恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その35) /「三十五 俳人としての芥川龍之介」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。
なお、以下の本篇に出る中村草田男の「俳人としての芥川龍之介」は手軽には筑摩書房全集類聚「芥川龍之介全集」別巻(昭和四六(一九七一)年刊)で、新字旧仮名であるが、読むことが出来る(一九八~二一〇ページ)。また、底本と同じく「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらで、その初出である「芥川龍之介硏究」(大正文學研究會編・昭和一七(一九四二)年刊)を視認出来る(かなり地が焼けてはいる)。この中村氏の論考は芥川龍之介の俳句に関する論考の中でも傑出したもので、未読の方は是非読まれたい。残念ながら、中村氏に著作権は存続しており、私の生きている内には電子化出来ない。
既注であるが、私はサイトのこちらで、全五巻から成る、如何なる現在の出版物よりも、正しく、しかも最多でもある「定本 やぶちゃん版 芥川龍之介全句集」を完成している。その程度には私の芥川龍之介の俳句に対しては「我鬼」であると言ってよいのである。
本篇を以って、「三十一 室賀老人のこと」に始まった綾なす龍之介絡みの恒藤恭の俳句に纏わるエッセイは終わっている。]
三十五 俳人としての芥川龍之介
中村草田男氏は「俳人としての芥川龍之介」と題する一篇のはじめに次の如く書いてゐる。「我鬼―俳人芥川龍之介―は、当然のことであるが、小說家芥川龍之介と全然別個の存在ではない。ただ文藝の異なれる分野、側面にあらはれた藝術家龍之介の共通の姿が、そこに認められるに過ぎない。」
草田男氏は、少し先きのところで次のやうに述べてゐる。
芥川は俳句を眞に愛してゐた。或る雜誌から需められた略歷風の文章の中には「余技は発句の外には何もない。」と答へてゐる。唯一の余技は、余技以上の意味を持つてゐたであらう。「軽井沢日記」といふ随筆の中には、こんな一節がある。「その晩R氏が自分の俳句の惡口を言つたので、自分は怒つて、R氏の頰をぴしやぴしや打つた。(中略)そんな夢を見た。さめたあとも変な気がして不快だつた。」余技と銘うつてゐるものの、それに第一義的價値を置いて居たればこそ、たとひ夢中の世界に於てでも。他人の非難の言辞はかくまで聞き捨て難かつたのであらう。それだけに。数少い彼の俳句作品中、彼の好みにかなつたものには長い年月に亙つて絕えず彫琢が施されて居たやうである。一例を挙ければこんな記事がある。「僕、曩日久保田君(註・万大郎)に『うすうすと雲りそめけり星月夜』の句を示す。傘雨宗匠善しと称す。数日の後、僕前句を改めて『冷えびえと曇り立ちけり星月夜』と爲す。傘雨宗匠頭を振つて曰、『いけません。』然れども僕畢に後句を捨てず。」しかも数年の後に、此句は更に推敲されて「風落ちて曇り立ちけり星月夜」と訂正されて残されて居る。……念のため、先、彼の俳歷をうかがつてみよう。ちやうど、彼自身の一文「わが俳諧修業」がある。これによると――小学校時代、四年生の時に始めて十七字を並べてみたといふ「落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」の一作がある。自ら「鏡花の小說など読みてゐたれば、その羅曼主義を学びたるなるべし」と註してゐるが、只管驚歎に値する早熟ぶりであり、確かに偏つた好みの作りものであるとはいへ、一面には後年の彼の藝境を既に立派に規定暗示してゐる。
俳人しての芥川龍之介について草田男氏の詳細な諭評はよく肯綮に中つてゐると思ふけれど、これ以上ここに紹介することは差控へる。
無名の俳人室賀文武氏が芥川家を訪問し、芥川夫人の手紙の中にかいてあるやうに、しばしば長時間芥川龍之介と対談した折りに、訪客の中で最も善良の人と彼が評してゐた室賀氏に芥川は俳人芥川龍之介として対座したのであつたらうか。小說家芥川龍之介として対座したのであつたらうか。それとも、單に平和な家庭の人芥川龍之介として対座したのであつたらうか。そのいづれとも私には見当がつかないけれど、とにかく「戲作三昧」の中の馬琴が、神田同朋町の銭湯松の湯で、彼の著作の愛読者の一人である近江屋平吉に向つて話したやうな、皮肉なことばつきを弄しなかつたことは確かであらう。
