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2023/01/02

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その5) /「五 流沙河の渡し守」

 

[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。

 本篇では、芥川龍之介の「きりしとほろ上人傳」(初出は「きりしとほろ上人傳」で大正八(一九一九)年三月発行の『新小說』に前半が、続いて同年五月発行の同誌に初出標題を「續きりしとほろ上人傳」として掲載された。翌年一月春陽堂刊の作品集「影燈籠」に纏めて決定稿として収録された)が紹介されている。同作では冒頭の「小序」で、芥川龍之介が解説して、『これは予が嘗て三田文學紙上に掲載した「奉敎人(ほうけうにん)の死」と同じく、予が所藏の切支丹版「れげんだ・あうれあ」の一章に、多少の潤色を加へたものである。但し「奉敎人の死」は本邦西敎徒の逸事であつたが、「きりしとほろ上人傳(しやうにんでん)」は古來洽』(あまね)『く歐洲天主敎國に流布した聖人行狀記の一種であるから、予の「れげんだ・あうれあ」の紹介も、彼是』(ひし)『相俟つて始めて全豹』(ぜんぺう)『を彷彿する事が出來るかも知れない。』(改行)『傳中殆ど滑稽に近い時代錯誤や場所錯誤が續出するが、予は原文の時代色を損(そこな)ふまいとした結果、わざと何等の筆削をも施さない事にした。大方の諸君子にして、豫が常識の有無を疑はれなければ幸甚である。』(岩波旧全集を底本とした)と記すものであるが(「れげんだ・あうれあ」は芥川龍之介が勝手にでっち上げた架空の書名である。但し、「奉敎人の死」も「きりしとほろ上人傳」も元ネタにした原拠は実際には、ある)、私が激しく偏愛する「奉敎人の死」(大正七(一九一八)年九月発行『三田文学』に初出。私はサイト版で古くに「奉教人の死〔岩波旧全集版〕」、及び、作品集『傀儡師』版「奉教人の死」、さらに、芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)ブログ版と、同前やぶちゃん注 ブログ版、さらには、原拠をサイト版として電子化した原典 斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」も完備している程度にはフリークである)に比べ、構成にそれほど面白さを感じず、エンディングの感動も薄く、龍之介の切支丹物の中では、最も評価しない作品である。従って、私のサイトでは電子化していないので、「青空文庫」版の同作(但し、新字旧仮名)をリンクさせておく。未読の方は、本篇を読まれた後で読まれたい。]

 

        五 流沙河の渡し守

 

 世の中に「心の重荷」を背負つてゐない人があるものだらうか。

 もちろん、世の中のさまざまのことがらについて一通りのわきまへを爲し得る成人について言ふのであるが、――いささかも心の重荷といつたやうなものを持つて居らず、いつの時でも、いかにもかろがろした身のこなしをして生きてゐるやうな人も見受けられるけれど、果たしてその人が眞になんらの心の重荷をも持つてゐないものか、どうかは分りやうがない。おそらく、人々によつて重量こそ異なれ、何人といへども、何ほどかの重量の心の重荷を背負ふことなしには、人生の行路をたどつて行くことをゆるされたいといふのが、人間に課せられた必然の掟ではなからうか。

 あらゆる人間に共通な、此のやうな在りかたに即して、佛敎やキリスト敎などが存立するとも考へられるであらう。人によつては心の重荷をさまで気にしないで、人生のいとなみに沒頭する者もあれば、それを絕えず氣にして、壓迫を感じながらも、自分の心の重荷は自分自身で背負つて行くより外はないと信じつつ、かうべを挙げて人生の行路を進んで行く人もあるし、心を許し合つた親しい人とたがひに桐手の心の重荷をわかち合つて背負ひながら生きて行く人もあるであらう。しかしまた、佛とか、キリストとかいふやうな絕対者に、心の重荷をすつかりあづかつてもらふのでなければ、到底長い生涯の途をたどつて行く氣になれない人があることもたしかである。

