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2023/01/06

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その23) /「二十三 退屈するといふこと」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。]

 

       二十三 退屈するといふこと

 

 子供たちが小学校に通学してゐたころは、よく一緖に岡崎の動物園に行つたものであるけれど、近年は久しく行つたことがない。このごろは無隣庵での会合に出席するために每月一度は動物園の門前をとほるならはしだが、以前の構内のなかばは進駐軍の自動車のグラウンドになつてゐるやうだ。

 人間の世界の食糧難は動物園にも深刻な影響を及ぼしてゐるさうだから、此の頃の園内の樣子はわからないけれど、子供たちと連れ立つて行つたころの事を思ひうかべると、いつ行つて見ても、そこに飼はれてゐる種々雜多の鳥や獸たちが狹い檻の中の生活に安んじてゐて、如何にも氣樂さうにふるまつてゐるな、と感じさせられたものである。ことに、いつもつくづく感じたのは、獅子だの虎だののたぐひから、かささぎとか、をしどりとかのたぐひにいたるまで、どの獸でも、どの鳥でも、いささかも退屈さうな表情をしてゐないといふことであつた。

 どうも、「退屈の感じ」は人間に特有なもので、人間以外の動物はたいくつすることはないらしい。ただ、あの始終休みなく首をふり振り檻の中の一方から他方まで前進して行つては、また後退する運動をくりかへしてゐる白熊は、ひよつとしたら其の例外に属するかとも思へるが、ほんたうのところは、衝動に駆られて運動してゐるだけの話で、なにも退屈をまぎらすために運動してゐるわけでもないであらう。

 さて、現在のやうに市内電車や郊外電車に乘る前に行列の中に加はつて相当の時間たたずんでゐなくてはならぬ時代には、そして、たとへば私などのやうに日ごとにそのやうな機会をもつ者にとつては、とりわけその必要が大きいのであるが、あたり前ならばたいくつせずには居れない其のあひだを退屈しない心の工夫をする必要がある。いや、電車に乘つて腰かけてから後も目的地に到着するまでの間やはりさうした工夫をする必要がある。むろん新聞などを読んだりするのは最も簡便な方法だけれど、眼をいたはる上からはいつもそのやうな方法にたよるわけには行かない。いろいろの実際的な又は理論的なことがらを考へ、かんがへながら時を過ごすことが多いけれど、もつと徹底的な方法は、放心の狀態に入つて、時の移つて行くままに任せることにあるやうだ。

 いつたい、よる眠つてゐる間は別として、一日のうちの時間を少しもたいくつすることなく過ごしたいものであるが、なかなか思ふやうにならぬもので、とかく退屈の惡魔のとりこになる恐れがある。だから、一日のうちに何度かぼんやりしてゐて、しかもたいくつだといふ感じにとらはれないやうにする必要があるだけだ。

 ところで、いつもなにかしら積極的に心をはたらかせてゐずには居れない性分の人があるやうだが、芥川はその種類の人の典型的なものであつたと思ふ。つまり、退屈することが非常にきらひで、人と話すか、本をよむか、ものを考へるか、執筆するか、散步するか、とにかく二六時中なんとかして心をはたらかせないでは居れない性分であつた。

 芥川龍之介全集は七巻と別册と、あはせて八巻を包含してゐる。各卷いづれも菊版で七八百ページあり、全体では六千ページを超えてゐる。大体において大正三年あたりから三十六歲で亡くなつたまでの十五年[やぶちゃん注:ママ。十三年で数えでも十四年である。]ばかりのあひだに書かれものであるが、一行一句もおろそかにせぬ凝り性だつた芥川が、それだけの分量のものを書くために、どれほど多くの、緊張した意識の時間をつひやしたかは、想像に余りがある。しかも、いつも中々訪問の客が多かつたし、文学者仲間の会合などにも割合によく出席してゐたやうである。おまけにその間には中國旅行をはじめ、ちよいちよい遠方への旅行に出かけてゐる。

 絕えず烈しく心臟を鼓動させながら人生の行路を急ぎ足であゆみ通したものである。それは緊張した、あまりにも緊張した生涯であつた。

[やぶちゃん注:「岡崎の動物園」京都府京都市左京区岡崎にある京都市立の京都市動物園(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)のこと。大正天皇の結婚を記念して明治三六(一九〇三)年四月一日に開園した。東京の上野動物園に次ぐ日本で二番目の古い動物園である。公式サイトの「沿革・年表・動物園の歩み」によれば、昭和二一(一九四六)年四月に進駐軍により南側の約一万三千二百平方メートルが接収されていた。本書は昭和二二(一九四七)年発行である。なお、接収解除は六年後の昭和二七(一九五二)年五月であった。

