「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 山獺自ら睾丸を嚙去る
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。
標題は本文のルビに従うなら、「山獺(ビーヴアー)自(みづか)ら睾丸(こうぐわん)を嚙去(かみさ)る」である。「追加」の「本草綱目」の部分は電子化している最中に激しい混乱をきたしたほどにイライラしたので、特異的に改行した。]
山獺自ら睾丸を嚙去る (大正二年九月『民俗』第一年第二報)
此段は、明治卅年頃の『ノーツ・エンド・キーリス』へ、予が出した者だ。一八四二年板、「ブランド」の「古俗の觀察(オブザーヴエイシヨンス・オン・ポピユラー・アンチクイチース)」卷三や、一六四六年に出た「ブラウン」の「俗說辯惑(プセウドドキシア・エピデミカ)」卷三に據ると、埃及・希臘の昔より近古に至る間、歐州と其近邦で廣く信ぜられたは、山獺(ビーヴアー)の睾丸、藥として高價だから、其を欲《ほし》さに、人が、此獸を狩る。山獺、之を知り、自ら睾丸を嚙切り、人が是を尋ね居る間に、命を全うし迯去《にげさ》る。扨、其後、復た、狩らるゝと、直立して狩人に睾丸の跡を見せ、肝心の寶が無い故、捕へた處が無益だと示す、と也。
[やぶちゃん注:「明治卅年頃の『ノーツ・エンド・キーリス』へ予が出した者」明治三二(一八九九)年七月号“Notes and Queries”に掲載された‘Beaver and Python’(python はニシキヘビ・パイソンの意であるが、ここでは俗語で「男性器」の意)。残念ながら、「Internet archive」では、この巻が電子化されていないので読めない。
『「ブランド」の「古俗の觀察(オブザーヴエイシヨンス・オン・ポピユラー・アンチクイチース)」』イギリスの古物商にして英国国教会の聖職者ジョン・ブランド(John Brand 一七四四年~一八〇六 年)の‘Observations on Popular Antiquities’。
『「ブラウン」の「俗說辯惑(プセウドドキシア・エピデミカ)」』イングランドの医学・宗教・科学・秘教などの様々な知識に基づいた著作で知られる作家トーマス・ブラウン(Thomas Browne 一六〇五年~一六八二年)の‘Pseudodoxia Epidemica’(邦訳「荒唐世説」)。怪しい巷説や迷信を採り上げて批判した書。
「山獺(ビーヴアー)」哺乳綱齧歯目ビーバー形亜目ビーバー科ビーバー属(タイプ種)ヨーロッパビーバー Castor fiber 。他にアメリカビーバー Castor canadensis がいる。]
之と同規の支那談、「五雜俎」卷九に、蚺蛇《うはばみ》の膽《きも》を藥用の爲に捕ふる法を載せて云く、其膽護ㇾ身、隨ㇾ擊而聚、若徒取ㇾ膽者、以ㇾ竹擊二其一處一、良久、利刀剖ㇾ之、膽卽落矣、膽去而蛇不ㇾ傷、仍可ㇾ縱ㇾ之、後又有二捕者一、蛇輙逞二腹間創一示ㇾ人、明二其已被一取也。〔其の膽は、身を護り、擊つに隨ひて聚(あつ)まる。若(も)し、徒(ただ)に膽を取るときは、竹を以つて、其の一處を擊ち、良(やや)久しくして、利刀もて、之れを剖(さ)けば、膽、卽ち、落つ。膽、去りても、蛇、傷つかず。仍(より)て、之れを縱(はな)つべし。後(のち)に、又、取る者あれば、蛇、輙(すなは)ち、腹の間の傷を逞(ひら)きて、人に示す。其の已(すで)に取られしを明らかにするなり。〕又、「本草網目」に、蜥蜴《とかげ》の同類、蛤蚧《がふかい》は、房中藥として、効、有れど、藥力が、主に尾に在る。尾が全《まつた》からぬと無効だ。それを知《しり》て、人に取《とら》れ掛《かか》ると、自ら、尾を嚙み斷《たち》て去る、と出づ。又、麝獸《じやこう》も極《きはめ》て其臍《へそ》を愛し、人に逐《おは》れると、自ら、之を剔出《ほりいだ》して死す、と有る。
[やぶちゃん注:「五雜俎」は「中國哲學書電子化計劃」のこちらと校合したが、「後又有二捕者一」の「又」は展開から熊楠のものを残した。
「膽」「選集」では『い』と振っている。
「本草網目」の「蛤蚧」(爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ属トッケイヤモリ Gekko gecko を指す。別名「オオヤモリ」とも呼び、全長十八 ~三十五センチメートル。インド北東部・ト東南アジア・中国南部等に広く分布する。本邦には棲息しない)は巻四十三の「鱗之一」の「龍類」にある。原文白文は「漢籍リポジトリ」のこちらの[102-18a]を見られたい。その「集解」に、
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志曰はく、「蛤蚧は嶺南の山谷及び城牆(じやうしやう)或いは大樹の間に生(せい)す。形、大いなる守宫(やもり)のごとく、身長、四、五寸。尾(を)は、身と等し。最も其の尾を惜しむ。人の之れを取るを見れば、多く、自(みづか)ら其の尾を囓(か)み斷ちて去る。藥力、尾に在り。尾の全(まつた)からざる者は、效あらず。」と。
