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2023/02/28

西播怪談實記 佐用鍛冶屋平四郞大入道に逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。前回述べた通り、底本では標題欠損であるため、標題は初回に電子化した「目次」のものを使用した。【 】は二行割注。挿絵は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ◉佐用鍛冶屋平四郞大入道《おほにふだう》に逢し事

 年は元祿の初《はじめ》つかたの事なりしに、佐用郡佐用邑に、鍛冶屋平四郞といへるもの、有《あり》。

 平生、殺生を數寄《すき》しか[やぶちゃん注:「が」。]、比《ころ》は五月廿日あまり、雨もそぼふる暗き夜《よ》なれば、

『鮎をとらんには、究竟(くつきやう)の夜なり。』

と思ひ、ひとり、網を持(もつ)て立出《たちいで》、先《まづ》、大成《だいなり》といふ所へ行て【大成は河の字《あざ》。】、河の半《なかば》にすゝみ、網を、

「さんふ」

と打入《うちいれ》、曳(ひき)て見るに、何やらむ、懸《かかり》たるやうに覚へければ、右の方へを迥《まは》りて引《ひく》に、川上の方へ、網を、引《ひく》もの、在《あり》。

『怪し。』

と、おもひ、雲透《くもすき》に見れば、其長、壱丈斗《ばかり》の大人道、網のいわを取《とり》て、川中《かはなか》を、上へ、上へ、と、引《ひき》てゆく。

[やぶちゃん注:「元祿の初つかた」元禄は元年が一六八八年で元禄一七(一七〇四)年に宝永に改元している。

「雲透」雲を透かしてものを見ること、或いは、雲間を漏れてくる僅かな光、或いは、その光を頼りとして対象物を見ること。多く、この「雲透にみる」の形で用いられる。平安末期以降の用語。

「いわ」これは「岩・巌・磐」であるが、「錘」「沈子」と書くと意味が分かる。漁網を沈めるために附ける素焼きの土器や陶器で作った錘(おもり)のことである。挿絵を見られたい。]

 

Oonyudou2

 

 平四郞、元來、不敵ものにて、少《すこし》も恐れず、

『網を引とらんは、安けれども、破(やぶり)ては、無益(むやく)なり。引行《ひきゆか》ば、いづく迄も附《つき》て行《ゆく》べし。若《もし》、又、我に懸(かゝら)ば、手繩(てなは)を持《もつ》て、くゝしあげん。』[やぶちゃん注:「くゝしあげん」「括(くく)し上げん」で「固く括ってやる・縛り上げてやろう」の意。]

と、おもひ、引《ひか》れてゆくに、五、六町、行《ゆき》て、網を放(はなち)ければ、

『今宵は、猟も有《ある》まじ。』

と思ひて、歸《かへり》しと也。

 右の平四郞は、享保の末つかた迄は、存命なりければ、予、直噺(ぢき《ばなし》)を聞ける趣を書つたふもの也。

[やぶちゃん注:底本では、最後の「と思ひて」の後に本文に「網を放」とあって、その右に「歸しと也」とミセケチしている。さて。佐用辺りでは殺生好きは巨大人間に遭遇することが多いらしい。先の「新宮水谷何某化物に逢し事」も巨大山伏だった。

「享保の末つかた」享保は最後が二十一年でグレゴリオ暦一七三六年。初回冒頭注で述べた通り、作者春名忠成は寛政八(一七九六)年の没年である可能性が高い。

「大成は河の字」というのは、川の一部の流域に特定の名をつけることを言っている。川漁・海漁ともによくあることである。なお、名前が流域の各所で名を変えることも珍しくない。例えば、鎌倉市を貫流するどうってことない短い滑川がよく知られる(上流から「胡桃(くるみ)川」→滑川→座禅川→夷堂(えびすどう)川→炭売川→閻魔川と変わる)。どこだかは判らないが、気になるのは佐用町の中の南の端に目高(めたか)のピークに「大成山城跡」(グーグル・マップ・データ)があることで、ここが見える佐用川の下流(ここで千種川に合流する)辺りのように私には思われた。]

西播怪談實記 小赤松村與右衞門大蛇に追れし事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここだが、実は標題だけで、本文が全部抜けている。左丁のそれは次の話「佐用鍛冶屋平四郞大入道《おほにふだう》に逢し事」の本文冒頭である。書写したものを綴じるときに脱落したものかも知れない。癪なので、二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」のものを概ね恣意的に正字化し、読みは適宜として(但し、そちらの底本の歴史的仮名遣を誤っているものは《 》で私が正しいものに代えた)、今までのように電子化する。

 

 ◉小赤松(こあか《まつ》)村与右衞門大蛇《だいじや》に追(おは)れし事

 赤穗郡(あかほごほり)小赤松村といへる所は、千草川(ちくさがは)の流(ながれ)にて、北は高山(かうざん)峩々(がゝ)とそばだち、山裏(やまうら)は佐用郡(さよごほり)秋里(あきさと)といへる在所(ざいしよ)の奧山に續き、嶮岨なる岩山《いはやま》也。

 九折(つゞら《をり》)を迥(まは)りて、彼(かの)山裏に通ふ路あり。

 天和年中の事成しに、小赤松村与右衞門といふもの、山裏の在所へ行(ゆく)に、五月雨の比(ころ)なれば、谷々、ほのぐらく、心すごき所なれども、年比(としごろ)、通ひ馴(なれ)たる道なれば、暮に及びて歸(かへり)しに、後(うしろ)の方に、

「ざぶざぶ」

と、音、すれば、

『こは、すさまじや、ふり來《きた》る雨の脚音か。』

と、ふり歸り見れば、大蛇、頭(かしら)を上(あげ)たる事、壱丈斗(ばかり)にして、大の口を明(あけ)、たゞ一吞(ひとのみ)と、目懸(めがけ)て追來(《おひ》く)る。

 与右衞門、逃延(にげのび)んと、暫(しばらく)走(はしり)けれども、小柴の中(なか)を、射る矢のごとく追來れば、

『いかゞせん。』

と思ひしが、高岸(たかぎし)に行懸(ゆきかゝ)りけるを幸《さひはひ》に、指(さし)たるから笠(かさ)の柄《え》を、岸の頭(かしら)に、

「ぐつ」

と指込置(さしこみおき)、わが身は、笠の下より、岸の下へ、すべりぬけて、岸陰(きしかげ)をつたひ、九死一生の場をのがれて歸しが、無言にして、五十日斗《ばかり》、相煩(《あひ》わづらひ)、本復(ほんぶく)して後(のち)に、件(くだん)の趣を噺し、

「定(さだめ)て、から笠を、人と心得て、吞(のみ)たるなるべし。」

と、いひしとかや。

 其村のものゝ語(かたり)ける趣を書傳(かきつた)ふもの也。

[やぶちゃん注:「赤穗郡(あかほごほり)小赤松村」兵庫県佐用郡佐用町小赤松(グーグル・マップ・データ)。佐用町の南、佐用を貫流する作用川が「千種川」(ちくさがわ:本文の千草川)に合流する右岸に当たる。お誂え向きに「飛龍の滝」が対岸にある。

「佐用郡(さよごほり)秋里(あきさと)」兵庫県佐用郡佐用町秋里(グーグル・マップ・データ)。秋里川が流れ、「上秋里」と「下秋里」に別れる。

「九折(つゞら《をり》)を迥(まは)りて、彼(かの)山裏に通ふ路あり」一見、グーグル・マップ・データ航空写真の秋里川沿いにある現在の県道「368」号のように見えてしまうが、ここは「九折」とあるからには、谷に沿って分け入る道ではなく、現在は存在しない小赤松からダイレクトに北西に登るルートがあったものであろう。「ひなたGPS」の戦前の図を見ると、小赤松から佐用川を少し遡上した箇所に、両崖ともに切り立った細い谷があり、そこに谷に向って山道があり、南西方向にかなり急な斜面を登って、「378,8」のピークに、そこから向こう側の「北條」へ降る二本のルート、さらに反対に尾根沿いに南西を少し下って、時計回りに回って長野に下る一本、そこを途中で西に折れて、上秋里に下るコースが確認出来る。よく見ると、この谷は佐用郡佐用町久崎(くざき)で、さらにストリートビューでどん詰まりを見ると、赤コーンで塞がれてあるが、道があるし、谷の最奥には「久崎 権現さん」というのがある。先のピークも山頂は禿げており、これらの山道は生きているように感じられる。だいたい、前のピークの東北の下方にある「322」のピークは「浅瀬山城跡 展望台」となっていて、明かに登れる。ただ、ともかくも、このロケーションは川であるからして、この小谷の登攀道を帰りに下った(「ひなたGPS」の二分割で国土地理院図を見れば、今も小流れがあることが判る)時の怪異ととるべきであろうと私は思ったのだが、蟒蛇を出すのなら、秋里川の方が太くて遙かにいいし、いや、小谷を下り切った佐用川の方がさらに映像になるであろう。ただ、だったら、「山裏」の道という前振りが、殆んど活きてこなくなってしまうのが、私には不満なだけなのである。

「天和年中」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。]

西播怪談實記 佐用鍛冶屋平左衞門幽靈に逢て死し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。【 】は二行割注。]

 

 佐用鍛冶屋平左衞門幽㚑(ゆうれい)に逢《あひ》て死(しせ)し事

 延寶年中の事成しに、佐用郡佐用邑に「いと」いへる女(おんな)、嬬(やもめ)にて暮しけるが、朝夕の煙(けふり)も立兼(たてかね)、元來(もとより)、立《たち》よるへき一家もなく、又は、一飯(うつはん)を施す人もなくて、おもひわづらひしが、比(ころ)は卯月の末つかたなれば、あそこの川辺(《かは》へ)、爰《ここ》の渚(なきさ)にも、麥、多く刈干(かり《ほし》)て有けるを見置《みおき》て、其夜、密(ひそか)に行《ゆき》て、穗切(ほきり)をして歸れば、翌日、食物(くい《もの》)のいとなみに、心づかひ、なし。

 かくしつゝ、度(たひ)かさなれば、後《のち》には、人も、それぞとは知《しり》ぬれど、

「貧(ひん)の盜(ぬすみ)なれば。」

とて、誰(たれ)あつて訴出(うたへ《いづ》[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])る人もなく打過《うちすぎ》けるが、猶、いやましの盜に、町内も《ちやうない》、せん方なく、打寄(うちより)、談合して、いとが組頭(くみかしら)の方《かた》へ盜の次第を申遺《まをしつかは》し、

「今より、堅く止《やむ》るならば、是迄の事は、堪忍すへし。左もなくば、町中《ていちゆう》として御公邊(ごこうへん)へ、訴(うたへ)申べし。」

と、いひ遺す。

 組頭、「いと」を呼寄(よびよせ)て、右の子細を申渡し、折檻するに、「いと」、氣色(けしき)を損じ、

「更々、身に、覚《おぼえ》なし。難題をいひ懸(かけ)て、我を所に置(をく)まじきとの企(くはたて)なるへし。此上は、是非もなし。さ、いひける人の家々を、燒(やき)て恨(うらみ)をはらさんものを。」

と過言(くはこん)して、立歸る。

 組頭、思ふやう、

『虛言にもせよ、「火を付《つく》る」といへば、其分に、ならず。』

と、町中《まちぢゆう》へ件(くたん)の趣を返荅して、共々に御公儀へ訴出(うつたへ《いで》)ければ、早速、搦捕(からめとら)れて入牢しけるが、

「かゝる所存のものは、追放しても行末、覚束なし。」

と、死罪に一決して、辰巳谷《たつみだに》といふ所にて【佐用より平福《ひらふく》へ行道の右の谷なり。】、打首(うちくび)にしられけるが、其後(そののち)、

「『いと』が幽霊、出《いづ》る。」

と、專(もはら)、いひふらしける。

 慥に見たる人はなけれども、聞おちして[やぶちゃん注:「聞き怖じして」。]、暮ては、往來の人も、なし。

 ほどへて、鍛冶屋平左衞門といふもの、所用の事ありて平福へ行《ゆき》、夜(よ)、更(ふけ)ぬれども、元來、大膽なるものにて、恐しともおもはず、立歸る。

 折しも、彌生十日あまり、村雨、打そゝぎて、いとゞ朧(おほろ)の月影に、そろそろと、辰谷[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」には『辰(巳)谷』とする。後の割注から脱字であることが判明する。「たつみだに」。]の口へ懸《かか》る。

 道の下、谷川(たにかは)の邊(へん)に、白きものを着たる女、手を洗ふ風情に見へければ、平左衞門、思ひけるは、

『夜更て、此所《このところ》に、女の居るべきやう、なし。世上の噂の「いと」が幽㚑なるへし。』

と、足はやに行過《ゆきすぐ》るに、跡より、

「のふ、かなしや、待《まち》給へ。」

と呼《よび》かくる聲を、聞とひとしく、身の毛も弥竪(よたち)、手足もふるひ、漸(やうやう)に大願寺《だいぎわんじ》村【辰巳谷、少《すこし》、南也。】知人の宅へ走入《はしりいる》と、忽(たちまち)、氣絕すれば、亭主、驚き、いろいろ介抱しければ、正氣になり、問ヘども、聲、ふるひて、さだかに聞(きこへ)す[やぶちゃん注:ママ。]。

 翌朝、駕籠に乘《のせ》て、送り歸しぬ。

 それより、ぶらぶらと煩(わつらひ)て、終(つい)に死《しに》けり。

 其子孫、今に有《あり》て、折々、右の噺を聞《きき》ける趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:「延寶年中」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・綱吉の治世。

「組頭」江戸時代の村の「五人組」(惣百姓、町では地主・家持を、近隣毎に五戸前後を「一組」として編成し、各組に「組頭」と呼ばれる代表者を定め、名主・庄屋の統率下に組織化したもの)の筆頭の百姓。「五人組頭」と称し、「五人組」に属する百姓の統轄に当たり、質地などの連判役も行った。「五人組」内の百姓から最有力者が選ばれた。

「死罪に一決」江戸時代の「火付け」重罪で、ただ「火をつける」と言っただけでも、未遂罪に問われた。この場合、窃盗の見逃しを提案してやったのに、無実と反論したばかりか、「五人組」の上級責任者にそうした暴言を吐き、結果して村中を脅迫したわけであるから、一向に過重刑とは言えない。但し、奉行も一度は躊躇はしたではあろうが、知った町民(その中には哀れに思って盗んでいるのを知らんふりしていて呉れた優しい人々も含まれている)の恐慌・パニック状態を考えれば、これはもう彼女が悪いとしか言えない。

「荅」「答」の異体字。

「辰」『巳』「谷」思うに、グーグル・マップ・データ航空写真の中央を南東に抜ける谷なら、その先の方向が名前の「辰巳」にまさぴったりだからである。現在の金近川(かねちかがわ)沿いに並行する横坂下徳久線県道「547」号である。ここは谷を東に向かったあと、急激に辰巳(南東)に向かう谷道だからである。この推理には「ひなたGPS」の戦前の地図も参考にした。そこでは辰巳(南東)に向う谷道は、当時、そこしかないことが判るからである。ここはストリートビューで見ても、田に沿った尾根の間の長い谷になっていることが判り、当時の処刑場としても、これ、相応しかったであろう。

「平福」現在の兵庫県佐用郡佐用町平福。佐用町の中心から北へ少し行ったところ。五キロ圏内。

「大願寺村【辰巳谷、少、南也。】」先の現在の地図で、実は旧村名を残す大願寺公民館をポイントしてある。再度、見られたい。戦前の地図でも「大願寺」地名があって複数の家屋が認められる。]

西播怪談實記 德久村源左衞門宅にて燕繼子を殺し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。]

 

 ◉德久(とくさ)村源左衞門宅にて燕(つはめ)繼子(《まま》こ)を殺(ころし)し事

 佐用郡德久村に源左衞門といふ農家、有《あり》、年每(としこと)に、燕、來たりて、椽(ゑん)の上に巢を喰(くい)しが、正德年中のある六月初の事なりしに、いかゞしたりけん、親燕、壱羽、猫にとられて、鳴(なき)かなしみつゝ、殘る壱羽にて、子を養ふ事、一兩日なりしが、又、二羽に成《なり》て、餌(ゑ)をはこびければ、家内のもの、是を見て、

「鳥風情(とりふぜい)さへ、番(つか)ひならでは叶《かなは》ざるにや、後連(のちつれ)を呼(よび)し。」

など、笑ひあへりけり。

 然《しか》る所に、ある朝(あさ)、子燕、五羽ながら、死居《しにをり》けるを見付《みつけ》て、

「猫(ねこ)鼡(ねつみ)の仕業(しはさ)ならば、殘らず喰ふべし。いぶかしき事なり。」

とて、亭主源左衞門、取《とり》て見るに、何の子細も見へず。少づゝ、口、明(あき)て、餌を含みたる体(てい)なれば、則(すなはち)、口を割(わり)て見るに、靑山淑(あをさんしやう)を含みて死居ければ、

「こは。不思議。」

と、殘りの四羽(しは)も、口を割て見れば、皆、右の通(とほり)也。

 繼(まゝ)親の、毒害、必定なれば、家内のもの、憎み、右の燕を近付(ちかづけ)ざりしとかや。

 源左衞門、後(のち)に來りて、件(くたん)の樣子を咄し、

「古來(こらい)よりいひ傳へし如く、繼子(まゝこ)は、憎きものにや、鳥さへ、子に毒害(どくがい)をして、殺しぬる。」

と物語の趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:これは事実である。私は九年ほど前にテレビで、実際に、その子殺しの瞬間を見て、ちょっと驚いた。それと同じ映像かとも思われるが、サイト「ツバメ観察全国ネットワーク」に動画(YouTube引用嵌め込み)がある。そこに『ツバメの巣は無傷のまま、中の卵や雛が消えてしまうことがあります。ヘビ、ツミ、モズ、イソヒヨドリなどがヒナや卵をさらうこともありますが、その巣の親とは別のツバメがヒナを巣の外に捨てているケースが少なくありません。この行動を「ツバメの子殺し」と言います』。『子殺しは、結婚相手の見つからないオスが、すでにペアになっているメスを奪おうとするために起こります。独身オスは、子育て中のペアのオスとケンカをして追い払い、その巣にいるヒナや卵をくちばしにくわえて巣の外に放り出します。巣が空になるとメスが再び発情するので、そのときメスと交尾して、自分の子孫を残します。子殺しはツバメだけでなく、いろいろな鳥類と哺乳類に見られる行動です。Youtubeにツバメの子殺しの動画があります。ちょっとショックな映像ですので、ご注意下さい』とあった。

「正德」一七一一年から一七一六年まで。享保の前。

「佐用郡德久村」現在の兵庫県佐用郡佐用町西徳久(にしとくさ:グーグル・マップ・データ)。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 大人彌五郞

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正六(一九一七)年一月発行の『鄕土硏究』初出である。]

 

     大 人 彌 五 郞

 

 彌五郞といふ巨人があつたといふ話は、曾て竹崎嘉通《たけざきよしみち》氏も報ぜられたことがある。その大要をいふと石見國邑智郡田所村大字鱒淵字臼谷に三丈ばかりの瀧があつて、その瀧壺を彌五郞淵といふ。昔巨人名を彌五郞といふ者、石臼を負うてこの地を過ぎ、誤つて瀧に落ちて死んだと傳へ、瀧の中程の岩に足跡の如き凹《へこみ》がある。臼谷は則ちその石臼の流れ止つた地である。彌五郞淵の水は鱒淵本村の高善寺淵と地下に通ずと稱せられ、巨人の屍《しかばね》は地底を流れてその高善寺淵に浮び出たといふ云々。これは例の大人《おほひと》足跡の數多い村話の一であつて、類型を諸國に求むれば限も無くあるが、自分の特に珍しいと感ずるのは石見でも大人の名を彌五郞といひ傳へて居たことである。

[やぶちゃん注:「竹崎嘉通」大社教の教職者である。

「石見國邑智郡田所村大字鱒淵字臼谷に三丈ばかりの瀧があつて、その瀧壺を彌五郞淵といふ」現在の島根県邑智(おおち)郡邑南町(おおなんちょう)鱒渕(ますぶち)のここに「弥五郎の滝」がある(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。個人ブログ「神話伝説その他」の「『日本伝説大系』話型要約:三四 大人の足跡Ⅰ」に、『島根県瑞穂町「弥五郎淵 鱒淵の小川の滝壺をかく呼んでいる。大人弥五郎が臼を負うて滝に落ちて死んだといい、岩の上にその足跡があり、臼は流れて臼谷に止まったという。」』とあった。

「高善寺淵」高善寺という寺はここにある。「弥五郎の滝」から東南東に四キロメートルほどの位置にある。淵は判らないが、南直近を出羽川が流れているので、そこにあるのであろう。]

 三國名勝圖會などに依れば、ずつと懸離れた日向大隅あたりで、やはり大人彌五郞の樣々の昔話をば傳へて居る。例へば大隅囎唹《そお》郡市成《いちなり》村大字諏訪原《すはばら》の二子塚《ふたごつか》は、塚といふよりも小山といふが當つて居る。平野の中に騈立《べんりつ》して一は高さ二十丈許り周り五町四十間許り、他の一は高さ十一丈周り二町三十間ほどで、相距《あひへだた》ること一町内外、樹木無き芝生地である。昔大人彌五郞が草畚《さうほん》(簣(あじか)?)で土を運んで居た所、棒が折れてその土が飜(こぼ)れ、この二つの塚になつたので、片荷は土が半分殘つたために少し小さいのである云々。この話も至つて弘く行はれて居るもので、本誌にも既に幾つかの報告があつたが、これを關東各地方の「だいだ坊」山移し譚に比べて最も著しい相異は、海南二州の、大人に在つては更に重要なる後日譚の附隨して居ることで、大人が必ずしもその非凡なる强力のみを以て名を轟かしたので無いことは、これに由つて少しづゝ判つて來るのである。毛坊主《けばうず》考の餘論として今度はこの問題を片端述べて見よう。

[やぶちゃん注:「三國名勝圖會」江戸後期、薩摩藩第十代藩主島津斉興(なりおき)の命によって編纂された領内地誌。天保一四(一八四三)年完成。書名の「三國」は薩摩国・大隅国と日向国の一部を含むことによる。特に神社仏閣についてはその由緒・建物の配置図・外観の挿絵まで詳細に記載されており、各地の名所風景を描いた挿絵も多い。全六十巻(以上はウィキの「三国名勝図会」に拠った)。

「大隅囎唹郡市成村大字諏訪原の二子塚」新鹿屋市輝北町(きほくちょう)諏訪原にある「二子塚の田の神」附近(かの地では「たのかんさぁ」と呼ぶ:グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルのこちらの写真で大きさが判る。実は私の亡き母は、この東北東八キロメートル半ほど離れた鹿児島県曽於市大隅町岩川の出身であり(祖父は旧志布志線岩川駅前(「ひなたGPS」の戦前の地図)で歯科医院を営んでいた)、伝説の巨人「弥五郎どん」の話は小さな頃から聴いていた。大隅町の岩川八幡神社の「弥五郎どん祭り」(次男とされる)は、私は残念ながら見たことがないのだが、生きているうちに一度は見たいと思っている。「弥五郎どん」については当該ウィキ及び「鹿児島県教育委員会」公式サイト内の「民俗文化財」のページにある「大隅町岩川八幡神社の弥五郎どん祭り」PDF)を見られたい。

「騈立」並び立つこと。「へんりつ」とも読む。

「二十丈」約六十メートル半強。

「五町四十間」約六百十八メートル。

「十一丈」約三十三メートル。

「二町三十間」約二百七十三メートル弱。

「一町」百九メートル。

「だいだ坊」所謂、巨人伝承「ダイダラボッチ」。当該ウィキもあるが、「柳田國男」の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡』(全九回)がよい。その最後の「九」は「大人彌五郎まで」である。

「草畚(簣(あじか)?)」「畚」は「ふご」「もっこ」とも読み、縄を網状にしたものの四隅に綱をつけ、土石などを入れて運ぶものを指し、「簣」は竹・葦・藁などで編んだ籠・笊の一種。物を入れるのに用いたり、また、同じく土石などを運ぶ道具とした。]

 彼地方のいひ傳へでは、大人彌五郞は終《つひ》に殺されたといつて居る。大隅始良(あひら)郡國分村大字野口の枝の宮といふ社は、彌五郞の四肢を斬つて埋め且つ祀つた故跡である。なほ鼻面川《はなづらがは》には彼の鼻を埋めたといひ東國分寺大字福島ではその弓を埋めたと稱してゐる。同じく國分村大字上小川には拍子川といふ川あり、その橋を拍子橋といふ。土人等は昔大人隼人《はやと》といふ夜叉の如き者あつて、此處に於て皇軍に誅伐せられたといふ話を傳へて居る。大人隼人記といふ書物に曰く「大人彌五郞殿は上小川の拍子橋に於て日本武尊御討ちなされたり、其時舞躍して手拍子を取りしよりこの名あり云々」(以上三國名勝圖會)。

[やぶちゃん注:以上は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和五七(一九八二)年青潮社刊の「三国名勝図会」第三巻の「拍子川」の条で視認に出来る。「弥五郎どん」のルーツは大和朝廷に蹂躙され、従属を余儀なくされた大隅隼人(隼人族の象徴)がルーツであると考えている。天皇の即位式では、「隼人の舞」が演じられるが、これはまさに屈辱的なものなのである。

「大隅始良(あひら)郡國分村大字野口の枝の宮」鹿児島県霧島市国分野口町(こくぶのぐちちょう)にある枝宮(えだみや)神社。北西直近に隼人塚もあるので、確認されたい。但し、これは、観光サイト「かごしまの旅」のこちらに写真があり、そこには、『大和朝廷に平定された隼人族の霊魂を供養して災厄を免れるために建られた供養塔と伝えられてきましたが、平安時代の仏教遺跡と考えられるようになりました』とはある。しかし、そう御霊(ごりょう)伝承されたほどに、朝廷の侵攻は惨かったことの証である。

「鼻面川」不詳。サイト「川の名前を調べる地図」でも掛かってこない。

「東國分寺大字福島」鹿児島県霧島市国分福島

「國分村大字上小川には拍子川といふ川あり」現在の国分上小川はここ。現在、拍子川は確認出来ないが、「三国名勝図会」の「拍子川」の頭に記された流路から、この小流れか、南東に上小川の南飛地を流れる、現在の水戸川の孰れかであろう。当時とは流路が変わっているような気がする。]

 大人彌五郞を隼人といふ武士見たいな名にしたのは、多分は八幡愚童訓などの八幡王子が隼人を誅戮せられたといふ記事に合せたものであらう。同書下には次の如く記して居る。「隼人打負テ頸ヲ被ㇾ切、故ニ惡緣トナリ依ㇾ致其難、御幸ノ前ニハ二百人騎兵奉ㇾ隨、隼人打取給御鉾ヲ號シテ名隼風鉾、實長八尺廣六寸也云々」。卽ち御大將は日本武尊では無いが、御孫の應神天皇と同じきが如くに傳へらるゝ王子神であつたといふので、つまりはこの口碑の大隅正八幡宮卽ち今の鹿兒島神宮の祭と因《ちなみ》あるものなることを示して居る。現今この地方の神社で大人彌五郞の故事を傳へて居るものは何れも八幡である。その一は日向北諸縣《きたもろかた》郡山ノ口村大字富吉的野《まとの》の圓野(まどの)神社、古くは的野正八幡宮と申せし社の十月二十五日の例祭に、濱殿下《はまどのくだ》りといふ儀式があつて、朱面を被り刀大小を佩いた一丈餘の偶人を作りこれを大人彌五郞と稱し、四つ輪の車に載せ十二三歲の童子數多これを押して行く。隼人征討の故事に依るものといふとある。大隅囎唹郡末吉村中島の八幡宮十月五日の祭にも、同じく濱下《はまお》りの式あつて大人の形を作り神輿の先拂ひとする。長一丈六尺、梅染の單衣《ひとへぎぬ》をき大小を帶び四輪車の上に立つ、これを大人彌五郞といふとある。明治神社誌料には同郡岩川村大字中ノ内の八幡神社の條に地理纂考を引いて、殆とこれと同じ事を述べてゐるが、二社別々であるか否かを確め得ぬ。但し此方は祭日が十月十五日である。又大人彌五郞は武内宿禰のことだとの說もあるといふ。

[やぶちゃん注:「八幡愚童訓」「はちまんぐどうくん」又は「はちまんぐどうきん」と読む。鎌倉時代中・後期の成立とされる縁起。作者不詳。「愚童訓」とは八幡神の神徳を「童子や無知蒙昧の徒にも分かるように読み説いたもの」という意味で、「三韓征伐」から「文永・弘安の役」までの歴史的事実を素材としつつ、八幡神の霊験を説いている。石清水八幡宮社僧の作と推定されている。「八幡大菩薩愚童訓」「八幡愚童記」とも言う。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和三四(一九五九)年刊「羣書類従」第一輯(訂正版)のここで当該部が視認出来る(左ページ上段後ろから二行目)。

「鹿兒島神宮」ここ。歴史は当該ウィキを見られたい。

宮崎県都城市山之口町富吉(やまのくちちょうとみよし)にある的野正八幡宮(二〇〇二年に修復・改築によって旧正名に改称している。近くに「弥五郎どんの館」があり、そのサイド・パネルの写真群がいい。また、サイト「Photo Miyazaki 宮崎観光写真」内の「宮崎の神社」に、「御神幸行列 弥五郎どん祭り」として『三俣院の宗廟として和銅』三(七一〇)年に『建立された的野正八幡宮の御神幸祭では、御神幸行列の先頭に立つ弥五郎どんが、千数百年の時を経た今も隼人族を守り、その雄姿を今でも見せてくれます』。『身の丈』四メートル『もある弥五郎どんを先頭に、的野正神社から約』六百メートル『離れた池の尾神社まで、「浜殿下り(はまくだり)」とよばれる御神幸行列が行われます』。『当時』、『全国規模で行われたと思われる「放生会次第」による祭りで現存しているのは南九州では』、『鹿児島県曽於市の岩川八幡神社、宮崎県日南市飫肥の田之上八幡神社、ここ山之口町の的野正八幡宮の三ヶ所だけと言われています』とあり、「三国名勝図会」の行列の挿絵や写真も載る。こちらは「山之口弥五郎どん祭り」と呼び、三人兄弟の長男とされる。三男は宮崎県日南市飫肥(おび)の田ノ上八幡神社のそれで、「田ノ上八幡神社の弥五郎人形行事」とされる。但し、こちらは現在はねり歩くことはなく、屋内に立ててあるのが、サイド・パネルで確認出来る

