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2023/01/06

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その17) /「十七 言葉の感覚」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。]

 

        十七 言葉の感覚

 

 一つ一つの言葉について私たちのもつてゐる感覚は著しく個性的な相違をそなへてゐるものであらうと思ふ。

 ある時、芥川が「僕か『翠微』といふ言葉が嫌ひだ。どうもいやな言葉だ。』と語つたことがある。私自身は「翠微」といふ言葉について特にそのやうな感じをもつてゐなかつたので、「さうかね」とこたへただけであつた。なぜ彼がそのやうに此の言葉がきらひであつたのか、理由をきいて見たかつたのは遺憾だつたと、あとから思つたことである。

 

 芥川は明治二十五年三月一日に束京市京橋区入船町でうまれた。辰年辰月辰日の辰の刻にうまれたので、「龍之助」と命名されたといふのだが、当人は「龍之助」といふのを嫌つて、いつの頃かはわからないけれど、みづから「龍之介」と称した。をかしなもので、私などは「芥川龍之助」と書いたのでは、どうしても芥川龍之介とは別人の名称としか思ヘない。

 

「ちゑ」といふ言葉は「智慧」と書くのが本來の書きかたなのであらう。ところが、「智慧」といふ文字を見ると、なんだか古臭いやうな感じがするのに反して、「知慧」といふ文字は何かしら淸新なやうな感じをひき起すやうである。これはどのやうな理由にもとづくものであらうか。これは私だけに妥当する理由づけであるかも知れないが、――「智慧」といふことばには何かしら佛敎的な観念の連想がつきまとつて居り、そのために抹香臭いやうなところがある。それから、「慧」といふ文字は劃の多い、ややこしい形をした文字であるところへ、「智」といふ、やはり相当に劃の多い文字を附け加へると、一層こちたいやうな感じをひき起すので、「智慧」といふ言葉にくらべて、「知慧」といふ言葉の方がすつきりした印象をあたへるやうにも思はれる。「智慧」は英語の “Wisdom” に該当することばだらうと思ふが、「知慧」はなんとなく “intelligence” という意味において通づるところがあるやうに思はれる。

 

 関東では、木の葉や草の葉を「葉つぱ」といふ。「葉つぱ」といふと、いかにも乾からびたもののやうな感じがして、いやなことぱだと思ふ。おなじやうに「原」を「原つぱ」といふのも、このもしくない言葉である。いつだつたか、このやうな私の私の感じを芥川に話したところ、同感するでも、同感せぬでもなく、微笑してゐただけであつた。

[やぶちゃん注:「翠微」小学館「日本国語大辞典」によれば、『①山頂を少し降りたところ。山の中腹』、『②うすみどり色の山気。また、遠方に青くかすむ山。または、単に山をいう』とある。因みに、私は自身では未だ嘗つて使用したことはない語である。「衰微」を連想して私は好きになれない。

