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2023/01/17

芥川龍之介書簡抄157 追加 大正六(一九一七)年九月四日 井川恭宛

 

大正六(一九一七)年九月四日・消印五日・京都市下加茂村松原中ノ町八田方裏 井川恭樣 侍史・九月四日 かまくら海岸通野間方 芥川龍之介

 

 君に隱遁を賛成されて大にうれしくなつたから、この手紙を書く。

 隱遁にかけては どうも東洋の方が西洋の方より進步してゐるやうだ 僕は同じ隱遁でも 西洋の坊主のやるやつは余り同情がない。エピクロスが地面を買つて 庭を造つて、お弟子と一しよにぶらついたのなどは 西洋にしては白眉だが 東洋にはざらにある 殊に支那人はその方面では大したものだ 王摩詰君などの高等遊民ぶりは實にうらやましい(陶君は田野にくつつきすぎて 僕には稍緣が遠い)

 林泉の間に徘徊して、暇があれば本でもよんでゐるんだと、僕だつてもう向上するんだが、この頃のやうに鬼窟裡に生計ばかり營んでゐたんぢやとても駄目だ 君は僕があまり書かないと云つたが、浮世の義理で やつぱり殆月々書かされてゐるよ 今月も黑潮と中央公論と二つ書いた それから新潮に日記を書いたから、これは君の方ヘ東京から送らせてよんで貰ふ。

 どうも日本では、隱遁がブルヂヨオアの手に落ちて以來、墮落したね ポピユラライズはヴアルガライズだつた形があるよ 德川時代も元和頃には詩仙堂の大將なんぞがゐたが、追々市井の隱居なるものが勢力を得て來て 大に隱遁道が低級になつて來た。まづ元祿の芭蕉が、最後の偉大なる隱遁家だらうと思ふ まてよ、そのあとにも九霞山樵がゐる 高芙蓉がある。どうも僕の隱遁史は少し怪しいやうだ

 雅子さん御懷胎の由結構な事だ 僕の友人の細君で、今つはりで弱つてゐるのが二人ある。一人はフラウ・アカギだ

 僕も家を持つと どうせ貧乏人だから消極的に細々とやつて行かなけりやならない それでも下宿生活よりましだらう 下宿生活位天下に索漠蕭瑟たるものはないね パリで下宿ずまひをしてゐる中に、シングが碌なものを書かなかつたのは當然すぎる事だよ

 かくと云へば かく事は澤山あるんだが、中々かけるやうに形態を備へて來ない それに時々 腰がふらついていけない ふらつかない氣でも あとで氣がついて見ると ふらついてゐるんだから駄目だ こないだシヤヴアンヌが惡評はよまずに燒いてしまつて どんどん仕事をしたと云ふのをよんで以來 僕もその方法を採用してゐる 印象派全盛の中で、あんな画をかきつづけるには、さうでもしなかつたら 駄目だらう 僕も批評と云ふ方面でだけ現代と沒交涉になつて、益自由を尊重して行かうと思つてゐる

 僕はこの頃大雅の画に推服し盡してゐる あいつ一人 どうしてあんな時代に出たらう 雪舟とくらべたつて、或はだと思ふ 一步すすめて、夏珪や牧溪にくらべても或はだと思ふ それから字もあの男は馬鹿にうまいね[やぶちゃん注:以下の丸括弧二つは底本では繋がった大きな「(」。これはしかし、芥川龍之介自作の漢詩の二句目の「四十九年非」に対する注指示の記号であって、「二十六年非」(この時、芥川龍之介数え「二十六」歳)としたのでは、「平仄が合はない」からこうした、という注記である。]

         (二十六年非ぢや平仄が合はない

   卽今空自覺 (四十九年非

   皓首吟秋宵  蒼天一鶴飛

 隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる 序にもう一つ

   心情無炎暑

   端居思瀞然

   水雲凉自得

   窓下抱花眠

    九月四日

   井 川 恭 樣                 龍

 