――一九四八・四・一四――
[やぶちゃん注:最後のクレジットは底本では二字上げ下方インデントであるが、ブログでは引き上げた。
『或る雜誌から需められた略歷風の文章の中には「余技は発句の外には何もない。」と答へてゐる』これは大正一四(一九二五)年一月発行の雑誌『文藝倶楽部』に、武者小路実篤・徳田秋声等九人の作家の回答と一緒に掲載された「現代十作家の生活振り」の中の芥川龍之介のそれである。古くにサイトで電子化してあるので見られたい。芥川龍之介の〈俳句余技伝説〉の濫觴である。そこだけ引いておく。
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餘 技
餘技は發句の外には何にもない。勝負事はどうもやる氣が起らない。人は、負けるのが厭だからなのだらうと云ふが、自分は、必ずしもさうとは思つてゐない。
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この謂いは、虚心に読めば、寧ろ、「余技」を謙辞として読むべきは当然であって、かのストリーテラーの達人芥川龍之介にして、「売文以外に芸術としての創造物として自信があるのは発句だけである。」と闡明していると読む以外の余地はないものである。
「軽井沢日記」私のサイト版「芥川龍之介輕井澤日録二種」の二種目の「大正14(1925)年8月24日(月)芥川龍之介輕井澤日錄」と仮題したものが、それである。私はそこの注で「R氏」(このイニシャルの人物のみが不明)について、芥川龍之介の最年長(十一年上)の友人で彼が「入谷の兄貴」と呼んでいた俳人小澤碧童を候補としていた。河東碧梧桐門下の新傾向俳人で『海紅』同人であった。何より、彼は「露柴」(ろさい)という俳号を持っていたからである。
「僕、曩日」(なうじつ(のうじつ):先の日。)「久保田君(註・万大郎)に『うすうすと雲りそめけり星月夜』の句を示す。……」これは「久保田万太郎氏」(『新潮』大正一三(一九二四)年六月)の末尾の一段。全体は「青空文庫」のここで読めるが、新字新仮名で致命的なので、岩波旧全集で最終段落のみを示す。
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因に云ふ。小說家久保田万太郞君の俳人傘雨宗匠たるは天下の周知する所なり。僕、曩日久保田君に「うすうすと曇りそめけり星月夜」の句を示す。傘雨宗匠善と稱す。數日の後、僕前句を改めて「冷えびえと曇り立ちけり星月夜」と爲す。傘雨宗匠頭を振つて曰、「いけません。」然れども僕畢に後句を捨てず。久保田君亦畢に後句を取らず。僕等の差を見るに近からん乎。
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なお、これは「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句(明治四十三年~大正十一年迄)」にも収録してあるので参照されたい。また、最終決定稿を支持する(私も同感)私の「其の後の虛子、龍之介、二氏の俳句 飯田蛇笏」も読まれたい。そもそもが万太郎の句を私は全く認めない男である。
「わが俳諧修業」私のサイト版で電子化してある。
「羅曼主義」「浪漫主義」に同じ。
「肯綮に中つてゐる」「こうけいにあたつてゐる」。「荘子」の「養生主篇」の一節が原拠。戦国時代の魏の文恵王に仕えた料理の名人庖丁(ほうちょう)が「文惠君のために牛を解く、技は肯綮を經(ふ)ること未だかつてせず」とあるのに基づく。「肯」は「骨に纏わりついた厄介な肉」、「綮」は「筋と肉の繋がる複雑な部分」を指し、牛を解体する際に重要な問題のある箇所であることから、「急所・物事の要(かな)めを的確に押さえ捉えている」ことを意味する。
『「戲作三昧」の中の馬琴が、神田同朋町の銭湯松の湯で、彼の著作の愛読者の一人である近江屋平吉に向つて話したやうな、皮肉なことばつきを弄したかつたことは確かであらう』『三十四「戲作三昧」における馬琴の俳句観』及び私のサイト版「戯作三昧」を参照されたい。]
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