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2023/01/10

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その31) /「三十一 室賀老人のこと」 附・芥川龍之介の室賀文武「春城句集」の序

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。

 但し、ここからの三章は連続した内容を持つ。]

 

        三十一 室賀老人のこと

 

 去る二月のなかば過ぎの或日のこと、到來の郵便物がいくつか机上に置かれてある中に「室賀文武」といふ人からの手紙がはさまつてゐた。アドレスは「I市門前養育院内」と書いてあつた。どうも心覚えの無い名前だなと思ひながら封を切ると、古い大型の当用日記の一ページを引きちぎつたのと、何かのノートの一ページを引きちぎつたのと、幅二寸、長さ六寸ばかりの茶色の洋紙が二枚と、大小不そろひの四枚の用紙にペンで細字をぎつしり書きみたした、風変りの手紙が出て來た。日記帳から引きちぎつたページの表は五月二十三日、裏は五月二十四日となつてゐるが、丁卯旧四月といふ字が印刷してあるから昭和二年のものらしい。

 何かのノートから引きちぎつた小形の罫洋紙に赤色の橫線が引いてある分から書き出してあつた。冒頭には「謹啓、私は芥川君と親しい老友でありまして、先生とは数回芥川君を訪問の際二、三回お目にかかりました事があります。当年八十個の橙の数を重ねました老耄の室賀文武と申します。俳句や短歌の嗜みある世の廃残物であります。多分先生も御存じかとも存じられます。そして第一の句集は芥川君の序文を乞うて上梓し、第二句集は其後十年後に世に公にしました。何れも碌なものではありません事は今更申すまでもありません。そして爾來十数年を経まして、第三句集、第四句集をあつめて居ります。又短歌三編の稿が成つて居りますけれども、そして何れも上梓のつもりでありますけれども、紙不足の今日、とても死後でなくては誰一人相手にして吳れさうなものはありません。」としたためてある。それに続いて短歌や俳句についての自家の見解を述べ、別紙に書いた短歌や俳句にぜひ眼を通して吳れるやうにとの丁寧な依賴の文句をしたためた上、終りに、「私は在都五十三年の都会生活を病氣と疎開との爲め十九年末に一旦生家に引揚げ、甥にかかつて居りましたが、其女房のヒステリーに苦しめられ、二十年の春第二の甥の家に移り、甥の戰死の広報に接し、其女房のヒステリーに又々苦しめられ、再び鄕里に帰りますと、予想の如く女房の大ヒスに殺されかかりました所――(鄕里I市居住の「第一の甥」の細君のことだらうと思ふ。恒藤)――漸く官給の当所に虎口を免かれ得た次第であります。大牟田では生命を賭して燒夷彈の消防火につとめ、十万円位の家屋家財を全うしたのも顧みられず、ひどいめにあひました。御きげんよう 敬具」と結んである。

 あとの三枚には短歌や俳句が書いてあり、所々に說明の文句がはさんであつたが、その中に『私は辛うじて活きて居ます。読返す元氣もありません。御推読を願ひます。』とも書いてあつた。

 私はその四枚の紙片に書かれた手紙の文句や短歌や俳句を一應よんだ後、新宿の、そして田端の芥川家で会つたことのある人々のことを、誰れ彼れとかすかな記憶の中から思ひ浮かべて見たが、朧ろげに其の人らしいと思はれる人のすがたが浮かんで來るだけで、どうも、しかと思ひ出せなかつた。しかし、手紙の文句から、養老院の中の一室に孤独の病軀を橫たへながら、あり合はせの四枚の紙片のうへにペン字を書き綴つた八十歲の老人のすがたを遙かに思ひうかべた。家内に言ひつけて、数日後、いささかの慰問の食品のるゐを小包で山陽道西部のI市の養育院に宛てて送り出させた。それから、ほかの用事で鵠沼の芥川夫人に手紙を出したついでに、室賀老人のことについて問ひ合はせた。

 丁度芥川夫人は風邪のために病臥中であつたとのことで、三月になつてから返事の手紙をよこされた。問ひ合はせた室賀氏のことについては「尙、室賀さんの事お問合せに私共も一寸意外の感が致しました。『文さん』と年寄り初め皆呼んで居りました。昔は耕牧舍(新原)の牛乳配達をして居た由、其後雜貨の行商をして居たさうでございます。クリスチャンにて、銀座の聖書会社につとめ、(留守居のやうなもの)、震災にて自分のものは承知の上で何一つ持ち出さなかつた由。句も沢山作り、自費出版をしました。一生独身にて、其後もしばらく田園調布に小さな家を建てて、のんきな生活をして居たやうでございます。田端の家にはいつもいつも沢山の句を作つて参り、主人と長時間話を致し、またそれが何よりの樂しみだと申しては、ちよいちよい参り、亡くなりましてもちよいちよい相変らずたくさんの句を作つて参り、年寄りや其他の人達に見せ、よく近くの下島先生(お医者樣)のところに伺ふのを樂しみに致して居りました。主人も変り者の宝賀さんを『文さん、文さん』と家に来る方々のうちでも最も善良な人だと申しては、時の過ぎるのも忘れてお話を致して居りました。私が芥川に参りますずつと昔よりの事でございますから、お会ひになりました事もございませうと想像致されます。当方は疎開致しますまでは文通致して居りましたが、其後如何なすつたかと家内にてお噂さ致した時もございましたのに、御手紙にて『文さん』もお丈夫の事を承知致し、まあまあと思ひました。云々」としたためてあつた。

