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2023/01/07

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その25) /「二十五 森鷗外の印象」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。

 

        二十五 森 鷗 外 の 印 象

 

 芥川龍之介に対して最も深い影響を及ぼした日本の作家は森鷗外と夏目漱石との二人だといはれてゐる。それはおそらく妥当な判断であらう。漱石と芥川との間柄は師弟の関係であつたと言ひ得べく、漱石門下の人々の中では芥川は漱石によつて最も愛せされた弟子の一人であつた。ことに第四次新思湖の創刊号にあらはれた「鼻」に対して漱石が好意にみちた賞讃のことばを送つたことが、文壇における芥川の発足を華々しいものとし、その後の彼の進出を少からず勢ひづけたことについて、芥川は深い感謝の念を心の底に持ちつづけてゐたやうである。彼の鷗外に対する関係はそのやうな親密なものではなかつたけれど、創作のうへではむしろ漱石より一層大きい影響を鷗外から受けたのだと思ふ。

 私が京都から何遍か上京して滯在したあひだに、「一緖に夏目さんのところの会合に行つて見ないか」と芥川からすすめられたことがあつたけれど、つひにその機会を得なかつた。

 森鷗外の家には、同鄕の大先輩だといふ関係から、二度ほどおとづれたことがある。私は出雲國松江市で生まれ、そこで育つたのであるが、私の祖先たちは石見國津和野町に住み、藩主亀井武蔵守に仕へてゐたものであつた。森林太郞(鷗外)の家も同藩の家中であり、私の祖父の住まつてゐた家の近所に住んでゐた。私の祖母の弟でYといふ家を嗣いだ者の娘が鷗外の末弟森潤三郞氏と結婚したが、私が京都帝大の学生であつたころには潤三郞氏は京都に住み、私の現在の住居のすぐ近所の大きい溝川にのぞんだ家を借りてゐたので、よく訪問したものであつた。

 明治四十三年の春のはじめに私は松江を去つて上京し、しばらくのあひだ漫然として暮らしてゐたが、そのころやはり津和野出身の先輩K氏が本鄕千駄木町の鷗外の家に連れて行つて吳れた。あまり廣くない中庭に臨んだ六疊敷ばかりの書斎に通された。庭はなんらの庭らしい木石の配置もなく、ただ雜草の茂るにまかせた庭であつた。それは鷗外の好みでわざとそのやうにしてあるのだといふことを、あとでK氏から聞かされた。部屋の中も庭に面した一隅の障子に沿うて小形の文机が置いてあるのと、その文机のそばに雜然と取り散らして和書、漢書、洋書が高低さまざまに積みかさねてある外には、これといふ裝飾もなかつた。有名な文豪の邸宅のことなので、私は何ほどか好奇心をいだきながら訪問したのであつたが、簡素そのものと言ふべきやうな部屋の中の樣子を見て、意外な氣もちを感じたと同時に、氣らくさをも感じた。

 しばらくK氏と待つてゐると、やがて襖をひらいて「やあ、お侍たせして失礼でした」と言ひながら森さんがはいつて來て、机を斜めうしろにして端座した。K氏が私を紹介すると、血色の好い引きしまつた顏に微笑をうかべて、うなづきながら、鄕里の後輩を激勵して吳れるやうな言葉を、言葉少なに述べた。それから後はK氏がいろいろと森さんと話し、私はただそれを傍できいてゐた。

 森さんは相手の人の顏を直視することをしないで、始終視線をいくらか別の方向にそらし、絕えず心もち微笑を頰のあたりにたたへながら、おだやかな口調でK氏に應答した。中肉中背といふよりは心もち小柄であるが、全体としてよく均衡の取れたからだつきで、打ち見たところ、いかついやうな樣子は少しもないけれど。一分の𨻶も無い風貌だなと思つたことを今でも記憶してゐる。軍医總監らしい風格も幾らかただよつてゐたが、それは目に立つほどのものでなかつた。

 とにかく森鷗外はこれまで私の会つた人々の中で最も深い印象を私のこころに残した人たちの一人であつた。

 

[やぶちゃん注:「森鷗外」(文久二(一八六二)年~大正一一(一九二二)年七月九日:萎縮腎と肺結核で満六十歳で逝去)は石見国鹿足郡津和野町田村(現在の島根県津和野町(つわのちょう)町田。グーグル・マップ・データ)で、代々、津和野藩典医を務める森家の嫡男として生まれている。

「藩主亀井武藏守」これは後の津和野藩主の亀井家の元祖(彼自身は津和野藩主ではなく、因幡鹿野藩初代藩主である。彼の嫡子政矩の代に石見国津和野藩に加増転封されている)に当たる亀井武蔵守茲矩(これのり 弘治三(一五五七)年~慶長一七(一六一二)年)にまで遡った謂いとなっている。二代目以降の最後の藩主まで総て調べたが、武蔵守であったのはこの茲矩だけだからである。

「森潤三郞」(明治一二(一八七九)年~昭和一九(一九四四)年)は東京生まれ。京都帝大卒。明治四二(一九〇九)年から大正六(一九一七)年まで京都府立図書館に勤務した後、「鷗外全集」編纂に従事した。近世学芸史の研究者でもあり、津和野の「鷗外記念館」には兄鷗外からのレファレンスに答えた手紙が残されてある。著書に「紅葉山文庫と御書物奉行」「多紀氏の事跡」「鷗外森林太郎」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]

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