[やぶちゃん注:「かまくら海岸通野間方」既に注した由比ガ浜和田塚近くの下宿であるが、この十日後、横須賀市汐入の下宿に移っている。

「エピクロス」Epikouros(起源前三四一年~紀元前二七〇年)はギリシアの哲学者。紀元前三一一年頃んいミュティレネに学派を創始し、同三〇六年にはアテネ郊外の庭園に移った。それに因んで彼の学派は「庭園学派」と呼ばれる。デモクリトスの原子論を根底とし、霊魂をも、物体とする唯物論者であり、感覚を知識の唯一の源泉、且つ、善悪の標識とした。そこから有名な「快楽主義」が生れたが、その快は、煩いを伴うものであってはならないとして、享楽であるより、苦しみのない心の平静でなくてはならないとした。そこで彼は、来世を否定し、死に対する恐怖を断ち、神々を恐れる迷信を乗越え、自ら神々の平静さに与かろうとした。この努力により、彼は「魂の救済者」という名声を得、その範例的生故に人々の尊敬を集めた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「王摩詰君」知られた盛唐の詩人王維の字(あざな)で「わうまきつ」と読む。

「陶君」私が高校時代から偏愛する魏晋南北朝(六朝)時代の東晋末から南朝宋の頃の詩人陶淵明。

「鬼窟裡」「鬼窟」は「知識が開けず、ものの道理に冥いこと。また、そうした場所・仲間」の意で、転じて「くだらないこと・存在」の意に用いるので、ここは「俗世間」の意である。

「今月も黑潮と中央公論と二つ書いた」九月一日発行の『黒潮』に発表した「二つの手紙」と、同日発行の『中央公論』に発表した「或日の大石内藏助」(リンクは前者が「青空文庫」(但し、新字新仮名)、後者は私の古いサイト版で正規表現版でオリジナル注附き)。前者は芥川龍之介の最初のドッペルゲンガー小説である。因みに芥川龍之介は後年、自身のドッペルゲンガーを見たと証言している。私のブログ版『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を参照されたい。一方、後者は、私が中学時代にこのシークエンスを選んで心理分析した龍之介に大いに感心した佳品である)。

「新潮に日記」九月一日発行の『新潮』に発表した「田端日記」。

を書いたから、これは君の方ヘ東京から送らせてよんで貰ふ。

「ポピユラライズ」popularise。フラットな意で、「一般化する」。

「ヴアルガライズ」vulgarize。批判的謂いで、「卑俗化する・俗悪化にする・通俗化する」。

「元和」江戸前期の「慶長」の後で、「寛永」の前。一六一五年から一六二四年まで。徳川秀忠・徳川家光の治世。

「詩仙堂の大將」石川丈山(天正一一(一五八三)年~寛文一二(一六七二)年)は元武将で文人。三河生まれ。「大坂の陣」の後、浪人となった。一時は浅野家に仕官したが、致仕し、京都郊外に隠棲し、丈山と号した。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「九霞山樵」南画家・書家として知られる池大雅(享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)の別号の一つ。

「高芙蓉」(享保七(一七二二)年~天明四(一七八四)年)は甲斐高梨生まれの儒者で篆刻家・画家。出生地に因み、姓を「高」とした。 二十歳の頃に京都へ移住し、儒学・金石学・篆刻・書画・武術を独修した。儒学者として立つのが本意であったが、寧ろ、余技とした篆刻・作画で知られた。篆刻は秦・漢の古印の復古を志し、当時、日本で盛んだった明の刻風を一変させ、「印聖」と称された。絵画は宋元画を臨模し、柔軟な感覚による清楚な作風で知られる。池大雅・円山応挙など、当時の文人と広く交わり、指導的役割を果した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「雅子さん」恒藤の妻。当時は数えで二十歳。