「無隣庵での会合」「無鄰菴」が正しい。元は明治二七(一八九四)年から同二十九年にかけて造営された明治・大正時期に元老として政界を牛耳った山縣有朋の別荘。南禅寺門前にある。「会合」は不詳。

「ただ、あの始終休みなく首をふり振り檻の中の一方から他方まで前進して行つては、また後退する運動をくりかへしてゐる白熊は、ひよつとしたら其の例外に属するかとも思へるが、ほんたうのところは、衝動に駆られて運動してゐるだけの話で、なにも退屈をまぎらすために運動してゐるわけでもないであらう」この見解には恒藤に共感出来ない。私は動物園の動物は、本来の生きるための自律的な狩りをすることがなくなり、餌を与えられ、居心地のいい舎屋を当てがって貰っている一方、檻からずっと出られない状況のために、退屈どころではない、一種の拘禁性精神病或いは神経症に罹って、ああした常同行動をとっているのだと思う。

「現在のやうに市内電車や郊外電車に乘る前に行列の中に加はつて相当の時間たたずんでゐなくてはならぬ時代には、そして、たとへば私などのやうに日ごとにそのやうな機会をもつ者にとつては」既注であるが、再掲すると、本書刊行時、恒藤恭は昭和二一(一九四六)年に大阪商科大学学長及び京都帝国大学法学部教授(兼任。昭和二四(一九四九)年まで)・同志社大学客員教授(兼任)となっており(昭和二十四年、新制大学として発足した大阪市立大学初代学長となるまで)、三つの大学を掛け持ちしていたためである。

「芥川龍之介全集」以前に注した通り、昭和二(一九二七)年十一月から昭和四年二月までの間で岩波書店から発行された、所謂、第一次〈元版〉全集と称せられるそれを指す。

「全体では六千ページを超えてゐる」これでは漠然としていて、芥川龍之介が生涯にどれだけの作品をものしたかはちょっとイメージし難いかと思われる。実は私が「これは買って良かった!」と思っている数少ない優れ物の芥川龍之介関連本の一つに、絵本作家松本哉氏の「芥川龍之介の顔」(一九八八年三省堂刊)がある。ビジュアル的に抜きん出て凄い内容なのであるが、その「芥川龍之介の生涯」の中で、岩波版旧全集の談話・発句・詩歌・書簡を除いて、その字数を計算し、原稿用紙に換算した棒グラフというとんでもないもの凄いものが、かの龍之介が尊敬した御大泉鏡花(彼は芥川龍之介の葬儀で最初に弔辞を述べている。なお、現在知られている岩波版「鏡花全集」のそれが実際読まれたものとは異なることを、私は、昨年、知って、実際の弔辞原稿を知られたそれと並べてサイトでPDF縦書版で作成してある)のそれと比較する形で、さりげなく掲げられてあるのである(一八六~一八七ページ)。それによれば、芥川龍之介は全七千五百枚とあり、泉鏡花は全三万枚となっている。龍之介のそれは大正三(一九一四)年五月『新思潮』の「老年」を最初として、自死までは十三年(恒藤恭の「十五年」は誤記か誤植であろう)。泉鏡花は処女作「冠彌左衞門」明治二六(一八九三)年五月で、昭和一四(一九三九)年七月の「縷紅新草」(リンク先は昨年私がものしたサイト版PDF縦書正規表現版注附き)が生前最後の小説であるから、四十六年で作家生活が二・七倍ほどであるから単純に比較は出来ないが、単純に年割にすると、龍之介が五百七十二枚程、鏡花が六百五十二枚程になる。しかし、そのグラフを見ると、鏡花の若い時のピークは二十九歳の七百枚超え(しかも総て小説)であり、最大ピークは小説以外も含めたもので八百五十枚にも及ぶ。一方、龍之介の同じ二十九歳のところにピークがあるが、文章全部をひっくるめても三百五十枚に及ばず、最大のピークである自死の年の年初で同前で三百五十枚ほどである(但し、没後発表の小説以外の二百五十枚が目立つ)。芥川龍之介ファンとしては、この二グラフはちょっと残念なものではあるが、龍之介が心から慕った鏡花と比べられるだけでも、あの世の龍之介は喜んでいることであろう。因みに、私は泉鏡花のファンでもあり、昨年より正規表現版マニアック注釈附きのものをサイトの「心朽窩旧館」で公開しているので、見られたい。

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