「大隅囎唹郡末吉村中島の八幡宮」曽於市末吉地区はこの附近だが、現在、八幡を冠する神社自体が確認出来ない。岩川八幡はここの五~七キロメートル南西である。但し、サイト「九州の神社」の「岩川八幡神社」の解説に、『戊辰の役における伊勢家家臣団・私領五番隊の功績により岩川が末吉郷』(☜)『から分離独立したのに伴い』、明治六(一八七三)年、旧岩川郷の郷社とな』ったとあったのが、どうも臭う。ただ、そこに同神社は当初、『今の中之内の地に創建』したとあり、ここは下冤罪の神社の直ぐ北西地区に接する地名であって、末吉とは異なる。何らかの原著者の認識に錯誤があったとする方が妥当であろう。

「大人彌五郞は武内宿禰のことだとの說もある」私は朝廷に組みするこんな説には賛同出来ない。]

 大人彌五郞と稱する人形の祭は、前に些しく述べ置いた奧州津輕その他の所謂侫武太(ねぶた)流しと如何にもよく似てゐる。舊日本兩極端の地ではあるがこれは偶合であるまいと思ふ。ネブタは何れの地方でも七月中元の頃の行事で彌五郞は十月下元の前後に行はれた。然るに季節に於てもちやうど二者の中間に、地理上からいつても大隅と陸奧との中程なる、越前大野郡のある村に於て亦同種類の儀式が行はれた。大野郡誌に依ると、同郡下味見《あぢみ》村大字西河原《にしか

うばら》では正月十五日の左義長に、大なる藁人形を作つて兩手に日の丸の扇を持たせ、左義長の火の車へ入れて共に燒く。これをヤンゴロと名づけた。昔彌五郞といふ惡者あつて全村を燒いたのを火刑に處した。その記念といふことである。こゝには大太坊《だいだばう》のやうな傳說は伴はぬかも知らぬが、惡者の人形に日の丸の扇を持たせるは、兇暴に由つて誅罰せられた大人に梅染の單衣を着せ大小を差させるといふのと同程度の不思議で、つまりは二者に共通なる彌五郞といふ名稱の陰に、何か隱れたる仔細があるらしいのである。關東でも野州氏家と喜連川との中間舊奧州街道最初の峠の名を十貫《じつかん》彌五郞坂といふ。坂道半分上つて右手の山に彌五郞の墳があつた(武奧行程記)。この彌五郞などは、如何なる經歷の彌五郞か。往來からは見えぬが石碑も立つて居たさうだ。御承知の人があらば敎示を乞ひたいものである。

[やぶちゃん注:「前に些しく述べ置いた奧州津輕その他の所謂侫武太(ねぶた)流し」これは大正三(一九一四)年七月の同じ『鄕土硏究』に発表した「ネブタ流し」である。底本と同じものの第九巻のここから視認出来る。上を読んでもすぐに感ずるが、柳田は「虫送り」(実盛送り)や御霊供養と関連づけて考証していることが判る。実はリンク先のこの前章はまさに「實盛塚」なのである。これは納得出来る説である。

「越前大野郡」「下味見村大字西河原」福井県福井市西河原町(にしこうばらちょう)。

「奧州街道最初の峠の名を十貫彌五郞坂」Hitosi氏のサイト「悠々人の日本写真紀行」の「旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 8」に地図入りで「弥五郎坂(旧早乙女坂)」で確認出来る。そこには、『弥五郎坂の頂上付近に、松尾弥五郎博恒墳墓と刻まれた碑がある』。『この階段を上がったところに早乙女坂古戦場の碑と五輪塔を納めた小さな祠があ』り、『現在は弥五郎坂となっているが、もとは早乙女坂(五月女坂とも)と呼ばれていた』。『戦国期の天文』一八(一五四九年)、『宇都宮氏』二千『余騎と那須氏』五百『余騎との間で激戦』「早乙女坂の戦い」『が展開されたところであ』り、『この戦いで宇都宮氏側の総大将であった宇都宮尚綱が戦死し』、『宇都宮氏側が敗退した』。『この尚綱を討ったのが、那須氏側の鮎瀬弥五郎でその時の恩賞』十『貫文で、敵将である尚綱の菩提を弔う為にここに五輪塔を建てたという』とあるので、大人伝承とは関係がないことが判る。栃木県さくら市早乙女で、ここに「伝弥五郎の墓及び五輪塔」があり、サイド・パネルで五輪塔の写真も見られますよ、柳田先生。]

 話がこれまで進んで來ると、どうしても一寸批評を試みねばならぬのは愛知縣の縣社津島神社の境内社に、彌五郞殿《やごらうでん》の社と祀らるゝ神の由來である。後世社家の傳ふる所では祭神を彌種繼命(いやたねつぐ《のみこと》)といひ、或は又彌五郞をそのまゝイヤイツヒコなどとも稱へて居たが、鹽尻の著者の說に依れば、この地方の名族堀田氏の舊記に、その祖先彌五郞正泰なる者、正平元年戊の年の七月十三日に、家の高祖武内宿禰を祀つたのが最初で、これに由つて社名を彌五郞殿と呼ぶのださうである。併し社の名は常に祭神の名に從うのが延喜式以來の舊例で、殊に信者若くは勸請者の名を呼ぶが如きは、なんぼ中古からの事にしても穩當で無い。この社の創立の隨分古いことは、遷宮牒《せんぐうちやう》の殘缺が傳はつて居て、應永十三年十月以後度々の遷宮が記錄せられて居るので疑《うたがひ》を插むことが出來ぬが、而もその堀田家の舊記といふものが果してどの位舊いのか。今少し具體的にいへば、僞本の評ある浪合記などの出てから後のものか否か、果してこれに基づいて編述したもので無いかどうか、今となつてはこれを明らかにする途《みち》が殆と無いのである。尾州から出て大名になつた堀田家が紀氏を稱し武内宿禰を祖先として居たことは人の知る所で、彌五郞殿を武内宿禰といふことは大隅にもあるが、何よりも奇異に感ぜられるのは八幡でも無い津島天王の末社に、紀氏の祖神が祀られて居たことである。

[やぶちゃん注:「津島神社」ここ

「彌五郞殿の社」弥五郎殿社として現存する。kk28028hrk氏のブログ「古代史の道」の「弥五郎殿社(やごろうでんしゃ)…津島神社境内」に説明板が電子化されており(板の写真から修整を加えた)、

   *

   弥五郎殿社

   御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

       武内宿禰公

御祭神武内宿禰公の末裔堀田弥五郎正泰が、正平元年(西暦一三四六年)造替した縁故を以て社名としたと伝える。

堀田弥五郎は南朝方の忠臣で 正平三年楠正行公に従い 四条畷に於いて戦死した勇将である

正泰公が当社の宝物として寄進した伯耆国の名工大原真守作の太刀は 現在神社に持伝え重要文化財に指定され、なお社前の石灯篭は津島市文化財に指定されている。

   *

とあった。これで、一応、筋は通りませんか? 柳田先生? まあ、そもそも武内宿禰の末裔というのは如何にも胡散臭い。後で柳田は、「この社の創立を七月十三日とすることゝ、その一名を佐太彥宮《さたひこのみや》と呼んだ」「大人は或地方では猿田彥のことだとも傳へて居る」というのも、都合よく神道と習合させた結果と考えれば、どうということはない。有象無象の弥五郎神社もそれに無批判に習ったに過ぎないように私には思われる。巨人「だいだらぼっち」は、所詮、国家神道には不都合だからである。

「鹽尻」江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該活字本の当該箇所が国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認できる。右下段最初から。

「應永十三年」一三九六年。

「僞本の評ある浪合記」私の「譚海 卷之一 遠州長門御所の事」の私の引用注を参照されたい。]

 浪合記はもと美濃高須の德川家に在つた書で、それが世に現れたのは寶永六年[やぶちゃん注:一七〇九年。]の七月、その發見者はやはり鹽尻の著者天野翁である。南朝の王子良王君《りやうわうぎみ》難を避けて尾張に隱れ、堀田大橋等の土豪の援助を得て、終に津島社の神職となられたことを述べたもの、記事中に見える年號は文正《ぶんしやう》元年[やぶちゃん注:一四六六年。]を以て最後とするが、王子の叔父に當るといふ世良田萬德丸政親が遊行上人に命を救はれ、三河の松平に住して次第に家榮えたことを力說して居るのを見ると、少なくとも德川氏の天下になつて後始めて筆錄したものと察せらるゝ。しかして津島の彌五郞殿社の根源はこの書中にそつくり出て居るので、彌五郞殿社本の名は佐太彥宮、堀田彌五郞夢想に由つてこれを崇祀し、時人願主の名によりて彌五郞といふ。祭神は武内大臣と平定經、定經は地主の神也とある。この定經は鹽尻に大橋太郞貞經ともあつて、大橋一族の先祖らしいが、この家は源平亂後に尾張へ移住したもので、その樣な新分家の初代を武内大臣と相殿に祀つたといふのも、又これを地主神といふのも共に受けられぬ話である。浪合記の中にはまだ幾組かの矛盾撞着が潛んで居るらしいが一々取立てゝいふにも及ばぬ。假に全然の虛構で無いにしても、茫漠たる口碑の斷片を遙か後年に綴り合せ、つい一通りの鍔目《つばめ》を合せて置いたに過ぎぬらしく、善意に解した所で應永[やぶちゃん注:一三九四年から一四二八年まで。]以來既に存して居た津島の彌五郞社が、この社に仕へて居た社家中の有力者堀田大橋の遠祖と關係があることを知る迄である。唯我々として注意すべきはこの社の創立を七月十三日とすることゝ、その一名を佐太彥宮《さたひこのみや》と呼んだ點である。大人は或地方では猿田彥のことだとも傳へて居る。伊勢の多度神社はこの神を祭ると稱し、その末社中に三つの何々大人社がある。大人の足跡を地方に由つては大の足跡といひ、又神事の行列に出る鼻高の面を「王の鼻」といふ例は多い。因幡などでは大人の足跡を猿田彥の神跡と解する者もあつたことが因幡誌に見えて居る。而して津島の彌五郞社の如きも、地主神《ぢしゆしん》とあるのが正しいとすればこれを國神《くにつかみ》たる左太彥の名に繫くるも差支が無いかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「良王」愛知県津島市の「つしま幼稚園」の「瑞泉寺」ここ。津島神社の南東直近)の縁起(年譜形式)に後醍醐天皇の曽孫とあり、そこに、津島に向った際の護衛した津島四家七党の中に「大橋」「堀田」の名が見える。没年は延徳四・明応元(一四九二)年とする。

「伊勢の多度神社」よく判らぬ。三重県北東部に多度大社を始めとして多度神社は複数あるが、猿田彦を主神とするものは調べたがないようである。]

 鹽尻の天野翁の如きは右の浪合記と内容を同じくする堀田家譜の記事を信じ切つて居られた故に、他の處々の天王社の末社に彌五郞社の多いのは甚だ謂れの無いことだと論ぜられたが、津島の彌五郞殿にして實際社人又は有力な氏子の祖先であつたとすれば、その事實が永く隱されて居る筈も無く、これを知りつゝその樣な特殊の末社までを勸請する筈も無い。殊に地主神に至つては何れの地にもそれぞれ既に存するが故に、それを本社から移して來る者はあるまいと思ふ。然るにも拘らず彌五郞を末社とする社が往々あつたといふのは、何か別途の仔細があつたものと考へて見るべきであつた。今日でも名古屋の廣井天王(州崎神社)の境内に一の彌五郞社あり、祭神を武内宿禰と稱して居る。元和《げんな》[やぶちゃん注:一六一五年から一六二四年まで。]以前に建立せられた古社である(名古屋市史社寺篇)。美濃可兒《かに》郡上之鄕村大字中切の牛頭天王も古い社であるが攝社の彌五郞殿社には永祿六年[やぶちゃん注:一五六三年。]の棟札を傳へて居る。この天王もとは寶泉寺といふ山伏寺の鎭守神で明治の初めまでやはり眞言派の法印がこれに仕へて居た(明治神社誌料)。この社でも津島の天王と同じく祭禮には車樂(だんじり)を牽出すのが例であるが、その期日は舊曆七月十四日で、彼は十一艘の飾り船を出すのに反して、こゝは二輛の眞の車樂を牽くことになつて居る。土地のいひ傳へでは近鄕の送木(おくりぎ)といふ里に昔時送木御所といふ人があつて神鉾を獻納したといひ、今でもその村の者が來て鉾だけは裝(かざ)る例になつて居るといふのは、何か尾張の方の傳承と異つた由緖が存して居たものと思はれる。

[やぶちゃん注:「廣井天王(州崎神社)」「洲嵜神社」(廣井天王社)が正しい。ここ

「美濃可兒郡上之鄕村大字中切の牛頭天王」現在の岐阜県可児郡御嵩町(みたけちょう)中切(なかぎり)にある神社である。「岐阜神社庁」の同神社の解説で確認出来た。そこに、『貞永二』(一二三三)年に『鎌倉執権北条泰時、治世美濃國小泉庄の庄屋吉田主計正奏し、請ふて一宇の社殿を羽ヶ嶽に経営して牛頭天王』(☜)『を奉祀す。弘長三』(一二六三)年、『最明寺入道』(北条時頼)『夢想に依りて弥五郎殿』(☜)『を奉祀す』とある。さあて、どれをとってもこうした弥五郎殿は中世より前には遡れない。まあ、後で柳田は御霊信仰が変化したと言ってはいるのだが、それは取りも直さず、やはり覇権者側の多分に都合のいい呪的封じ込めである(現代の政治もそうだ)と考えている。]

 津島の車樂祭《だんじりまつり》は海道第一の評ある花やかな祭であつた。その期日は各地の祇園と同樣に六月の十四日で、十一艘の船を飾り立てゝ神輿に供奉するのは所謂濱下りの一形式であらうが、これをしも「だんじり」といふのは珍しいことと考へられて居た。他に確とした舊記も無いから不本意ながら又浪合記を引くが、浪合記にはこの儀式の起つたのは永享[やぶちゃん注:一四二九年から一四四一年まで。]中の事で、所謂四家七名字の祖先の者共天王の神託を拜し、良王君に讐《あだ》を爲す佐屋の臺尻大隅守がこの日祭を見に押渡るを待受け、十艘の飾り船を以てその船を取卷き、悉く大隅が一類を討取つた。それよりしてこの日の祭には右の光景を象《かたど》つて十一艘の船を出すことになり、後世に至る迄だんじり討《うち》と囃すべしとの良王の命に從ひ、每年この囃子變ること無しとある。この話の眞僞如何は必ずしも佐屋に臺尻氏なる者が住んで居たか否かを詮議する迄も無く、八幡の祭に大昔王子のために誅戮せられたといふ大人彌五郞の人形を車に乘せて曳いた例、或は越前西河原の兇賊彌五郞の記念祭なるものを考へ合せて見れば、測り知ることがあまり六つかしく無い。「だんじり」が津島の天王だけのものならば或はかういふ話も永く用ゐられ得るか知らぬが、緣もゆかりも無い中部諸國の神祭に、この物を牽き出して神事を送る例は多いので、「だんじり」といふ語の意義こそは不明であるが、鉦鼓歌舞の花々しい歡樂の背後に、今人の感覺にはやゝ强烈に失する殺伐なる昔語《むかしがたり》を潜ましめて居たことが、髣髴として窺ひ知られるといふに過ぎぬことである。若狹高濱町の縣社佐伎治《さきち》神社などでも、以前は六月上酉日の大祭に太刀振《たちふり》といふ式あり、氏子等《ら》刀を拔いて擊合ひをして後、やはり「だいじりうつた」と口々に訇(ののし)つたといふ。この社の祭神は素盞嗚尊外二神で祇園祭には相違ないが、祭の式は津島天王と異つて居るのに、伴信友翁の如き學者までがこの社の式内の神なることを主張しつゝも、しかもその「だいじりうつた」を尾張から模倣したものゝやうに說かれるのは、理窟に合はぬことである。

[やぶちゃん注:「若狹高濱町の縣社佐伎治神社」福井県大飯郡高浜町宮崎のここにある。]

 自分の見る所では、尾張の臺尻大隅守は取りも直さず越前又は日向大隅の彌五郞である。從つて今日社家の傳ふる所に合致すると否とを問はず、津島末社の彌五郞殿は必ず車樂祭の最初の目的と關係する所が無くてはならぬ。而して彌五郞が果して實在の人物であつたか否かに答ふる前に、是非とも一考して見ねばならぬのは牛頭天王と御靈會《ごりやうゑ》との關係である。京都では所謂八所の御靈の如き、近世に至つて既に儼然たる獨立の社となつたが、山城朝廷の初期に御靈の祭を行はしめられた頃には、時に臨んで祭場を設備し、これを古來の神々の如く常在の社地とは認められなかつたのである。御靈會が年々時を定めて繰返さるゝことになつて後、乃ち祇園今宮等の社は起つたのである。これ等の臨時の社が彼時代の神道に同化した道筋は非常に簡單であつた。僅々百年餘の間に早くも主なる宮社の中に地位を占めて、寧ろ次第にその當時の諸大社を御靈化したといつてもよい。而も御靈に對する世人の畏怖は增しても減ずることが無かつた故に、古い御靈が高い地位に昇ると共に第二第三の御靈が祭られ、終に前述の如き兇賊退治の昔話を發生するに至つたのである。御靈は日本の語でいへば「みたま」である。太古以來の國魂郡魂も同じことで、本意は現人神卽ち實在した人の靈を祀るといふに過ぎなかつたが、平安朝初期の御靈は特に冤枉《ゑんわう》[やぶちゃん注:冤罪に同じ。]を以て死んだ人々をのみ祭るやうな信仰に變化した。武家全盛の時代を經過して、名だたる多くの荒武者が神となつたのも、つまりはこの威力の怖しさを體現した結果であつて、何でも强い人が死んでなる神といふ所から、御靈の社とさへいへば多くは何の五郞といふ人を祀ると傳へられた。美濃で落合五郞、信濃で仁科五郞、會津で加納五郞、下總で千葉五郞、相州で曾我五郞の類、勿論そんな武士はあつたにしても、神と稱へたのは御靈の音に近かつたためである。就中鐮倉では御靈の宮を鎌倉權五郞といふこと、最も弘く信ぜられた說である。もと梶原村に在つて彼が後裔鎌倉權八郞某なる者これに奉仕したともいふが、要するに最初は鶴岡の八幡に從屬して居たものに違ない。八幡はそれ自身が祇園と共に最古の御靈祭場から發達した神である。それ故に九州などでは八幡社の末社に御靈が多く、又意外な西國の田舍に權五郞景政が建立したなどといふ八幡が多くある。何れもこの神が今のやうに盛んになつた當初の動機を暗々裡に語るもので、權五郞の權も彌五郞の彌もどういふはずみに附着したかは知らぬが、御靈卽ち人間の亡靈の是非とも慰撫し且つ送却せられねばならぬことを固く信じて居た人々の、やさしい心持を今日に遺《のこ》して居るものに他ならぬ。而してその彌五郞の御靈といふ思想中に、國魂《くにみたま》卽ち先住民の代表者ともいふべき大人に對する追懷若しくは同情を包含して居た例がありとすれば、愈々以て我邦民間に於るこの種信仰の由來古いものなることが察せられるのである。

[やぶちゃん注:「五郞の類、勿論そんな武士はあつたにしても、神と稱へたのは御靈の音に近かつたため」これは全面的に支持する。

「やさしい心持を今日に遺して居るものに他ならぬ」心情としては判る。

 以下は、底本では全体が一字下げである。]

 

(附記)

信濃時事の記者中原君の話に、三河八名《やな》郡富岡の附近で、ヤハタヤゴロウ(八幡彌五郞)といふ神の名を耳にしたことがある。但し軍隊に居た頃の忙しい行軍中のことで詳しい話は知らぬといふ。この件誰か御承知の人は御報告を乞ふ。

[やぶちゃん注:「三河八名郡富岡」現在の愛知県新城(しんしろ)市富岡。]

2023/02/27

大手拓次譯詩集「異國の香」 「幽靈」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  幽 靈 ボードレール

 

黃褐色(かついろ)の眼の天使のやうに

わたしは お前の寢間へかへつてこよう、

そして 夜のものかげとともに

おともなく お前の方へすべつてゆかう。

そしてお前にあたへよう ほのぐろい女よ、

月のやうなつめたい接吻を

また 穴のまはりを匍ひあるく

蛇(へび)の愛撫を。

 

あをざめた朝がくるときに

お前は 空しいわたしのあとを見るだらう、

けれどもそこは 夕暮までつめたいだらう。

 

他のひとびとが優(やさ)しさでするやうに、

お前の命のうへに またその若さのうへに

わたしは 怖ろしさで君臨しよう!

 

[やぶちゃん注:「ジャンヌ・デュバル詩篇」の一つ。原詩は英訳付きのこちらから引いた。フランス語サイトのものと校合した。

    *

 

   Le Revenant   Charles Baudelaire

Comme les anges à l'oeil fauve,

Je reviendrai dans ton alcôve

Et vers toi glisserai sans bruit

Avec les ombres de la nuit;

 

Et je te donnerai, ma brune,

Des baisers froids comme la lune

Et des caresses de serpent

Autour d'une fosse rampant.

 

Quand viendra le matin livide,

Tu trouveras ma place vide,

Où jusqu'au soir il fera froid.

 

Comme d'autres par la tendresse,

Sur ta vie et sur ta jeunesse,

Moi, je veux régner par l'effroi.

 

   *

本篇は四連構成とするのが、諸訳者でも共通しており、原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)の「翻訳篇」でも四連構成に変えてある。但し、そちらでは、同一詩篇の訳が二種あり(初訳版の標題は「亡靈」)、後の再訳版が連構成と一部のルビを除いて完全に一致する。その二種を以下に初訳・再訳の順で示す。漢字は恣意的に正字化し、中途読点の後も同じく一字分を空けた。

   *

 

  亡 靈 ボードレール

 

茶褐色の眼を持つた天使のやうに

わたしはお前の寢部屋のなかに歸つてゆかう、

そしてお前の方へ音もなく、 夜の影と共にすべつてゆかう。

 

わたしはお前に與へよう、 暗い女よ、

月のやうなつめたいベーゼを。

又、 穴のまはりに這(は)つてゐる

蛇の慈愛を。

 

鉛色の朝が來るとき

お前はわたしの空しい場所を見出すだらう、

それで夕方までに凍つてしまふだらう。

 

ほかの人が親切をするやうに

お前の命の上に、 お前の若さの上に、

わたしは、 恐怖をもつて支配しよう。

 

   *

 

  幽 靈 ボードレール

 

黃褐色(かついろ)の眼の天使のやうに

わたしは お前の寢間へかへつてこよう、

そして 夜のものかげとともに

おともなく お前の方へすべつてゆかう。

 

そしてお前にあたへよう ほのぐろい女よ、

月のやうなつめたい接吻を

また 穴のまはりを匍(は)ひあるく

蛇の愛撫を。

 

あをざめた朝がくるときに

お前は 空しいわたしのあとを見るだらう、

けれどもそこは 夕暮までつめたいだらう。

 

他のひとびとが優しさでするやうに、

お前の命のうへに またその若さのうへに

わたしは 怖ろしさで君臨しよう!

 

   *]

西播怪談實記 新宮水谷何某化物に逢し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。

 また、挿絵も所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

 ◉新宮水谷何某《しんぐうみづたになにがし》化物《ばけもの》に逢《あひ》し事

 揖東郡(いつとう《のこほり》)新宮に、水谷何某といへる士ありしが、武術に達し、ことに剛强(こうきやう)なる生質(うまれつき)にて、常に殺生を好(このみ)て慰(なくさみ)とせり。

[やぶちゃん注:「揖東郡新宮」兵庫県たつの市新宮町新宮(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

 年は延宝の比とかや、長月のすゑつかた、夜興(よこう)に行《ゆき》ける。いつにても逸物(いちもつ)の犬をつれければ、其夜も犬に案内させて、城(き)の山《やま》奧へ入《いり》けれども、何壱つも目に懸らぬ所に、犬、物に恐れけりと見えて、股の下へ入《いり》けるを、引出しゆけども、少(ちと)も先へ進(すゝま)ざれば、

「きやつ、かやうなる事、是迄、覺《おぼえ》ず。不思議。」

と、あたりを見迥《みまは》せば、大《だい》の山伏、此方(こなた)の山より、向ふの山へ、踏(ふみ)はだかり、水谷を、

「急(きつ)」

度(と)、白眼付(にらみ《つけ》)たる体(てい)たらく、すさまじき事、いわん方なし。

 

Ooyamabusi

 

 然(しかり)といへども、水谷、少《ちと》も恐(おそれ)ず、此方(こなた)よりも、山伏を、

「はた」

と白眼付て、暫(しばらく)、猶豫(ためらい)居《を》れども、先《さき》より手を出《いだ》さねば、此方よりも、手を出さず。

 互に儀勢(ぎせい)斗(はかり)にて、其夜は、むなしく歸りける。

[やぶちゃん注:「城(き)の山」新宮町の南にある城山城跡(きのやまじょうせき)のある山サイト「西播磨遊記」の「城山城跡」に、『播磨の守護職赤松満祐が時の将軍、足利義教を京の自邸で殺害した「嘉吉の乱」』(一四四一年)『の舞台』で、『京都から播磨に引き揚げた満祐は、山名持豊(宗全)等の率いる二万の追討軍を迎えて各地に戦った末、ここを最後の拠点とし』た『が、遂に戦況の挽回はならず、満祐以下』五百『余名は』、『この山城で非業の最後を遂げ』たとある。また、『山頂の供養塔付近から約』百メートル『ほど行くと、神話の伝説を持つ亀の池があ』るともあった。思うに、最初のリンクを見られたいが、如何なる伝説かは判らなかったが、「亀岩」・「亀の池」へ向かうピークに「亀山(きのやま)」があり、これが元の「きのやま」であったものを、後に城が建ったことから「城」にも代替させたものであろう。

「儀勢」相手に対して示す威勢。敵対する相手に対する威嚇的態度を指す。]

 又、ある夜、方角をかへて、觜崎(はしさき)といふ所の山へ行《ゆき》しに、犬、恐るゝ事、前夜にかはらねば、又、

『山伏の出けるにや。』

と、あたりを見迥せども、目にさえぎるものもなかりし所に、鼬(いたち)ほどなるもの、ちらちらと見へければ、

「偖(さて)は。きやつが所爲(しよい)なるべし。彼風情(かれふせい)なるものに恐るゝ事やある。」

と犬を呵付(しかり《つけ》)、追(おふ)て行《ゆく》に、ある岨(そは)に祠(ほこら)のありけるが、破(やふ)れたる拜殿の下へ這入(はい《いり》)ければ、蹟より犬を入れども、㞍(しり)ごみして入《いら》ねば、無二無三に押入(おしいれ)けるに、犬、かなしげに吠けるが、須臾(しはらく)して、

――犬を――ひつくりかへし

――皮を――内へなし

――肉を――外(そと)へして

子共(ことも)の密柑(みかん)のしゝはぎをしたる如くにして――水谷の前へ指出(さしいた)しけり。

[やぶちゃん注:「觜崎(はしさき)」兵庫県たつの市新宮町觜崎。前回とは真反対で東に当たる。

「しゝはぎ」「皮を剝ぐこと」の意であろうが、「しし」は「肉」の意であり、「皮」の意はないから、ちょっとおかしい感じはする。或いは、蜜柑の実は「肉」であるから、その皮を「剝」ぐで合成語としたものか。]

 水谷も、興醒(けうさめ)て、歸りて後《のち》、つくづくとおもひけるは、

『逸物の犬を、かく、なす事、狐狸(きつねたぬき)の及ぶ所に、あらず。我(わか)年來《ねんらい》の無益(むやく)の殺生を、神の誡め給ふにや。』

と、夫(それ)より、殺生を、堅く止(やめ)られけるよし。

 同所のものゝ語りける趣を書つたふもの也。

 

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山の神のチンコロ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正三(一九一四)年六月発行の『鄕土硏究』初出である。]

 

     山の神のチンコロ

 

