川幸次郞、大山定一の両氏は、さきに雜誌「学海」に連載された往復書簡体の諸篇を一つにまとめ、「洛中書問」と題する書物に出版された。冒頭には有名なゲーテの「旅びとの夜の歌」の原文と大山氏の訳文とがかかげてあり、両氏の往復書簡はこのゲーテの詩の邦訳についての吉川氏の感想の開陳からはじまつて、外國文学の飜訳の意義とか方法とかに関する両氏の興味ふかい意見の交換をもつて一貫した内容としてゐる。

「鷗外や二葉亭の飜訳の立派さは、何を飜訳しなければならぬか、如何に飜訳しなければならぬか、を決定した彼等の文学者的眼光から來るものだといふことが出來ませう。飜訳は西洋文学の学問的硏究とは何のつながりもなく、もつぱら日本文学者としての自覚と実力が飜訳の可否を決定すると申さねばなりませぬ。(中略)立派な飜訳はあくまで强烈な文學創造の精神からうまれねばならぬと僕の申す所以であります。即ち鷗外や二葉亭の飜訳の到底及びがたい偉さは、彼等が飜訳といふ仕事によつて明治のあたらしい小說の文体を決定した点ではないでせうか。(中略)口はばつたい申し分にきこえるかも知れませぬが、『旅びとの夜の歌』の拙訳も、出來ればせめて現代日本詩のあり方に対する一つの批評としてみていただければ満足です。」大出氏はかう述べて居られる。(洛中書問、一八―二二頁)

 かやうに說明されてゐる動機と抱負からして爲されたゲーテの飜訳を原文と共に次にかかげることとする。

 

   Wanders Nachtilied

 

   Über allen Gipfeln

   Ist Ruh,

   In allen Wipfeln

   Spürest du

   Kaum einen Hauch;

   Die Vögelein schweigen im Walde.

   Warte nur, balde

   Ruhest du auch.

 

       旅びとの夜の歌

 

   山々は

   はるかに暮れて

   梢吹く

   ひとすぢの

   そよぎも見えず

   夕鳥のこゑ木立にきえぬ

   あはれ はや

   わが身も憩はむ

 

 外國文学の飜訳の努力は何を目標とすべきかについて吉川氏は別の見解を左の如く述べて居られる。

 

 飜訳によつて創作をなすといふことは、創作の業が何か必ず素材を必要とする以上、大いに可能なことであり、さうした態度の下にされる飜訳は、たとひ素材本來の形に変貌を加へてゐても、許容されるべきでありませう。しかしながら、それは学人の飜訳ではありませぬ。文人の飜訳であります。鷗外、二葉亭、いづれも明治の偉人でありませう。しかし儒林傳中の人物には非ずして、文苑傳中の人物であります。学人の飜訳は、それとは道を異にすべきであります。それは眞実の隱蔽を惡む精神が、すみずみ迄もみなぎり渡つたものでなければなりません。原文の包含する限りのものを、縱にも橫にも探索し盡した上、それを前の手紙でも申したやうに、『原語がもつだけの観念を、より多からずより少からず傳へ』得べき國語に定着させたものでなければなりません。いや、観念といつたのは狹隘でありました。廣く原語が帶びるだけのものを、つまりもとの言語がその言語の世界の中で象徴せんとするだけのものを、同じ比率で圖語の世界で象徴し得る國語、それを探索することでなければなりません。完全にさうした役目を果し得る國語は、あり得まいといふことも出來るでありませう。しかしそれをほぼ完全に果す國語は、いかなる場合でも、必ずあると、僕は僕の経驗から、ほぼ確実にいふことが出來ます。或ひはないやうに見えるのは、思はざるの故であります。憤を発して食を忘れ、食うて味を知らず、寢ねて眠らず、之を恩ひ之を思へば、必ず何か思ひ当ります。(洛中書問、五九―六〇頁)

 別の書簡の中で、吉川氏は、

 

 また尊文のなかには、『嚴密な逐語訳といふのは、かさかさに乾からびてしまつて』云々といふ論旨が見えますが、かりにこの詩を

  なべての山々に

  あるは憩ひ

  なべての梢に

  まさぐるや君

  一つのいぶきだにも

  鳥たちは林にもだしぬ

  まちねかし しばし

  憩はなむなれもまた

 位の訳に止めては、なぜいけないのでせうか。飜訳といふものは、要するに方便であり、童蒙に示す爲のものであると、小生は考ヘます。外國文学硏究の正道は、あくまでも原語についてなされるものでなければなりません。

