久保田万太郞「年末」 (芥川龍之介の「年末の一日」についての随想)
[やぶちゃん注:本篇は「芥川龍之介硏究」(大正文學硏究會編・昭和一七(一九四二)年七月河出書房刊)の「思ひ出」パートに書き下ろしで収録された、芥川龍之介の晩年の印象的な逸品「年末の一日」(リンク先はの古い電子化)についての随想である。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の原本当該部(リンクは冒頭ページ)に拠った。但し、所持する筑摩書房の『全集類聚』版「芥川龍之介全集」別巻に載る同篇(但し、新字)をOCRで読み込み、加工データとした。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。
久保田万太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家・俳人。東京府東京市浅草区浅草田原町(現在の東京都台東区雷門)の袋物(足袋)製造販売を業とする「久保勘」という商屋に生まれた。浅草馬道(現在の花川戸)の市立浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)を卒業、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)に進んだ。この時、一級下に芥川龍之介がいた(三歳年下。但し、彼が芥川と親しく交遊するようになったのは、関東大震災以後とされる)が、明治三九(一九〇六)年の第四年次への進級試験で、数学の点が悪く、落第したため、中退し、慶應義塾普通部へ編入、三年を、もう一度、繰り返して留年した。次いで、慶應義塾大学予科へ進学、折しも同大文学科に森鷗外(顧問)や、永井荷風(教授)が招聘されたことが作家への道を選ばせたとされる。当初は『三田俳句会』で出会った岡本松浜について俳句を稽古し、上田敏を顧問とし、永井が主幹となって発刊された『三田文学』で、水上滝太郎を知る。その頃、松浜が東京を去ったことから、松浜を介し、松根東洋城に俳句を師事している。明治四四(一九一一)年、予科二年を経て文科本科に進み、小説「朝顔」・戯曲「遊戯」を『三田文学』に発表し、『東京朝日新聞』の時評で、小宮豊隆が絶賛し、一躍、『三田』派(耽美派)の新進作家として世に文名を挙げることとなり、同年七月、『太陽』に「千野菊次郎」の筆名で応募した戯曲「プロローグ」が小山内薫の選に入ってもいる。また、この頃、島崎藤村を訪ねている。劇作では、『築地座』を経て、『文学座』の創立に参加し、新派・新劇・歌舞伎の脚色・演出と、多方面に活動を展開、後に『日本演劇協会』会長を務め、文壇・劇壇に重きを成した。小説・戯曲ともに、多くは浅草を舞台とし、江戸情緒を盛り込んだ情話で、長く人気を得た。また、文人俳句の親分的存在としても知られ、俳誌『春燈』を創刊、主宰している(以上は当該ウィキを元にした)。但し、私は彼の俳句を全く評価していない。]
年 末
芥川君に「年末の一日」といふ作がある。年末、ある新聞社の人を案内して夏目先生のお墓まゐりをしたところ、どう道を間違へたか、行けども行けどもお墓のまへに出なかつた。墓掃除の女に訊いたりして、結句は分つたものの、そのときはもうあぐねつくし、疲れ返つてゐた。そのあとその連れとわかれ、一人とぼとぼした感じに田端まで歸り、墓地裏の、八幡坂まで達したとき、たまたまそこに、その坂を上りなやんでゐる胞衣會社の車をみ出した。自分のその萎えた氣もちを救ふため、無理から力を出し、ぐんぐんとその車のあとを押した……といふのがその作の筋である。
「北風は長い坂の上から時々まつ直に吹き下ろして來た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を嗚らした。僕はかう言ふ薄暗がりの中に妙な興奮を感じながらまるで僕自身と鬪ふやうに一心に箱車を押しつゞけて行つた……」
そして、この作、かうした哀しい結尾をもつてゐる。
十枚にもみたないであらう小品だがわたしの好きな作である。好きといふ意味はいつまでも心に殘つていとしい作である。大正十四年十二月の作だから、これを書いたあと、間もなく、かれは「點鬼簿」「玄鶴山房」を經て「河童」を書いたのである。そして、そのあと、かれは死んだのである。……ことによると、このとき、……すでにこの時それを意識してゐたかれだつたかも知れないのである。でなくつて、それは、「……鬪ふやうに一心に箱車を押しつゞける」かれのすがたはあまりに慘めである。曇つた空の下、ふきすさぶ風の中、どうしたら自分をはツきりつかむことが出來るか、どうしたらかれ自身その存在をたしかにすることが出來るか?……泣かうにももう泪の涸れた瀨戶の、空しい眼をあげてただ遠いゆくてをみまもるかれの頰のいかに蠟の如く冷めたかつたことよ……
しかも、かれは、かれ自身この苦しみを飽くまではツきりさせようとした。飽くまでただしく傳へようとした。わたしはこれをその當時「新潮」の編輯をしてゐた佐々木千之[やぶちゃん注:「ちゆき」。]君に聞いた。その八幡坂を上りなやんでゐた車、かれの力のかぎりをつくしてそのあとを押した箱車の、その橫に廣いあと口に東京胞衣會社の數文字を書くまでに幾度その行を書きかへたか知れないのだつた。胞衣會社の箱車をえてはじめてかれはかれ自身納得したのである。……わたしはこれを聞いたとき、身うちの冷え切るのを感じた。
「どうです、暇なら出ませんか?」その「年末の一日」の中のかれはその新聞社の人にかういつてゐる。
……わたしはおもひ出した、しばくわたしもかれからかうしたことをいはれた。そして、しばしなかれとともにあてもなく散步したりした。