 日本の動物學が未だ山の迫《はて》海の隈《くま》の總てを支配して居らぬことは、遺憾ながら既に犬神土瓶神《とうびようがみ》の話についてもこれを認めざるを得なかつた。出雲の人狐《じんこ》伊豫の犬神などは、往々路傍にその死屍を見るといふ話さへあるのに、見た人が常に素人で、今以て不必要なる畏怖を散ずることが出來ぬ。拙者が畠にも大學あたりで調べて戴きたい獸が大分居る。その一つをこゝへ牽出《ひきだ》して來て見よう。信濃奇勝錄卷三に曰く「八ヶ嶽(諏訪郡)の麓槻木新田《つきのきしんでん》の上には老木の穴洞《うつほ》の中に小獸ありて住めり。之を名けて山神の猧子《ちんころ》と謂ふ。鼠よりは大きく猫の子ほどにて、鼬の如くにして尾は短く脚も矮《ひく》し。冬月霜の降る頃に出づ。趫捷《あしはや》にしてよく走るが故に審《つまびら》かに其形狀を視ること能はず。毛色最も麗しく淡白淡黃或は黑白の駁《ぶち》あり。木曾にて山神のオコヂョと云ふもの之に同じ。安曇郡に云ふ貂鼠《てうそ》の類なるべし」オコヂョといふ語は何を意味するかまだ知らぬ。とにかく普通のイタチ又はテンでは無いらしい。木曾名勝圖會卷三には左の如き記事が透る。「木曾の深山に山神《やまのかみ》の猧子《ゑのころ》と云ふ物あり。形《かたち》猫の子の如くにして少しく大なり。頭《かしら》は栗鼠《りす》に似て短尾矮脚《いきやく》、毛色或は薄白《うすしろ》く或は淡黃《うすき》にして腹の下白し、或は鹿の如く斑文《まだら》ありて脚《あし》黑し。人を見て驚かず。三四匹づゝ群《ぐん》を爲し、十月初雪の後《のち》山中の小屋に居れば旁《かたはら》に來る。之を捕ふれば山神の祟ありとて敢て捕ふる者なし」。山の神の何々と呼ぶ動物植物は隨分多い。これも前に名が出來て後に怖れたのかも知らぬが、とにかく山人の住みさうな深山でなければ居らぬのを見ると、今一段と深い由緖のある名稱かも知れぬ。前にもいつた如く、海道では大井川の川上が山人の都であるが、そこにもこの物が居てその記事が一層幽怪である。駿河志料卷三十に依れば、「駿河安倍郡井川村の山中に里人が山神の𤢨(ゑのころ)と名《なづ》くる一種の怪獸あり。小さき獸にて毛色は白又は黑、或は白黑交れる斑《まだら》もあり。鼠の大さなれども形は黑犬の如く、耳を垂れ尾を卷き、鳴く聲も亦犬の吠ゆるに似たり。常には之を見ること無し。稀に見ることあれば杣人などは溪水に垢離《こり》を取り、山神の森に向ひて山中無事ならんことを祈る。此獸多くは山神の森にて見るが故に里人かく名けし也」とある。深山にある山神の森については亦言ふべきことがあるが、要するに靈異ありとして斧を觸れない寂寞《せきばく》の場處である故外では見掛けぬ物も住むのであらう。同じ大井の谷の西岸、遠州上川根村千頭鄕《せんづがう》の中にも、寸股川《すまたがは》の上流には細尾といふ僅か二戶の里があつた。「深山晝暗く人を食ふ獸ありて住めり。俗に之を山鼬《やまいたち》と云ふ。細尾の住民此獸の爲に食ひ盡されて今は人家無し」と、遠江風土記傳卷十三にあるのは、食はれる處を見たやうな記事であるが、恐らくは同じチンコロに負《おは》せた冤罪であらう。近世の博物圖にも採錄せられ、處々の見世物には勿論よく出る雷獸といふ動物は、拙者はこれと同じ物で無からうかと思つて居る。紀伊續風土記の產物部に、「木狗、クロンボウ、本草に俗に雷獸と云ふ。大抵形小狗の如く體細く尾長し。全身黑色にして咽《のど》の下より胸まで一道の赤黃色あり。齒爪堅利にして飛走《ひさう》甚だ疾《はや》し。天氣隱晦《いんかい》し又風雨の時は其勢《いきほひ》益《ますます》甚し。其糞《ふん》香ありて麝香の如し。先年より高野山奧及び有田郡山保田庄《やまのやすだのしやう》山中にて捕ふること間々あり、日高牟婁兩郡の山中にも亦あるべし。土佐には他色のものありといへど未だ見當らず」とある。毛色はともあれ尾の長いといふのが氣になるが、クロンボウといふ名からかく想像する。クロンボウは又山人族の外稱の一つであつた。和漢三才圖會卷四十に「攫、音却、和名ヤマコ、按ずるに飛驒美濃の深山の中に物あり、猿の如くにして大きく黑色長毛なり。能く立ちて行き又よく人言を爲す。豫め人の意を察す。敢て害を爲さず。山人呼びて黑坊といふ。互に怖れざりしももし人ありて之を殺さんとすれば則ち黑坊先づ其意を知りて疾く遁げ去る故に之を捕ふること能はず」と記してあるのは、正しく山男の一つ話であつて、これからサトリといふ別名も起り、駿臺雜話だつたかにはこれに基づいた敎訓譚まで出來てゐる。この黑坊と紀州のクロンボウと同じ物だといふのでは無いが、何《いづ》れ一方の名は他の一方から轉用したもので、從つて雷獸も山神と關係があるのではなからうかと思ふ。尤も飛州志には三才圖會に「飛驒の黑坊のこと見ゆれども古《いにしへ》のことにや今は其沙汰無し」とある。噂話には訛傳《くわでん》が多いから、吟味をしたら證據不十分に歸せざるは稀であらうが、さりとて空から又書物からこんな話が起つたと斷定し得ない。狒々の話でも亦さうである。狒々が日本に居らぬときまつても、狒々と誤り名づけられた猿だか人だかは居たのかも知れぬ。名前などは何れ物識《ものしり》が後につけたものであれば、それに合はぬのは直ちに虛誕の證據ではない。

[やぶちゃん注:「土瓶神」中国・四国地方で言われている憑物の一種。小蛇のような形をしており、瓶の中に飼われていると言われることから、「土瓶」という字があてられる。蛇と言っても、実際には細長い杉箸のような恰好をしており、頸部に白又は黄色の帯状のものがあるという。鳥取地方では「とうびょう狐(きつね)」と言っており、七十五匹が群れをなしているという。山口県長門地方では長虫(蛇)のようなもので、家に憑くというより、個人に憑くとされる。同じ憑き物の犬神よりも執念深いとする。備中(岡山県)地方では「とうびょう神」として祀っている所があり、酒好きという。四国の讃岐(香川県)地方では「とうびょう」を土の甕に入れて台所の近くに置いているという。どの地方でも、「とうびょう」は夜中に出て、他家の物をくわえてくるので、「とうびょう持ち」の家は金持ちになると伝えられている。縁組みをすると、その家も「とうびょう持ち」となるといい、「とうびょう持ち」の家とは、どこでも通婚を嫌った。人が「とうびょう」に憑かれると、神経痛のように痛むとも言う(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「人狐」これは小泉八雲が、かなり拘って解説している。例えば、『落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (三)』以下(ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で続きが読める)を見られたい。そこで「人狐」に私の注も附してある。

「信濃奇勝錄卷三」江戸末期に信濃国佐久郡臼田町の神官井出道貞(宝暦六(一七五六)年~天保一〇(一八三九)年)が信濃国(長野県)の各地を十数年に亙って実地踏査を重ね、見分した成果を記録した信濃地誌。全五巻。彼は天保五(一八三四)年に脱稿しているが、版行はされず、稿本として残され、約半世紀後の明治一九(一八八六)年に孫に当たる人物によって初めて出版された。参照した当該ウィキによれば、『信濃国の全体を網羅する体系的な地誌・沿革誌としての類似書はほとんどなく、信濃各地の有名な奇勝景観に加えて、歴史・旧跡・民俗・社寺・祭事から、建造物・古器物・出土品、また珍しい動物・植物・鉱物に至るまで多彩な事物を紹介している。本文には文章だけではなく、図も豊富に掲載されている』とある。「野槌」(ツチノコ)の図が載ることでも知られる。「卷三」とあるが、「卷四」の誤りである。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和九(一九三四)年版で当該部が視認出来る。但し、こちらのものは柳田の引用とは有意に異なる表記となっている。読みはそれを元に附した。

「猧子」子犬、或いは、犬の狆(ちん)を指す漢字である。

「オコヂョといふ語は何を意味するかまだ知らぬ。とにかく普通のイタチ又はテンでは無いらしい」冒頭で偉そうなことを言っておいて、柳田はオコジョも知らないのかと、今なら呆れられる。本邦には、オコジョは

◎食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属オコジョ亜種エゾオコジョ(エゾイタチ)Mustela erminea orientalis(北海道及び千島・サハリン・ロシア沿海地域に分布)

及び

◎同亜種ホンドオコジョ(ヤマイタチ)Mustela erminea nippon(本州中部地方以北:日本固有亜種)

二種が棲息する。一方、イタチは、

○ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi(本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入):日本固有種:チョウセンイタチMustela sibirica の亜種とされることもあったが、DNA解析により別種と決定されている)

〇ニホイタチ亜種コイタチ Mustela itatsi sho(屋久島・種子島個体群)

〇チョウセンイタチ Mustela itatsi coreana(対馬のみに自然分布。本州西部・四国・九州の個体群は外来侵入種で、これは一九四九年頃に船舶の積荷などに紛れ込んで朝鮮半島から九州に侵入したとも、また、同時期に毛皮業者が養殖のために持ち込んで脱走し、西日本を中心に分布を広げたともされる。ニホンイタチの棲息域を圧迫している)

〇チョウセンイタチ亜種ニホンイイズナ Mustela itatsi namiyei (青森県・岩手県・山形県(?):日本固有亜種。キタイイズナより小型で、日本最小の食肉類とされる。なお、ウィキの「イイズナ」によれば、『東北地方や信州では「飯綱(いづな、イイズナ)使い」「狐持ち」として管狐(くだぎつね)を駆使する術を使う家系があると信じられていた。長野県飯綱(いいづな)山の神からその術を会得する故の名とされる』。『民俗学者武藤鉄城は「秋田県仙北地方ではイヅナと称し』、『それを使う巫女(エチコ)〔イタコ〕も」いるとする』。『また』、『北秋田郡地方では、モウスケ(猛助)とよばれ、妖怪としての狐よりも恐れられていた』とある。)

であり、テンは、本邦には孰れも固有亜種の、

□食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属ホンドテン Martes melampus melampus(本州・四国・九州自然分布。北海道・佐渡島へ移入。沖縄県には棲息しない)

□ツシマテン Martes melampus tsuensis(対馬にのみに棲息する)

である。

「木曾名勝圖會卷三」これは正しくは「木曾路名所圖會」である。読本作者・俳人にして「名所図会」の先駆者として知られる秋里籬島が文化二(一八〇五)年に刊行したもの。「信州デジタルコモンズ」のこちら45コマ目で原本で視認出来る。柳田は文を有意にいじっている。読みはそれを元に附した。

「駿河志料卷三十」駿府浅間神社(現在の静岡浅間神社)の神職新宮(しんぐう)高平が文久元(一八六一)年に刊行した全百八巻に及ぶ駿河地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和五(一九三〇)年静岡郷土研究会刊のこちらで当該部(左ページの「山神之𤢨」)が視認出来る。「𤢨」は漢語で犬の名。

「駿河安倍郡井川村」静岡県静岡市葵区井川(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「遠州上川根村千頭鄕」静岡県川根本町千頭

「細尾といふ僅か二戶の里があつた」「今は人家無し」国土地理院図で現在もこの地名があることが判る。そこをグーグル・マップ・データ航空写真で見ると、人家が三軒確認出来る。ちゃんと人が住んでおられる

「遠江風土記傳卷十三」国学者内山真龍(またつ 元文五(一七四〇)年~文政四(一八二一)年:大谷村(現在の静岡県浜松市天竜区)の名主の長男として生まれ、宝暦一〇(一七六〇)、二十一歳の時、賀茂真淵に入門し、多くの門弟を育てる一方、諸国を旅行し、その他の故事を探り、数多くの著作を残した)が書いた遠江地誌。遠江国十三郡の郷名・村・駅・地図・古述・古跡及び元禄高帳による石高・口碑伝説などを漢文で記す。各郡を一巻として全十三巻から成る。完成までに十年の歳月を費やした労作である。国立国会図書館デジタルコレクションの明治三三(一九〇〇)年郁文舎刊の活字本で当該部が視認出来る(左ページ八行目)。

「雷獸」は一般に落雷とともに現れるとされる妖怪であるが、多様な形状で描かれており、モデル対象を一つに絞るには無理がある。当該ウィキを読まれたいが、私の電子化でも複数ある。一つだけ挙げておくと、「谷の響 五の卷 五 怪獸」であるが、そこで私はその正体を哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属ホオジロムササビ Petaurista leucogenys と比定した。当該ウィキではハクビシン・モモンガ・イタチ・アナグマ・カワウソ・リスなどを挙げてある。また、『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている』。『かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とあった。

「拙者はこれと同じ物で無からうかと思つて居る」賛成出来カネマス。

「紀伊續風土記の產物部」同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成した。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここで当該部を視認出来るが(左ページ下段中央)、それを見ると「クロンボウ」というのは前の「木狗」のルビになっている

「有田郡山保田庄」位置は「千年村プロジェクト」の「紀伊国在田郡山保田庄(荘園)」の地図で確認されたい。

『和漢三才圖會卷四十に「攫、……』私の『「和漢三才圖會」卷第四十  寓類 恠類』の「やまこ 玃父」を見られたい。但し、この漢字を当てるのは相応しくない。これは「玃猿」(かくえん)とも称し、中国の猿型の古くからの伝説上の動物。特に人間の女性を攫(さら)って犯して混血の子を生ませるとされるものだからである。

「サトリ」「覺(さとり)」由来。毛むくじゃらの山男として描かれる場合が多い。当該ウィキを読まれたい。

「駿臺雜話」江戸中期の随筆集。室鳩巣著。享保一七(一七三二)年成立。著者 七十四歳前年に弟子たちと語り合った話を収めたもので,朱子学の立場から武士道を鼓吹しようとしたもの。書名は,著者の家が江戸神田の駿河台にあったことに由来する。当該部は調べる気はない。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 狒々

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正六(一九一七)年三月発行の『鄕土硏究』初出である。なお、言わずもがなであるが、「狒々」は「ひひ」である。本邦に伝わる妖怪で、猿を大型化したような姿をしており、事実、老いた日本猿がこの妖怪になるとも言われる。参照した当該ウィキを読まれたい。但し、そちらにも書かれてあるが、人を攫(さら)うという属性などから、元は中国由来であることが判る(但し、その源流は中国ではなく、シルク・ロード経由で齎された幻獣である)。私は『「和漢三才圖會」卷第四十  寓類 恠類』の「狒狒」で、その想定実在モデルの考証もしているので、是非、読まれたい。

 

     狒  々

 

 所謂山丈《やまたけ》[やぶちゃん注:「山男」の別名。]・山姥の硏究を徹底的ならしむるには、是非とも相當の注意を拂はねばならぬ一の問題がまだ殘つてゐる。それは屢深山の人民と混淆せられて來た狒々といふ獸類の特性、及びこれと山人との異同如何《いかん》である。全體狒々といふやうな獸が果してこの島に居るかといふ事が、現代學界の疑問であるのに、近年自分の記憶するだけでも狒々を捕つたといふ新聞記事は二三にて止《とどま》らず、更に前代の記錄に亙つて攷察《かうさつ》すると覺束無い點が多い。本草家に限らず、日本の學者には妙な一癖《ひとくせ》があつて、支那に在る物は日本にも在るといふ前提から議論する場合が多い。益軒ほどの先覺までが、往々にしてこの弊に落ちて居る。陸地を蹈まねば移ることの能《あたは》ぬ動物に於ては、殊にこの豫斷は危險な筈であるが、例の山𤢖《やまわろ》木客《ぼつかく》から狒々の類までも、いつの間にか遠い國土の記述が和譯せられて我邦のことのやうに傳へられて居る。言海を引いて見るとかうある。「ひゝ(狒々)、怪獸の名、深山に棲む、猴《さる》に似て極めて大きく、又極めて猛《たけ》く、人を見れば大いに笑ひて脣《くちびる》其目を蔽ふと云ふ。詳《つまびらか》ならず。猴の年を歷《へ》たるものをいふにや。ヤマワラハ、ヤマワロ(以上)」これでは日本でヒヒといふ物がこの通りであるとしか見えぬが、さうで無いらしい。本草啓蒙四十八などを見るに、狒々の上唇至つて長く笑ふとき目を掩ふ故に笑はせて置いて唇の上から錐で額を突刺して捕へるといふのは實は外國に於る話であるやうだ。日本のヒヒの唇の寸法は未だ必ずしも檢せられなかつたのである。しかも支那の一地方でこの物を山笑と稱し我邦には又ヤマワロと名づくる物が山に居るといふのを、同じく「山笑ふ」の意と解し二物同じと認めたので、而もヤマワロのワロはワラハの方言で山童の義であるのを察せなかつた。從つて狒々深山中に棲むといひ「木曾飛州能登豐前薩摩に有りと聞けり」とあるのも二者いづれを意味するかわからず、「人形にして毛ありて猴の如し毛は刺の如くして色赤し、死すれば脫落す」とあるも、狒々の話か山童の話であるかを決しかねる。唯《ただ》疑《うたがひ》を容れざる一事實は、近世各地で遭遇し乃至は捕殺した猴に似てこれよりも遙かに大なる一種の動物を、人がヒヒと呼んで居たといふことだけである。和訓栞《わくんのしほり》の狒々の條には安永以後[やぶちゃん注:安永は十年(一七八一年)に天明に改元している。]の或年に伊賀と紀州とにこの物現れしことを記し、更に天和三年[やぶちゃん注:一六八三年。]に越後桑取《くはとり》山で鐵砲を以て打取つたのは大さ四尺八寸[やぶちゃん注:一メートル四十五センチ。]云々、正德四年[やぶちゃん注:一七一四年。]の夏伊豆豐出村で捕つたものは長七尺八寸[やぶちゃん注:二メートル三十六センチ。]餘云々と述べて居る。但し最後のものは果して狒々であるか否か疑はしい。面は人の如しとあるが而も鼻四寸ばかり手足の爪は鎌のやうで水搔があつたとある。この類の怪獸記事は江戶期の隨筆類には往々にして見えて居り、何れも傳承の際に誇張があつたとおぼしく、畫圖などの添ふ者は却つて不信用の種が多い。卽ちその獸が眞の狒々か否かを究める前に、果して話のやうな動物が有り得るかを問はねばならぬことになる。但し何れの場合にも何か獵師も見たことのない異獸を獲へたといふだけはうそでないらしい。内閣文庫に在る雜事記といふ見聞錄の卷四十にも、天明二年に會津磐梯山の麓塔澤の溫泉で滯在中の少年が幾人も取られるのでこの山に怪獸あるを知り、或武勇の者往きてこれを打留めたといふ物の圖を載せて居るが、これなども尾と水掻とあつて鼻は天狗のやうに長く、それで立つてあるくとあるから、何物とも解し難い。そこで自分などの兼々考へて見ることは、これ等前代の記錄を能ふ限り多く集めて見るも一方法であるが、それよりも急務は靜岡の新聞などに冬になると殆と每年一つ位づゝは現れる狒々捕殺の事件を精査して行くことである。これとても十年か二十年の間には大袈裟な噂になつて、始末がつかぬやうになるかも知らぬが、幸に後から後からほゞ同じ地方に同じ出來事が繰返されて居るから、今の内なら土地の人に就てゞも、果して猿の年經た者といふ世上の說が正しいかどうかを知る方法はあらうと思ふ。新聞の報道は常に一度きりで滅多に正誤なども出ぬから疑へば疑はれるが、或は蜜柑畠へ來て荒すのを擊つたとか、鐵砲の上手な町の醫者が打留めて持つて還つたとかいふ類の話があつて、志太郡島田あたりのこともあつたやうに記憶する。かういふ實地の例に由つて狒々と漢譯してよい一種の猴が日本にも居ること、乃至は普通の猴の中にも稀には非常に强大且つ神怪なる者のあることが立證せられることになると、神隱しその他深山の蠻民の所爲と認められて居た多くの不思議が何でも無くなるかも知れぬが、同時に又所謂ヒヒはそれ程大きなえらい動物でも無いと決すると、結局古來猿神などと稱して人の怖れて居た怪物は正眞の山男を誤認して居たことを知るに至るかも知れぬ。有斐齋別記の一節にある寶曆中越後の山中で擊取つた狒々の如きは、これを實見した人上京しての談話に、「獼猴《びこう》とは類せず別種の物ならん」というたとある。この物常に山巓に據り大石の上などに踞まり居り、これを見た人若し頓首跪伏して通して下されと賴めば敢へて害を加へず、無事に行過ることを許したとあるなど、大分山人の方に近い話である。

[やぶちゃん注:「木客」私の『「和漢三才圖會」卷第四十  寓類 恠類』で「木客」として立項されている。本文を引く(改めて所持する原本を視認して作り直した)。

   *

「本綱」に、『「幽明録」に載せて云ふ、『南方の山中に生(せい)す。頭(かしら)・靣(おもて)・語言(ごげん)、全く人に異ならず。但し、手脚の爪、鈎(かぎ)のごとく利(と)し。絕岩(ぜつぐわん)の閒(かん)に居(ゐ)、死するも亦、殯殮(ひんれん)す。能く人と交易するも、其の形(かた)ちを見せず。今、「南方(なんぱう)に、鬼市(きし)有る。」と云ふは亦、此れに類(るゐ)す。』と。』と。[やぶちゃん注:「殯殮」とした箇所は原本では「殯※」で「※」は「歹」+「隻」であるのだが、こんな漢字はない。そこで、「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」の巻五十一下の「獸之四」の[120-42b] にある「木客」を影印本で確認したところが、「殯殮」であることが判明した。「殯殮」は所謂、「仮殯(かりもがり)」で「生き返ることを想定して、死者を納棺しても、埋葬や焼いたりせず、暫く安置して祀ること」を指す。しかれば、ここは暗に「木客は蘇生することがある」ということを言いたいのだろうか?

   *

私はその注で、この「木客」は、実は『一種の少数民族若しくは特殊な風俗を有する人々の誤認ではないかという確信に近いものがある。それは死者を断崖絶壁に埋葬するという習俗が、四川省の崖墓(がいぼ)を容易に連想させるからである。これは懸棺葬・懸崖葬などと呼ばれる葬送民俗で、NHKが「地球に乾杯 中国 天空の棺〜断崖に消えた民族の謎〜」で二〇〇四年に紹介したものを私も見た』。『思うに彼等は、埋葬の際、また、日常生活にあって、断崖や山上の菌類・山野草を採取する道具として、四肢に鈎状の器具を装着していたのではあるまいか。識者の御教授を乞うものである』と書いた。私はこの見解を変えるつもりは全くない。

「言海」は所持する原本で確認した。元はカタカナ漢字書きで、ルビは「さる」以外にはない。読みは「ちくま文庫」版で補った。

「本草啓蒙四十八」国立国会図書館デジタルコレクションの当該書の当該部はここの左丁の終りから三行目に「狒狒」が立項されている。柳田が言うのは、ここの右丁四行目附近に出る。以下の「木曾飛州能登豐前薩摩に有りと聞けり」及び「人形にして毛ありて猴の如し毛は刺の如くして色赤し、死すれば脫落す」もそこからの引用である。

「和訓栞」「わくんかん」とも読み、「倭訓栞」とも書く。江戸後期の国語辞書。九十三巻八十二冊。谷川士清(ことすが)編。安永六(一七七七)年から谷川の死後の明治二〇(一八八七)年にかけて刊行された。古語・雅語・俗語・方言など、語を五十音順(第二音節まで)に配列、語釈・出典・用例を示す。よく整備され、日本最初の近代的国語辞書とされる。国立国会図書館デジタルコレクションで探したが、「ひひ」の項自体が、ない。不審。「さる」も見たが、そこには出てこないし、「しやうじやう」も調べたが、ない。ますます不審。

「越後桑取山」現在の新潟県上越市皆口は旧桑取村である。「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、桑取村のここに944,7メートルのピークがある。ここか。

「内閣文庫に在る雜事記」天保八(一八三七)年の写本。

「天明二年」一七八二年。

「會津磐梯山の麓塔澤の溫泉」現在、この名の温泉は磐梯山の麓には現認出来ない。

「志太郡島田」現在の静岡県島田市(グーグル・マップ・データ)。

「有斐齋剳記」儒者皆川淇園(きえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)の随筆。聞書きであるが、妖狐のランクが天狐・空狐・気狐・野狐の順で記されあることで知られる。本文に出る話を、ざっと「国立公文書館デジタルアーカイブ」の同書写本で見たが、確認出来なかった。但し、皆川はかなり「獼猴」や「山男」に関心があったらしく、複数の記載があることが判った。例えば、9コマ目の左丁に「獼猴」二条があるので見られたい。

「寶曆」一七五一年~一七六四年。]

西播怪談實記 新宿村春名氏家僕犬蛇を見し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。]

 

 新宿村春名氏《はるなうぢ》家僕(かぼく)大蛇(だいじや)を見し事

 佐用郡新宿村に春名何某(《なに》かし)といへる農家あり。

 延寶年中の事なりしに、五兵衞といふ下男有しが、五月雨(さみたれ)、降《ふり》つゝきて、洪水、成ければ、

「水流(みなかれ)を拾《ひろ》はん。」

と、棹(さほ)の先に、鎌を結付(ゆい《つけ》)て、河端に行《ゆき》、流れくる木を待《まち》ゐたるに、河上ヘ、大なる木の、流來(《ながれ》く)るを見て、悅び、

「拾ひ得て、德をとらん。」

と、手くすみを引《ひき》て居たる所へ、間近(まちか)く流寄《ながれよれ》ば、鎌を出《いだ》して、既に打立《うつたて》んとせし時、頭《かしら》を指延(さしのば)して口を明《あけ》たる所、箕《み》を合《あはせ》たるやうにて、其赤き事、朱塗(しゆぬり)のごとく、勢ひのすさまじさ、いわん方なく、鎌も打捨、跡をも見ずして、にげ歸る。

 顏色、常ならず、直(すく)に寢間へ入《いり》て、打臥《うちふし》ければ、藥など吞《のま》せ、介抱しけれども、とかく、ものもいはず、四五日斗《ばかり》、すやすやと臥(ふし)けるが、後(のち)に、氣、正しく成て、有《あり》し子細を語り、

「歸る道すがらの草も木も、皆、彼形(かのかたち)に見へける。」

となん。

 終(つい)に廿日斗過《すぎ》て死けるよし。

 予が本家にて、今に其噺《そのはなし》、殘りて、聞《きき》つたふ趣を書傳ふものなり。

[やぶちゃん注:その上流から流れてきたのは、良材になる倒木ではなく、所謂、巨大な蟒蛇(うわばみ)であったわけだが、標題を除いて、蛇という語を本文では一切使わずに、その映像をはっきり読者に再現して不満がないところに、本怪奇談のオリジナルな醍醐味があると言える。

「佐用郡新宿村」現在の兵庫県佐用郡佐用町西新宿附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「延寶年中」一六七三年から一六八一年まで。]

西播怪談實記 網干浦にて鱶人を取し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。]

 

 ◉網干浦(あほしうら)にて鱶(ふか)人を取《とり》し事

 延寶年中の事なりしに、揖東郡(いつとうこほり)網干村に獵師有しが、甚(はなはだ)貧敷(まつしき)ものにて、十二、三なる娘、是も相應の手傳ひになれば、獵に行度每(ゆくたひこと)に、つれて出《いで》けり。

 比《ころ》は卯月のすゑつかた、又、おやこづれにて獵に出、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]斗《ばかり》、船を出せしが、

「娘よ、筥《はこ》を忘れたり。漕(こき)戾すべし。」

といふ。

 娘、

「いやいや、もはや、引汐(《ひき》しほ)なれば、船を戾すは手間入《てまいり》也。我、立歸り、取てくるべし。此所、少《すこし》深けれども、先は、遠淺(とほあさ)なれば、自由也。暫(しばらく)、まち給へ。」

と、いふて、海へ入《いる》。

 元來、馴《なれ》にし業(わさ)なれば、腰より上を出し、立游(たちおよき)して、船より二十間[やぶちゃん注:約三十六メートル。]斗《ばかり》行《ゆく》とおもひしが、俄(にはか)に大波(なみ)立《たつ》と否や、娘、

「わつ。」

と、いふて、沉(しづみ)けり。

 親、

「南無三宝。」

と、急に船を漕寄(こきよせす)れば、腰より上は殘りて、兩足、喰取《くひとり》たる死骸、浮(うか)み出《いで》たりけるを、引上たりけるに、まだかすかに息のかよひければ、

「娘よ。」

といふ聲に、目を開き、おやの顏をしろしろ[やぶちゃん注:「じろじろ」。]と守りけるが、直《すぐ》に息は絕果(たへはて)けり。

 親は、十方(とほう)に暮《くれ》、

「いかゝせん。」

と泣《なき》かなしみ、齒喰(はくい)をすれども、甲斐なく、船を漕戾しければ、近所より聞付《ききつけ》、聞付、磯へ出で、悔(くや)みをいひ、淚を流さぬ人もなかりしが、

「かくて置《おく》べきにあらねば、葬(ほふむ)るべし。」

と、人々、世話をしけるに、親、なみだを押へ

「此子が敵《かたき》をとらむと思ふ間《あひだ》、我《わが》了簡の通りに任せて給はるべし。」

と、追善供養は扨置《さておき》、大なる釣針に念を入《いれ》て、糸を、二筋(すし)、附《つけ》、針の見へぬやうに、死骸に付《つけ》て、翌朝、彼所(かのところ)へ船を出し、曳𢌞《ひきまは》りけるに、又、大波、打きたり、何かはしらず、死骸を一吞(ひとのみ)にして、沖の方へ、一又字に行(ゆけ)ば、親は糸をのべ、引ゆくに任せて、つき𢌞り、ほどなく晚景に成ければ、

『何にもせよ、最早、草臥(くたひれ)るべし。そろそろ、引寄(ひきよせ)む。』

と、おもひ、磯の方へ、

「そろり、そろり、」

と引寄、次第に、糸に、よりを懸(かけ)、二筋(ふたすし)を壱筋にして、難なく陸へ十間斗に引付、聲を立れば、大勢、出つゝ、もりを入《いれ》て突殺(つきころ)し、引揚(《ひき》あげ)、見れば、其長(たけ)、丈餘[やぶちゃん注:三メートル超。]の鱶(ふか)なるを、

「子の敵(かたき)なれば。」

とて、其所《そこ》にて、五日、さらしけるよし。

 其節、網干へ行合《ゆきあひ》て、慥に見たりける人の、物語の趣を書《かき》つたふもの也。

[やぶちゃん注:これは確かな実話と考えてよい。今から十数年前、まさに、この近くの海域でタイラギの潜水服での漁をしていた男性が、行方不明となったが、千切れた潜水服が発見され、専門家が見るに、サメに襲われたものと推定されたのを思い出す。

「延寶年中」一六七三年から一六八一年まで。

「揖東郡(いつとうこほり)網干村」兵庫県姫路市網干(あぼし)区(グーグル・マップ・データ)。漁師であるから、「ひなたGPS」の戦前の地図の「網干町」を書かれている附近(揖保川河口近く)に住んでいたと考えてよいであろう。]