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また、その「修治」に、
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斆(かく)曰はく、「其の毒、眼に在り。須らく、眼及び甲上・尾上・腹上の肉毛を去るべし。以つて、酒もて、浸透し、兩(ふた)つの重ね紙を隔てて、緩やかに焙(あぶ)り乾(ほ)せしめて、磁器を以つて盛りて、屋(おく)の東の角(かど)の上に懸けて、一夜、之れを用ふれば、力、十倍すべし。尾を傷つけること、勿(な)かれ。
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とある。
「麝獸」ジャコウジカのこと。鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に七種が現生する。その七種と博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。]
追 加 (大正四年二月『民俗』第三年第一報)
「古今圖書集成」の「禽蟲典」第百五卷「牛部彙考一」に、氂牛出二西域一、尾長而勁、中國以爲ㇾ纓、人或射ㇾ之、自斷二其尾一、左氏所謂、雄雞自斷二其尾一。〔犛牛(りぎう)は西域に出づ。尾、長くして、勁(つよ)ければ、中國にては以つて「纓(えい)」に爲(つく)る。人、或いは、之れを射んとすれば、自(みづか)ら其の尾を斷つ。「左氏」に所謂、『雄鷄、自ら其の尾を斷つ。』なり。〕と見ゆ。此「氂(らい)」の字は、「毛(もう)・「俚(り)」、「來(らい)」の三音ある。それから、之と同類の「旄」(もう)」、是、「毛」の音だ。「本草綱目」五一に、
旄牛出二甘肅臨洮及西南徼外一、野牛也、人多畜二養之一、狀如二水牛一、體長多ㇾ力、能載重、迅行如ㇾ飛、性至粗梗、髀膝尾背胡下皆有二黑毛一長尺許、其尾最長大如ㇾ斗、亦自愛護、草木鈎ㇾ之、則止而不ㇾ動、古人取爲二旌旄二、今人以爲二纓帽一、毛雜白色者、以茜染紅色
〔旄牛(ほうぎう)は甘肅の臨洮(りんたう)及び西南の徼(くにざかひ)の外より出づ。野牛なり。人、多く、之れを畜養す。狀(かたち)は水牛のごとくして、體、長く、力、多くして、能く重きを載せ、迅(と)く行くこと、飛ぶがごとし。性は至つて粗く梗(つよ)し。髀(もも)・膝・尾・背・胡(あご)の下、皆。黑き毛有りて、長さ尺ばかり、其の尾、最も長く、大なるは斗(ひしやく)のごとし。亦、自(みづか)ら愛護し、草木、之れに鈎(かか)れば、則ち、止まりて、動かず。古人、取りて、旌旄(せいぼう)[やぶちゃん注:戦時用の旗指物。]と爲す。今の人は、以つて、纓[やぶちゃん注:冠の後ろに垂らしたり、立てたりする飾り。]ある帽を爲(つく)る。毛に白色を雜(まじ)ゆるものは、茜(あかね)を以つて紅色に染む。〕
と載せ、
犛牛出二西南徼外一、居二深山中一野牛也、狀及毛尾俱同二旄牛一、旄小而犛大、有二重千斤者一、其尾亦可ㇾ爲二旌旄纓帽之用一、(中略)犛之角勝二于旄一、而旄之毛尾勝二于犛一也。
〔犛牛は西南の徼の外より出づ。深山の中に居(を)る野牛なり。狀及び毛・尾は俱に旄牛に同じ。旄は小なれど、犛は大にして、重さ千斤[やぶちゃん注:五百九十七キログラム弱。]なる者、有り。其の尾も亦、旌旄や帽の用と爲すべし。(中略)犛の角は旄より勝れ、旄の毛尾は犛より勝る。〕
と有る。
[やぶちゃん注:「古今圖書集成」「維基文庫」の当該部の電子化物と校合した。
「犛牛」ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク。野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniens。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犛牛(らいぎう) (ヤク)」を参照されたい。
「旄牛」実はこちらも同じヤクを表わす漢語なのだが、大きさが明らかに異なるので、野生種を指している。南方熊楠は次の段落で正しくそれを指摘している。
「本草綱目」は同じく「漢籍リポジトリ」の同巻の[119-19a]から[119-20b]の部分と校合した。]
