恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その3) /「三 ひがんばな」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。]
三 ひ が ん ば な
私は省線電車を利用して每週二回または三回大阪に往復するので、沿線の風景は私にとつてすつかり馴染ふかいものになつてゐる。とりわけ山崎から茨木あたりまでの丘陵や、村落や、田畑の入りまじつてゐる風景は取り立てて言ふほどの特色があるわけではないけれど、いつも飽きることなく電車の窓から其れをながめることを、ひとつのたのしみとしてゐる。
この秋は近年まれな米の豊作の昆こみだといふことが、新聞などでくりかへし報道されてゐるが、京阪のあひだの田圃を見わたすと、私のやうな素人の眼にも、いかにももずつしりと籾をつけた垂穗の一面に充ちみちた田のもの様子がたのもしげに映するのである。そして、それと一緖に、畦みちをいろどる曼殊沙華の鮮麗なくれなゐの色が、この頃の季節の感じを力强くよび起さねばやまない。
どの草水の花でも、それそれ[やぶちゃん注:ママ。]一定季節を期して咲くものではあるけれど、曼殊沙華はとくべつに正確な季節の感覚をもつてゐて、いつの年もあやまつことなく彼岸をむかへて何処の田野でも一せいに咲き出すやうな氣がする。これはおそらくその通称を「ひがんばな」といふことにもとづく連想が、因を成してゐるのではないかと思ふが、何にせよ、どの花にもまさつて季節のうつりかはりに敏感な花だといふ感じを、每年それの咲き出すのを見るたびに私はいだくのである。
ところで、この秋は、私の家の庭の片すみにもその花が一つの株から三つひらいた。これは昨年の夏、中学生の次男が学校からのかへりみちに、下鴨の糺の森かどこかで球根をたくさん掘つて持ちかへり、それから澱粉をとつた残りを捨てて置いたのが、いつかしら土の中にうまり、それから莟を出したのだらうと思ふ。私はふと思ひ出して、戶棚の中から一つの壺形の花瓶を取り出し、三本の花のうち二本をそれに活けた。高さ五寸ばかりの此のつぼがたの花瓶は、ずつと以前に糺の森を二階から見下ろす家に住んでゐたころ、中京あたりの或る古道具屋で目つけて手に入れたものである。それを買つて来てから間もなく、芥川が入洛して、その下鴨の家をたづねて來たとき、二階の座敷の中央に据ゑられた机のうへに、丁度その花瓶が置いてあつたのを、手にとつてしぼらく見た後、「これは好いね。うまく出來てゐるよ。しかし、ほんもののオランダではないよ」と微笑をうかべながら言つた。
花瓶の表面には乳白色の地に淡い藍いろで異國の水鄕のけしきが、かろく、そして靜かなタッチで描いてある。私はそれに添はつてゐる古びた桐の箱を出して芥川に見せた。箱の蓋に「阿蘭陀之類壺」とかいてあるのを見て、「なるほど、オランダの類か。しかし、これはこれで好いんだよ」と言つて、彼は長崎で一時オランダの陶磁器の模造をやつた者があつたこと、たしかなことは言へないけれど、多分その一時の所產だらうといふことを敎ヘてくれた。
下鴨の家の庭には丁字の木があつたので、それのかをりの高い花のさくころには、每年きまつて、濃綠のかつきりした葉に紫いろを帶びた白色の花がこまかく咲き簇がつてゐる枝を切りとり、ふだんは戶棚の中にしまつてある其の花瓶に挿して机のうへに置いたものであつた。
六年ばかりまへに現在の田中の家に移つて來てからは、其の花瓶を戶棚の中から取り出してかざつたこともなかつたが、庭の隅にさいた彼岸ばなを見てゐるうちにふと、「あの花瓶に活けたら、よく調和するに違ひない」とおもつた。それで戶棚の中からそれを取り出し、水をみたした後、三本のうちの二本をいけた次第である。予期したとほりの、否、予期した以上の效果が私のこころを満足させた。そして、壺の口から七、八寸ばかりをぬきん出て、かんざしに似たくれなゐの花瓣をかざしてゐる二本の花も、なんだか満足してゐるらしい様子のやうに思はれた。