西播怪談實記 高田の鄕熊の鞍山怪異の事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。【 】は二行割注。]

 

 ◉高田(たかた)の鄕(ごう)熊(くま)の鞍山(くら《やま》)怪異(けい)の事

 赤穗(あかほ)郡高田の鄕(ごう)に福本何某(なにかし)といへる農家あり。その家、富饒(ふ《ねう》)にして、奴婢(ぬひ)も多く召遣ひたり。

 元來、殺生數寄(せつせうずき)にて、山川を徘徊して慰(なくさみ)とせり。

 寬永年中の事成しに、夜興(よごう)に行《ゆき》て、熊の鞍山を通り、麓へ下りけるに、持《もつ》たる鐵炮の火挾(ひはさみ)、見えず。

『こは。落したるにや。』

と能(よく)々見れば、都(すへ)ての金具、壱つも、なし。

『慥に、山の半途迄は有しが。不思議なり。』

と、おもひけれども、深更の事なれば、せん方なく歸りて、翌朝未明に起(おき)て、彼(かの)山へ行(ゆきて)、尋迥(たつねまは)るに、平なる大石の有ける上に、悉く並(ならへ)て有《あり》。

 目釘(めくき)壱つ、紛失なく、是を取て歸《かへり》、つくづくと思ふに、

『能堅めたる鐵炮の金具といひ、自分(じぶん)にかたげ居《をり》て、殊に金具の辺(あたり)は、我手にて持《もち》たる所なるを、少(すこし)もしらぬやうに、はづして、石の上に置し事、狐狸(きつねたぬき)の業(わざ)ともおもはれず、いかさま、不審なり。』

とは思ひけれども、久しく人にもいはざりしが、ある出會(であい)にて、雜談(そう《だん》)の次手(ついで)に此事を咄しけるに、近村(きんむら)の與七、いふやうは、

「先ほどより、始終を得(とく)と承《うけたまは》る。自分も、鐵畑數寄(すき)にて、折ふしは、夜も徘徊すれども、是迄は、左樣なる事に出會(てはあは)ず。元來、熊の鞍山は、獵のある山にあらねば、行《ゆく》事も、なし。近日、夜更て慰(なくさみ)に行《ゆき》て見るべし。わが鐵炮の金具は得《え》取《とらる》まじ。」[やぶちゃん注:「得(え)取まじ」はママ。呼応の不可能の副詞「え」に漢字を当てたもの。]

と荒言(くわうげん)を吐《はき》て、宅へ歸りし比《ころ》、既に子の刻斗《ばかり》なれば、

「幸《さひはひ》。」

と、鐵畑を持て立出《たちいで》、彼山に至り、往來の内、金具に心を附《つけ》て居《をり》けるに、子細なく、麓へ出《いで》て、見れば、金具、壱つも、なし。

「こは。口惜(くちおし)。」

と、山へ歸り、尋𢌞《たづねまは》れども、闇(あん)やの事なれば、いかんともする事なく、すごすごと歸り、よの明《あく》るを待(まち)ゐて、又、山へ行《ゆき》、尋ぬるに、咄《はなし》のごとく、石の上に並べて有しを、集取(あつめ《とり》)て歸りけるが、久しく、人にも、いはす。

 年へて、有し子細を語り、

「荒言は、いふまじき事也。」

と、いひしとかや。

 今に至りても、此山にては、必《かならず》、此事ありて、行《ゆく》人、なし、と。

 予が高田の肉緣(にくゑん)のものより聞ける趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:「赤穗(あかほ)郡高田の鄕(ごう)」佐用町の十五キロほど南で、千種川左岸の、現在の兵庫県赤穂郡上郡町高田台である。「ひなたGPS」の戦前の地図で「高田村」とあるのが確認出来る。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。

「熊の鞍山」前掲の戦前の地図を見たが、判らない。少し気になったのは、高田村の北北東五キロ強の位置に「鞍居村」があり、地名で「鞍」が確認出来る。この鞍の北側の無名のピークは一つの候補にはなるかも知れない。

「夜興」「よこ」。「夜興引(よこびき)」の略。夜、猟師が犬を連れて猟に出かけることを指す。春の農作業に害を成す猪・鹿などを捕らえるためであるが、冬場は獣肉に脂がのって美味であるともされる。

「火挾」「ひばさみ」。鉄砲の機関(からくり)の一つ。火縄を固定し、引金と連動して、火皿に火を点ずる装置。「龍頭」(りゅうず)とも言う。

「目釘」鉄砲の銃身・筒を銃床に固着する螺子(ねじ)。

「自分(じぶん)に」自分で。みずから。]

西播怪談實記 佐用邑大市久保屋下女山伏と角力を取し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。【 】は二行割注。]

 

 ◉佐用邑《むら》大市久保屋(おちくほや)下女山伏と角力《すまふ》を取《とり》し事

 佐用郡佐用邑に大市久保屋弥三兵衞《やさべゑ》といひしもの有。

 寬文年中[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の事なりしに、下女に「まつ」といへる女、有《あり》けるが、ある夕間暮に、菜園(さゑん)へ菜(な)を摘(つみ)に行《ゆき》しに、側(そは)に大きなる榎(ゑのき)の古木(ふるき)有けるが【菜園の字《あざ》は「倉屋敷」といふ。往昔、備前宇喜多領の時、鄕藏《がうくら》在《あり》し所也。】、其(その)陰より、不斗《ふと》、大《だい》の山伏、出來りて、

「いざ、角力をとらん。」

と、いふ。

 女、いと恐しく、

「我は女なれば、角力は得(ゑ)とらず。」

といへども、山伏、

「是非に。」

と、いふて、取附《とりつく》を、取《とつ》て抛(なけ)るに、手に、こたへず。

[やぶちゃん注:「得(ゑ)とらず」はママ。呼応の不可能の副詞「え」に漢字を当てたもの。後も同じ。]

 山伏、又、起上りて取附を、力を入れて打付《うちつけ》れば、山伏いふやう、

「其方、力、强し。負《まけ》たり、負たり。」

と、いふて、行方(ゆきかた)しれず、消失(きへうせ)ぬ。

 女は、氣も魂(たましい)も絕(たへ)々にて、走り歸れば、家内のもの、おどろき見るに、色、眞靑(まつさほ)にして、所々、死朽色(しくちいろ)なれば、

「こは、いかに。」

と子細をとふに、菜園の方を指《ゆびさし》て、物も得いはず。

 色々、介抱しられ、漸々(やうやう)心しづまりて、有《あり》し容須(ようす)を語れば、聞(きく)ひと、大《おほ》きに怪みけり。

 かくて床に打臥(《うち》ふし)けるか、躬(み)、大《おほ》イに𤍽《ねつ》し、食事も絕果(たへは)て、終《つひ》に翌(あくる)る夕暮に、むなしくなる。

 それより「倉屋敷」は、暮前(くれまへ)よりは往來(ゆきゝ)なかりしが、年をへて、自然と、榎も、枯果(かれはて)、いつとなく町家(まちや)も出來(いてき)て、寬延の今は、其噺(そのはなし)のみ世に殘りける趣を書傳ふもの也。

[やぶちゃん注:「倉屋敷」現在の兵庫県佐用郡佐用町(グーグル・マップ・データ)には見当たらない。「ひなたGPS」で戦前の地図も見たが、見当たらない。

「寬延」宝暦の前。一七四八年から一七五一年まで。]

2023/02/26

大手拓次譯詩集「異國の香」 「音樂」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

 音 樂 ボードレール

 

音樂は をりをりに 海のやうに私をうばふ!

あをじろい わたしの星にむかつて、

はてしない 霧のふかみに また ひろびろとした空のなかに

わたしは帆をあげてゆく。

帆布のやうに

胸をはり 肺に息をすひこんで、

夜の闇におほはれはてた

たかまれる波の背に わたしはよぢのぼる。

 

なやめる船の

そのさまざまの苦しみに わたしは身ぶるひをする。

おひての風も 暴風も その動亂も

底しれぬ淵のまうへに

わたしを ゆりゆり眠らせる。――また或時は なぎやはらいで、

わたしの絕望の大きな鏡!

 

[やぶちゃん注:原詩は以下。フランス語のサイトのこちらからコピーした。朗読も聴ける

   *

 

   La Musique   Charles Baudelaire

 

La musique souvent me prend comme une mer !

Vers ma pâle étoile,

Sous un plafond de brume ou dans un vaste éther,

Je mets à la voile ;

 

La poitrine en avant et les poumons gonflés

Comme de la toile

J'escalade le dos des flots amoncelés

Que la nuit me voile ;

 

Je sens vibrer en moi toutes les passions

D'un vaisseau qui souffre ;

Le bon vent, la tempête et ses convulsions

 

Sur l'immense gouffre

Me bercent. D'autres fois, calme plat, grand miroir

De mon désespoir !

 

   *

本篇は四連構成とするのが、諸訳者でも共通しており、原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)の「翻訳篇」でも四連構成に変えてある。以上の正字のものを、そのようにして以下に示す。但し、不審な箇所がある

   *

 

 音 樂 ボードレール

 

音樂は をりをりに 海のやうに私をうばふ!

あをじろい わたしの星にむかつて、

はてしない 霧のふかみに また ひろびろとした空のなかに

わたしは帆をあげてゆく。

 

帆布(ほぬの)のやうに

胸をはり 肺に息をすひこんで、

夜の闇におほはれはてた

たかまれる波の背に わたしはよぢのぼる。

 

なやめる船の

そのさまざまの苦しみに わたしは身ぶるひをする。

おひての風も 暴風も その動亂も

 

底しれぬ淵のうへに

わたしを ゆりゆり眠らせる。――また或時は なぎやはらいで、

わたしの絕望の大きな鏡!

 

   *

最終連の一行目が詩集本文では、「底しれぬ淵のまうへに」であるのに、「ま」が除去されている。不審である。

西播怪談實記 多賀村彌左衞門小坊主を切し事

 

[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。]

 

 ◉ 多賀(たか)村彌左衞門小坊主を切《きり》し事

 佐用郡多賀村に彌左衞門といひしもの有《あり》。

 寬永年中の事なりしに、公務に付《つき》、宍粟(しそう)の役所に出《いづ》るに、道のほど五里を(へたつ)れば、歸宿の比《ころ》は、いつにても、夜に入《いり》て通る事、度々也。

 或時、又、夜更て歸りしが、住家(すみか)より、廿町斗《ばかり》川上なる高山といへる所の岨(そば)を傳ひしに、年比、十二、三斗なる、いつくしき僧、いづくともなく出《いで》て、道に先立《さきだ》つ。

 跡をしたふに、ほどなく家近くになりて、又、いづくともなく失(うせ)けり。

 かくのごとくする事、五、七度(ど)にも及びしかども、公務なれば止(やむ)事を得ずして、又、ある時、夜更少し、村雨(《むら》さめ)、打《うち》そゝぎて、雲の絕間より下の弓張[やぶちゃん注:半月。]きらめく折節、右の岨に懸りしが、例の小坊主、又、出て、先立ゆく。

 住家近く成《なり》て、稻田の中へ飛入(とび《いり》)て失けり。

『例(れい)の事。』

と、おもひ、行過(ゆきすき)しに、後(うしろ)より、飛懸《とびかか》り、足の間《あひだ》をくゝる事、手飼(《て》かい)の犬の、たはむるゝに、異(こと)ならず。

 其時、刀を拔(ぬき)て切付《きりつけ》しに、忽(たちまち)、大坊主と成て、其長(たけ)壱丈斗《ばかり》に見えしを、刀を持直して、

「はつた」

と切付《きりつけ》るに、手ごたヘして、形は失にける。

 家に歸り、此事を語れは、有《あり》あふもの共、手手に、明松(たいまつ)[やぶちゃん注:ママ。]燈(とほ)しつれ、其所を尋《たづぬ》るに、筋(すし[やぶちゃん注:ママ。])の血あり。

 是を、つなぎて、十町斗行《ゆく》に、古溝(ふるみそ)の中に、幾年經(いくとしへ)しともしれぬ、狸、死(しに)居《ゐ》たりける。

 然(しか)し後(のち)は、此刀を「狸丸」と名づけ、今に其家に持傳へたり。

 享保の初つかた迄は、此事をおぼろに覚《おぼえ》し家僕、存命(なからへ)居(ゐ)て、語ける趣を書傳ふ者也。

[やぶちゃん注:「佐用郡多賀村」兵庫県佐用郡佐用町多賀(たが:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。

「宍粟(しそう)の役所」現在の宍粟市の市街であろう。多賀から時計回り或いは反時計回りで周回して遠回りすると、二十七キロメートル以上はあり、山越え直行はかなり厳しいが、「五里を隔」つとあり、実際にやってみると、山越えすると二十キロほどで着くので、そのルートであろう。

「廿町」二・一八二キロメートル。

「高山」不詳。「ひなたGPS」で戦前の地図を見たが、見当たらない。これが判ると主人公に家がほぼ特定出来るのだが。

「壱丈」三・〇三メートル。

「享保」一七一六年から一七三六年まで。]

西播怪談實記 正規表現電子化注始動 / 序・「一」目録・姬路皿屋敷の事

 

[やぶちゃん注:佐用村(本来の読みは「さよむら」。「さよう」への読みの変更は公的には敗戦後の昭和三〇(一九五五)年の合併以後のこと。:現在の兵庫県佐用郡佐用町(さようまち):グーグル・マップ・データ)の材木商春名忠成(屋号は「那波屋」)が西播磨地方で蒐集した怪奇譚集。五十一話から成る。話柄の時間帯は寛永から享保(一六二四年~一七三六年)年間の年号が見えている。宝暦四(一七五四)年刊。生没年は明確でないが、以下の「近世民間異聞怪談集成」の北条伸子氏の解題によれば、『およそ宝永(一七〇四―一一)から正徳』(一七一一年から一七一六年まで)『の初め頃に生まれたと考えるのが妥当であろうか』とされ、さらに『祖父母の眠る法覚寺の過去帳から、寛政八年(一七九六)に没した可能性が高いとされる。だとしたら、かなりの長寿だったと思われる』とある。

 底本は「国文学研究資料館」のこちらの写本を視認する。但し、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるもの(本文は北条伸子氏校訂で底本は国立国会図書館本であるが、挿絵の落書激しいため、挿絵については東洋大学附属図書館本が使用されている)をOCRで読み込み、加工データとする。ここに御礼申し上げる。なお、以下の「序」は写本にはないため、国書刊行会本のそれを恣意的に正字化して用いた。また、挿絵も同書のものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 略字か正字か迷ったものは、正字で示した。読みは写本にも拘らず、かなりしっかりと振られているが、ちょっと五月蠅くなるので、難読或いは振れると判断したもののみに丸括弧で附した。読みが振られていない箇所は「近世民間異聞怪談集成」を参考にしつつ、《 》で私が歴史的仮名遣推定で読みを添えた。読み易さを考え、段落を成形し、句読点・記号を用いた。また、ストイックに注を附す。踊り字「〱」は正字化した。]

 

 

   西播怪談實記

 

 

 

 

 年比(としごろ)聞傳(ききつた)へたる村老の物がたり、あるはまのあたり、見もしきゝもしつる事の、世の常ならぬ類ひをひろひ集めて、里の子の泣(なく)をとゞむるなぐさめにもつたへまほしとて、春名忠成のぬし、何くれと書(かき)つらね、笈(おひ)の中に、ものし侍るを、浪花の書林鳥飼の何某、梓(あづさ)にちりばめんと乞(こふ)。もとより西播磨の片山里にして、こゝかしこ邑里(むらさと)の中に有(あり)つる事のみを書記(かきしる)しぬれば、ひろく、人のもてはやすべきことにはあらざるべし。さはいへ、ことやうなる物語ながらも、其事の跡は皆、まのあたり見聞(みきき)せしことにて、僞り作れる事ならねば、「怪談實記」と名づくるものならし。

                岡靖軒書

 

[やぶちゃん注:「岡靖軒」岡田光僴(みつかど ?~安永三(一七七四)年)は北条伸子氏の解題によれば、同じ佐用村で大庄屋を務めた人物で、また、『播州随一の歌人であった』とある(春名も『和歌に造詣が深』いとあることから、和歌仲間でもあったものと思われる)。彼については、「神戸松蔭女子学院大学リポジトリ」のこちらでダウン・ロード出来る、同大学紀要『文林』(一九六九年三月発行)に収録されている金井寅之助氏の論文『西播怪談実記と岡田光僴』に詳しい。没年はそれに従った(その中に『行年不明のため生年は分らない。弟の忠吉は庄屋廣野家を嗣ぎ』、『安永四年正月二十六日に七十歳で残してゐる。すれば宝永三年(一七〇六)以前の生れであることは確かであり、行年は七十歳以上であつたであらう』とあった)。

 以下、底本表紙及び「一」の目次。目次の読みは総て附した。「ひめち」「たか」「くほ」「あほし」「かほく」「かし」「つはめ」「かちや」の濁点なしはママ。「逢(あい)」(二箇所)「殺(ころ)し事」「ゆうれい」「追(をは)れ」はママ。最後の「そうは」もママ。本文でも、読みの濁点なしは多いので、以下では注しない。歴史的仮名遣の誤りも甚だ多いため、五月蠅くなるので、やはり注しない。不審な場合は、底本を確認されたい。

 

   西播怪談實記 天

 

西播怪談實記一

一 姬路皿屋敷(ひめちのさらやしき)事

一 多賀(たか)村弥左衞門小坊主を切し事

一 佐用邑(さよむら)大市久保屋(おほちくほ《や》)下女山伏と角力《すまふ》を取《とり》し事

一 高田の鄕《がう》熊《くま》の鞍山《くらやま》怪異《けい》の事

一 網干浦(あほしうら)にて鱶(ふか)人を取し事

一 新宿村春名氏《うぢ》家僕(かほく)大蛇を見し事

一 新宮水谷何某《みづたになに》(かし)化物《ばけもの》に逢(あい)し事

一 德久《とくさ》村源左衞門宅(たく)にて燕(つはめ)繼子(まゝこ)を殺(ころ)し事

一 佐用(さよ)鍛冶屋(かちや)平左衞門幽㚑(ゆうれい)に逢(あい)て死し事

一 小赤松(こあか《まつ》)村與右衞門大蛇《だいじや》に追(をは)れし事

一 佐用鍛冶屋平四郞大入道《おほにふだう》に逢し事

一 廣山(ひろ《やま》)村葬場(そうは)神(かみ)の咎(とがめ)有(あり)し事

 

 

 

◉ 姬路皿屋敷の事 

 姬路御郭《ひめぢおんくるわ》の内に「皿屋敷」といふあり。

 其(その)來由(らいゆ)を尋(たつぬ)れば、小寺領(《こ》でらりやう)の節《せつ》とかや、ある仕官の歷々に、家老衆、請待(せうたい)にて、珍味の奔走を盡され、器物(きぶつ)、又、大形《おほかた》ならず、中にも祕藏たる信樂燒(しからきやき)の皿、十人前、出さる。膳、揚りて、仲間(ちうけん)・小者(こもの)、請取、洗ひ揚るを、腰本(こしもと)、請(うけ)取《とり》て、それぞれの箱に入《いれ》けるが、彼の皿を箱へ入《いる》るとて、誤つて、取(とりをと)し、二つに割(わり)けるを、押合(をしあひ)し箱の下へ入置《いれおき》けるが、酒、たけなはに及びて後(のち)、客衆、歸られけれは、亭主、門送り(かとをく)りして、歸るや否や、腰本をよび、

「信樂燒の皿箱、持參すべし。」

と申せしは、実(げ)に「祕藏」とぞ聞へける。

 腰本、

『はつ。』

と思ひ、ふるいふるい持出(もちいて)れは、

「我《わが》前へ持來りて、數を改むべし。」

といふに、是非なく、蓋を明けて、

「壱つ、二つ、」

と、かぞヘて、九つ迄は、出して猶豫(ゆうよ)しけるを、

「今、壱つは。」

と問(とは)れ、

「先ほど、麁相(そそう)にて。」

と、いひも終らぬに、拔討(ぬき《うち》)にそ[やぶちゃん注:「ぞ」。]しられける。

 

Himedjisarayasiki

 

 ほどなく、夜な夜な、家鳴(やなり)する事、夥敷(をびただしく)、幽㚑、出《いで》て、

「壱つ、二つ、」

と、かぞへ出し、

「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、やれ、かなしや、」

と鳴叫(なきさけ)ふ聲は、耳に止(とゝま)りて、恐しさ、いふ斗《ばかり》なし。

 かくて、有驗(うけん)の高僧、或は、知德の貴僧を請して、追善祈禱、樣々、手を尽すといへども、更に止(やま)ざれば、段々、願ひを立(たて)、新屋敷、拜領ありて、屋移(やうつり)有けれとも、幾ほどなく、其家、断滅(たんめつ[やぶちゃん注:「い」に見えるが、「津」の崩しと断じた。])せしとかや。

 されば、討《うた》れし時、

「壱つ、二つ、」

と、かぞへしも、屠所(としよ)の羊(ひつし)の歩行(あゆみ)、心中を、おもひやるも、哀《あはれ》なり。

 終(つい)に臨終の一念にひかれて、永く修羅の奴(やつこ)となるぞ、不便《ふびん》なる。

 所は「桐の馬場」にて「皿屋敷」といひ傳へ、寬延の今に到りても、其亡魂、來《きた》る事、止(やま)さるにや、住(すむ)人なく、明(あき)屋敷となれり。

 此条、年數(ねんすう)久しく、いかゞなれども、皿屋敷の事、必定(ひつでう[やぶちゃん注:ママ。「ひつぢやう」。])なれば、是を証(せう)として、余(よ)は鄕談(きやうたん)の趣きを、書傳(きゝつた)ふものなり。

[やぶちゃん注:所謂「播州皿屋敷」の一話である。お菊の亡霊が井戸で夜な夜な皿を数えるという凄絶な情景で知られるそれである(江戸番町を舞台とする「番町皿屋敷」も知られる)。詳しくはウィキの「皿屋敷」を読まれたいが、『播州ものでは、戦国時代の事件としている。姫路市の十二所神社内のお菊神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『は、江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、戦国時代までは遡れないと考察され』ているとあり、例の『お菊虫については、播州で』寛政七(一七九五)年に『おこった虫(アゲハチョウの蛹)の大発生がお菊の祟りである』(蛹を、女が後ろ手に縛られた形にミミクリーしたもの)『という巷間の俗説で、これもお菊伝説に継ぎ足された部分である』とある。

「仲間(ちうけん)」「中間(ちゆうげん)」のこと。

「寬延」宝暦の前。一七四八年から一七五一年まで。日本全国に最も知られたこれを巻頭に持ってくるのは自然であり、本書の本格的な原稿起筆がそれとなく判る感じもする。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山男の家庭

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正三(一九一四)年八月発行の『鄕土硏究』初出である。

 冒頭に出る「南方殿」は無論、南方熊楠である。所謂、二人の「山人論争」は、この後の大正五年十二月二十三日、南方は柳田の「山人」説を批判する長い手紙を出し、之を以って二人は袂を分かってしまうことになる「いわくつき」の論争である。これについては、『岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」』の金文京氏の「柳田、南方山人論争と中国の山人」(『図書』二〇二二年十二月号より)に詳しいので、参照されたい。]

 

     山 男 の 家 庭

 

 山男が市に往來し古着を買ひ米を買ふといふことは、奇怪なやうだが今では有りふれた事實である。何故に古着又は米を買ふかといふ問には、拙者は只その方が暖かいから旨《うま》いからと答へるの他は無い。然らば如何にして古着の暖かく米の飯の旨きを知るに至つたかと問ふ人が有つたとする。これに對しては亦やゝ說くべき肝要なる箇條が殘つて居たのである。蓋しこの點は山人文化史上最も顯著なる一時代を劃するもので、吾々が山人を硏究すべき必要もそれから出て來るのだ。山人はその本能の要求を滿さんがために、彼等が敵視する日向人の中からその配偶者を得ねばならなんだのである。勿論彼等の中にも色の白い女子はあつた。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げで、行頭の空けはない。前後を一行空けた。]

 

熊野山中にて炭を燒く者の所へ、七尺ばかりなる大山伏の來ることあり。魚鳥の肉を火に投ずれば腥きを嫌ひて去る。又白き姿の女の猪の群を追掛けて來ることありといふ。(秉穗錄《へいすいろく》)

熊野の山中に長八尺ばかりなる女の屍あり。髮は長くして足に至る。口は耳のあたり迄裂け、目も普通よりは大なりしとぞ。(同上)

日向國飫肥(をび)の山中にて、獵人の掛置きし罠へ怪しき者罹りて死に居たり。惣身女の形にして色白く、黑髮長く赤裸なり。人に似て人に非ず。これは山の神ともいひ又は山女ともいふものにて、深山に有るものなりと。考ふるに人間の始は全くこの山女より多く生み出せしなるべきか。さあらずはいかで赤子の内生育するの理あるべき。人自然にわき出でたりとは虛說に近し。後世にも阪田公時の如きその證とすべきもの也。(野翁物語卷二)

[やぶちゃん注:「秉穗錄」尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん元文二(一七三七)年~寛政一一(一七九九)年:松平君山(くんざん:尾張藩書物奉行)に学び、天明三(一七八三)年には尾張藩校明倫堂教授、寛政四(一七九二)年に督学(学頭)となり、歴史編纂所継述館総裁も務めた)の随筆。寛政一一(一七九九)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで昭和三(一九二八)年刊の「日本随筆大成卷十」で前者が(左ページ七行目)、後者が次の右ページの後ろから四行目から視認出来る。

「日向國飫肥」旧飫肥藩の支配地。日向国宮崎郡と那珂郡(現在の宮崎県宮崎市中南部及び宮崎県日南市全域。堺部分は山間地帯である)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「野翁物語」大田南畝の随筆。享和元(一八〇一)年序。]

 

 後半の原人說は引用の必要も無いか知らぬが、阪田公時を後世の類例に引き、我々の難物とする山姥問題を無造作に解決した勇氣が賴もしいから出して置く。これと同じ話かと思はれるのは、

[やぶちゃん注:同前で同じ処理をした。]

 

日向國飫肥領の山中にて、近き年菟道弓(うぢゆみ)にて怪しきものを取りたり。惣身女の形にて色ことの外白く、黑き髮長くして赤裸なり。人に似て人に非ず。獵人も之を見て大に驚き怪しみ、人に尋ねけるに山の神なりと云ふにぞ、後の祟も怖しく、取棄てもせず其まゝにして捨て置きぬ。見る人も無くて腐りしが、後の祟も無かりと也。又人の言ひけるは、是は山女と云ふ物にて深山にはまゝ有るものと云へり云々。(西遊記卷三)

薩摩の人上原伯羽の談に、彼《かの》國の深山中には時々婦人の姿なる物を見る。髮を振亂し泣きながら走り行くと云へり。思ふに此も山氣の產する所なるべし。(今齊諧《きんせいかい》卷四)

寶曆五年[やぶちゃん注:一七七五年。]の秋、(土佐)高岡郡影野村往還の路より十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ほど山に入りたる所の松の枝に、髮の長さ三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]餘ある婦人腰を掛けて居たり。村の者集まり見れば其まゝ飛下り行方知れず消失せり。下は茅原にて候所、分け行きたる所も見えず。草の葉一つも損ぜず候由。田中勢左衞門書中にて丙子(寶曆六年)の正月申し來る。影野は相間氏領知なり。彼家の家來和田彥左衞門に此事を尋ね候へば、夫は昔より折節村の者見申す由。五六尺ほどの茅原を行くとて、腰より上まだ六尺餘も見え候由。多くは後姿又は橫顏を見たるばかりにて、正向の面を見たる者無しと承り候と云へり。(南路志續篇稿草卷二十三、怪談抄)

信州蟲倉山に山女住すると云ふ洞(ほら)三あり。其中に新なるあり。古洞は谷を隔てゝ古木繁茂せる中に在りて、山燕の巢甚だ多し。新洞と名くるは絕壁の中間に在るを仰ぎ見るに數十丈あり。山女は見ることなけれど、洞口草苔生ぜずして出入する者あるが如し。雪中に大人(おほひと)の足跡ありと云ふ。(越後野志卷十八)

[やぶちゃん注:「菟道弓」これは何らかの無人の罠で、獣道に仕掛け、それに動物が触れると、弓が射出されるタイプのものと思われる。岡本綺堂の「飛驒の怪談」(大正二(一九一三)年鈴木書店刊)に同書から引いた「日向國の山中で、獵人(かりうど)が獸を捕る爲に張つて置いた菟道弓(うぢうみ)といふものに、人か獸か判らぬやうな怪物が懸つた」とある。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ最後から)。

「今齊諧」江戸後期の漢学者で幕府儒官古賀侗庵(天明八(一七八八)年~弘化四(一八四七)年)の漢文体怪奇談集。全七巻。全篇を翻刻した論文を入手したが、検索不能で、見出せなかった。そのうち、ゆるりと読んで発見したら、追記する。

「高岡郡影野村」現在の高知県高岡郡四万十町(ちょう)影野(グーグル・マップ・データ)。

「南路志」は文化一二(一八一五)年に高知城下の武藤到和・平道父子が中心となって編纂された高知地誌。全百二十巻に及ぶ大叢書である。「續篇稿草」とあるので、続編の草稿らしい。

「信州蟲倉山」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「越後野志」水原(現在の阿賀野市)の書籍商小田島允武(のぶたけ)が文化一二(一八一五)年に記した民俗地誌。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本ここで視認出来る(左ページ後ろから三行目)。]

 