戰國の頃、武裝に用ひられて、「唐《から》の頭《かしら》に本多平八《ほんだへいはち》」と歌はれた、唐の頭が、即ち、此牛の尾で、黑きを「こぐま」、白きを「はぐま」、赤く染めたのを「しやぐま」と呼んだ。「本草啓蒙」四七には、黑毛を旄牛、その他の色の者を犛牛と假定して居る。「武德編年集成」、須川賢久譯「具氏博物學」にも見ゆる通り、旄牛は英語で「ヤック」だ。此語、元と、西藏《チベット》人がこの鳴聲《なきごゑ》に據《よつ》て「ギャッグ」と名《なづ》けたから出た。西藏高原の野牛で、追々畜《かは》れて種々の變種も出來、又、他の牛との間種(あひのこ)を生じて、北印度其他で荷を負《おは》すに必要の物たり。家畜種は、毛色、黑・赤・灰など雜《まじ》るが、野生の原種は、全身、黑く、足端から肩まで六呎[やぶちゃん注:一・八三メートル弱。]も有《あつ》て、小さい家畜種の四倍大で、其角の長《たけ》三呎[やぶちゃん注:九十一センチメートル。]も有る。して見ると、「綱目」の文と對照して、黑毛の野生原種が野牛、雜白毛の畜養種が旄牛に當る筈だ。孰れも尾毛を、古來、印度や支那で拂子《ほつす》や兜飾《かぶとかざり》抔にして貴ばれ、草木に鈎《かか》ると、自在に動き得ぬ等の事より、人が射れば、自ら尾を斷つ抔、噂されたのだらう(右、自分が見たる標本と生品と、ウッドの「動物新畫譜(ニウ・イラストレーテツド・ナチユラル・ヒストリー)」一八三頁、バルフォール「印度事彙」第三板卷三頁一一〇五、「大英類典(エンサイクロペヂア・ブリタニカ)」十一板二八卷八九八頁參取)。上に引《ひい》た、『雄鷄、自ら其尾を斷つ。』と「左氏」に見え、それが此類の支那譚中、最も古く筆せられたものらしい。賓孟適ㇾ郊、見三雄雞自斷二其尾一問ㇾ之、侍者曰、自憚二其犧一也。〔賓孟、郊に適きて、雄鷄の自ら其の尾を斷つを見る。之れを問ふに、侍者曰く、「自ら其の犧(にへ)とせらるるを憚ればなり。」と。〕と有る。
[やぶちゃん注:「唐の頭に本多平八」これは「家康に過ぎたるものは二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八。」である。これは、家康の敵であった武田信玄の近習の小杉左近の落書とされるものである。「本多平八」は「徳川三傑」に数えられる家康の功臣本多忠勝(天文一七(一五四八)年~慶長一五(一六一〇)年)の通称平八郎。この落書の生まれた後半部のそれは、三方不動産株式会社公式サイト内のブログのこちらが判り易い。
『「本草啓蒙」四七には、黑毛を旄牛、その他の色の者を犛牛と假定して居る』国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」第四十七巻のここの「犛牛 カラノカシラ」の解説の左丁の二行目から。非常に読み易い版本なので見られたい。
「武德編年集成」江戸中期に編纂された徳川家康の伝記。当該ウィキ他によれば、成立は元文五(一七四〇)年で、著者は幕臣で歴史考証学者であった木村高敦(延宝八(一六八〇)年~寛保二(一七四二)年)。『偽書の説、諸家の由緒、軍功の誤りなどの訂正が行われており』、寛保元(一七四一)年に『徳川吉宗に献上される』とある。このエピソードは「国文学研究資料館」の「電子資料館」の写本の同十月三日の条にあるのを探し出した。そこでは割注で(右丁六行目)、「唐の頭」は家康の愛用品ではなく、本田自身がその冑を被っていたとある。
『須川賢久』(かたひさ:事績不詳)『譯「具氏博物學」』は児童文学をメインとしたアメリカの作家で編集者でもあったサミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ(Samuel Griswold Goodrich 一七九三年~一八六〇年)が一八七三(明治六)年に出版された‘A pictorial Natural History’ を二年後の明治八年に須川賢久訳・田中芳男校閲で「具氏博物學」として翻訳され、明治十年代の小学生の博物学の教科書として使われたそれを指す。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで翻訳本が視認でき、その巻六のここ(単独画像ページ)の右丁の終りから二行目のところに、『亞細亞中部ニ産スル牻牛(ヤーク)』と出る。
「自分が見たる標本と生品」南方熊楠はどこでヤクの生きた実物を見たのだろう? イギリス滞在中に「ロンドン動物園」にいたものか?
『ウッドの「動物新畫譜(ニウ・イラストレーテツド・ナチユラル・ヒストリー)」一八三頁』物学的読本を多数書いたイギリスの作家ジョン・ジョージ・ウッド(John George Wood 一八二七年~一八八九年)の‘Illustrated Natural History’である。但し、挿絵は彼が描いたものではなく、イギリスの画家熱心な動物愛好家でもあったハリソン・ウィリアム・ウィアー(Harrison William Weir 一八二四年~一九〇六年)他である。「Internet archive」にあるが、版が違うのか、同ページにはない。
『バルフォール「印度事彙」第三板卷三頁一一〇五』スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の‘The Cyclopaedia of India’こちらの右ページ左欄に“YAK.”が出る。
「『雄鷄、自ら其尾を斷つ。』と「左氏」に見え」以下の原文は「中國哲學書電子化計劃」の「春秋經傳集解」五の「左氏傳」の影印本の本文と校合した。]
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