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2023/01/11

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その38) /「三十八 行軍のときの菊池寬のこと」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。

 文中の人名注は、比較的知られていないかとも思われる人物のみに限った。]

 

        三十八 行軍のときの菊池寬のこと

 

 入学してから丁度一ケ月目の十月十一日から十三日にかけて学校の生徒の行軍があつた。目的地は甲府で、出発の日から帰校の日まで秋雨が降り続けた。

 第一日は甲府の手前の石和駅で下車し、雨の降りしきる笛吹川の沿岸で演習をやつた後、夕ぐれになつて甲府にたどりつき、方々の旅館に分宿した。よる私たちの泊つた宿屋の二階で英文科の者たちのコンパをやつた。日記の中には、「菊池君の奇声でうたふデカンショが最も喝釆を博した。」とかいてある。

 第二日は甲府滯在で各自の自由行動がゆるされたが、日記を見ると、次のやうなことをしたためてゐる。

[やぶちゃん注:以下一行空けで、最後まで全体が二字下げで組まれている。ブログでは引き上げた。]

 

 菊池君と五目ならべをやる。八木君ともやる。三人ぬきをやる。頭がわるいなを連発する。十時ごろから菊池、根本と雨の中を散步に出た。宿屋の辺は柳町とかで、少しゆくと縣廰があり、中学校は石垣の中にある。山田君(註・松江中学の先輩で当時は甲府中学の敎諭)をたづねたら、授業中とのことに、かきつけをおいて出る。菊池君が奇声を発して寮歌を歌たふ。舞鶴城にのぼる。よく手入がとどいてゐる。天守台には信号竿が立つてゐる。四方みな山、白雲漠々。甲府の形勢を観察したのち下りて帰る。晝めしはキザミスルメにならづけのべんたう。にぎりめしが二つはいつてゐた。八木君と碁をうつ。菊池、久米君たちは牛屋へのみにゆく。小栗栖君が水晶の印材を二十五銭でかつてくる。十五銭づつで一字ほつてくれるさうだ。皆火でぬれものをあぶる。………夜、山田君がたづねてこられ、一緖に出て、洋食店へいつてビールをのみ、洋食をたべて話した。

 山田君の談片。甲府の気候は大陸的で、夏は非常にあつく、夏は非常にあつく、冬は乾つ風がふくとのこと。甲府は他の大都会のやうに思ひ切つてハイカラ文明にもなり得ず、又地方の質朴なところも無く、中ぶらりんだとのこと。中学は七百人居て、中々乱暴である。校長は新渡戶博士の友人だとのこと。英語は井上のリーダーを使つてゐる。

 帰つて來ると、コンパのおしまひぎはだ。 あすの朝は一時に出発だといふ。やれやれと全く悲觀する。菊池君と隣り合せにねて話す。

 「僕はなんだね、宗敎も法律も絕対にその権利をみとめない。僕は政治家も大臣も博士も偉人も何等の権威をみとめないな。」

 と菊池君が言ふ。

 「さうだ。自己のみ絕対だ。自己が一たび瞑目すれば万象滅すだからね。」

 と言ふと、

 「いや、僕はその自己をも疑ふんだ。」

 とオスカア・ワイルドをかつぎ出した。

 

[やぶちゃん注:「入学してから丁度一ケ月目の十月十一日から十三日にかけて学校の生徒の行軍があつた」明治四四(一九一一)年十月十一日から十三日である。芥川龍之介が出てこないは、気管支カタルで行軍を欠席していたことによる。新全集の宮坂覺氏の年譜では、十月『西川栄次郎』(東京帝国大農学部卒で、同大助手となり、研究員として英国へ留学、後に鳥取高等農林学校教授となった)『とともに塩原温泉に出かける。気管支カタルで行事を欠席中だったが、病気が好転したため』と好意的に書いてあるのだが、行軍出立の前日の十月十日附山本喜誉司宛書簡には、『尤も欠席屆を出すと殆ど同時に病氣もなほつてしまひました』『これから盬原へまゐります』とあり、十四日には同じく山本宛で、塩原発信と思われる塩原の絵葉書を送っている。しかも、この旅行の同行者西川栄次郎も一高の同期生である。おかしい。一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄氏の編著になる「年表作家読本 芥川龍之介」の同年十月十日から十五日の条に、はっきりと『この時、学校では』『行軍演習中であったが、二人とも』(☜☞)『病気と称して巧みにサボッたもの。(森慶祐「芥川龍之介の父」)』とはっきり晒されてあるのである。或いは、この仮病欠席を、恒藤恭は後に親密になってから、打ち明け話として知っていたのではなかろうか? 敢えてそれを晒さずに本篇を書いた恒藤の方が、遙かに人間として上であると言えると、芥川龍之介の霊に投げかけておくこととする。

「八木君」八木実道(理三)。恒藤・芥川の一高時代の同級生。愛知県生まれ。東京帝大哲学科卒。宇都宮高等農林学校教授を経て、第三高等学校(京大及び岡山大の前身)生徒主事兼教授となった(新全集の「人名解説索引」に拠った)。

「三人ぬきをやる。頭がわるいなを連発する」五目並べで連続三人勝ちのルールで、なかなかそれが出なかったので、皆、かく言ったということか。

「根本」根本剛(明治二五(一八九二)年~昭和六二(一九八七)年)。茨城県生まれ。旧制新潟中学校教諭を経て、中央大学教授。ホーソンの「ワンダーブック」の翻訳がある(新全集の「人名解説索引」に拠った)。

「柳町」甲府市の旧町名。ここの附近(グーグル・マップ・データ)。県庁と舞鶴城(=甲府城)を範囲に含めた。

「中学校は石垣の中にある」甲府城の南にあった府第一高等学校に併設されていた甲府中学であろう。

「天守台」ここ。実際に天守があったどうかは不明。

「信号竿」飾り代わりの旗指物か。

「牛屋」不詳。牛肉を出す居酒屋か。甲州牛は明治時代に早くも肉質の高さが認められていたブランド牛の走りであるらしい。

「小栗栖君」小栗栖国道(?~昭和二(一九二七)年)は大分県生まれ。一高では恒藤恭(当時は井川姓)・芥川龍之介に次いだ成績で卒業し、恒藤と同じ京都帝大法科へ進んだ。後、京都帝大教授となっている(新全集の「人名解説索引」に拠った)。

「山田君」不詳。

「新渡戶博士」新渡戸稲造。明治三九(一九〇六)年に第一高等学校長に就任していた(東京帝国大学農科大学教授兼任で大正二(一九一三)年まで)。

「井上のリーダー」英語学者・和英辞典編纂者で官吏でもあった井上十吉(文久二(一八六二)年~昭和四(一九二九)年)の監修になる英語のリーダー教本であろうか。]

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