 芥川龍之介の作品の中に、大正八年四月に書かれた「きりしとほろ上人傳」といふ小說がある。これは作者みづからが「小序」の中にことわつてゐるやうに、「古來あまねく欧洲天主敎國に流布した聖人行狀記の一種」にもとづいて作られた物語風の小說である。私は「きりしとほろ」が童子を背負つて河を渡つて行く姿をゑがいた版畫を見たことはあるけれど、ふつうの絵畫に「きりしとほろ」がゑがかれてあるのを見たことはない。

 

 さて、芥川の記述によれば、「きりしとほろ」は遠い昔のこと「しりあ」の國の山奥に住んでゐた、身のたけは三丈あまりもある山男で、もとの名は「れぷろぼす」といふのであつたが、人間と生れたからには、あつぱれ功名手がらを立てて、末は大名にもなりたいといふ野心を起して、「あんちおきや」の都にさしのぼつた。それからさまざまの異常の経驗をしたあげくの果てに、「えじつと」の沙漠の中をながれてゐる流沙河のほとりに、ささやかな庵を結んで、渡りになやむ旅人を肩に負うて向うの岸にわたす波し守となつた。それから三年目のある夜のこと、嵐がすさまじく吹き荒れ、神嗚りさヘも嗚り渡るさなかに、年の頃は十歲にも足らぬやうな、みめ淸らかな白衣の童兒が、その庵のまへで、「如何に渡し守はをりやるまいか、その河一つ渡して給はれい。」とさけんだ。外のくらやみに出た「れぷろぼす」が、巨きなからだをかがめながら、「おぬしは何としてかやうな夜更けにひとり歩くぞ。」とたづねると、童兒は悲しげな瞳をあげて、「われらが父のもとへ帰らうとて。」とこたへた。そこで、「れぷろぼす」はもろ手にわらんべをかき抱き、肩へ乘せたうへ、大杖を突いて岸べの靑蘆を押し分けながら、嵐に狂ふ夜河の中にざんぶと身をひたしてわたりはじめたが、風は黒雲を卷き落して吹きどよもし、雨は川の面を射て、底までとほれと降りそそぎ、浪は一面涌き立ち返るのを時折り闇を破つて稻妻が照らし出すといふ凄じい勢ひに、さすがの豪の者もほとほと渡りなやんだ。

 しかし、雨風よりも更に難儀だつたのは、肩のわらべが次第に重くなつたことで、河の眞唯中へさしかかつたころには、大盤石を背負つてゐるかと疑はれるくらゐであつた。山男は寄せては返す荒なみに乳のあたりまで洗はせながら、太杖も折れよと突きかためて、必死に目ざす岸へといそいだ。およそ一時あまりして漸く向う岸へ着き、よろめき上ると、肩のわらんべを抱きおろしながら、「はてさて、おぬしと云ふわらんべの重さは、海山はかり知れまじいぞ」と言つた。すると、わらんべはにつことほほゑんで、山男の顏を仰ぎ見ながら、さもなつかしげに、「さもあらうず。おぬしは今宵といふ今宵こそ、世界の苦しみを身に荷うた『えす・きりしと』を負ひないたのぢや。」と、鈴を振るやうな聲でこたへた。そのとき、わらんべの頭上には燦然たる金光が嵐をつんざいてきらめいてゐた。

 「きりしとほろ」といふのは、山男の「れぷろぽす」が、「えじつと」の沙漠の中に住む隱者の翁から洗禮をさづけられたときに貰つた名前であつて、流沙河の渡し守となつたのも、この翁のさしづにしたがつたからであつたが、わらんべをわたしたその夜から「きりしとほろ」はむくつけい姿を見せぬやうになつた。

 

 キリストを信ずる人々の心の中に生きてゐるキリストは、今でもやはり彼を信ずるすペての人々の心の重荷を身一つに背負ひながら、父なる神のひざもとに帰つて行く日の到來するまで、この世界の涯から涯まで、ひとり旅をつづけてゐるのであらうか。

 

[やぶちゃん注:「流沙河」「りうさが」は筑摩書房全集類聚版「芥川龍之介全集」第二巻の脚注(昭和四六(一九七一)年刊・第二巻)では、『「流沙」とは砂漠(さばく)のことで、砂漠を流れる河というほどの意味。もちろん芥川の虚構の河名である』とある。