[やぶちゃん注:「私は省線電車を利用して每週二回または三回大阪に往復する」恒藤は京都帝国大学法科大学政治学科を大正五(一九一六)年卒業すると、同大学院に進学(国際公法専攻)したが、大正八(一九一九)年退学、同年に同志社大学法学部教授となり、大正一一(一九二二)年に母校の京都帝国大学経済学部助教授となった。大正一三(一九二四)年三月から大正一五(一九二六)年九月まで欧州に留学、昭和三(一九二八)年、大学内の組織変更に伴う異動で京都帝国大学法学部助教授となり、翌年には同大学法学部教授となった。しかし、当該ウィキによれば、『赤化思想だとして』、同僚であった『瀧川幸辰教授の著作』「刑法講義」・「刑法読本」が『発売禁止処分となり』、『文部省から瀧川教授の罷免が要求され、学問の自由を主張し』、『京大法学部教官全員が辞表を提出した』「滝川事件」に『おいて、松井元興が京大総長に就任』、『佐々木惣一、宮本英雄、森口繁治、末川博、休職扱いの瀧川幸辰の辞表を受理し、他の者には辞表の撤回を求めたが、恒藤恭と田村徳治は辞表を撤回しなかった。事件中、恭は雑誌『改造』に「死して生きる途」と題する文章を発表している』とある。この退官の後、大阪商科大学専任講師・立命館大学非常勤講師(兼任)となった。昭和一三(一九三八)年には立命館大学で学位論文「法的人格者の理論」によって法学博士を授与され、昭和一五(一九四〇)年に大阪商科大学教授、昭和二一(一九四六)年に大阪商科大学学長及び京都帝国大学法学部教授(兼任。昭和二四(一九四九)年まで)・同志社大学客員教授(兼任)となった後、昭和二十四年、新制大学として発足した大阪市立大学初代学長となり、日本学士院会員となっている。本篇は昭和二二(一九四七)年に発表されたものであるから、上記下線部の時期に当たるので、兼務の大阪商科大学学長として大阪へ通勤する際の、現在の「JR西日本」東海道本線でのロケーションであることが判る。
「山崎」現在の京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざきちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「茨木」大阪府茨木(いばらき)市。
「曼殊沙華」彼岸花(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata )。同種は異名が異様に多い。根茎に強毒を持つが、私の好きな花だ。私の「曼珠沙華逍遙」を見られたい。
「下鴨の糺」(ただす)「の森」京都市左京区にある賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ:通称は下鴨神社)の参道に当たる森。
「糺の森を二階から見下ろす家に住んでゐた」芥川龍之介の恒藤宛書簡の住所には『京都市下賀茂村松原中ノ町』とあり、これは現在の京都府京都市左京区下鴨松原町(しもがもまつばらちょう)と思われる。
「芥川が入洛して、その下鴨の家をたづねて來たとき」複数の年譜を確認したが、この事実は記されていないけれども、大正八(一九一九)年五月十九日附書簡(旧全集書簡番号五二七)に『無事歸京』『いろいろ御世話になつて難有う お母樣によろしく』とあることから、この年の五月四日に芥川龍之介は、菊池寛とともに、まさに「長崎」旅行に出かけた折り、新全集の宮坂年譜によれば、その旅の帰りの五月十五日の条に『京都で葵祭を見物するか』とあるから、この日の前後に龍之介が恒藤家を訪ねた可能性が極めて強い。
「類壺」こういう模造品を指すような謂い方を骨董や製品に使ったケースを私は知らない。
「丁字の木」フトモモ(蒲桃)目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum 。原産地はインドネシアのモルッカ群島。
「田中」旧宅のあったところの東方、高野川(たかのがわ)の対岸、現在の京都府京都市左京区田中馬場町(たなかばばちょう)附近か。]
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