 最後の例は姿を見たといふので無いから、或は例で無いかも知れぬが、とにかく山人にも女性が有ることだけは、歸納法を用ゐても證出することが出來たのである。これ等の山女は赤裸とある一事で、山に生れた者であることがわかる。至つての深山に居る幸福なる山男は、これ等の山女を呼ぶことが出來て、或は永く血統の純を保ち得たかも知れぬが、元々孤立獨走の生活に陷り易く、飢餓に迫られ獵人に追はれてあちこちと經過の中には、夜などは堪へ難く寂寞に感ずる場合が多かつたであらう。その結果や果して如何。日本には人を運び去るやうな猛獸は居らぬのに、神隱しと稱して兒女の失踪する者が甚だしく多い。加賀の金澤の按摩曰く、この土地も大きに開けました。十年ほど前迄は冬の夜更に町を步いて、迷子の迷子の誰それと呼ぶ聲と、これに伴なふ淋しい鉦の聲を聞かぬ晚はありませなんだ云々。冬季に限つてこの事の多いのは何れの地方にも共通の事實であるかと思ふ。一日の中では黃昏を逢魔が時などともいひ、一人出て居る者に災がある。この如き季節や時刻の選擇は、超人間力の天魔波旬等が必要とすべきもので無い。さて例も段々あるが、さのみは諸君の要求せらるゝ所ではあるまい。拙者は唯近世迷信の進化を說明する料に、或一點の特色を指示して見たいと思ふ。それは神隱しに遭つた者が、他日必ず一度は親族知音に姿を見せるといふことである。

[やぶちゃん注:「天魔波旬」人の生命や善根を絶つ悪魔。他化自在天(第六天)の魔王のこと。「波旬」は、サンスクリット語の「パーピーヤス」の漢音写で、「パーパ」(「悪意」の意)ある者の意。仏典では、仏や仏弟子を悩ます悪魔・魔王として登場し、しばしば魔波旬(マーラ・パーピマント)と呼ばれる。「マーラ」(「魔」)は「殺す者」の意で、個人の心理的な意味合いでは、「悟り」(絶対の安定)に対する「煩悩」(不安定な状態)の、集団心理的には新勢力たる「仏教」に対する、旧勢力たる「バラモン教」の象徴と考えられている。

 以下、同前。]

 

盛岡の邊にては黃昏に婦人小兒の戶外に在るを忌むこと殊に甚だし。十年ばかり前のこと也。此町に住みて醬油の行商を爲す者の妻、夕方戶口に立ちて唯一人外を見て居りしを、近所の人々氣遣はしきことに思ひしが、それなりにふと行方を失ひたり。亭主は狂氣の如く諸方を求めあるきたれども、絕えて消息も無くして其年を過したり。翌年の夏綱張の溫泉に湯治に行き、日暮に宿の外を見るに、僅か一二町[やぶちゃん注:百二~二百十八メートル。]さきの山腹の熊笹の中に、かの失せたる妻立ち居たり。急ぎ走り出で追掛けたれども、次第次第に遠ざかり嶺の方へ登りて、終に又見えずなりたりと云ふ。(柳田聞書)

陸中岩手郡雫石《しづくいし》村の農家にて、娘を嫁に遣るとて飾り馬に乘せ、松明の火を附けて居る間に其娘見えずなりたり。百方に覓(もと)むれども其效無し、二三年の後此村の者近村に行きて酒屋に立寄り居酒を飮みてありしに、初夜の頃[やぶちゃん注:午後八時頃。]酒買ひに來たる見馴れぬ女あり。よく見れば我村のかの娘也。あまり奇怪なれば傍人と眼を見合はすばかりにて語も掛けず、女出で行きたる後直ちに潛戶(くゞりど)をあけ其跡を附けんとしたれども、早既に遠き影も見えず。足音も聞えず。怪物庇の上に居り女を引上げて還りしなるべしと云ふ。(柳田聞書)

陸中上閉伊郡鱒澤《ますざは》村にて農家の娘物に取隱され永く求むれども見えず。今は死したる者とあきらめてありしに、或日ふと田の掛稻の陰に、此女の來て立てるを見たる者あり。其時は既によほど氣が荒くなりをり、竝の少女のやうでは無かりきと云へり。それより又忽ち去り終に歸り來らずと云ふ。(水野葉舟君談)

同郡松崎村の寒戶《さむと》と云ふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脫ぎ置きたるまゝ行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に集まりてありし處へ、極めて老いさらぼひて其女歸り來れり。如何にして歸つて來たかと問へば、人々に逢ひたかりし故歸りしなり、さらば又行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。其日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野鄕の人は、今でも風の騷がしき日には、けふはサムトの婆が歸つて來さうな日なりと云ふ。(遠野物語)

伊豆宗光寺《そうくわうじ》村(田方郡田中村大字)にて言傳へたるは、此村の百姓惣兵衞が娘にはつとて十七の女、ゆくりなく家を出でて歸らず。今(寬政四年[やぶちゃん注:一七九二年。])より八十餘年前の事なり。はつの母亡せて三十三囘に當る年の其月日に、此女をのが家の前に佇みけるを、あたりの者見付けて聲を掛けたるに、答もせで馳せ出し、又行方知れずなれり。其後も此國天城山に薪樵《たきぎこ》り宮木曳《みやきひ》きなどに入る者、稀にはつに行逢《ゆきあ》ふことあり。いつも十七八の顏形にて、身には木葉《このは》など綴り合せたるあらぬ物を纏ひてあり。詞を掛《かく》れば答《こたへ》もせで遁げ行くこと今に然《しか》りなりと云ふ。(槃遊餘錄《ばんいうよろく》第三編、伊豆紀行)

[やぶちゃん注:「陸中上閉伊郡鱒澤村」現在の岩手県遠野市宮守町下鱒沢(グーグル・マップ・データ)。

「水野葉舟」(明治一六(一八八三)年~昭和二二(一九四七)年)は歌人・詩人・小説家。本名は盈太郎(みちたろう)。東京出身。早大卒。自然主義文学で独自の地位を占めた。大正一三(一九二四)年に高村光太郎の影響を受け、千葉県印旛郡で半農生活に入った。彼は若くから怪談蒐集に凝り、明治三六(一九〇五)年には早大在学中の佐々木喜善と知り合い、彼が語る遠野地方の物語を「怪異譚」として捉えて熱中、明治四一(一九〇七)年には、文学者サロン『龍土会』で柳田國男と知り合い、怪談への嗜好により拍車が掛かって行った。翌年三月には柳田の訪問に五ヶ月先立って遠野の佐々木宅を訪問、現地での体験・見聞を小説化もしている。

「同郡松崎村の寒戶《さむと》と云ふ所の民家にて、……」私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆』の「八」を参照。

「伊豆宗光寺村」現在の静岡県伊豆の国市宗光寺。]

 

 歸化した里の女までがこのやうに長命することの信ぜられぬのは、年老いて迄も日本人の情合を有して居るのでも明らかであるが、山に入つてやゝ永く生存し居ることは、物馴れた保護者のあつたことを想像せしめる。同じ遠野物語の中には、山女が故里の人に逢つて夫とする者の酷薄にして疑深いことを歎いた一條が載せてあつた。それから推せば取られた女は誰も彼も末は食はれてでもしまつたかと思はれるが、元來が女といふ者はよくそんな事をいふもので卑近な譬《たとへ》を引けば夫婦喧嘩を仲裁しに往つて恥を搔いたなどといふものも同じ消息であらうと思ふ。酒顚童子[やぶちゃん注:酒呑童子に同じ。]のハレムに住まば知らず、泣きながらも遁げて出なかつたのには、やはり恩愛の絆があつたものと見ねばならぬ。因つて思ふに、羅馬人の最初の母たちも、亦この如くにして敵人の家庭を和げたのである。假令《たとひ》夫は心强く怖しい人であつても、その子に至つては我乳房に縋《すが》つた者である。時には母の獨言《ひとりごと》にも同情し、或は昔戀しの里の歌に耳を傾けたものかも知れぬ。語(ことば)などは母の敎へるものである。山男が天孫人種の談話を理解したとて必ずしも不思議では無い。拙者などは人煙稀少なる山奧の地では、山男が知らん顏をして土着し草屋を葺き田を作り、今日の大字何々字何々になつたのもあらうと思つて居る。農業などは學び難い手練祕密のある產業で無いから、やゝ氣永に母が勸誘したら相の子の山男などは終にこれを企てたことであらう。況やキモノが暖かくしなやかで、米が甘く柔かだといふ位の簡單な眞理は、捨てゝ置いても覺り得たであらうと思ふ。次には山女のことである。女も亦人間であるとすれば、獨居して偶《ぐう》を懷ふは當然の推理であるが、これが又多くの例證を具へて居る。

[やぶちゃん注:「遠野物語の中には、山女が故里の人に逢つて夫とする者の酷薄にして疑深いことを歎いた一條が載せてあつた」は『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆』の「七」の話であろう。

「偶」対する人物。カップル。

 以下、同前。]

 

秋田の早口澤《はやくちざは》と言ふは二十七里の澤間也。去る丁巳(寬政九年[やぶちゃん注:一七九七年。以下の七年は誤りである。])の七年初、此澤六里程奧に長さ二里餘の堤を一夜の中に造り出す。兩方より山崩れ溪流を塞ぎ留めしを見れば四丈五丈に餘る大石にて築き成せり。如何なる者の仕業にや。此山口にはニシコリと云ふ木あれば山𤢖《やまわろ》鬼童《おにわろ》のすだくとも云ふ。此山中に折として童《わらは》の鬼の如くなるを見ることあり。先《さき》つ年或人の見る一人の大童は、十人しても抱へ難き大石を背負ひ、うつ伏して澗水(たにみづ)を飮み居たり。之を鬼童と云ふ。又或人の云へるは、仙人山中無聊《ぶりやう》のときは必ず彼《か》のニシコリを燒きて、色々の怪物を集め見ることあり。南部境の山奧にて燒きし時は怪しき女を出せり。薜茘(へいり)に身を纏ひ荊棘(けいきよく)に亂せる尺の髮は白き針金の如くなるが、年の程まだ四十ならず見えしは、兼て聞きたる毛女郞《けぢよらう》雪女なども是等を謂ふかと思はれたり。ほゝ笑みて仙人に馴れ昵《むつ》ぶ有樣に、仙人も無聊の折からとて之を犯したりと云へり。(黑甜瑣語《こくてんさご》第三編卷四)

播州表より和州芳野へ大勢挊(かせ)ぎに行通ふこと年々なり。予が近在よりも行《ゆく》者多し。或時歸りての物語に、當年は例の働き場所に、さしたる仕事もなく、上市《かみいち》より五里ばかり川上へ入《いり》込み、仲間十人小屋を打ち罷り在り候が、或夜八つ頃[やぶちゃん注:午後十時前後。]にてもあるべし。眼の醒めたるもの二三人ありしが、俄かに身毛立つばかり恐しくなりし所に、小屋の入口に下げ置きたる莚《むしろ》を揚げて來《きた》る者あり。見れば女なり。身の丈を過ぐる程の髮を亂し、眼の光强く消え入るばかりなりしとかや。見たるものは何れも五七日づゝ氣色《きしよく》を煩ひ候ひき。私は仕合よく正體も無く寢入りて別條なく候ひし。後に處の者に尋ね候へば、稀にさやうのことあり、山姥と申す者にてあるべしと云ふ。又木の子と云ふ者、三つ四つ位の子供の如くにして身には木葉を着たり。姿は影の如く有りとも無しとも定まらず。杣人或は山働きの者共、油斷をすると中食《ちゆうしよく》[やぶちゃん注:昼飯。]を木の子に取られ難義仕事に付、木の子見ゆるや否や棒を以て追散《おひちら》し申候。是は銘々共も度々見て珍しからず候へ共、此邊にては一向聞かぬ事ゆゑ御話申すと語れり。(扶桑怪談實記卷二)

播州揖東《いつとう》郡新宮《しんぐう》村に七兵衞と云ふ土民あり。正德年中[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。]のこと也。山へ薪樵りに行きて歸らず。親兄弟歎き悲しみて二年を經たりしに、或夜同村の後の山へ來りて、七兵衞が戾りたるぞ戾りたるぞと大聲に呼ばるを、元より聞知りたる聲なれば悅びて山へ走り行けば、近所の者聞付けて共々麓に走り行く迄は峰に聲しけるが、尋ね上りて見れば居らず。慥かに此のあたりなりしとて、追々に集まる人其近邊を殘る方無く探し求めたれど、終に見えざればせん方なく皆々歸りたり。さては天狗につまゝれ奴となりたるならんと沙汰しあへり。其後村の者久しく東武に在りて歸國する折柄、興津《おきつ》にて出合ひ物言ひかはしたる由なれば、東國邊を徘徊してあるにやと、東國へ下る者には必ず賴み置きけれども、其後は逢ひたる人も無く、風の音信(たより)もなかりしとかや。右は彼が一度村の山へ戾りし時、共に尋ねに行きし人、年經て後語りける趣を書傳ふるもの也。(西播怪談實記卷一)

[やぶちゃん注:「秋田の早口澤」現在の米代川右岸にある秋田県大館市早口堤沢(はやぐちつつみのさわ)附近か(グーグル・マップ・データ)。

「二十七里」これはまず一里を六町(六百五十四・五メートル)坂東里である。でなければ、この数値では米代川の長さに匹敵してしまうからである。十七・六七二キロメートル。ちょうど早口堤沢を中心として西の鷹ノ巣と東の大館市の間がそれと一致する。

「山𤢖」私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖」で詳しく考証してあるので参照されたい。

「鬼童」同前の「山𤢖」に出る。

「ニシコリ」「錦織」。錦の織物。

「薜茘(へいり)」種としてはバラ目クワ科イチジク連イチジク属オオイタビ Ficus pumil を指す。イタビカズラの異名を持つから、ここ広義の蔓草の鬘(かづら)の意である。

「荊棘(けいきよく)」広義の茨(いばら)のこと。

「毛女郞」「毛倡妓」とも書く妖怪。長い髪がぼうぼうとした倡妓(遊女)の姿をしており、遊廓に現れるとされる。当該ウィキを参照されたい。

「黑甜瑣語第三編卷四」出羽国久保田藩の藩士で国学者であった人見蕉雨(宝暦一一(一七六一)年~文化元(一八〇四)年)の記録・伝聞を記した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。「大石」は「大甃」でルビは潰れて判読不能だが、昭和四三(一九六八)年刊の「人見蕉雨集 第二冊」(『秋田さきがけ叢書』二)で当該部を確認したところ、「おほみきり」とあった。「甃」は「しきがわら」(敷瓦)或いは「いしだたみ」(石畳)の意であるが、これは「砌(みぎり)」が正しく、これは本来は「軒下や階下の石畳」を意味する。

「挊」は漢語では「弄」の俗字であるが、国字の用法で、「働く・家業に励む」の意がある。

「上市」奈良県吉野郡吉野町上市(グーグル・マップ・データ)。

「扶桑怪談實記」書誌不詳。厚誉春鶯「扶桑怪談辨述鈔」寛保二(一七四二)年刊の全七巻二冊があるが、それか?

「播州揖東郡新宮村」現在の兵庫県たつの市新宮町新宮附近(グーグル・マップ・データ)。

「興津」静岡県静岡市清水区興津地区(グーグル・マップ・データ)。

「西播怪談實記卷一」材木商春名忠成が西播磨地方で蒐集した怪奇譚集。五十一話から成る。佐用村(現在の兵庫県佐用郡佐用町(さようまち):グーグル・マップ・データ)の材木商春名忠成(屋号は「那波屋」)が西播磨地方で蒐集した怪奇譚集。五十一話から成る。話柄の時間帯は寛永から享保(一六二四年~一七三六年)年間の年号が見えている。宝暦四(一七五四)年刊。「卷一」とあるが、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」を見たところ、「卷二」の誤りである。「国文学研究資料館」のこちらで写本の当該部が視認出来る。標題は「新宮村農夫天狗に抓(つかま)れし事」である。本書は、たまたまであるが、本日より、「新・怪奇談集」で電子化注を開始する。]

 

 男の神隱しに遭うたのは未成年者が多い。然らざれば些《すこ》し所謂拔けた男である。この輩が山人の社會文明に幾何《いくばく》の影響を與へたかは問題である。山姥とは言へ女などに勾(かど)はかされるやうな柔弱さでは、果して永く髮結の亭主の如き地位を保持し得たとは思はれぬ。但し右の七兵衞の如きは屈强な壯男であれば、或は話の如く天狗につまゝれて奴となつたのかも知れぬ。然りとすれば誠に笑止な一生涯であつた。

[やぶちゃん注:以下、同前。]

 

世の物語に天狗の情郞(かげま)と云ふことありて、爰かしこにて勾引(かどはか)さるゝあり。或は妙義山に將《ゐ》て行かれて奴《やつこ》となり、或は讃岐の杉本坊[やぶちゃん注:天狗の名。]の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元祿の頃仙北稻澤《いなざは》村の盲人が傳へし不思議物語にも多く見え、下賤の者には別して勾引さるゝ話多し。近くは石井某が下男は四五度もさそはれけり。始は出奔せしと思ひしに、其者の諸器褞袍《をんぱう》[やぶちゃん注:「どてら」と読んでもよい。綿入れのこと。]も殘りあれば、それとも言はれずと沙汰せしが、一月ばかり過ぎて立歸れり。津輕を殘らず一見して委しきこと言ふばかりなし。其後一年程過ぎて、此男の部屋何か騷がしく、宥《ゆる》して下されと叫ぶ。人々出《いで》て見しに早くも影なし。此度《このたび》も半月ほど過ぎて越後より歸りしが、山の上にてかの國の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辭を左右に托して言はず。若し委曲を告ぐれば身の上にも係るべしとの戒を聞きしと也。四五年を經て或人に從ひ江戶へ登りしに、又道中にて行方なくなり。此度は半年ほどして大阪より下れりと云ふ。(黑甜瑣語第一編卷三)

[やぶちゃん注:以上は前掲の国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。

「仙北稻澤村」現在の秋田県大仙市協和稲沢(きょうわいなざわ:グーグル・マップ・データ)。]

 

一度朋友の中に復歸し得た以上は、懲りて又行くまいと思ふに、右の如く呼出されるのを見ると、何か抵抗し難い力あるやうに人の思ふのも無理は無い。又神隱しが中途祈禱等の效驗に由り發見せられた話も多い。その者の精神狀態から推して醫者はこれを一種の病氣と見て居る。遺傳に基づく心力の故障が病氣の内とすれば、その斷定も決して誤では無い。津輕南境の田代嶽の麓村で、農家の娘氣が變になり、おれは山の神へ嫁に行くのだと常に言ひ、時々飛出す樣子のあるのを、よくよく用心して居る處、ある日家人の眼を盜んで家を出で、心づいてそれと追掛けたるに、走ること飛鳥《ひてう》の如く終に田代嶽に入つて見えなくなつた事がある。これは狩野享吉先生の話であるが、あの邊一帶の山彙《さんゐ》に於ては、山人は久しく相應な優勢を保つて居たらしく見える。

[やぶちゃん注:「津輕南境の田代嶽」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狩野享吉」(かのうこうきち 慶応元(一八六五)年~昭和一七(一九四二)年)は詩想家・教育家。出羽大館(秋田県)出身。帝国大学卒。明治三一(一八九八)年に一高校長に就任、明治三十九年には京都帝大文科大学初代学長に就任した。明治四十一年の辞職後は書画の鑑定・売買を業とした。自然主義・無神論の立場から独自の倫理学を唱え、また。安藤昌益・志筑(しづき)忠雄らの思想家を紹介した。]

2023/02/25

譚海 卷之五 東叡山津梁院・觀慈院書院畫の事

 

○東叡山觀慈院の座敷は、探幽畫(ゑが)く所の源氏物語の繪樣(ゑやう)也。是(これ)常憲院公方樣御臺所の御座敷をその儘移されたる故、御帳内の間よりはじめ、嚴然たる營中のもの也、二の間三の間まで同じ繪也。なげしには松の並木を書(かき)たり、殊勝いふべきやうなし。觀慈院に御臺所の御廟あるゆゑ、彼(かの)寺に御座敷をも寄附(よせつけ)有しゆゑ也。同所津梁院(しんりやうゐん)は桂昌院一位の御母公御廟あるゆゑ、又その御座敷を寄附せられたり。是も探幽畫(ゑが)く所にて、伊勢物語の繪やう也。觀慈院の畫《ゑ》やうは、富貴に賑はしく見ゆ、津梁院の方は少し物さびて見ゆるは、いせものがたりのゆゑなるべしといへり。

[やぶちゃん注:「東叡山觀慈院」現存しない。

「常憲院公方樣御臺所」五代将軍徳川綱吉の正室鷹司信子(たかつかさのぶこ 慶安四(一六五一)年~宝永六(一七〇九)年)。綱吉の死から一ヶ月も経たないうちに逝去した。享年五十九(綱吉は六十四で亡くなっている)。死因は夫綱吉同様に成人性麻疹(はしか)とされる。

「津梁院」寺は現存する(グーグル・マップ・データ)。

「桂昌院一位」綱吉の生母。没年は宝永二(一七〇五)年で享年七十九。因みに、鷹司信子とは不仲であったとされる。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 魚の眼に星入る事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。]

 

     魚の眼に星入る事 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 宮崎氏、又、言《いは》く、「瀨戶内海の魚は、みな、讃岐の魚島《うおしま》まで、登る。サゴシは、登るうちは、右眼、降《くだ》る時は、左眼に、星入り、あり。紀・泉二國の山を見當として游《およ》ぐ故。」と。

[やぶちゃん注:「宮崎氏、又、言く」前の同じ雑誌に載った「ウガと云ふ魚の事」を受けている謂い。『田邊町の大字片町の漁夫』で『海のことを多く知た宮崎駒吉』氏を指す。

「魚島」愛媛県越智郡上島町魚島(グーグル・マップ・データ)。

「サゴシ」スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius の出世魚としての小型のものを指す。「サワラ」の漢字表記は「鰆」「馬鮫魚」。サワラは細長い体形をした大型になる肉食魚であるが、その小型の四十~五十センチメートルほどの個体を「サゴシ・サゴチ」(青箭魚:「青い矢の魚」)と呼ぶ。但し、「さごし」の名は「狭腰」魚が由来とされる。ここで「星」が入るというのは、実際にそうしたサワラを見たことはないが、海上に出て、山を見当としてみるために、太陽の光りで焼けるため、というこか。因みに、調べているうちに、「岡山商工会議所」公式サイト内の「さわらにまつわることわざ」に、『晴れている暗夜は漁獲が多い。さわら流し網に最も漁獲が多いのは、星がきらめく暗夜に漁獲が多いという例によるもので、真黒の暗夜よりも漁獲が多いという』。『これはたぶん、網具の動揺により夜光虫の発する小さな光が、星明りの暗夜のほうが、真黒の暗夜よりもさわらの目にうつることが少ないからだろう』とあるのが、目に止まった。他に、『サワラは潮流に向かって遊泳する。流し網にかかるさわらは十中八九まで潮流に向かってかかる』ともあり、『大型のさわらは底層を泳ぎ、小型さわらは上層に多い』(☜)ともあった。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート ウガと云ふ魚の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、本篇は私がブログを始めた三ケ月後ほどの昔二〇〇六年九月五日にサイト版を「選集」版底本で公開しているが、こちらが私の正規決定版となる。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。]

 

     ウガと云ふ魚の事 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 田邊町の大字片町《かたまち》の漁夫、海のことを多く知《しつ》た宮崎駒吉話しに、當地でウガ、東牟婁郡三輪崎でカイラギといふ魚は、蛇に似て、身、長く、赤白の橫紋有《あり》て頗る美也。尾三つに分れ、眞中の線《すぢ》に珠數《じゆず》如き玉を、多く貫き、兩傍の線は、玉、なく、細長し。游《およ》ぐを見ると、中々、壯觀だ。動作及び頸を揚《あげ》て游ぐ狀《さま》、蛇に異ならず。舟の帆柱に舟玉《ふなだま》を祝ひ籠有《こめあ》る。其前の板は、平生、不淨を忌み、其上で物をきらず。ウガを獲れば、件《くだん》の板を裏返し、其上でウガの尾をきり、舟玉に供え祀る[やぶちゃん注:ママ。]。然《しか》る時は、其舟にのる者、海幸《うみさち》を得。この魚の長《たけ》二尺許り、と。「和漢三才圖會」五一、「鮫」の條に「加伊羅介鮫(かいらけさめ)」の名を出し、「重訂本草啓蒙」四十には「錦魴」を「カイラギ」と訓じたれど、共にその記述を缺く故、當地方でいわゆるカイラギは、果たして鮫の類か否か一向分からぬ。

  追記 (大正十五年八月二十七日記)一昨年六月二十七日夜、田邊町大字江川の漁婦濱本とも、此物を持來り、一夜、桶に潮水を入れて蓄《か》ひ、翌日、アルコールに漬《ひた》して保存し、去年四月九日、朝比奈泰彥博士、緖方正資氏、來訪された時、一覽に供せり。此近海に數《しばし》ば見る黃色黑斑の海蛇の尾に、帶、紫、肉、紅色で、介殼なきエボシ貝(バーナツクルの莖有る者)、八、九個寄生し、鰓《えら》、鬚を舞《まは》して、其體を屈伸廻旋する事、速ければ、畧見には、𤲿《ゑ》にかける寶珠が、線毛狀の光明を放ちながら廻轉する如し。この介甲蟲群にアマモの葉一枚、長く紛れ著き、脫すべからず。「尾三つに分かれ」といふは、こんな物が、時として、三つも掛かりおる[やぶちゃん注:ママ。]をいふならん。左にアルコール漬の畧圖を出す。

 

Uga

 

[やぶちゃん注:底本の画像をダウン・ロードし、補正を加えた。キャプションは、

「ウガ一名カイラギ」

「蛇の體これよりズツト長いが紙面の都合上縮めて畫く」

である。]

 

詳細の記載は他に讓る。「重訂本草啓蒙」に、『海蛇は數品あり、蛇形にして色黑く、尾端、寸ばかり、分かれてフサのごとくして、赤色なるもの、また、白色なるものあり。』と云るは、此物であらう。此物、手に入《いれ》た時、江川の漁夫等、「古老の傳へた、海幸を舟玉に祈るに驗《しるし》著しい物は、これだろう[やぶちゃん注:ママ。]。」と言《いふ》たが、何といふ物か、其名を知《しつ》た者、一人も無かりし。曾て其名を予に傳へた宮崎翁は、大正十四年、双眼殆んど盲《めしひ》し乍ら、夜分、獨りで沖へ釣に出で、翌朝、船中に死しありしと、今夜、初めて聞き、斯る家業を世襲せる老人の口傳には必ず多少の實據ありと曉《さと》れるにつけて、今少し、多くを聞き留めおいたらよかつたと、後悔之を久しうする。序でにいふ、「塵添埃囊抄」三に、「鰄」を「カイラキ」と訓ず。紀州でいふ物およびカイラケザメと、同・異、判らぬ。同書四に、「蛇」を「ウカ」といふ事と、其起原を說きある。

[やぶちゃん注:これは、私は南紀白浜の南方熊楠記念館で、そのウガの当該標本を実見したが、まずは爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科セグロウミヘビPelamis platurusと見て良いのではないかと思われる。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこにも、『本種は日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では旧暦』十『月に、海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する』。『出雲大社からの勧請とされる佐渡市の牛尾神社には、宝物としてセグロウミヘビが納められている』とある。私の「耳嚢 巻之二 日の御崎神事の事」や、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)』、或いは、「諸國里人談卷之一 龍虵」、また南方自身、『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「三」』でも言及している。なお、本種は猛毒蛇で、毒は肉にも含まれるので食用には出来ない。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「田邊町の大字片町」和歌山県田辺市片町(グーグル・マップ・データ)。旧南方邸の西直近。

「東牟婁郡三輪崎」現在の和歌山県新宮市三輪崎

「カイラギ」これと似た、熊楠が本種の名称と同義かどうか判らぬと疑義を懐いている「カイラケザメ」については、これが梅花皮鮫(カイラギザメ)を指すものであるとすれば、本種ではない。「カイラギザメ」は、本邦では一般に稀種の軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科イバラエイ Urogymnus asperrimus のことを指し、古くからその鱗状突起のある上皮が、刀の鞘巻等の装飾などに用いられてきた歴史がある(本種は本科には珍しく毒棘は持たない)。当該ウィキ及び学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「舟玉」「船玉」「船霊」「船魂」とも書く。漁船の守護神として信仰されている神霊で、新造の際、船大工が女性の毛髪や人形(ひとがた)・骰子(さいころ)二個などを船の中央の帆柱の下などに、神体として嵌め込むのが通例。

『「和漢三才圖會」五一、「鮫」の條』私の古いサイト版電子化注である寺島良安の「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鮫」の項に「加伊羅介(かいらげ)鮫」が出るが、その注で私は、

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カイラゲザメ 前の7件を欛用の鮫皮と推論した理由は、実はこの「カイラゲザメ」なる呼称が、将に著名な鮫皮の名称の一つだからである。後に、鮫皮全体をその共通の文様から梅花皮鮫(かいらぎざめ)と称したようである。なおこれについてはイバラエイUrogymnus asperrimusに種同定している資料があった。

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と述べた。そちらを見られれば判るが、私はこれをサメの種として同定はしていない

『「重訂本草啓蒙」四十には「錦魴」を「カイラギ」と訓じた』当該部は国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右丁後ろから二行目下方)。但し、ここは「鮫魚」の大項の中であり、小野蘭山はサメの一類と考えていることは明らかである。但し、彼がサメとエイを区別していたかは、ちょっと怪しい。

「一昨年」大正一三(一九二四)年。

「田邊町大字江川」現在の田辺市江川(グーグル・マップ・データ)。

「朝比奈泰彥」(明治一四(一八八一)年~昭和五〇(一九七五)年)は薬学者・薬化学者。東京大学名誉教授。薬学博士。昭和八(一九三三)年の牧野富太郎によって創刊された『植物研究雑誌』の編集・主幹を引き継ぎ、戦中・戦後を通じ没年まで続けたことでも知られる。