「どうです、おまんまを喰べに行きませんか?」
あるときである、ふらりと、いつものやうにわたしはかれの書齋にすわつた。そしていつものやうに、一二時間、われわれは、とりとめなく饒舌りあつた。そのとき、突然、どんなことでも思ひついたやうにかれはいつた。
「さア……」
わたしは躊躇した。
「行きませう、行きませう。……いいぢやありませんか、そのまんまで……」
……といふのは、そのとき、わたしはふだん着のまゝだつた。ふだん着の上に外套を引ツかけて出て來たわたしだつた。
「えゝ、ぢやア……」
わたしといへどそのまゝわかれにくかつた。結局賛成して一しよに外へ出た。
動坂へ出て電車に乘つた。上野で下りて池の端の或料理屋へ行つた。……こゝで「或」といふのはことさら名まヘをいはないのではない、忘れたのである。……正午をすこしすぎたばかりのかうした家のしづけさ……しぐれの暗さをもつたそのしづけさにつゝまれて、われわれは、がらんとした、何としても二人には廣すぎる感じの、しらじらした座敷の眞ん中に向ひ合つた。
間もなく膳が運ばれた。わたしに猪口を取上げさせつつ、かれは、平野水のなかに食鹽を入れて飮んだ。再び、われわれは、とりとめなく饒舌りつゞけた。[やぶちゃん注:「平野水」炭酸水。天然に涌き出る水で、炭酸ガスを含み、商品として飲料に供せられた。兵庫県平野温泉から産出したところからの命名で、後の「三ツ矢サイダー」である。]
とくに、なぜ、かうした例をこゝにもち出したかと讀者はあやしむかも知れない。しかもこの日のことは、嘗て一度、かれがつねに襟をかけた下着をもちひてゐた床しさをつたへるそもそもの立前にわたしは話してゐるのである。それを重ねて、いまさらのやうにまたわたしのかういふのは、それが矢つ張年末だつたからである。ともに新年のための仕事をすませたあとのことだつたからである。……その座敷の、一方だけあいた窓の、貼りかへたばかりの障子のそとに遠く見下された町々の、そこにすでに所狹く立てられた軒々の笹……それはいつになつてもなつかしいおもひで……春を待つ子供の時分のおもひでがさういつても愉(たの)しくわれわれの胸によみ返つてゐたのである。
大正十三年の十二月である。……すなはち「年末の一日」を書いた前の年のことである。わたしはそれを思ふのである。……
その家を出たあと、われわれは、ぶらぶら切通しの坂を上つた。古本屋を素見[やぶちゃん注:「ひやかし」。]したり靑木堂へよつたりした。靑木堂へよつたのは、わたしがそこの紅茶を東京でのうまい紅茶だといつたのに對して、かれは、いゝえ、それは紅茶ぢやアない、珈琲だ、あすこの珈琲は、東京でのうまい珈琲だと主張した、それぢやア試さうといつて、そこの、暗い階子段を上つたのである。[やぶちゃん注:「靑木堂」明治から大正期にかけて通寺町(現在の神楽坂六丁目)にあった食料品商。酒・洋菓子・煙草・西洋雑貨を手広く扱っていた。]
かれの說を尊敬して、わたしは、珈琲を飮んだ。しかし、決してかれのいふほどのことはなかつた。いつも飮む紅茶のはうが數等上だつた。正直に、わたしは、それをかれにいつた。
「うん、今日のはあんまりうまくない。」
素直にかれは肯定した。そしてもう、そんなことはどうでもいゝやうに、皿の上の菓子を、果敢にかれは征服して行つた。……わたしは、かれの、おもひの外なその健啖さにおどろいた。……とにかく、そのとき、その家を出てまだ一時間とたつてゐなかつたのである……
靑木堂を出て追分のはうへまたあるいた。高等學校のまへの、わたしの知合の文房具屋へ入つた。わたしのした買物と一しよに、かれも、小穴隆一君の小さい妹のところヘもつて行くみやげものを買つた。そしてそこを出て右と左へわかれた。……わたしの記憶にもしあやまりがなければ、極月の暮迅い日は、そのときもう遠い方のあかりのいろを目立たしいものにしてゐた。
が、それにしても、その强い食慾、あかるい心もち、こだはりのないとりなし。……いつ、どうして、どうしたつまづきから、かれは、それらのすべてを失つたのか?……わづか一年。……わづか一年の間にである。……[やぶちゃん注:以下、二行空け。]
……わたしは、今日、朝からこれを書いてうちにゐる。このごろのわたしとしてはめづらしいことである。なぜなら、このごろのわたしは、わたしのもつ一日の時間の大ていをいそがしく外でばかりくらしつゞけてゐるからである。わたしにかうした生活が、たとひ一時にもせよ、待つてゐようとはかれでもおそらく思はなかつたらう。わたしでも思はなかつた。人間といふ奴はいつどうなるか分らない。……といふことは、かれでもゝし、いまゝで生きてゐたら?……[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、久保田はこの執筆当時、『劇団文学座を結成』した後で、これより『新派、新劇、文学座の演出を数多く手がけ』、『明治座や有楽座』・『国民新劇場で』多くの芝居を『上演』、『他にも里見弴と親交を結び、脚色』・『演出を行』っていたが、この昭和一七(一九四二)年には、四『月から内閣情報局の斡旋にて満州国に滞在』したり、『日本文学報国会劇文学部幹事長となり、日比谷公会堂における日本文学報国会の発会式に劇文学部会長として宣誓を朗読』するなどの、大日本帝国の翼賛行動に奉仕し、遑がなかったのである。]
外には雨がふつてゐる。落葉を濡らして止むけしきなくふりつゞけてゐる。……貼りかへた障子、表替をした疊、今年ももうあと一週間と殘つてゐない。
久 保 田 万 太 郞
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