『芥川は明治二十五年三月一日に束京市京橋区入船町でうまれた。辰年反月辰日の辰の刻にうまれたので、「龍之助」と命名されたといふ』「芥川龍之介の本名は新原(芥川)龍之助である」という真(まこと)しやかな言説は、嘗つてしばしば行われた《「芥川龍之助」伝説》の一つで、結論を先に言うと、《誤り》である。既に本書でも「友人芥川の追憶」の「三」で恒藤が『去る七月二十七日、芥川の遺骸が谷中の斎場から日暮里の火葬場に運ばれ、焼竃の中に移され、一同の焼香が了つたのち、ふと見ると、鉄扉のかたへにかけてある札の上の文字が「芥川龍之助」となつてゐた。その刹那に、若しも芥川がそれを見たら、「しやうがないな」と苦笑するだらうと思つた。すると世話役の谷口氏が「どなたか硯をもつて來て下さい、佛が氣にしますから字を改めます」といふやうなことを言つた。……「芥川龍之介」と改めて書かれた。何だか私も安心したやうな気がした。生前、芥川は「龍之助」と書かれたり、印刷されたりして居るのを見ると、参つたやうな、腹立たしいやうな、浅ましいやうな感じをもつたものだつた。それは、彼が「龍之介」といふ自分の名を甚だ愛し且つそれについて一種の誇りをもつて居たからでもあつた。第三者の眼から見ても、「龍之介」は「龍之助」よりもよほど感じがいいし、よりエステッシュでもある、しかし我の强い彼は特別强くこの點を意識してゐたに違ひない。それは子供らしい誇りであつた。しかしそんな所にわが芥川の愛すべき性格のあらはれがあつた。彼の作品を愛讀してゐるとか、彼を敬慕してゐるとか云つたやうな事を書いて寄こす人が、偶々「芥川龍之助樣」と宛名を書いて居るのを見て、「度し難い輩だ」と云ふ樣なことを呟いた例を一、二思ひ出す。』と記している。なお、この火葬場での出来事は、小穴隆一の『「鯨のお詣り」(33) 「二つの繪」(22)「彼に傳はる血」』にも載るので、是非、参照されたい。なお、序でに、既注であるが、同じ小穴の驚天動地のスキャンダラスな異常記事『「二つの繪」(22) 「橫尾龍之助」』も、再度、紹介しておこう。なお、この名前の問題について確定的記述は、私の知る限りでは、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄氏の編著になる「年表作家読本 芥川龍之介」の二十二ページに載ったコラム「龍之か龍之か」(太字は底本では傍点「◦」)が唯一の記載である。以下に引用する。

   《引用開始》

 能之介の名前については「介」か「助」かをめぐって、少久厄介な困った事情がある。

 実父母の命名した戸籍上の名前は「龍之介」でこれが正しい。

 ところが芥川家では恐らく意識的にであろうが、「助」を用い、龍之介は戸籍上の正しい名前を知らされなかったために、ややこしい事態が起きる。

 すなわち、龍之介の少年時代の自筆の文章は「助」であり、養父道章が実父敏三にあてた養子縁組の「証」も「助」であり、府立三中の校友会雑誌や一高の卒業生名簿、さらに東大卒業生氏名録も「助」になってしまった。ついでにもう一ついえば大正一一年に刊行された第一随筆集『点心』の背文字も「助」となっている(これは単なる誤植であろう)。

 ところで明治三七年八月、龍之介は裁判の結果正式に新原家から廃嫡となり、芥川家に養として入籍することになった時点で、実父母の戸籍上の命名をはじめて知ることになる。

 このとき龍之介は満一二歳であるが、以後は自ら「助」を用いることはなく、「介」に統一している。[やぶちゃん注:以下は、本書恒藤恭の「旧友芥川龍之介」の「友人芥川の追憶」の「三」及び前掲の小穴隆一の記述を略述したものであるので、省略する。]

   《引用終了》

これによって、恒藤の「いつの頃かはわからないけれど」が、明治三七(一九〇四)年五月四日(芥川龍之介満十二歳)の東京地方裁判所民事部タ号法廷で下された新原家の推定家督相続人廃除判決文以降ということが判る。同判決文は鷺氏の前掲書の二十五ページに原本画像があり、そこに確かに「新原龍之介」の記載を見ることが出来る。

『「ちゑ」といふ言葉は「智慧」と書くのが本來の書きかたなのであらう。……』ここで恒藤が、突然、「智慧」という文字面を問題にしたのは、本篇「芥川龍之介のことなど」が連載された雑誌名が『智慧』であったことに由来するものであるが、出版社にとってみると、以下の恒藤の謂いは、これ、あまり面白くない叙述であったであろう。

「こちたい」「言痛し」「事痛し」という古語の転訛表現。ここは「仰々しい・おおげさな」の意。

「“Wisdom” 」「賢いこと・賢明・知恵・分別・賢さ・賢明であること・学問・知識・博識」の意の英語。

「 “intelligence”」「知能・理解力・思考力・知性・聡明・優れた知恵・機転・知恵・賢明であること・知性的存在」の意の英語。前者よりも、より哲学的なニュアンスを感じる。]

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