「きりしとほろ上人」同前で『Christophoros(キリストを背負う者の意)は伝説によれば三世紀頃のシリアの人。救難の聖人』とある。また、ネットの中経出版の「世界宗教用語大事典」には、『クリストフォロス 【Christophoros】』は『十四救難聖人の一人。ギリシア語で〈キリストを運んだ者〉の意。詳歴不明だが』、ローマ皇帝『デキウス帝』(ガイウス・メッシウス・クィントゥス・トラヤヌス・デキウス(Gaius Messius Quintus Trajanus Decius 二〇一年~二五一年六月:在位:二四九年~二五一年)『の迫害の時の殉教者といわれる。怪力の渡し守だったとの伝説があり、ある時、少年を背負って川を渡ったら、次第に重くなり、水をかぶりながら(洗礼の意)岸に着くと、少年はキリストであり、その重さは全世界のそれだった、との寓話がある。教会南門に面して、この像を描く習慣があり、見た人は災難に遭わないとする。水夫・巡礼者・旅人などの守護聖人。イコンでは犬の顔にすることがある』とある。この「救難聖人」は同じ事典に、『カトリックで、とくに困った時、難を救ってくれるという』十四『人の聖人』とあり、十五『世紀中頃』、『盛んに崇拝された』とある。ウィキの「クリストフォロス」もあり、そこには私の好きなルネサンス期のネーデルラントの画家で初期フランドル派に属するヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch 一四五〇年頃~一五一六年)が描いたイエス・キリストを背負ったクリストフォロスの絵も載る。そちらには、『クリストフォロスの物語は教派によって微妙に異なっている』とし、「カトリック教会における伝承」の項には、一つの『伝承ではクリストフォロスはもともとレプロブス』(英文ウィキでは“Reprobus”)『という名前のローマ人だったという。彼はキリスト教に改宗し、イエス・キリストに仕えることを決意したという。別の伝承ではカナン出身でオフェロスという名前だったともいう。彼は隠者のもとを訪れ、イエス・キリストにより親しく仕える方法を問うた。隠者は人々に奉仕することがその道であるといい、流れの急な川を示して、そこで川を渡る人々を助けることを提案した。レプロブスはこれを聞き入れ、川を渡ろうとする人々に無償で尽くし始めた』。『ある日、小さな男の子が川を渡りたいとレプロブスに言った。彼があまりに小さかったのでお安い御用と引き受けたレプロブスだったが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、レプロブスは倒れんばかりになった。あまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは丁重にその名前をたずねた。男の子は自らがイエス・キリストであると明かした。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのである。川を渡りきったところでイエスはレプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じた』。『同時にイエスはレプロブスが持っていた杖を地面に突き刺すように命じた。彼がそうすると』、『杖から枝と葉が生えだし、みるみる巨木となった。後にこの木を見た多くの人々がキリスト教に改宗した。この話は同地の王(伝承によってはデキウス帝)の知るところとなり、クリストフォロスは捕らえられ、拷問を受けたあとで斬首されたという』とある。

「三丈」九メートル九センチ。

「あんちおきや」筑摩全集類聚脚注には、『Antiochia』は『シリアの首都。いまはシリア共和国の町。ローマ時代、パレスチナ以外で最初のキリスト教団が組織された町』とあるが、ネットの「goo辞書」では『アンティオキア【(ラテン)Antiochia】』として、『トルコ南部の小都市アンタキヤの古称』で、紀元前三〇〇年頃、『古代シリア王国のセレウコス』Ⅰ『世が首都として建設。 のち』に『エルサレムに次ぐ初代キリスト教会の中心地』となったとある。トルコのアンタキヤはここ(グーグル・マップ・データ)。

「えじつと」“Egypt”。エジプト。

「海山」「うみやま」。

「荷うた」「になうた」。

「えす・きりしと」イエス・キリスト。

「むくつけい姿」芥川龍之介の「きしとほろ上人」の最終段落の表記をそのままに用いたもの。芥川龍之介は「奉敎人の死」と同様に、擬似切支丹版の雰囲気を出すために、一種訛ったような、旧口語的にズラした特異な表記・表現法を本作では用いている。]

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