「御手紙にて『文さん』もお丈夫の事と承知致し」と書いてあるのは、私が芥川夫人に出した手紙には、ただ室賀氏のことについて問ひ合せの文句を書いただけで、同氏の近狀については何も書かなかつた爲である。それはともあれ、夫人からの返簡の中に「主人も変り者の室賀さんを……家に來る方々のうちで最も善良の人だと申しては、云々」とあるのをよんで、私は「なるほど、さうだつた。」と思ひ出した。芥川から室賀氏についてそれと同じ批評の言葉を聽かされたことをはつきりと思ひ出したからである。

 

[やぶちゃん注:本書の「芥川龍之介のことなど」は今回の電子化注で初めて読んだものだが、その中でも、この一篇は最も私を驚愕させた一篇である。まさか、あの室賀文武の晩年の見た目は無惨とも言える現実的な手紙が、ここに、このような形で公開され、そこに芥川龍之介についての秘話の一つも含まれていないという厳しいリアリズムが、激しく胸を打ったからである。

「室賀文武」(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年二月十三日:老衰で逝去)は、芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人。後に俳人として号を春城と称した。山口県玖珂郡室木村(現在の山口県岩国市室の木町。グーグル・マップ・データ。以下同じ。恒藤が伏字にしてある「I市」は岩国市のことである)の農家に生まれた。同郷であった芥川の実父敏三(彼は周防国玖珂郡生見村湯屋、現在の山口県岩国市美和町生見の生まれであった)を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだ。しかし、明治二八(一八九五)年頃には現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と頻繁に逢っている。これは「西方の人」執筆のための参考にする目的が主であったものであろうとは思うが、私はその心の底には、自死回避の僅かな可能性をキリスト者であった彼に無意識に求めたものと考えている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇が読める。リンク先は芥川龍之介の書いた「序」の頭)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ四年も前の大正六年十月二十一日であるが、これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト注)「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、翌年の自死の年の一月には、芥川龍之介は執筆用に帝国ホテルに部屋を借りてそちらに泊まることがあったが、その折りには、『しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論した』とある。私は不思議なことに、この時、室賀を訪ねた龍之介のシークエンスを、実際に見たことがある錯覚を持っている。恐らく、若き日の冬の一夜、この龍之介の室賀への訪問を帝国ホテルから銀座まで歩いて踏査した経験があるからであろう。私の「芥川龍之介書簡抄131 / 大正一五・昭和元(一九二六)年三月(全) 二通」で「大正一五(一九二六)年三月五日・田端発信・室賀文武宛」を電子化してある。なお、彼の「春城句集」の芥川龍之介の序文は未電子化のようなので、この際、ここで電子化しておく。底本は以上に示した同句集初版の画像に拠った。なお、この執筆された年は、五月二十三日に芥川龍之介の処女作品集「羅生門」が刊行された年であった。龍之介満二十五歳。

   *

 

 

 予は俳句に關しては、全く門外漢である。從つて、予が室賀君のこの句集に序を書くと云ふ事は、自ら揣らざるものだと云はれても仕方がない。[やぶちゃん注:「揣らざるもの」「はからざるもの」。「僭越」の意。]

 しかし、予は室賀君の生活に關してなら、幾分の知識を持つてゐる。その知識は、室賀君の藝術に親まうとする人にとつて、或は多少の興味があるかも知れない。もしそれが興味に止らず、多少の利益があるとすれば、予がその知識によつて、この序を書くと云ふ事は、幾分でも自ら揣らないと云ふ非難を免れる事が出來ようかと思ふ。

 室賀君の職業は行商である。だから晝は車をひいて、雜貨類を商つて步く。その時の君を見たものには、この血色の好い、軀幹の長大な行商人が、春城句集の作者である事は、確かに意外な發見であらう。まして、大きな麥藁帽子の下にある銳い眼が、トルストイを讀み、ドストイエフスキーを讀む眼だと云ふ事に、氣のつくものは一人もあるまい。君はその職業によつて、月々の衣食に資するだけの金を得れば、その月の行商はそれで休んでしまふ。さうしてその時間を擧げて、書を讀むのと、句を作るとに費してしまふ。「アンナ・カレニナ」や「罪と罰」は、かくして君の讀破する所となつた。室賀君にとつて、心の饑は、肉の饑とひとしく、苦しいのに相違ない。

 室賀君はこの心の饑に迫られて、久しい以前に基督敎の信仰を求めた。さうして今は、内村鑑三氏の門下にある信徒の一人となつてゐる。君が行商を以て職業とするのも、單に肉の饑をみたす爲ばかりでないと云ふ事は、この間の消息に徵しても知れる事であらう。

 予はジアン・クリストフを讀んだ時、クリストフの伯父に當る、ゴツトフリイドと云ふ行商人が出て來る度に、屢々室賀君の事を思ひ出した。素朴な、力强い信仰に於ても、君は正にゴツトフリイドの亞流(ありう)である。少年のクリストフは、この敬虔な行商人によつて、「銀色の霧が地ときらめく水との上に漂つてゐる」中に、蛙の聲と蟋蟀の聲と鶯の聲とがつくり出す、「自然」の微妙な曲節に耳を開いて貰ふ事が出來た。この句集の著者と讀者の間にも、かう云ふ關係が起り得るかどうか――それは門外漢なる予の知る所ではない。が、もし起り得るとすれば、さうしてそれが君の生活の直下(ぢきげ)なる表現の結果であるとすれば、その生活の一班を傳へた予は、この上もなく滿足である。

 

  大正六年十月廿一日

             芥 川 龍 之 介

 

   *

岩波旧全集では、最終段落の末文中の「一班」が『一斑』となっている。

「下島先生」既出既注の芥川家の主治医で俳人でもあった近隣に住む下島勳。]

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