恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その34) /『三十四「戲作三昧」における馬琴の俳句観』
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。
太字は底本では傍点「ヽ」。]
三十四 「戲作三昧」における馬琴の俳句観
芥川龍之介が大正六年に執筆した小說、「戲作三昧」の中に次のやうな個所がある。
「貴公は相不変発句にお凝りかね。」
馬琴は巧に話題を轉じた。がこれは何も眇(すがめ)の表情を氣にした訳ではない。彼の視力は幸福な事に(?)もうそれがはつきりとは見えない程、衰弱してゐたのである。
「これはお尋ねに預つて恐縮至極でございますな。手前のはほんの下手の橫好きで今日も運座、明日も運座、と、所々方々へ臆面もなくしやしやり出ますが、どう云ふものか、句の方は一向頭を出してくれません。時に先生は、如何でございますな、歌とか発句とか申すものは、格別お好みになりませんか。」
「いや私は、どうもああ云ふものにかけると、とんと無器用でね。尤も一時はやつた事もあるが。」
「そりや御冗談で。」
「いや、完く性に合はないとみえて、未だにとんと眼くらの垣覗きさ。」
馬琴は、「性に合はない」と云ふ語に、殊に力を入れてかう云つた。彼は歌や発句が作れないとは思つてゐない。だから勿論その方面の理解にも、乏しくないと云ふ自信がある。が、彼はさう云ふ種類の藝術には、昔から一種の輕蔑を持つてゐた。何故かと云ふと、歌にしても、発句にしても、彼の全部をその中に注ぎこむ爲には、余りに形式が小さすぎる。だから如何に巧に詠みこなしてあつても、一句一首の中に表現されたものは、抒情なり叙景なり、僅に彼の作品の何行かを充す丈の資格しかない。さう云ふ藝術は、彼にとつて、第二流の藝術である。――(原文には傍点なし)
「戲作三昧」は芥川の執筆した数多くの小說の中で私の好きなものの一つであるが、右に引用した「戲作三昧」の中の一とくだりにおいて、芥川が馬琴の藝術観として書いてゐる所に該当するやうな見解が、実際に馬琴の書いたものの中に見出されるか否かを、私は知らない。おそらく見出されないだらうと思ふが、いづれにしても大した問題ではなからう。
さて「戲作三昧」の中に馬琴の藝術観として述べられてゐる所からすれば、俳句は一般に到底「第一流の藝術」ではあり得ないと云ふことになりさうである。つまり、よし芭蕉のごとき天才を以てしても、第一流の藝術家ではあり得ないと云ふことになるわけである。
芥川のいはゆる「第一流の藝術」は結局のところ桑原氏のいはゆる「第一藝術」と同意義であるように思はれるのであるが「戲作三昧」の中の馬琴の考へかたからして、俳句は第一藝術たる資格が無いとされる理由と、桑原氏が同一のことがらを主張されるについて持ち出された根拠との間には、いくらか相違があるやうに思ふ。
ところで、芥川自身はこの問題についてどのやうに考へてゐたであらうか。「戲作三昧」における馬琴の俳句観に同感であつたらうか。おそらくさうではなかつたやうに思はれる。
なほ、「第一藝術」とか、「第二藝術」とか云ふ言葉は、あまりわかり好い言葉ではないやうに思ふ。桑原氏の意味における「第一藝術」は、芥川の場合と同様に「第一流の藝術」と謂つた方がわかり好いだらうし、私が前に「第一藝術の主観的槪念」とよんだものを指し示すためには「第一義の藝術」と謂つたら可からうかと思ふ。
[やぶちゃん注:恒藤恭の見解に私は諸手を挙げて賛同するものである。
「戲作三昧」は『大阪毎日新聞』夕刊に大正六(一九一七)年十月二十日から十一月四日まで、十月二十二日の休載を除いた計十五回で連載された。作品集「羅生門」刊行(五月二十三日)直後では、最も力の入った名作である。私はサイト版で「大正八(一九一八)年一月に新潮社より刊行した第三番目の作品集「傀儡師」(くわいらいし(かいらいし))を底本にした電子化を古くに公開しており、別ページでオリジナル詳細注もしてあるので、そちらを見られたいが、以上の引用は同作の「二」の中間部から最後までである。但し、頭の部分は「馬琴は巧に話頭を轉換した。」であるのを、恒藤はいじってしまっている。なお、作中の主人公馬琴の作品に対する悪意を持った批評などのシークエンスは、まさに馬琴を借りて、芥川龍之介自身が現に受けている、或いは、これから受けることになるであろう作品への種々の批評をカリカチャアしている感が非常に強く感じられるが、恒藤が否定する通りで、馬琴の俳句観は、イコール芥川龍之介の俳句観「ではない」。芥川龍之介は終生、俳句は小説の余技に過ぎないなどと謙遜しておきながら、明かに非常に拘った俳句への嗜好を持ち続けていたし、かなり強い自信も持っていた。なお、私はサイト内の発句・俳句のページで、現在まで出版されたいかなるものよりも多く採録した「芥川龍之介俳句全集」を古くに全五巻で完成しているので、そちらも見られたい。どっかの誰かが編集者にお任せで渉猟した知られた最新の芥川龍之介の句集など、俳句でないものまで拾っている、激しい噴飯物であった。]
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