「緖方正資」『植物研究雑誌』に名が載るので、植物研究家ではあろう。

「介殼なきエボシ貝(バーナツクルの莖有る者)」「バーナツクル」は“barnacle”で、エビ・カニの甲殻類のフジツボの仲間(蔓脚類=甲殻亜門顎脚綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱 Cirripedia)を指す。「エボシ貝」はその蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目エボシガイ亜目エボシガイ科エボシガイLepas anatifera である。当該ウィキ及び学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。ただ、「介殼なき」という部分はちょっと不審である。エボシガイ類は、皆、頭状部が五枚の白い殻板に覆われているからで、これは「貝」に見える。或いは、ウミヘビの尾に寄生した彼らが、ウミヘビの運動で殻板を損壊し、落としてしまって、柄の部分のみが残っていたことを指しているのかも知れない。既に持ち込まれた際に、エボシガイは死んでおり、殻板が落ちていた可能性もある(持ち込んだ婦人が余計なものと思って剝ぎ取ったのかも知れない)。

「アマモ」「海草」類である被子植物門単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina(九州から北海道の内湾に植生)・スゲアマモ Zostera caespitosa(同じく北海道・本州北部及び中部)・エビアマモ Phyllospadix japonicus(本州中部・西部)。本種は「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」(龍宮の乙姫の元結の切り外し)という別名をも持つが、これは最も長い植物名として有名である。

『「重訂本草啓蒙」に、『海蛇は數品あり、蛇形にして色黑く、尾端、寸ばかり、分かれてフサのごとくして、赤色なるもの、また、白色なるものあり。』と云る』国立国会図書館デジタルコレクションの活字本の、ここの「蛇婆 ウミクチナハ」を指す。

「塵添埃囊抄三に、「鰄」を「カイラキ」と訓ず」(じんてんあいのうしょう:現代仮名遣)は天文元(一五三二)年に僧某(本文では釈氏某比丘)によって「埃囊抄」を改訂を施した類書(百科事典)。「日本古典籍ビューア」のここ(右丁後ろから二行目の四字目)。これは「廿三」の「魚市喉(コン)事 魚類字音便事」の内。解説も何もない。

『同書四に、「蛇」を「ウカ」といふ事と、其起原を說きある』同前のここ(左丁四行目から)。蛇身の神として知られる「九 宇賀神(ウカノカミノ)事」の内。以下に示す。

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虵(クチナハ)ヲ今ノ世ニ宇加ト云フハ宇加神ノ虵(クチナハノ)形ニ變乄人ニ見エ玉フ心カ

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「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 少許を乞て廣い地面を手に入れた話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。標題の「少許を乞て」は「すこしばかりをこひて」。]

 

     少許を乞て廣い地面を手に入れた話 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 昔し、といふ物の、年代、確かに分らぬ時、チリア王ムトゴ、殂《そ》し[やぶちゃん注:亡くなり。]、其民、王の子ピグマリオンを立つ。その妹ヂド、叔父アセルバスの妻たり。アセルバスの勢ひ、王に次げり。ピグマリオン其寶物を奪はんとて竊かに叔父を殺す。ヂド、夢に其夫が自分の兄に殺されたと知り、故《こと》さらに愁ひを忘れん爲め、兄と同棲を申し出で、内實、他邦へ奔《はし》らんと謀る。王、知らず、多人《たにん》をしてその移居を助けしむ。ヂド、其人々を語らいて、味方とし、シプルス島に到り、ゼウスの祠官の一族と合體し、移民に妻《めあは》すための八十人の室女《むすめ》を掠《かす》め、アフリカ北岸の一港に航着、上陸す。さて、土人より地を買ふに、牛皮一枚で覆ひ得るだけを望み、土人、諾す。その時、ヂド、牛皮を剪《きり》て、最も細き線條《すぢ》とし、浩大なる地面を圍み、悉く其地を獲《とり》て國を建て、プルサ(牛皮)と名づく。是れ、カルタゴ國の剏《はじ》めなり(スミス「希臘羅馬人傳神誌字彙」一八四五年板、卷一)。

[やぶちゃん注:「チリア」シリア。

「ムトゴ」不詳。

「ピグマリオン」ギリシア・ローマ伝説の登場人物。テュロス王。財産を乗っ取るため、妹ディドの夫を殺した。像が生きた女となった伝承で知られるキプロス島の王とは同名異人

「ヂド」現行では「ディド」「ディードー」などと表記する。カルタゴの創設者とされる女王。フェニキアのテュロスの王女として生まれ、巨万の富をもつ叔父シュカイオスと結婚したが,父王の死後、王位についた兄ピグマリオンに夫を殺されたため,財宝を船に積んでリビアへ逃れた。この地で,一頭の牛皮で覆えるだけの地面の譲渡の約束をとりつけた彼女は,機転を働かせて皮を細く糸状に切り,これによって囲める限りの土地を入手,ここを拠点にカルタゴ(セム語で「新しい町」の意)を建設した。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠ったが、同社の「百科事典マイペディア」には、後、漂着したアエネアスと恋におちたが、彼はイタリアに去り、後、リビア王に結婚を迫られ,火中に身を投じて死んだ。ウェルギリウスの叙事詩「アエネイス」によって知られるとある。

「シプルス島」キプロス島。

「カルタゴ國」紀元前にアフリカ大陸の北岸を中心に地中海貿易で栄えたフェニキア人による国家。当該ウィキによれば、『カルタゴの建国に関して確実なのは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したこと、ティルスと同じメルカルト』『が町の守護神であったことなどである。カルタゴは同じフェニキア系都市で先に入植されたウティカやガデスの寄港地として開かれたと考えられている。なお、カルタゴ遺跡からの出土品では紀元前』八『世紀後半のものが最も古い』。『ティルスの女王ディードーが兄ピュグマリオーン 』『から逃れてカルタゴを建設したとされる。ディードーは主神メルカルトの神官の妻だったが、ピュグマリーオンがディードーの夫を殺害したため』、『テュロスを去った。ローマの歴史家グナエウス・ポンペイウス・トログスの』「ピリッポス史」に『よれば、岬に上陸したディードーは』、一『頭の牛の皮で覆うだけの土地を求めた。岬の住人が承知をすると、細く切った皮で紐を作って土地を囲い、丘全体を手に入れる。この丘はギリシア語で「皮」を意味するビュルサと呼ばれるようになった』。『ビュルサには近隣の人々が集まるようになり、同じくフェニキア系の都市であるウティカから使者が訪れ、都市の建設が始まる。皮で囲まれた土地については、地代としてアフリカ人へ貢租を支払うことになり、前』五『世紀まで支払いが続いたとされる』。『古代ローマの詩人ウェルギリウスは、上記とは異なるディードーの伝説を』「アエネイス」『で書いている』とあり、また、『ポンペイウス・トログスによるディードーの伝説に従えば、カルタゴはテュロスによる正規の植民都市ではなく、亡命者の土地にあた』り、『また、神官の妻だったディードーは宗教的にはピュグマリーオンよりも正統に属しており、メルカルト信仰の中心がテュロスからカルタゴへ移ったことも意味する』。『ビュルサの丘は、現在のサン・ルイの丘にあたる』。『古代ギリシアやローマの歴史家らの史料では』、『トロイ戦争(紀元前』十二『世紀頃)前、紀元前』八二〇『年頃や紀元前』八一四『年頃に』、『それぞれ建国されたという記述があるが』、『いずれも裏付はない』とあった。]

 熊楠謂く、右は、吾國でも西史を讀む人のみな知る處で、其時吾々がヂドだつたら、どんな形に牛の皮線條で地面を圍んだら、最も多く地を取り込みえたかといふ算學上の問題に、予抔、每々腦漿を搾つた事である。然し、此話は餘り氣が付《つい》た人はない樣な物の、實は東洋にも古くから傳えた事で、たゞヂドの話が移つたか、印度や支那にも自ら發生したかゞ分らぬ。

 西晉の安息國三藏安法欽譯「阿育王傳」三に、摩田提(マヂヤーンチカ)尊者、罽賓《けいひん》國で大龍を降し、自分一人坐るにたる丈の地を求め、龍、承諾した。そこで、尊者、其身を大にして、國中に滿たして、跏趺《かふ》して坐した。龍、大《おほい》に呆れ、「汝、かばかりの廣き地を、何にするぞ。」と問ふ。尊者、「我に諸伴黨《はんたう》ある故。」と答ふ。復た問ふ。「伴黨は幾人ぞ。」。答ふ。「五百羅漢あり。」と。龍、言《いは》く、「もし、他日、五百羅漢が一人でも減ずる場合には、その時、必ず我に此國を還せ。」と。尊者、入定して、『後世、五百羅漢が常に五百ながら存し得べきか。』を觀ずると、必常、五百、有《あり》て、一人も減ぜぬべきを知《しつ》た。因て答へて、「いかにも、龍の望み通り。」と約定した。扨、尊者、無量の人をつれて、此國に來り、自ら、之を、村落城邑に安住せしめた。又、人を將《ひきつ》れて、飛《とん》で、香山《かうざん》中に向ひ、鬱金《うつこん》の種を取って罽賓國に種《うゑ》んとした。龍、怒つて、「鬱金を幾時のあいだ種る積りか。」と問ふ。尊者曰く、「佛法が續く間《あひだ》だ。」と。龍、問ふ。「佛法は、幾時、永く續くか。」。答ふ。「千歲だ。」と。聞いて、龍、その種を與へた、と出づ。

[やぶちゃん注:「阿育王傳」は「大蔵経データベース」を確認した。]

 六祖大師の門人法海等集「六祖大師緣起外記」に、唐の儀鳳二年[やぶちゃん注:六七七年。]、大師至曹溪寶林、覩堂宇湫隘不ㇾ足一ㇾ、欲ㇾ廣ㇾ之、遂謁里人陳亞仙曰、老僧欲檀越坐具地、得不(ウルヤイナヤ)、仙曰、和尙坐具幾許闊、祖出坐具、示ㇾ之、亞仙唯然、祖以坐具一展盡罩曹溪四境、四天王現ㇾ身坐鎭四方、今寺境有天王嶺、因ㇾ茲而名、仙曰、知和尙法力廣大、但吾高祖墳墓並在此地、他日造ㇾ塔、幸望存留、餘願盡捨永爲寶坊云々。〔大師、曹溪の寶林に至るに、堂宇、湫隘(しうあい)[やぶちゃん注:土地が低く、狭いこと。]にして、衆(しゆ)を容(い)るるに足らざるを觀(み)、『之れを廣くせん。』と欲す。遂に里人の李亞仙に謁して曰はく、「老僧、檀越に就いて、坐具の地を求めんと欲す。得るや不(いな)や。」と。仙曰はく、「和尙の坐具、幾許(いかばか)りの闊(ひろ)さなるや。」と。祖、坐具を出だして之れを示す。亞仙、唯だ、然(うべな)ふ。祖、坐具を以つて一たび展(ひろ)ぐるや、盡(ことごと)く曹溪の四境を罩(つつ)み、四天王、身(しん)を現じ、坐して四方を鎭(しづ)む。今、寺の境に「天王嶺(てんわうれい)」あり、茲(こ)れに因ちて名づく。仙曰はく、「和尙の法力の廣大なるを知れり。但(ただ)、吾が高祖の墳墓、並(みな)、此の地に在り、他日、塔を造らんとせば、幸(ねがは)くは存留されんことを望む。餘(よ)は、盡(ことごと)く捨てて、永く寶坊と爲(な)さんと願ふ。」云々と。〕尊者と大師が神通力を以て、或は、身を一國に滿《みつ》る大《おほき》さにし、或は、坐具一枚で土豪の所有地を盡く罩(おほ)ふたは、ヂドが、牛皮を、細《こま》かき線條に切《きつ》て、廣い地面を圍んだ算勘上の頓智と大違ひだが、小さいものをだしに使つて廣大の地面を取《とつ》た趣きは同じ。又、慈覺大師「入唐求法巡禮行記」卷三に云く、五臺山五百里内、奇異の花開敷如ㇾ錦、滿山遍谷香香氣薰馥、每臺多有慈韮生、昔孝文皇帝住五臺遊賞、文殊菩薩化爲僧形、從皇帝乞一座具地、皇帝、許ㇾ之、其僧、見ㇾ許已、敷一座具、滿五百里地、皇帝恠ㇾ之、朕只許一座具地、此僧敷一座具遍浩五臺大奇、朕不ㇾ要共住此處、遂以慈韮五臺山、便出ㇾ山去、其僧在後、將零陵香子慈韮之上、令ㇾ無臭氣二一、今ㇾ見每臺遍生慈韮二一、惣不聞臭氣、有零陵香、滿臺生茂、香氣氛氳、相傳云、五臺五百里、敷一座具地矣。〔五臺山五百里の内、奇異の花、開き敷くこと、錦のごとし。滿山遍谷、香り、香氣、薰馥(くんぷく)たり。臺(うてな)每(ごと)に、多く慈韮(ねぎ[やぶちゃん注:推定訓。])の生ずるあり。昔、孝文皇帝、五臺に住みて、遊び賞す。文殊菩薩、化(くわ)して僧形(そうぎやう)と爲(な)り、皇帝に從ひて、一つの座具の地を乞ふ。皇帝、之れを許す。其の僧、許され已(をは)りて一つの座具を敷くに、五百里[やぶちゃん注:当時の一里は四百三十四メートルであるから、二百二十五キロメートル。]の地に滿つ。皇帝、之れを怪しみ、「朕は、但(ただ)一つの座具の地を許せしに、此の僧、一つの座具を敷きて、遍(あまね)く五臺に浩(ひろ)ごること、大いに奇なり。朕は、共に此處(ここ)に住むを要せず。」と。遂に、慈韮を以つて、五臺山に散(はな)ち、便(すなは)ち、山を出でて去る。其の僧、在(あり)て後(のち)、零陵香の子(み)を以つて、慈韮の上に散らし、臭氣を無からしむ。今、臺(うてな)每に、遍く慈韮を生ずるも、惣(すべ)て、臭氣を聞(か)がず、零陵の香、有り、滿てる臺(うてな)に生ひ茂りて、香氣、氛氳(ふんうん)たり[やぶちゃん注:香気が甚だ盛んなさま。]。相傳へて云ふ、「五臺の五百里は一つの座具を敷くの地なり。」と。〕

[やぶちゃん注:『法海等集「六祖大師緣起外記」』も「大蔵経データベース」と校合したが、「仙」とあるところが、熊楠の引用では「僊」となっている。同じ意味であるので、「仙」とした。返り点もおかしい箇所があった(一二点を挟まずに上下点がある)ので勝手に修正した。

「入唐求法巡禮行記」は原本データベースがメンテナンス中であるため、確認出来なかったことから、熊楠のものを採用したが、一ヶ所、「選集」の読みから、「住」が「往」になっているのを訂した。

「孝文皇帝」北朝北魏の第六代皇帝(在位:四七一年~四九九年)。]

增補 (大正十五年八月二十七日記)

 「聊齋志異」卷十二に云く、紅毛國舊許中國相貿易、邊帥見其人衆、不ㇾ聽ㇾ登ㇾ岸。紅毛人固請、但賜一氈地足矣、帥思一氈所ㇾ容ㇾ無幾、許ㇾ之、其人置氈岸上、僅容二人、扯ㇾ之容四五人、且扯且登、頃刻氈大畝許、已數百人矣、短刀並發、出於于不意一、數里而去。〔紅毛(オランダ)[やぶちゃん注:「選集」のルビ。]國は、舊(むかし)、中國と相(たがひ)に貿易することを許さる。邊帥(へんすい)は、其の、人、衆(おほ)きを見て、岸に登るを、聽(ゆる)さず。紅毛人は、「ただ一氈(いつせん)の地を賜はらば、足れり。」と固く請ふ。帥、思ふに、『一氈の容るる所、幾(いくばく)も無し、』と、之れを許す。其の人、氈を岸の上に置くに、僅かに二人を容るるのみ。之れを扯(ひきさ)くに、四、五人を容るる。扯き、且つ、登るに、頃-刻(しばらく)にして氈の大きさ、畝(ほ)ばかり、已(すで)に數百人となる。短刀を、みな、發(ぬ)き、不意に出でて、數里を掠(かす)めて去れりと。〕

[やぶちゃん注:「聊齋志異」のそれは卷十二の「紅毛氈」。快刀乱麻の柴田天馬訳(昭和三〇(一九五五)修道社刊)が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。「邊帥」海辺警備隊の隊長。

「畝」約六アール。]

 是は何の地と明記せぬが、伊能嘉矩氏が『民俗』二年二報に書かれたるをみると、臺灣を右に似た謀事《はかりごと》で紅毛が取《とつ》たらしい。鄭亦鄒《ていせきすう》の「鄭成功傳」には、蘭人が、當時、據臺《きよたい》の日本人を紿《あざむ》き、「臺灣府志」の舊志には、蘭人が土蕃をだまして、いずれもヂド同樣、牛皮線條で地面を圍ひ取《とつ》たとある由。又、同氏は「增譯采覽異言」を「野史」から孫引いて、西班牙人が一牛皮の屋を蓋ふの地を呂宋《ルソン》王に求め、許可された後、多く牛皮を縫合《ぬひあは》せ、以て土地を圍み取たと述べらる。

 此話は「明史」に、はや、出でおり、萬曆時佛郎機强與呂宋互市、久ㇾ之見其國弱可取、乃奉厚賄遺ㇾ王、乞牛皮大建ㇾ屋以居、王不ㇾ慮其詐而許ㇾ之、其人乃裂牛皮聯屬至數千丈、圍呂宋地乞如ㇾ約、王大駭、然業已許諾、無ㇾ可奈何、遂聽之、而稍徵其稅國法、其人既得ㇾ地、卽營ㇾ室築ㇾ城列火器、設守禦、具爲窺伺計已竟、乘其無一ㇾ備、襲殺其王二一其人民、而據其國、名仍呂宋實佛郎機也。〔萬曆の時、佛郞機(フランキ)、强いて、呂宋(ルソン)と互市(とりひき)をなす。之れを久しくするに、其の國の弱くして取るべきを見(みてと)り、乃(すなは)ち、厚き賄(ないない)を奉じて王に遺(おく)り、牛皮の大きさのごときの地に、屋を建て、以つて居まふことを乞ふ。王、其の詐(あざむ)くことを虞(おもんばか)らずして、之れを許す。其の人、乃(すなは)ち、牛皮を裂き、連-屬(つな)ぎて、數百丈に至り、呂宋の地を圍みて、約のごとくせんことを乞ふ。王、大いに駭(おどろ)く。然(しか)れども、已(すで)に許諾したれば、奈何(いかん)ともすべきなく、遂に之れを聽(ゆる)す。而(しか)も、稍(しだい)に、其の稅を徵すること、國法のごとし。其の人、既に地を得て、卽ち、室を營み、城を築き、火器を列べて守-禦(まもり)を設け、具(つぶ)さに窺伺(きし)の計(けい)[やぶちゃん注:機会を狡猾にうかがうこと。]を爲し、已に竟(をは)りて、其の備え無きに乘じ、其の王を襲ひて殺し、其の人民を逐(お)ひて、その國を據(と)れり。名は「呂宋」の仍(まま)なるも、實は「佛郞機」なり。〕とある。「佛郞機(フランキ)」は、其頃、回敎民が總ての基督敎民を呼《よん》だ名だから、爰に言《いへ》る「佛郞機」はスペイン人を指したものだろう。「ゲスタ・ロマノルム」六四語、賢い處女が僅かに三吋[やぶちゃん注:「インチ」。七センチ六ミリ。]平方の布片で王の身に合《あふ》た襦袢を作つた話も本條に近い。それに似た話が「毘奈耶雜事」二七の大藥傳にあるが、緣が遠くなるから畧する。

[やぶちゃん注:「明史」は中文サイトで校合し、返り点のおかしい部分を勝手に訂した。

「ゲスタ・ロマノルム」「ゲスタ・ローマーノールム」(ラテン語:Gesta Rōmānōrum) は中世ヨーロッパのキリスト教社会に於ける代表的なラテン語で書かれた説話集。「ローマ人たちの事績」を意味するが、「ゲスタ」は中世に於いては「物語」の意味合いとなり、「ローマ人たちの物語」と訳すべきか。古代ローマの伝承などを下敷きにしていると考えられているが、扱っている範囲は古代ギリシア・ローマから中世ヨーロッパ、更には十字軍が齎したと思われる東方の説話にも及んでいる。題材はさまざまなジャンルに亙るが、カトリックの聖職者が説教の際に話の元として利用できるように、各話の「本編」の後に「訓戒」としてキリスト教的な解釈編が附されてある(Wikibooksの同書に拠った)。「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション」の「ゲスタ・ロマノールム」によれば、『現存する』百十一『冊の写本数から『ゲスタ・ロマノールム』はヤコブス・デ・ヴォラギネの』「黄金伝説」と『並ぶ人気を博した書物であったと推察される』が、『聖人伝を纏めた』それ『と異なる点は題材で』、「ゲスタ・ロマノールム」には『若干の聖人伝に加え、伝説、史話、逸話、動物譚、笑話、寓話、ロマンスなど、ありとあらゆるジャンルの物語が登場する。そして、どの話の後にも教訓解説』『が書かれている。この内容の豊かさ故に』本書は『後にシェイクスピアの』「ヴェニスの商人」、『さらには芥川龍之介に至るまで影響を与えた』。『ラテン語で印刷された』本書は一四七二年に『ケルンで刊行されて以来、様々な増補、改変が行われた。従って』、本書には『決まった物語数というものはない』。『写本は』十三『世紀頃に編まれたと考えられているが、印刷本が刊行されるようになってから』百八十一『話が定本となり、さらに編者によって各話が改変されたり、数十話が付け加えられたりしたらしい』とあった。]

 日本でやゝこの類の話とみるべきは「甲子夜話」續篇四一に出づ。豐太閤が曾呂利新左に「望みの物をやるから、言へ。」といふと、新左、「紙袋一つに入るほどの物を。」といふ。太閤、「小さい望みかな。」と、これを許し、曾呂利、喜んで退く。曾呂利、出仕せざること十日、太閤、人をして伺はしむるに、大なる紙袋を作りおり、「この大袋をお倉にかぶせ、その中に積んだ米を、皆な、賜はる筈。」という。太閤、使者より、これを聞いて、「紙袋一つに相違なきも、倉一つの米は、與へ難い。」と笑はれたそうだ。

[やぶちゃん注:『「甲子夜話続篇」續篇四一に出づ』私のブログ・カテゴリ「甲子夜話」で先ほど「フライング単発 甲子夜話續篇卷之41 五 椛町、岩城升屋の庫燒失せざる事 附 曾呂利の話」を電子化しておいたので見られたい。]

追 加 (大正四年二月『民俗』第三年第一報)

 『鄕土硏究』二卷一號に、久米長目氏、「仙臺封内風土記」を引《ひい》て、宮城郡の洞雲寺、元、異人夫婦、住む。慶雲中、僧定惠、來つて、「此地に寺を建てんと欲し、携《たづさへ》る錫杖を地に樹《た》て、その影の及ぶところ丈を借らん」と言ふ。二人、之を許せば、其所居《そのをるところ》の境内、悉く、影の及ぶ所と成つたので、不得止《やむをえず》、其地を引渡し、自分等は、他の山間へ立退いたと有る。

 印度說に云く、過去世トレタユガの時、マハバリ王、其威力を恃《たの》み、諸神を禮せず、又、牲《にへ》を供えず[やぶちゃん注:ママ。]。韋紐天(ヴヰシユヌ)、諸神に賴まれ、彼を罰せんとて、侏儒の梵志ヴアマナに生れ、王に謁して、三步で踏み得る丈の地面を求む。王、「そは、あまりに少《ちい》さ過ぎる。今、少し、大きい物を望め。」と言ふたが、「外に望みない。」と言ふ。「お安い事。」と王が三步だけの地面を許すと、「然らば、約束成つた印に、吾手へ水を掛け給へ。」と乞ふ。因て、水を注いで、手に懸くるや否や、侏儒の身、忽ち、長大して、天地に盈《み》ち、初步で、大地を履盡《ふみつく》し、第二步で天を履盡し、第三步もて冥界を略取せんとす。此時、大《マハ》バリ王、『これは。大神に外ならず。』と悟り、地に伏して降參した。一說には、第一步で天、第二步で地を丸で踏み、第三步の下ろし所がないので、便《すなは》ちバリ王の頭を踏んで地獄まで突込《つつこ》んだと有る(上に引たバルフヲル「印度事彙」三卷九八九頁。ヴァイジャ「梵英字書」八七五頁[やぶちゃん注:この前者は「選集」で書名と巻数の数字を補って、著者名を後に回した。])。

[やぶちゃん注:「過去世トレタユガ」「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『ヒンドゥー教神話での宇宙の紀年』を「ユガ」と呼び、その『世界創造説によれば、世界は生成と壊滅を繰返すとされ、創造から帰滅までの期間を』四『期に分ける。第』一『期クリタ・ユガ、第』二『期トレーター・ユガ』(☜これ)、第三『期ドバーパラ・ユガ、第』四『期カリ・ユガで、』この第四『期は神の』千二百『年間にあたり、』一、二、三『期は順次その』四、三、二『倍である。第』一『期は黄金時代で正義が完全に行われ,人間の寿命も』四千『歳あるが,次第に悪くなって』、『ついには暗黒に帰着する。神の』一『年は太陽暦の』三百六十『年とされ、第』四『期は太陽暦の』四十三万二千『年に相当するわけであるが、年数については諸説がある。現在は第』四『期カリ・ユガが約』五千『年ほど過ぎ去ったところであるという』とある。

「マハバリ王」「マハーバリ」或いは「バリ」は、主にインド神話に登場するアスラ(神々に敵対する存在を指す)の王の名。「マハー」とは「偉大な」を意味する敬称。詳しくは当該ウィキを読まれたい。以上の話もそこに記されてあり、リンクも細かくついているので、ここでは以下、注を省く。

『バルフヲル「印度事彙」三卷九八九頁』スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India (一八八五年刊第巻)の原本の「989」ページのにある‘VAMAHA’(熊楠の言う「侏儒の梵志ヴアマナ」)の当該項目が確認出来る。

『ヴァイジャ「梵英字書」八七五頁』不詳。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷之41 五 椛町、岩城升屋の庫燒失せざる事 附 曾呂利の話

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「少許を乞て廣い地面を手に入れた話」の注に附(つけた)りの部分が必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧・記号・改行も用いた。]

 

甲子夜話續篇41―5

 數寄屋橋《すきやばし》内《うち》なる永井氏を訪《たづね》しとき、主人、庭前なる庫《くら》の、四、五間ばかりなるを指さして曰はく、

「椛町《かうぢまち》の岩城升屋《いはきますや》と云《いふ》商家に、あの庫ほどなる土藏あり。度度《たびたび》の火災に遭《あひ》ても、遂に燒亡すること、なし。其ゆゑを尋《たづぬ》るに、常に大なる皮袋を用意して、火災と見れば、其皮を、庫に覆ひ、水を澆《そそ》ぐ。これに因《より》て燒亡せず。」

と。

 これに就《つきて》、思ひ出《いだ》せしことあり。今、其《その》出典を忘れたれど、記臆[やぶちゃん注:ママ。]せしまゝを、こゝに記す。

 豐臣太閤、嘗て、曾呂利新左衞門が滑稽を愛して常に咫尺《しせき》す。

 或とき、太閤曰《いはく》、

「我、汝が才を愛す。依《よつ》て汝の求《もとむ》る所の物を與へん。廼(すなはち)、これを望め。」

 曾呂利、答《こたへ》て日、

「曾《かつ》て望む思ひ、なし。されども、臺命《たいめい》、背くべからず。冀《ねがは》くは、紙袋一つに容《い》るゝの物を賜はん。」

 太闇、曰、

「小なる願ひ哉《かな》。紙袋を持來《もちきた》れ。その容るゝを與へん。」

 曾呂利、喜び退く。

 出仕せざること、十日に及ぷ。

 太閤、異(アヤシ)み、人を使はして、省(ミ)せしむ。

 返《かへり》て日、

「曾呂利、『袋を接(ツグ)こと、夥《おびただ》し。因て、出仕を廢す。』と。」

 公、又、人を遣はして、その事を問はしむ。

 答て曰、

「紙袋なり。」

 使者曰、

「奚《なん》ぞ、袋の巨大なる。」

 曾呂利、答ふ。

「この袋を以て、御米倉(コメグラ)に覆(カブセ)、御倉の積粟《つみあは》を賜はらん。」と。

 使者、返《かへり》て告ぐ。

 公、笑《わらひ》て曰、

「『紙袋一つ』と云へば、實(マコト)に然《しか》らん。されども、一倉《ひとくら》の栗、與へ難《がた》し。」

迚《とて》、大《おほい》に笑はれしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「咫尺す」貴人の前近くに出て親しく拝謁する。

 

2023/02/23

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山人の市に通ふこと

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正三(一九一四)年八月発行の『鄕土硏究』初出である。

 冒頭に出る「南方殿」は無論、南方熊楠である。所謂、二人の「山人論争」は、この後の大正五年十二月二十三日、南方は柳田の「山人」説を批判する長い手紙を出し、それを以って二人は袂を分かってしまうことになる「いわくつき」の論争である。これについては、『岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」』の金文京氏の「柳田、南方山人論争と中国の山人」(『図書』二〇二二年十二月号より)に詳しいので、参照されたい。]

 

     山人の市に通ふこと

 