 と述べて居られる。

 外國語で書かれた文章を自國語に訳すること、ことに西洋の國語で書かれた文章を日本語に訳することが、いかに困難な仕事であるかといふことを、私自身もたびたびの経驗によつて痛感してゐる、もちろん、文学的作品の場合と學問的作品の場合とでは、飜訳のむつかしさの程度に著しい相違があり、また文学的作品の中でも詩の飜訳はとりわけ至難の業だといふべきであらう。

 ところで、飜訳の目的については、多くの場合において当人以外の他人、ことに一般の人々に讀んでもらふために爲されるであらうけれど、必ずしもいつもさうだとは限らないであらう。言ひかへると、当人が自分自身の單なる興味のために、又は原文をより充分に理解するために、又は語学的硏究に役立てるために、又は單に自己の外國語理解力の增進のために、飜訳をこころみることもあり得るわけである。そして、他人に示すために外國文学の飜訳がなされる場合について考へると、飜訳を通じて外國文学に接触しようとする人々の大部分は、外國文学硏究のためにではなく、外國の文学的作品をよんで樂しむことを目的とするものだと言ふことができるであらう。吉川氏は、「外國文学硏究の正道は、あくまでも原語についてなされるものでなければなりません。」と言つて居られるが、これはあまりにも当然なことがらである。いやしくも外國文学を志す人は、ただ飜訳を媒介として研究しようといふやうな不心得な態度をとつてはならぬはずであるが、しかしすぐれたる飜訳が、外國文学硏究者のために役立つところも相当に大きいであらう。ただし外國文学研究は必ず原語についてなされなければならぬといふのは、専門的立場から外國文学を硏究する人々に対して課せられる要請であつて、他の立場から外國文学を硏究しようちする人々の場合には、必ずしも原語に依ることを要せず、飜訳でも間に合ふ場合が多いであらう。たとへば、自分の文学的創作のうへに資するために、外國文学の作品に接触したいと思ふ人々は、飜訳でたくさんだといふであらうし、その言ひ分が妥当でないとは言へぬであらう。たとへば、鷗外や二葉亭の飜訳した外國文学の作品からして、どれだけ多くの日本の作家たちが彼らの創作のうへに(槪して有益な)影響をうけたか、ほとんど測り難いと思ふ。(尤も鷗外なり二葉亭なりの訳文そのものからの影響と併せて、二重の影響をうけたに違ひないが。)

 さて、私は両学人の熱意のこもつた意見の交換に[やぶちゃん注:ママ。「を」の誤記か誤植か。]聽くことによつて多くの啓発を被つたことを感謝するものであつて橫合ひから両学人の論議に喙をさしはさむ心算ではない。ゲーテの旅びとの夜の歌は靑年のころから愛誦してゐた詩であるだけに、大山氏による此の詩の飜訳をめぐつて行はれた両氏の書問のやり取りにことさら興味を感じたものであつた。それでたしか今年の初夏のころであつたかと思ふが、洛中書問をはじめて讀んだときに、自分なりにゲーテの詩を訳して見たので、甚だをこがましいけれど、次にそれをかきうつす。

 

  山々のうへに

  憩ひあり

  木々の梢に

  そよぐかぜの

  けはひもなく

  森の茂みに小鳥はもだしつ

  待てしばし今はわれも

  憇はむものを

 

 ついでに言ひ添へて置きたい。原詩の第一行から第二行の Über allen Gipfeln Ist Ruh, と、第七行から第八行の Warte nur, balde Ruhest du auch. とは、前後たがひに対照的地位に立ち、且つたがひに連関するものであり、はじめの Ruh から終りの Ruhest へつながつてゐる一と筋の銀線のやうなものが、此の詩の主軸をかたちづくつてゐると思ふ。だから、飜訳においても、その点が言ひあらはされてゐることが必要ではなからうか。それで、『山々ははるかに暮れて』といふ大山氏の飜訳は、それだけに即いて[やぶちゃん注:「ついて」。]見ると、原詩の言ひあらはさうとしてゐる情景を巧みにとらへた好い飜訳であると思ふけれど、原詩の眼目としてゐるところを逸してゐる憾みがあると思ふ。しかのみならず、私自身の氣もちから云ふと、Über allen Gipfeln Ist Ruh,といふ最初の二行が、私自身の最も好きな文句であり、そして此の二行のもつ深い意味内容は、『山々のうへにおしなべて憩ひがある。』ところにあるのだと信ずる。それから、これは大して意味のあることではないかも知れぬけれど、拙訳においては脚韻をととのへることをこころみた。

 なお、八束淸氏から、「学藝」の昭和十九年二月号に外山完二氏の飜訳が掲載してあることを敎へられ、それをうつし取つたので、継ぎにそれをもかかげることとする。[やぶちゃん注:雑誌『學藝』の号数は「一一」の印刷で十一月号のことかも知れない。しかし直下の外村完二(とのむらかんじ 明治三一(一八九八)年~昭和五一(一九七六)年:ドイツ文学を中心とした翻訳や著書がある)氏の名の「二」が「一一」と組まれてあるので、「二」でとった。]