「フラウ・アカギ」「フラウ」はドイツ語の“Frau”で「夫人・妻」の意。「アカギ」は評論家赤木桁平。昨日公開した「芥川龍之介書簡抄156 追加 大正六(一九一七)年八月二十九日 井川恭宛」の私の注を参照。

「蕭瑟」(せうひつ(しょうしつ))は、元は「蕭」が風や落葉のものさびしい音の形容で、「瑟」は「大形の琴」であるが、もの淋しい音がすることから、これで「秋風がものさびしく吹きすさぶこと」を言う。組んだ「索漠」と同じ。

「パリで下宿ずまひをしてゐる中に、シングが碌なものを書かなかつた」さんざん注したアイルランドの劇作家で詩人のジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)は一八九四年にパリ大学に留学し、一九〇三年に故国に戻っているが、この間に彼は、事実、碌なものを書いていない。但し、一八九六年にと翌年の二度、アラン諸島を訪づれており、これが後年の名作「アラン諸島」(The Aran Islands :一九〇七年)を生んだ。私は同作の姉崎正見訳を、こちらのサイト版(三部分割)、及び、ブログ版で電子化注を古くに終っている。なお、その一八九七年に彼は宿痾となるホジキン・リンパ腫を発症している。実際、彼の優れた作品は総てアイルランドに戻って以降に書かれたものである。私は特に、戯曲「聖者の泉」(三幕)がすこぶるつきで好きで、芥川龍之介が最後に愛した松村みね子(片山廣子)訳をサイトで公開してある。

「シヤヴアンヌ」フランスの画家ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes 一八二四年~一八九八年)。

「夏珪」(生没年不詳)は南宋の画家。杭州銭塘県出身。南宋の都の臨安の画院で、寧宗の時代に活躍し、特に山水画で知られる。当該ウィキによれば、『北宋期の風景画が大観的な視点から描いているのに対し、夏珪の画の多くは、画の一角に風景を描き』、『多くを余白にした(「辺角の景」)』とある。

「牧溪」表記は牧谿(生没年不詳)が正しい。十三世紀後半の南宋末・元初の僧。法諱は法常。当該ウィキによれば、『水墨画家として名高く、日本の水墨画に大きな影響を与え、最も高く評価されてきた画家の一人である』とあり、彼の山水画は、本邦では、古くからもてはやされた。『鎌倉時代末には日本に伝わっ』ており、十四『世紀中頃には贋作が多く作られるほど人気を呼び、当時の文献でただ「和尚」といえば牧谿のことを指すほど親しまれた。記録も数多く残り、牧谿作品の来歴もかなり正確に知ることが出来る』とし、『牧谿のモチーフの中でも猿は非常に人気があり、雪村や式部輝忠といった関東水墨画の絵師たちも多くの作品を残している。最も熱心に牧谿を学んだ絵師は長谷川等伯で』、『「等伯画説」でも多くの項目を牧谿に充て、明らかに牧谿の影響を受けた作品が数多く残る。傑作「松林図屏風」』(私の偏愛の屏風)『もその成果が結実した作品と看做せよう』。『現在、牧谿の優品はほぼすべて日本にあり、国宝、重要文化財に指定された作品も多い。中国・台湾・欧米にも伝称作を含め』、『牧谿の絵はほとんど存在しない』とある。

「卽今空自覺」「四十九年非……」の漢詩は、私のサイト版「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」の「十四」で教え子も加わって、かなりディグしてあるので、是非、参照されたい。

「心情無炎暑 端居思瀞然……」同前のリンク先の「十三 乙」を参照されたい。これには別稿があり、それがその前の「十三 甲」である。

 なお、言っておくと、この書簡が書かれた同じ日に、芥川龍之介は婚約者塚本文に手紙を書いている。「芥川龍之介書簡抄79 / 大正六(一九一七)年書簡より(十一) 塚本文宛三通」を見られたい。]

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