 南方殿の「眞の山人」とは如何なる意味なるか。よく我々が「彼こそ眞の日本武士」などといふ「眞の」ならば御同意である。保守舊弊の山人の裸體徒跣《らたいとせん》[やぶちゃん注:後者は「裸足で歩くこと」の意。]であつたことは疑はぬ。併し凡ての山人の子孫皆然りといふ推論には反證がある。單に裸といふやうな顯著なる事態が記述に漏れる筈は無いといふだけの消極證據では無い。拙者は遠野物語の第七節を引證する[やぶちゃん注:私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆」の「七」を参照されたい。]。卽ち言語通ぜず、日本人との合の子を殺すか食ふかするやうな山男が、衣類などは世の常なりとある。この外にも一二の例があるが今引いてしまふのは少し本意で無い。要するに山人が米の飯を好み及び衣類を便《たのみ》とするに至つたのは、開化か墮落かは知らず、彼輩《かのはい》近代の變遷であつて、拙者はこの風を以て山人中の混血兒より始り、その混血兒はこれをその日本人たる片親(多くは母)より學んだものと考へる。然らば衣類を織り又は縫ふのは如何と詰(なじ)る人が、もし有つたならばその人はあまりに都人士だ。木綿を產せぬ寒國の村民は古着を買ふのは常のことである。既に關東の田舍の市日《いちび》にも、頭巾襟卷足袋股引は勿論、襦袢でも羽織でも何でも賣る。一槪に古着といふが出來合の新着もある。皮膚のやゝ弱くなつた山人は、こつそりと里に下つてこれを買つたと思はれる。陸中の海岸大槌《おほつち》町[やぶちゃん注:現在の岩手県上閉伊(かみへい)郡大槌町(おおつちちょう:グーグル・マップ・データ)。]の市の日に、語の訛《なまり》近在の者と思はれぬ男、每度來りて米を買つて行く。この男丈《たけ》は高く眼は圓くして黑く光れり。町の人はこれを山男だらうといつてゐた(佐々木氏報)。相州箱根の山男は裸體にして木葉樹皮を衣とす。深山に在《あり》て魚を捕るを業《げふ》とし、市の立つ日を知つてこれを里に持來り米と交易す。人馴れて怪むこと無し。賣買の外《ほか》多言せず、用事終れば去る。その跡を追ひて、行く方を知らんとせし人ありけれども、絕壁の道も無き處を鳥の飛ぶが如く去る故、終に住所を知ること能はずといふ。小田原の領主よりも、人に害を作《な》す者に非ざれば必ず鐵砲などにて打つことなかれと制せらるゝ故に、敢て驚かすこと無しといふ(譚海卷十一)[やぶちゃん注:「卷九」の誤り。後注参照。]。これは不幸にして古着を買つた例ではないが、彼等が市に通ふまでに開けて居たことだけは證明し得る。市人が山男だらうと思ふ迄には隨分永い間往來交易をしたことゝ思ふ。尤も平和なる田舍の山にも、他國者の杣《そま》木地屋が久しく入つて居ることもある。殊に嶺を越えて隣國の谷川にヤマメなどを釣る爺には、山氣に染んで變に無口になつて居る者もある。この徒が里へ出たのであつて、山男とはちと空想と申さるゝ御方もあらう。口の減らぬ言ひ草だがそれは烏の雌雄である。山男が母などに敎へられ如何にも杣又は木地屋らしく乃至はヤマメ釣の爺らしい顏をして、すまして古着を買ひに來る者も亦あるわけである。而して町の者の方で山男だらうと見るのには何か根據があつたのであらう。實は山人が相手といふことを承知の上で、もつと自動的の貿易を大規模に行つた例もある。これは外國では鬼市(きし)又は默市《もくし》Silent trade などといつたこと、南方氏最も詳しく知つて居られる。諸國里人談又は蘭山の本草記聞などにも、本草綱目の交趾《かうし》國の奇楠(きやら)の交易の話が引いてある。日本では武藏と甲斐との境の大菩薩峠、多摩川奧から秩父大宮へ越える六十里越の道祖神の祠の前、又は内外の日光の境の嶺などで、つい近頃まで默市が行はれた。勿論當事者は無名の山人でもなく、主たる目的は雙方步行の儉約であつた。併しその起原を考へて見ると、足を厭ふといふ外に、互にあまり顏を合せたく無い者どもが、律義を保證人としていつと無くかゝる約束を設けたので、いくらも例があつたものと思ふ。物をいはず吉凶の交際もせず單に當面の便宜のために交易だけをするとなれば、山一つ隔てた彼方の住民が、平家の殘黨であらうが八掬脛(やつかはぎ)や惡路王の後裔であらうが、一向顧みる値の無い差別であつたらう。

[やぶちゃん注:「譚海卷十一」私は全電子化注の途中であるが(未だ「五の卷」の途中)、以下に示す。文中注で示した通り、「卷九」で、「相州山男の事」である。記号は同じ。読点を増やし、記号も添えた。

   *

○相州箱根に、「山男」と云もの有。裸軆にして木葉・樹皮を衣とし、深山中に住《すみ》て、赤腹魚《あかはらうを》[やぶちゃん注:コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis であろう。]をとる事を業とす。市の有《ある》日を知りて、里人へ持來りて米にかふるなり。人、馴《なれ》て、あやしむ事なし。交易の外、多言する事なし。用事、終れば、さる。跡を認《みとめ》て、うかがひし人、有《あり》けれども、絕壁の道もなき所を、鳥の飛《とぶ》如くにさる故、つひに住所を知たる事、なし、とぞ。小田原の城主よりも、人に害をなすものにあらねば、「かならず、鐵炮などにて、うつ事、なかれ。」と、制せられたる故に、あへて、おどろかす事、なし、と、いへり。

   *

「ヤマメ」狭義には、サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ Oncorhynchus masou masou(サクラマスの内で一生を河川で過ごす「河川残留型(陸封型)」個体の和名)を指す。

「鬼市(きし)又は默市Silent trade」古く中国の唐代以降、夜の暗の中で行われる市場。死霊が出店するという伝承もある。英語のそれは、ある共同体が、外部とのコミュニケーションを、出来るだけ避けつつ、外部から資源を得るための方法として、世界各地で用いられた闇市を指す。

「諸國里人談」私の「諸國里人談卷之五 奇南」を参照されたい。

「蘭山の本草記聞」本草学者小野蘭山の李時珍の「本草綱目」に基づく本草書。

「本草綱目の交趾國の奇楠」「奇楠」は一般に「伽羅」で、香木の一種。サンスクリット語の「黒」の漢訳であり、一説には香気のすぐれたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。別に催淫効果があるともされた。但し、「本草綱目」では、巻三十四の「木之一」の「沉香」に出るが、「奇楠」とは出ない。偉そうに言っているが、「漢籍リポジトリ」の当該項[083-28b])を見られたい。鼻白む。

「多摩川奧から秩父大宮へ越える六十里越」この附近

「八掬脛(やつかはぎ)」「八握脛」とも。「脚の長い人」の意。異族人の身体の特徴を誇大に見た呼称。越後国風土記逸文等に見られる。

「惡路王」鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の伝説上の人物。当該ウィキを見られたい。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 入らず山

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正一五(一九二六)年六月発行の『週刊朝日』初出である。]

 

     入 ら ず 山

 

 山の神祕と、それが人界に傳はつて評判になるといふことゝは、二つ全く別々の話であつた。山の人には我々の眼から見ると、少し重くるし過ぎるかと思ふほどの思慮があつた。第一に山小屋の火の傍では、さういろいろ山の話はしない。現在不思議なものが見えたり聞えたりしてゐても、不馴れな若者たちの怖れるのを憐れんで彼等が自ら注意するまでは知らぬ顏をしてゐる。

 大井川の上流で雪のしんしんと降る晚に、何度とも無く小屋の周圍を、どしんどしんと大きな足踏みをして、まはつてあるく者がゐる。何だらうと一人が驚いて問ふと、相手の親爺はふんと氣の無い返事をしたきりで寢てしまふ。やがてその足音が止まつたと思ふと、不意に小屋の棟に手でも掛けて、ゆさぶるかと思ふやうな響がした。キャッと飛び起きて再び老人を喚び覺すと、老人が怒つてどなりつけた。山に寢りやこんなことは幾らでもある。それを一々騷いでゐてどうする。默つて寢ろ、といつたがなかなか眠れやしない。翌朝は早々遁げて還つて笑はれたといふ話が、駿河新風土記にも出てゐる。あの邊は殊にかういふ經驗の多かつた土地である。

[やぶちゃん注:「駿河新風土記」は新庄道雄(しんしょうみちお 安永五(一七七六)年~天保六(一八三五)年)は駿府江川町の大きな宿屋の主人であったが、幼少期から学問が好きで、三十代半ばには「駿河大地誌」の編纂者の一人に選ばれてもいた。しかし、同地誌は企画中に頓挫したため、彼は自力で駿河国の地誌を記すことを決意、当時、師であった平田篤胤の協力を得て、文化一三(一八一六)年から天保五(一八三四)年にかけて遂に全二十五巻まで書き上げたものである(死去により完成してはいない。以上は「静岡県立中央図書館所蔵の貴重書紹介(12)」PDF)を参照した)。]

 素人は山小屋に泊つて、火を焚いて夜を更かしてゐる際などに、よくこの類の話が聞いて見たくなるが、早速その問に答へて話すやうな人は少ない。山にいろいろの不思議があるといふことは、直接に山の威力の承認を意味する。そんなことをいつてしまへば自分が先づ氣が弱くなる。だからだまつて笑つてゐるだけで無く、中には明白に今まで一向にそんな經驗は無いと、答へる者さへ多いのである。實際また個人として、さう澤山の物凄い目に遭つてゐる者は無かつたらうが、人の話ならば長い間に、幾らでも聞いて知つてゐるのだ。たゞそんな場處で問うたり語つたりする問題では無いのである。

 多くの神祕談は死の床で、もしくは老衰してもう山で稼げなくなつた者が、經驗を子弟に傳へようとする序でにいひ殘すのが普通になつてゐて、さういふ話の聞書には眞實味がある。さうで無い場合に面白げに話すのは、作りごとで無いまでも、受賣の誇張の多い話と見てよい。これは二三度も同じ場合に臨むと、素人にもすぐ鑑別が出來るやうになる。里の妖怪とは違つて、山奧では嚙むとか食ひ付くとかいふやうな話は少ない。たゞ何ともかともいひやうが無いほど怖ろしかつた。又はぞつとして毛穴が皆立つたといつて、話はもうそれで終りである。しかもその時限り獵は止めたといひ、またはあの澤だけへは入らぬことにしてゐるといふ結論に達してゐる。またそれほど大きな不思議では無くとも、當人はとにかくこれを承認してゐる。何のこれしきのことといふやうな反抗心は抱かない。それ故にまた矢鱈に批評したり、考へたりする者には話したがらないのである。

 中にはさういふ話ならよくあるといふ者もあるが、それも否認ではなくて、山の人は始めから總括的に信じてゐるのであつた。山には人里において不可能なる法則が、行はれてゐることを信じてゐるのである。その中で私が今集めてゐるのは天狗笑ひ、天狗倒しの類、または木伐り坊などと稱して、斧を打ち鋸を挽く音が長い間きこえ、或は數多の人の話し聲笑ひ聲、それから雪の深い高山の峯から、笛太鼓の音がきこえるなどといふのも、會津の御神樂嶽《みかぐらだけ》のみで無かつた。意味が深いと思ふのは一村數十人の者が、我も人も同時にこの幻覺を起すことである。眼の迷ひといふ方にも、一人が實驗し、他はそれを聞いて信ずるといふ場合のみで無かつた。美作《みまさか》のある山奧には池があつてそこの水鳥は皆片目であつたので、遁げて歸つたといふ話もある。さういふのも皆共同の信仰であつた。山を樂しむ者に完全なる個人主義が行はれたら、その時は山の神祕の晴れてしまふ時であらう。

[やぶちゃん注:「會津の御神楽嶽」福島と新潟の県境にある御神楽岳(グーグル・マップ・データ)。標高は千三百八十六メートル。当該ウィキによれば、『古くから信仰の対象とされてきた山で、福島県会津美里町の伊佐須美神社縁起では』、崇神天皇十年に『四道将軍大毘古命』(おおひこのみこと)『と建沼河別命』(たけぬなかわわけ)『の親子が蝦夷』(えみし)『を平定するため』、『北陸道と東海道に派遣された折』り、『出会った土地を「会津」と名付け、天津岳山頂に国土開拓の祖神として』伊耶那岐・伊耶那美『二神を祀ったのが起源といい、のちにこの山を御神楽岳と号したという』とある。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山姥奇聞

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正一五(一九二六)年六月発行の『週刊朝日』初出である。「山姥」は「やまうば」或いは「やまんば」と読む。当該ウィキを参照されたい。]

 

     山 姥 奇 聞

 

          

 遠州のどの邊であつたか、汽車の走る廣々とした水田の間から、遙かの北の方に縣境の連峰が、やゝしばらくのうち旅人の眺望に入つて來る處がある。時には雪を持ち、又は白い雲が搖曳してゐる。

 かつて私は天龍川の上流から、あの片端を越えて奧山の谷に降りて行つたことがある。人間は水路をたどつて案外な入野まで伐り開いて住んでゐることに驚いたが、しかし山の力がこれによつて少しも弱められたり衰へたりしてゐないのには更に驚いた。平地に住む者の想像を超脫した寂漠たる生存、これにともなふ强烈な山の情緖が、人間の心を衝《う》つてやまない。

「遠江國風土記傳」といふ百年前の記錄に「豐田郡久良幾《くらき》山、奧山鄕大井村字泉に至り、巖《いはほ》一所《いつしよ》、明光寺の山の上、名づけて子生《こうみ》たわと謂ふ。天德年間山姥これに住し、時として民家の紡績を助く。多年にして三子を生む。一男名は龍筑房、龍頭嶺《りゆうづみね》の山の主なり。二男は白髮童子、戶口村神之澤の山の主なり。三男常光房は山住奧院《やまづみおくのゐん》の山の主なり」とある。山住の常光神社は今なほ參遠地方の靈神としてあふがれてゐる。この神の使ひは御犬卽ち狼であつて、信徒がこれを招請して、あらゆる邪惡を驅逐治罰せしめるといふ。

 しかも同じ書物によれば、山姥の三子は或時は里に下つて民家の小兒を害したために、平賀中務《ひらがなかつかさ》矢部後藤左衞門の二人が朝命を奉じてこれを征伐し、その子孫の者終に土着して奧山鄕に佳んだといふ。

 母の山姥はこの後秋葉山に逃れ住み遺跡はかの地に存するのであるが、なほ後世に至るまで每年子生たわの岩の上で山姥を祀つた。山香《やまが》の相月《あひつき》といふ村にも山姥の社がある。神の澤では今も雪中に白髮童子の足跡を見ることがあり、山住山の常光房もまた時として雪の上にその跡を留めて行くことがあると記してある。かの地方の山村の人は知つてゐるだらうが、藁科《わらしな》・大井・氣多《けた》・天龍の谷々には、山男の大足蹟の噂は絕えたことが無い。たゞそれが白髮童子の三兄弟の末であるか否かは、信仰以外にこれを決する者が無かつただけである。

[やぶちゃん注:「遠江國風土記傳」江戸中・後期の国学者で内山真龍(またつ 元文五(一七四〇)年~文政四(一八二一)年:商人の長男として遠江の豊田郡大谷村(現在の静岡県浜松市天竜区)に生まれ、家業を継いだ後の宝暦一〇(一七六〇)年に転居し、宝暦一二(一七六二)年には賀茂真淵らに学んだ)の著。寛政元(一七八九)年刊。柳田は「百年前」と言っているが、実際には百六十六年前である。国立国会図書館デジタルコレクションの明治三八(一九〇五)年郁文舎刊の活字本を見ることができ、当該部はこちらの「久良幾山」の条である。漢文である。また、そこでは「子生(コウミダワ)ト云」ふ、と濁音になっている。なお、以上のロケーションは恐らくは現在の静岡県浜松市天竜区佐久間町戸口(さくまちょうとぐち:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)附近と思われる。「龍頭山」や「秋葉山秋葉寺奥之院」が確認出来る。また、サイト「昔話の考古学」の「◆P.30 一度にたくさんの子を生む 昔話の考古学(中公新書)吉田敦彦著」に「山の人生」の方のそれが引かれ、そこに『この佐久間町西渡の明光寺には、丸木俊氏によって描かれた扁額があり、その絵には山姥は、笹を口にくわえ、三人の赤ん坊を抱いて、山の峯々の空中を飛翔する、豊満な双の乳房を露呈した美女の姿に描かれているという。また同じ佐久間町西渡の浅間山の山頂の浅間神社の裏には、姥神と銘を刻まれた山姥の坐像があり、この像では山姥は、皺だらけの顔をした、老婆の姿に表わされているという』とあった。明光寺はここである。

「久良幾山」この山が特定出来ない。識者の御教授を乞う。

「奧山鄕大井村字泉」これは、思うに大井川の上流、寸又峡の手前にある現在の静岡県榛原郡川根本町奥泉(はいばらぐんかわねほんちょうおくいずみ)ではなかろうか(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「子生《こうみ》たわ」柳田は「山の人生」の「一九 山の神を女性とする例多き事」の中でも言及している。同じ底本のここ(左ページの後ろから五行目)。そこでは「小生嵶(こうみたわ)」とある。「嵶」は「峠」に同じ。

「天德年間」平安中期。九五七年から九六一年まで。

「常光神社」個人サイト「BODHI SVAHA」の「常光神社 奥宮(天寿山 常光神)・常光寺山」に写真と地図が載る。先の地域の東北十キロメートルほどの位置にある。

「藁科」この藁科川上流域(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「氣多」静岡県浜松市天竜区春野町気田(はるのちょうけた)であろう(同前。ポイントした郵便局名に旧地名が残る)。]

 

          

 

 山姥山姬の話は信越の境の山々を始めとして、山國の里に多い。關東から奧羽へかけては、山母はアマノジャクに近いものとされ、今では單なる童話中の妖怪にまで零落してゐる。だが山姥も最初は山をめぐり里に通うて、木樵の重荷を助け民の妻の紡織を手傳つたといふ說があり、北ヨーロッパのフェアリーなどと同じく、單なる空想の產物ではなかつたらう。阪田公時を足柄山の山姥の子といふことなども、前太平記以前には確な記述もないやうだが、相當根據のある作りごとであつたらしい。阿波の半田の奧の中島といふ村の山には、山姥石といふ大きな岩がある。この邊には山姥が住んで、時々里の子供を連れて岩の上に出て來て火を焚いてあたらせることがある。それを見たといふ人も以前にはあつたさうな。他の地方の山村でも、冬の特別に暖かい年は、「今年は山姥が子を育てゝゐる」と戲れのやうにいふ處が少なくない。それがほんたうかどうか、信じないのは勿論我々の權利であるが、何も理由が無くこんな話の發生することはあるまい。說明が出來ないからといつて無視しようとするのは橫着だ。

[やぶちゃん注:「阿波の半田の奧の中島といふ村」徳島県美馬(みま)郡つるぎ町(ちょう)半田(はんだ)はここ。]

 私はこれについて、こんな風に考へてゐる。

 第一には、現實に山の奧には、昔も今もそのやうな者がゐるのではないかといふことである。駿遠でも四國でも、または九州の南部でも、山姥がゐるといふ地方には必ず山爺《やまじい》がゐる。或は山丈《やまぢやう》ともいふが、ジョウ[やぶちゃん注:ママ。]とは老翁のことである。山母《やまはは》に對しては山父といふ語もあり、山姥に向つてはまた山童《やまわろ》がある。これを總稱しては山人《やまびと》と呼び、形の大きいために大人《おほひと》といふ名もあつた。果して我々大和民族渡來前の異俗人が、避けて幽閑の地に潜んで永らへたとしたら、子を生み各地に分れ住むことは少しも怪しむにたらない當然のことである。問題は寧ろ文明の優れた低地人が、何故に彼等を神に近いものとして畏敬したかといふ點にある。

 第二には正反對の側面から、山の神の信仰には以前は明らかに狼の恐れが含まれてあつた。狼が群をなして移動する威力、或はその慧敏《けいびん》と狂猛に恐れをなして、祭れば害をまぬがれるだらうと考へて大口眞神《おほくちのまがみ》の名を與へ、更に進んでは人間に准じてその隱れたる成育を想像した。御犬が子を生むといふ場處は靈地であり、又その季節には戒愼して、特に十分なる食物を寄贈する風習も各地にあつた。武藏の三峰山のごときは今でもこの時の儀式があつて、御犬は夜深く吠えて祭の催促を信號すると傳へられる。又狼の首領が老女の姿を借りて人間に往來したといふ話は多い。さすれば、山姥の子育てといふことも、これから類推した物語りの類かも知れぬが、それにしては深山の雪に殘した足跡が人の足跡であることが、改めて解釋せねばならなくなる。

 

          

 

 第三には、山に入つて行く女のことが考へられる。山隱れする女は多くの場合狂女で、いはゞ常から山の力の威壓に堪へ兼ねてゐた山村の女であつたが、彼等はしばしば山の神に娶《めと》られると信じて喜び進んで山に入つてゐる。或女は產後の精神異狀から山に入つたなどといふ話もある。

 日本固有の宗敎には神の御血筋といふ思想がある。後には轉じて高祖を神と拜む慣習に併合したが、地方の端々にはなほ年久しく、明らかに人間以上の神靈を祖先とした家があつた。その靈がもし男神ならば、人間の少女を配すると神の子を生むと傳へられる。別に又上總の玉前神《たまさきのかみ》のやうに、姬神にして自然に子を設けたまふ例もあつた。これがやがては我國神道の成長力となつたもので、鹿島も八幡も諏訪も熊野も、一つとして御子神《みこがみ》若宮の信仰にもとづかずに、その敎へを傳播した例はなかつた。故にもし山中の口碑が純然たる精神上の破產であつたとしても、やはり遠江の奧山に傳へた如く、今の神は前の神の御子と考へて祭るのほかはなかつたのである。

[やぶちゃん注:「上總の玉前神」千葉県長生郡一宮町一宮にある玉前(たまさき)神社。しかし、ここで柳田の言っていることは、今一つ、ピンとこない。同神社公式サイトの「祭神」を見ても、そんな単為生殖のことは記されていない。因みに、ここは芥川龍之介の青春の頃の忘れ難い避暑地でもある。]

 話は長くなつたが、私の說は假定であつて、まだ結論でも何でもない。ただ山嶽を、いはゆるアルプス黨の蠻勇によつて始めて占領した空閑の地の如く考へないやうに、最後にも一つだけ何か理由のあるらしい奇異なる物語を附添へよう。

 今からもう十七、八年前のこと、私は九州の南部市房山《いちふさやま》の麓の村に入つて、一卷の狩の傳書を見たことがある。文字が橫なまつて精密な意味は取れなかつたが、その一節に次のやうな話が、唱へ言として殘つてゐた。

[やぶちゃん注:以上の事績は柳田國男の「後狩詞記(のちのかりのことばのき) 日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」を指す。柳田国男が明治四一(一九〇八)年に宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)で村長中瀬淳から狩猟の故実を聴き書きしたもので、私家版として翌年五月に刊行され、後の昭和二六(一九五一)年の彼の喜寿記念に覆刻された。日本の民俗学に於ける最初の採集記録とされる。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で全六分割で全電子化注を終えている。なお、「市房山」は同村の南端。但し、以下の話は「後狩詞記」には記されていない。]

 昔大滿《おほま》、小滿《こま》といふ二人の獵師が狩の支度をして山に入ると、一人の女が來て、私は今子を產んだ。產腹《うぶばら》を溫めたいから何か食物をくれといつた。それを一人は狩の前の血の忌《いみ》を畏れてすげなく拒絕したが、他の一人は快く承諾したといふのである。話はこれで終つて何の意味か分らなかつたが、最近に佐々木喜善君の東奧異聞が出版せられて、始めて一千里の北の端まで、同じ神話の流布してゐることを知つたのである。岩手縣の獵師の口傳にあつては、二人の名は萬次、萬三郞であつた。產をした女は山の神であつて、血の穢れをも厭ふことなく、その望みをかなへた獵人は永く豐富なる獲物をもつて報いられたことになつてゐる。これは常陸風土記の富士と筑波の話、もしくは備後の巨旦(こたん)蘇民(そみん)の二兄弟が、武塔天神《ぶたうてんじん》を待遇した話から、近世になつては瘤取りや花咲爺まで、賢愚善惡の二つの型が、神の選擇によつて盛衰した昔話のたゞ一つの變形といふに過ぎないが、それにしても山の神が女性であり、山にあつて子を產むといふことがその信仰の重要な一部をなしてゐたことは、假に九州と東北と二つの一致がなくても、なほ小さからぬ暗示である。問題はたゞ山を愛する人たちが、かうした山の神祕を顧みるか否かにある。

[やぶちゃん注:「佐々木喜善君の東奧異聞」新字・新仮名であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「世界教養全集」第二十一巻(昭和三九(一九六一)年刊)のここ(右ページ下段)で当該部(「四 稀に再び山より還る者あること」の内)が読める。

「常陸風土記の富士と筑波の話」「常陸国風土記」にみえる両山の神に纏わる伝説。「風土記」から引くと長くなるので、小学館「日本大百科全書」の「富士筑波伝説」を引いておく。『神祖(みおや)の神が諸神のもとを巡る途中で、富士の山に着いた。宿を求めると、富士の神は新嘗(にいなめ)の物忌みを理由に断った。これを恨んで神祖は、この山は年中雪霜が降っていて寒く、それに登る人もなく供物もないとののしった。次に筑波の山に行くと、筑波の神は新嘗の夜にもかかわらず歓待してくれた。神祖の神は喜んで、歌を詠んで祝福した。それでいまでも、富士の山はいつも雪が降っていて人が登ることもなく、反対に筑波の山は人々が集まり』、『歌舞飲食が絶えないのだという。特定の日に神が来訪し、その接待いかんによって懲罰や報恩を授けるという話は古くからあるし、また世界的にもある。わが国では弘法大師』『が各地を行脚』『しながら、弘法清水』『や弘法芋』『といった伝説を残していった。古くは』「備後国風土記」『逸文にある蘇民将来(そみんしょうらい)の話も、神の来訪譚』『である。弟の巨旦(こたん)将来が宿を拒んだのに対し、兄の貧しい蘇民将来が神を供応し』、『泊めた。そのために、蘇民一家は疫病を免れて、神の庇護』『を受けることができたのである。貴い神人を歓待するということは、さかのぼれば、来訪してくる神々を祀』『ることなのであった。こうした古代信仰が、これらの説話の根底にはある。ところで富士筑波の説の場合、その要素に加えて嬥歌(かがい)の由来譚になっている点も注目される』とある。「備後の巨旦(こたん)蘇民(そみん)の二兄弟が、武塔天神を待遇した話」というのは、以上でよかろう。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 己が命の早使ひ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、明治四四(一九一一)年十二月発行の『新小說』初出である。]

 

     己が命の早使ひ

 

「遠野物語」に、あゝいつた風な話を、極くうぶのまゝで出さうとした結果、鏡花君始め、何だ、幾らも型のある話ぢやないか、といふやうな顏色(かほつき)をした人が、段々あつたけれども、負け惜しみのやうだが、自分は、あれを書いてる時から、あの話が遠野だけにしかない話だとは思つて居なかつた。寧ろ、西は九州の果にまで、類型のあるのを、珍重したくらゐだつた。けれども、それを列記したらば、その面白味が減ると思つて、木地を出す事にばかり苦心したのである。

 例へば、川童の駒引の話などでも、あの前から、自分は、内々硏究して居つて、羅生門の綱の話などと、脈絡のあるといふ、面白い事實を考へて居た。

 あの中に、今一つ、一寸異つた話で、今お話をしようと思ふのは、或金持の家の先祖が、始めて金持になつた時の、由來を書いたものである。

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が二字下げ。行頭字下げがないのはママ。前後を一行空けた。]

 

閉伊川(へいがは)の原臺の淵といふ處を、通つて行くと、非常に綺麗な女が現はれて、この手紙を或處へ屆けてくれといつた。無筆な男だから、後生大事に、持つて來る道で、山伏に出遇つた。處が、山伏が、その話を聞いて、そりや劍吞だから開けて見ろといつた。そして、開けて見ていふのには、この手紙をこの儘持つて行つたら、お前の命はなかつたんだ。私が書き直してやらうといつて、別に手紙を書いてくれた。それを、何食はぬ顏をして、その男が持つて行つたらば、先方にはやはり、綺麗な女が出て來て、その手紙を受取つて、開封をして見て、非常に喜んで、お禮に小さな石臼をくれた。欲しい物がある度に、その石臼を一𢌞し𢌞すと、何でも出て來る。

[やぶちゃん注:私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 二四~三〇 家・山中の異人」の「二七」がそれである。柳田はよほどこの話が好きだったようで、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(1)』でも言及している。「閉伊川」遠野の北方の岩手県宮古市を流れる。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

 

といふ話なんだ。處が、こんな珍なる一つの話も、決して、突如として現れたものではない。數百年數千年の、歷史上の基礎を持つて居る。

 先づ、近頃の同じ型の話を、二つばかりして見ると――

[やぶちゃん注:同前なので同じ処理をした。]

 

甲州の國中に、國玉《くだま》村といふ村がある。この村に、名は大橋といひながら、極めて短い石橋がある。この石橋は、郡内の猿橋《さるはし》と大變仲が惡い。猿橋の上でこの大橋の噂をしても、きつとおそろしい事がある。

昔、武州から甲州へ行く者が、猿橋を渡る時に、うッかりと國玉の大橋の噂をした。處が、一人の婦人が、不意と現れて來て、甲府へ行くのならこの文を一通國玉の大橋へ屆けて貰ひ度いといつた。けれども、宛先も言はなかつたのを、後で心付いて、途中でこッそり開けて見たら、その中に、この男を殺せ、と書いてあつた。

それからして、大いに驚いて、早速、自分の矢立の筆で、決して殺してはならぬ、と書き直して、何食はぬ顏をして、大橋へ持つて行つた。

處が、橋の上で又一人の婦人が現れて來て、甚だ怖い顏をして見て居つたが、その手紙を渡すと讀下して後に、急に顏の色が變つて、お禮をいひながら別れた。そして、何の障りもなかつたといふ事である。

[やぶちゃん注:「國玉村」現在の山梨県甲府市国玉町(くだまちょう)。

「大橋」現存しない。ウィキの「国玉の大橋」に詳しいので、読まれたいが、そこに載る「国玉の大橋が架かっていた地点の濁川」という写真を見るに、この附近であることが判明した。

「猿橋」「日本三奇橋」の一つとして知られる甲州街道の山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋(はねばし)。ここ。]

 

 これと同じ話が備前の福山附近にある。これはその地名を一寸忘れたが――

[やぶちゃん注:同前で同じ処理をした。]

 

或馬方が、馬を牽いて、夕方に某地の坂を通ると、やはり婦人が出て來て手紙を一つ托(ことづ)けた。事の爲體(ていたらく)が何分にも不審であつた故に、途中で出會つた山伏に、内々その手紙を讀んで貰つたら、その手紙には、前文御免で、