 

  すべての峯のうへの

  靜けさ

  樹々の相には

  そよとの

  木づれもなく

  森の鳥も聲をひそめたり

  まてしばし

  なれもまた休まん

 

       追   記

 

 二十日ばかり前に、以上の部分の原稿を書いて秋田屋に屆けたのであるが、大山定一氏の新著「文学ノート」を昨日よんで、その中の「ゲーテの自然感情について」と題する篇の中に、「旅びとの夜の歌」を阿部次郞氏が飜訳されたものが收載されてあることを知つた。それで、ついでに其れを次にかかげる。

 

  山なみの空

  しづもりぬ

  樹々のうれ

  そよ風の

  呼吸(いき)もなし

  小鳥みな森に默(もだ)しつ

  待ちねただ――今ぞ

  しづもらむ汝(な)も

 

       ――一九四七・一二・三〇――

 

[やぶちゃん注:最後のクレジットは引用詩篇の最終行の下方一字上げインデントであるが、行を空け、上方に引き上げた。本篇では芥川龍之介について言及はない。しかし、恒藤恭は一高時代から外国文学に強い興味を持ち、京都帝大在学中に芥川の勧めを受けて第三次『新思潮』第一巻第五号(大正三(一九一四)年六月一日発行)にアイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年:私はサイトのこちらで姉崎正見訳「アラン島」や、芥川龍之介が最後に愛した松村みね子(片山廣子)訳になる戯曲「聖者の泉(三幕)」の全電子化(前者はオリジナル注附き)を終えている)の「海への騎者」(Riders to the Sea 一九〇四年作)を翻訳寄稿したりしているので、この文章に芥川龍之介の名は出ずとも、その頃の強い文学志向が自ずと心に浮んで、亡き芥川龍之介も、このこだわりの一篇を高く評価するに相違ないと思われ、そういう意味で、本篇が本書「旧友芥川龍之介」の中にあっても、これ、何らの違和感を感じないのである。

「洛中書問」この往復書簡体のそれは、qfwfq氏のブログ「qfwfqの水に流して Una pietra sopra」の「『洛中書問』――翻訳詩の問題(2)」に詳しいので参照されたい。そちらによれば、『「書問」とは吉川によれば「何くれとない手紙を意味するところの、やや気どった漢語」である』とあった。書簡の誤りではないので注意されたい。初版は本書と同じ秋田屋で昭二一(一九四六)年刊である。

「吉川幸次郞」(明治三七(一九〇四)年~昭和五五(一九八〇)年)は知られた中国文学者。兵庫県神戸市生まれ。本篇初出の年に「東方文化学院京都研究所」(後の「東方文化研究所」、現在の「京都大学人文科学研究所」)所員から京都大学教授となった。私は漢文学で大学以来、多くの著作の御世話になっている。

「大山定一」(ていいち 明治三十七年~昭和四九(一九七四)年)はドイツ文学者。京都大学名誉教授。香川県出身。当時は京都大学文学部助教授。

「Wanders Nachtilied」は当該ウィキによれば、ドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)は、ドイツの詩人の『数ある詩の中でも最も有名なもので、世界中のゲーテ愛好家、ドイツ語話者、ドイツ語学習者に愛唱されている』とあり、そこでは、「さすらい人の夜の歌」と訳されてある。『「さすらい人の夜の歌」には』二『首あり、ひとつ目は恋人への熱情を直接歌い、二つ目は自然を歌いつつも最後に恋人への思いの中で憩う詩である』とあり、ここで挙げられてあるのは、二つ目のもので、『この詩はドイツ語の詩の中でも完璧な詩であるとされている』。一七八〇年九月六日の『夕方に、イルメナウにある狩猟小屋で書いたもの、と』、ゲーテと親しかったドイツ・ヴァイマール公国のフォン・シュタイン男爵の妻『シャルロッテ・フォン・シュタイン』(シャルロッテ・アルベルティーネ・エルネスティーネ・フォン・シュタイン(シャルト)(Charlotte Albertine Ernestine von SteinSchardt) 一七四二年~一八二七年)『への手紙で書いていて、彼はそこで一夜を過ごしたという』とあり、原詩と訳文が載る。私はドイツ語は判らないので、特に言い添えることは出来ない。

「八束淸」不詳。

「阿部次郞」(明治一六(一八八三)年~昭和三四(一九五九)年)は哲学者・美学者で作家。山形県飽海(あくみ)郡上郷村(後の松山町で現在の酒田市)生まれ。当時は東北大学法文学部長を敗戦の年に定年退官している。]

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