 、馬牽男の腸   一具

  右差進じ候事

と書いてあつた。それから馬士(うまかた)は仰天して、やはり自分に都合の好いやうに書き直して貰つて、これも先方へ屆けた。

 

 然し、これも別に、金持になるやうな、打出の小槌も貫はなかつたやうに書いてあつた。この話の日本に於る元祖は、ずつと八九百年の昔にあつて、「今昔物語」の中には、これに似た話が二つ三つある。その一つをいふと――

[やぶちゃん注:同前。]

 

京へ歸る旅人が、美濃路の或處で手紙を一通托せられた。差出人は、やはり女であつた。勢田の長橋へ持つて行けば、受取人が出て來るといふ事であつた。

これもやはり手紙を途中で開封して見た處が、些(ちつ)とも解らぬ事ばかり書いてあつた。

何食はぬ顏をして、これを封をして、勢多の橋まで來ると、はたして、水の垂れるやうな綺麗な女が出て來て、私に托かつて來た手紙はないかと聞いた。

旅人は恍《とぼ》けて、その手紙を出すと、女は目の前で開封をして見たが、忽ち面色變じて、お前は惡い人だ。途中でこの手紙を開けて見たらう、とさういつた。

すると忽ち天地怪鳴して、旅人の命は有ると無いの境ぐらゐに行つて了つた。

[やぶちゃん注:これは「今昔物語集」巻第二十七の「美濃國紀遠助値女靈遂死語第二十一」(美濃の國の紀遠助(きのとほすけ)、女の靈(りやう)に値(あ)ひて遂に死にたる語(こと)第二十一)である。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(2)』の注で電子化してあるので見られたいが、「旅人の命は有ると無いの境ぐらゐに行つて了つた」とあるが、最後には亡くなっている。]

 

 この話の如きは、何故にかういふ思ひも付かぬ事が、古今東西かたちを同じくして居るか。不思議といへば、事實それ自身よりもこの方が猶不思議なくらゐである。しかも、近頃になつて心付くと、この話は支那から來て居る。顧炎武の「山東考古錄」といふ書物は、泰山を硏究した書物である。この中に、彼地方の傳說と稱して、かういふ話が載せてある。

[やぶちゃん注:『顧炎武の「山東考古錄」』顧炎武(一六一三年~一六八二年)は明末清初の儒者。明の滅亡に際して反清運動に参加し、経学や史学の傍ら、経世致用の実学を説いた。「清朝考証学」の祖の一人。サイト上の同書に、複数、当たってみたが、柳田の訳では、特定出来なかった。悪しからず。

 以下、同前。]

 

昔、或旅人が、山東を旅行して、泰山の麓を通つた時に、老人が出て來て、手紙を一通托した。揚子江を渡る日に、河の半ばで現れて來る者に、この手紙を渡してくれといふ依賴である。

不思議に思ひながら、この男は、無邪氣であつたと見えて、開封もせずに、これを揚子江まで持つて行つた。

處が、果して、揚子江の中流に行つた時に、一人の美しい若い婦人が現れて、その手紙を受取つた。

この手紙の中には別にこの男を殺せとは書いてなかつた。

何かお禮の品を貰つて、所謂この後話なしといふ事になつて了つた。

然し、その手紙といふのは、泰山の山の神が、兼て自分の娘を揚子江の河の神に嫁入らせて居た。そして、山東旱魃に就き、少々雨を送つて貰ひ度いといふ、依賴狀であつたといふ話である。

 

 以上の話でも解らないといへばやつぱり解らない。何故にこんな突拍子もない話が態々日本にまで輸入せられたか。又、假りに偶合であるとすれば、何故に人の頭腦の中にかういふ思ひ懸けぬ空想が發現したか。これ等は、學者が、萬年かゝつても、とても明らかにする事の出來ない人類の祕密で、妖怪硏究の妙味も、結局する處、右の如き神韻渺々の間に行かなければならないのかと思ふと、やはり宇宙第一の不思議は、人間その物であるといはねばならぬ。

 

原民喜作品集『焰』(昭和一〇(一九三五)年三月二十九東京印刷版發行・白水社發賣・私家版)原本底本正規表現版改稿終了+原民喜の他の著作の正規表現版校訂続行

カテゴリ「原民喜」で、2017年に電子化注した原民喜作品集『焰』の恣意的正字化版を、国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で原民喜作品集『焰』(昭和一〇(一九三五)年三月二十九東京印刷版發行・白水社發賣・私家版)で、本日、総て正規表現版として校正を終了した。

また、同じ国立国会図書館デジタルコレクションで、正字正仮名版の昭和二八(一九五三)年角川書店刊の「原民喜作品集」第一巻・第二巻の画像も入手出来たので、これに引き続き、それらによる過去の本ブログの電子化した恣意的正字化版も、正規表現版へ校訂を開始する。

2023/02/22

大手拓次譯詩集「異國の香」 「香氣」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  香   氣 ボードレール

 

貪食者よ、 お前はをりにふれて

迷亂と緩漫なる貪食とをもつて呼吸したことがあるか、

あの聖堂のなかにみちてゐる燒香の顆粒(つぶ)を、

あるひは麝香のふかくしみこんだ香袋(にほひぶくろ)を。

 

現在とよみがみがへれる過去とのなかに

われらを醉はしむる深く不思議なる妖惑よ!

かくしてこひ人は鐘愛のからだのうへに

追憶の美妙なる花をつみとる。

 

彈力のあるおもい彼女の頭髪から、

寢室の香爐であるにほひ袋の

いきいきしたかをりはのぼつた、 あらく茶色に、

 

また、淸い若さのすつかりしみこんだ寒冷紗か或はびろうどの着物からは、

毛皮のにほひがのがささる。

 

[やぶちゃん注:これは既に「緣(ふち)」で紹介した総標題‘Un Fantôme(「ある幽霊(亡霊)」或いは「ある幻想」)の四篇構成のそれの第二篇である。フランス語のサイトのこちらにあるものを元に示す。

   *

 

   Le Parfum   Charles Baudelaire

 

Lecteur, as-tu quelquefois respiré

Avec ivresse et lente gourmandise

Ce grain d’encens qui remplit une église,

Ou d’un sachet le musc invétéré?

 

Charme profond, magique, dont nous grise

Dans le présent le passé restauré!

Ainsi l’amant sur un corps adoré

Du souvenir cueille la fleur exquise.

 

De ses cheveux élastiques et lourds,

Vivant sachet, encensoir de l’alcôve,

Une senteur montait, sauvage et fauve,

 

Et des habits, mousseline ou velours,

Tout imprégnés de sa jeunesse pure,

Se dégageait un parfum de fourrure.

 

   *

「貪食者」不審。“Lecteur”はフラットに「読者」の意で、このような意味はない。或いは拓次は『「貪」欲なる『食』欲の持ち主である読「者」』のニュアンスで、二行目の「貪食」(“gourmandise”は「大喰い」の意)を意識して、かく読む人々に皮肉を込めて訳したものか? しかし、「どんしょくしや」の訓は「讀書者」(どくしよしや)に似ており、何か妙な気が、しないでもないのである。

「鍾愛」は「しようあい(しょうあい)」でと読み、「鍾」は「集める」の意で、「たいそう好いてこのむこと・大切にして可愛がること」を言う語である。]

 

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ザシキワラシ(一)・(二)

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 本二篇はカップリングした。但し、この二篇は別々に発表されたもので、「(一)」は文末に柳田國男が記している通り、大正九(一九二〇)年二月に発行された佐々木喜善著「奥州のザシキワラシの話」(玄文社『爐邊叢書』第三篇)の跋文として書かれたもので(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該部。この本、いつか電子化したい。佐々木喜善は、終生、柳田國男を師としたが、正直、「遠野物語」は彼なしには存立しなかった名作であり、それを柳田は自身の著作として改変し、ブレイクさせたところに非常な怒りを私は持っているからである)、そこでは「此序(このついで)に言つて置きたい事」という標題であり、以下の再録では表記に異同がある底本巻末の「内容細目」に大正八年十月とあるのは、その文末の執筆クレジットに基づくものである。「(二)」は「(一)」よりも五年前の大正三(一九一四)年八月発行の『鄕土硏究』に初出したものである。前者はリンク先の初出(総ルビ)を参考にした

 なお、「ザシキワラシ」は当該ウィキもあるが、それが全国的に知られるようになった濫觴『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽靈』をまずは読まれるべきであろう。]

 

     ザシキワラシ (一)

 

 紀州高野山の舊記の中に、座敷稚子《ざしきちご》の事が見えぬといふのは、多分二人の紀州人のいはれた通りであらう。而も私が書物には無くても、實際有つた事かも知れぬといつたのは、あの大阪の雜誌に出たといふ話が、これを信じて報告した人の話らしかつたためばかりでは無い。私は未だ「新社會」を讀んでは居ないのである。

[やぶちゃん注:「紀州高野山の舊記の中に、座敷稚子の事が見えぬといふのは、多分二人の紀州人のいはれた通りであらう」これは跋を寄せた佐々木の「奥州のザシキワラシの話」の「三 手紙で答へられたもの」の内容を受けたものである。そこでは、まず、『東京の中山太郞氏の話に、座敷稚子(ざしきちご)と謂ふものが、紀州の高野山にも居(を)ると云ふことで、赤い衣物などを着た垂髪(さげがみ)の童子で、折ふし大寺(おほでら)の座敷の障子を細目に開けて覗くものだと云ふと聞き(後に聞くと、此話は大阪の新社會と云ふ雜誌にあつたと云ふ)』とあって、佐々木が、まず、地元の南方熊楠に確かめたところが、熊楠は『聞いたことが無いとの御返書』があり、さらに『同じ紀州の有田郡の、森口淸(もりぐちせい)氏からは、高野に関する図書を渉猟したが、見当たらないとしつつ、『十數年來高野山の寺院に居住せし者より』聞いた金剛三昧院の一人の小僧の話を添えてある(この話は非常に興味深い奇譚であるので、是非、原本で読まれたい。ここ。二人とは、上記の二人を指す。]

 東京にも百年ほど昔、一種のクラボッコが住んで居た例がある。家の人に多少は世間へ隱す心持もあつたので、存外に夙《はや》く忘れてしまはれ、又は他の不思議と混合せられたのが多いのであらう。本所二丁目の、相生町《あひおひちやう》と綠町《みどりちやう》との橫町《よこちやう》であつた。梅原宗得《うめはらそうとく》といふ人の家の古い土藏に、妖怪とはいつても、別に何か害をした話の無い妖怪が居た。いろいろの形で現れたといふ。この土藏に入つて働く者、俄に大小便を催すときは、卽ちこの物の出ようとする前兆として、急いで飛出したといふことである。

 夜は鐵(かな)棒を曳く音がした。金剛三昧院の小僧と同じく、これも火防《ひぶせ》の神として祭られ、この家から火災除《よけ》の守札《まもりふだ》を出《だ》し、その靈驗《れいけん》を認められて居た。祭の日はどういふ譯か、四月の十四日であつた。燈明菓食音樂等《とう》を以て厚く祀つたとある。而も唯の神樣では無かつた。或年近火《きんくわ》が有つて、この家も片付が間に合はなかつた時に、見馴れぬ女が一人出て來て、荷物を纏めて庫《くら》へ入れてくれる。髮長く垂れて、顏はどうしても見えなかつた。やがてその庫の中に自分も入つて、うちから戶を閉ぢたといふことである。江戶では遙かこれ以下の奇瑞が有つても、直《すぐ》に守札を受けに來る者があつた。祭るのはこのためであつたかも知れぬ。古土藏は石庫《いしぐら》で、中には何の變つた事も無かつたが、唯隅の棚の上に、五六寸四方の箱が一つあつて、昔から置處《おきどころ》を換へず、又手を着ける人も無かつた。これが不思議の源《みなもと》であらうかといふことであつた。この話は十方庵の遊歷雜記第二編の下《げ》に出て居る。その梅原氏と古土藏とは今どうなつて居るか。或はやつぱり燒けてしまつたかも知らぬ。

[やぶちゃん注:「クラボッコ」「倉ぼっこ」は倉の守り神とされる妖怪の岩手県での名。姿は子供ほどの背丈で、全身が毛むくじゃらか、頭髪が体全体を被うほど長い姿ともされる。人には危害を加えず、逆に助ける。「座敷童子(ざしきわらし)」に類する妖怪であり、「倉ぼっこ」が倉から離れると家運が徐々に傾くとされる。同じく佐々木の「奥州のザシキワラシの話」の「三 手紙で答へられたもの」の「(一三)」に、

   *

(一三)稗貫[やぶちゃん注:ルビは「ひえぬ」となっているが「ひえぬき」が正しい。]郡花卷町(はなまきまち)、里川口邊にも、クラワラシ又はクラアボツコと謂ふものならあると云ふことである。[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ち。]其地の人、島倉吉氏報。同[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年。]二月八日附。

「十方庵の遊歷雜記」私は古く二〇一五年に、「耳嚢 巻之十 怪倉の事」の追加資料として、『釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」』をブログで詳しく電子化注してあるので、そちらを見られたい。

 ザシキワラシの話が、私のこれと一緖に出す田原藤太の話の心得童子《こころえどうじ》と、若干の關係が有るらしいのは、偶然ながら面白いことである。佛敎の方で護法といひ、又は天童《てんどう》とも使者ともいふのは、本來その宗敎の大きな力を以て招き寄せたものだから、人といつてもせいぜい名僧の處へ來る迄であるが、我々の心得童子は在家にも來て仕へる。さうしてその家を長者にせざれば止まぬやうである。その中には至つてザシキワラシと近い者もある。出羽の鯉川《こいかは》といふ處に住む貧乏な夫婦、或時から、ふとこの類《るゐ》の者の援助を受けるやうになつた。寶曆《ほうれき》七年の事であるといふ。姿は決して見せたことは無いが、何處からともなく人の聲で物をいふ。後《のち》には馴れて怖くもなくなつた。主たる援助は夫婦の問《とひ》に應じて、何でも未來の事をいつてくれて、それが皆中《あた》ることであつたが、時としては食物などを彼等の求《もとめ》に從ひ、何なりとも調へて持つて來て食はせる。これと同時に近隣の家では、餅なり饂飩《うどん》なりそれだけの物が無くなる。人有つてその聲に由《よ》つてその物を取留《とりと》めんとすれば、形は見えないが力すこぶる强く、相撲を取り捻合《ねづあひ》をする體《てい》にして、曾て誰《たれ》にも負けなかつたとあるが、何處までが誇張の噂であるか分らぬ。津村氏の譚海卷二に出て居る。後《のち》いつと無くその怪止《や》むとある。

[やぶちゃん注:「私のこれと一緖に出す田原藤太の話の心得童子」これは柳田國男の全くの同時期の論考「神を助けた話」(大正九(一九二〇)年二月玄文社刊)の中に出る(これは電子化する気持ちは私には全くない)。藤原秀郷俵藤太の知られた琵琶湖の龍宮に棲む龍のために征伐した百足退治の一件があるが、この恩賞として俵藤太は龍から十種の宝物を貰うが、その中に「心得童子」がいた。別に「如意童子」と呼ばれる者で、二人であったとされ、彼らは何かを命じなくても、主藤太の心中を知り、それを叶えたり、代わりに用を足したりしたとされる。言わば、密教の高僧や修験道の行者が使役する神霊や鬼神である「護法童子」や、陰陽師が使う「式神」と同じものと言える存在である。底本と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの「定本 柳田国男集」の第十二巻のこの「一〇 田原藤太」から「一三 蒲生氏の盛衰」辺りに登場する。ログイン無しで読める「柳田国男先生著作集 第10冊(神を助けた話)」(昭和二五(一九五〇)年実業之日本社刊)の当該部にもリンクさせて便宜を図っておく。

「津村氏の譚海卷二に出て居る」これは既に私の「譚海 卷之二 同領地十二所の人家に錢をふらす事」で電子化注してあるので、見られたい。]

 佐々木君蒐集のものが、ずつと物語化した二人の娘の話などの外、豫言はおろか碌に物もいはぬらしいのは、ザシキワラシ以上の不思議である。これは後世どう說明せらるべきものであらうか。尤も人と神との懸隔は、槪して時と共に遠くなるものであるが、出現の囘數が段々と稀になり、常の事が非常の事のやうになるに至つて、何も語らずも、姿を見せるだけで目的の全部を達したからと、考へて置いてよからうか。然らば卽ち民間巫道《ふだう》の衰微を示すものである。佛敎の高僧が護法童子を天から呼んだと同じく、我々の巫女《みこ》たちは祕法を以て各自の心得童子を作つたやうである。而してこれを旅行等に同行する便宜のために、體軀《からだ》から引離した魂だけにして連れて居たやうである。さうすれば勿論人に見えず、又いろいろの物にも宿ることが出來る。これを自在に利用して、陰から不審の事を說明させ、或は他人の身の中迄も往來せしめる。但し一つの不便は、既に不用に爲つても、元々自己の體《たい》を具へぬ靈魂であれば、他には行所《ゆきどころ》が無い。それ故にいつ迄も術者の家に留《とどま》り住んで居る。これ等が舊家に纏綿《てんめん》する所のザシキワラシと關係あるものでは無からうか、もしさうだとすれば、これも今ちやうど、私が「おとら狐の話」の附錄に於て、すこしく說いて見ようとする問題である。

[やぶちゃん注:「おとら狐の話」大正九(一九二〇)年二月に玄文社『爐邊叢書』第二篇として刊行された早川孝太郎との共著の柳田の執筆部分に相当する。底本と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの「定本 柳田国男集」の第三十一巻の「おとら狐の話」、及び、ログイン無しで読める当該原本の当該部(「誑す狐と慿く狐」以下)にもリンクさせて便宜を図っておく。]

 最後に今一つ、何故《なにゆゑ》に座敷に住む者が多くワラシであつたかといふこと、これは至つて重要な點であるらしい。生きた人間の中では、老人が最も賢明にして且《かつ》指導好きであることは、殊に我々の明治大正に於る經驗であるが、奇なる哉《かな》神樣には、若い形が多い。少くとも童子に由つて神意を傳へたまふことが多い。ザシキワラシもその現象の一《ひとつ》の場合ではあるまいか。未開時代の人の考《かんがへ》では、敎育や修養に因つて人柄が改良するなどとは思はぬから、所謂若葉の魂の、成るべく煤けたり皺になつたりせぬ新しいものを、特に珍重して利用したのではあるまいか。佛敎でいふ輪𢌞の思想では、魂は蟲や鳥に宿つても同じ魂で、人間《にんげん》に來てから別に成長することも無いとして居るのだから、一日でいへば早旦、一年でいへば正月が結構なやうに、暫く休養して來た新しい魂を上玉(じやうだま)と認めて、出來るならばこれを使はうとしたことが、今日に至る迄、赤兒《あかご》を墓地には送らぬといふ奇風習の、もとを爲して居るのでは無いか。それだとすれば他の亞細亞民族の中に、ぽつぽつ殘つて居る子供を家屋等《とう》の守護者とする手段の、話をするさへ恐しい儀[やぶちゃん注:初出では「儀式」。]などと、遠い昔に於て緣を繫いで居たのかも知れぬ。ザシキワラシが時として火事の前觸《まへぶれ》をするといひ、或は又この災を防ぐ力があると迄思はれたらしいのも、曾ては火を怖れた人がこれを祀つた名殘であつて、すなはちこの怪物の由つて來《きた》る所を暗示するのかも知れぬ。何にしても、死んだ水子《みづこ》の取扱ひ方は、我々の父祖の變つた心持を推定する好い材料である故に、私は又別に赤子塚《あかごづか》の話に於て、人の運と魂との、古い關係を考へて見ようと思つて居る。但し家の中に埋《うづ》めるといふ分《ぶん》はまだ少しも注意して居なかつた。これは佐々木君に賴んで、今後大いに調べて貰はねばならぬ。

[やぶちゃん注:「話をするさへ恐しい儀」本邦の所謂、「間引き」を暗に指している。人為の親の勝手な殺人を逆手にとって、家の守護神に意味づける子殺しの正当化を言っている。但し、縄文の時代から、亡くなった子どもを住居の入口の下に埋葬する民俗習慣はあった。]

 その他オクナイサマとの隱れた關係、オシラサマといふ名前の起り、それからザシキワラシの顏の色の赤いといふこと、小豆がすきだといふこと等、それからそれへと仔細を尋ねて行くならば、今この話を只面白いと思つて讀んで居る人達が、漸く國民といふものを考へねばならぬ時分になつて、顧みてこれ等の書物の存外に深い意味を持つものであつたことを感じ始める頃には、ちつとは我々平民の歷史を知る手掛りにもなるであらう。ちやうど今から十年前に、私が佐々木君の話に據つて遠野物語を書いた時には、誰《たれ》もザシキワラシなどを問題にする者が無かつた。それが現在では、とにかく一團の硏究者が起《おこ》つて、眼を皿のやうにして解決の鍵を搜して居る。而して遠野は佐々木君の力で、學問のための一箇の高千穗峰《たかちほのみね》と爲つたのである。無しといふ返事が來たり、又は丸々に答の來なかつた地方でも、何時かは氷の解けて水草の靑い芽が見えるやうな春が來ぬといふこともあるまい。どうかこの書物を以て、茫洋たる湖上の一扁舟《いちへんしう》として、猶更に處々《しよしよ》の岸に棹《さを》さしたいものである。

 佐々木君が遠く各地を旅行するの餘裕が無くて、ひたすら猿ヶ石川《さるがいしがは》の小盆地ばかりから、有る限りの舊話を搾り取るやうにせられたのは、氣の毒ではあつたが又得がたい好經驗であつた。この一つの物をじつと見詰めるやうな態度は、我々普通の散漫な旅人には、到底望まれぬものであつて、又これでなくては次いで起《おこ》るべき蒐集者の手本とするには足りぬのである。この篇は篇者自ら奧羽民譚集の第二卷と稱して居る。然《しか》らばその是非とも第一卷とせねばならぬ一篇は何であるか。どうか次から次へと相互に脈絡を辿つて、世に隱れたる東北文明の尊《たつと》い起源を明《あき》らめ、我々の靈魂が未だその宿を移さゞる前に於て、鏡に向ふやうにこの國民の、眞面目に對してみたいものである。

 

 (附記)

 この文章は佐々木喜善氏の「奧州のザシキワラシの話」(爐邊叢書)の卷末に書いたものである。

[やぶちゃん注:「オクナイサマ」「オシラサマ」『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九~一六 山中の怪・尊属殺人・老話者・オクナイサマ・オシラサマ・コンセイサマ』の本文及び私の注を参照。

「猿ヶ石川」当該ウィキによれば、『猿ヶ石川(さるがいしがわ)は、岩手県を流れる北上川水系北上川支流の一級河川』。『岩手県遠野市北部の花巻市との境界に位置する薬師岳(標高』千六百四十五メートル『)に源を発し、北上山地を南へ流れる。遠野市中心部で西へと流れを変え、早瀬川や小友川などの支流を合わせ、田瀬湖に至る』。藝材は『北上川』五『大ダムの』一つである『田瀬ダムを経て、花巻市の中心部で本流の北上川に合流する』。『遠野市を中心とした流域は「遠野物語」の舞台となり、河童のすむ川として登場する』とある。最後の部分はここで、左岸の少し離れた小烏瀬(こがらせ)川沿いの「カッパ淵」をポイントした(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 

 

 

    ザシキワラシ (二)

 

 明治四十三年の夏七月頃陸中上閉伊《かみへい》郡土淵《つちぶち》村の小學校に一人のザシキワラシ(座敷童)が現れ、兒童と一緖になつて遊び戲れた。但し尋常一年の小さい子供等の外には見えず、小さい兒がそこに居る此處に居るといつても大人にも年上の子にも見えなかつた。遠野町の小學校からも見に往つたが、やつぱり見た者は一年生ばかりであつた。每日のやうに出たといふ。十七八年ばかり前、遠野の小學校がまだ御倉《おくら》(南部家の米倉)を使用して居た頃、學校に子供の幽靈が出るといふ噂があつて、皆が往つて見たことがあつた。友人にこれを見たといふ人がある。夜の九時頃になると、玄關から白い衣物を着た六七歲の童子が、戶の隙より入つて來て、敎室の方へ行き、机椅子の間などをくゞつて樂しさうに遊んで居たといふ。それも多分ザシキワラシであつたらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「明治四十三年」一九一〇年。

「陸中上閉伊郡土淵村」現在の遠野市土淵町土淵から北部と東部の、土淵町飯豊(いいどよ)土淵町柏崎(かしわざき)・土淵町栃内(とちない)・土淵町山口に当たる広域である。

「小学校」遠野市立遠野小学校(グーグル・マップ・データ)。dostoev氏のブログ『思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の「遠野小学校の座敷ワラシ」で詳細に考証されてある。]

2023/02/21

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ひだる神のこと

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正一四(一九二五)年十一月発行の『民族』初出である。]

 

     ひだる神のこと

 

 三十年も以前に、學友の乾《いぬゐ》政彥君から聞いたのが最初であつた。大和十津川の山村などでは、この事をダルがつくといふさうである。山路をあるいて居る者が、突然と烈しい飢渴疲勞を感じて、一足も進めなくなつてしまふ。誰かが來合せて救助せぬと、そのまゝ倒れて死んでしまふ者さへある。何か僅な食物を口に入れると、始めて人心地がついて次第に元に復する。普通はその原因をダルといふ目に見えぬ惡い靈の所爲と解して居たらしい。どうしてかういふ生理的の現象が、或山路に限つて起るのかといふ問題を考へて見るために、先づ成るべく廣く各地の實例を集めて見たいと思ふ。一旦印刷せられて出て居る記事も、參考のため簡單に列記して、我々の共同の財產にして置かうと思ふ。

 最も古く見えて居る書物は、今知る限りでは柳里恭《りうりきよう》の雲萍雜志《うんぴやうざつし》卷三である。伊勢から伊賀へ越える或峠で、著者自身がこの難に逢つた大阪の藥種屋の注文取を助けた話を載せ、これには餓鬼がつくといふとある。目には見えねど此のあたりに限らず、處々に乞食などの餓死したる怨念、其處に殘り侍るにや云々とある。

 同書には更に附記して、その後播州國分寺の僧に逢つたところが、この人も若い頃、伊豫國を行脚して餓鬼につかれたことがある。それからは用心のために、食事の飯などを少しづゝ紙に包んで持つてあるき、つかれた人があれば遣ることにして居るといつた。

 大和附近の山地には、殊にこの例が多かつたやうに思はれる。和歌山縣誌下卷五八七頁に、或書に曰くと書いて、熊野の大雲取小雲取の山中に、幾らとも知れぬ深い穴が幾つかあつて、それを飢渴穴《がきあな》と呼んで居た。旅する者がこの穴を覗くと、忽ち前に述べたやうな症狀を感ずるとて、或旅僧の實歷談を記して居る。道行く人に敎へられて、口に木の葉を咬みつゝ、漸く十町[やぶちゃん注:約一・九一キロメートル。]ばかりある山寺に驅付けて助かつたとある。

 同じ書には、俗にこれをダニにつかれるといふ。同縣西部の絲我阪《いとがざか》にも、これに似た處があるといふ。絲我の阪は縣道で、相應に人通りある處である。

[やぶちゃん注:「ひだる神」当該ウィキによれば、「饑神」とも書き、『人間に空腹感』や倦怠感(私はこちらが主と聞いているので挿入した)を『もたらす憑き物で、行逢神または餓鬼憑きの一種。主に西日本に伝わっている』。『北九州一帯ではダラシと呼ばれ、三重県宇治山田や和歌山県日高や高知県ではダリ、徳島県那賀郡や奈良県十津川地方ではダルなどと呼ばれる』。『山道などを歩いている人間に空腹感をもたらす悪霊の類をいう。これに憑かれると、歩いている最中に突然にして激しい空腹感、飢餓感、疲労を覚え、手足が痺れたり体の自由を奪われたりし、その場から一歩も進めなくなり、ひどいときにはそのまま死んでしまうこともあるという』。『これに憑かれるとされる場所は大抵決まっており、山道、峠、四辻、行き倒れのあった場所などが多い。土地によっては火葬場や磯でも憑かれるという』(☜これは所謂妖怪の属性に一致はする)。『和歌山県では、熊野の大雲取』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無表記は同じ)・『小雲取』(大雲取越の北。ここ)『(現・東牟婁郡新宮市と那智勝浦町の間)という二つの山のあたりに餓鬼穴』(現在、この位置は不詳)『という深い穴があり、そこを覗くと必ずヒダル神に遭ったという』。『三重県では人間のみならず、牛までヒダル神に憑かれたという』。『また滋賀県甲賀市から伊賀(現・三重県西部)西山に続く御斎峠(おときとうげ)』ここ『では、まだ朝もやの晴れない時刻に、ヒダル神が異様に腹の膨らんだ餓鬼の姿で現れ、旅人の前に腹を突き出して「茶漬けを食べたか」と尋ね、旅人が「食べた」と答えると襲いかかり、その腹を裂いてその中のわずかの飯粒を貪り食ったという』。『そのためにかつては徳川家康も、本能寺の変の際にこの峠を通るのは命がけだったという』。『ヒダル神に憑かれたときには、すぐに何かを食べ物を食べれば身動きできなくなることはないとされ、ヒダル神を防ぐためには前もって十分な量の食糧を持ち歩くと良いという。そのために弁当を持って山道を行く際には、その弁当を食べ尽さずに一口分は残すという心得が伝わっている。僅かの食べ物の持ち合わせもないときには、道端に生えている草を口にすればどうにか助かることができるといい、草すら無いときには掌に指で「米」と書いて舐めても良いという』。『また土地によっては、食べ物を近くの藪に捨てる、身につけている衣類を後ろに投げるという方法も伝わっている』。『愛知県や和歌山県では、木の葉でもいいから口に含むと助かるともいう』。『また高知県、長崎県、鹿児島県などでは「柴折様(しばおりさま)」と呼ばれる祠が峠や路傍に祀られており、ここに折った柴を供えて行くと、その場所を通る人はヒダル神を避けられるといわれている』(リンク先に「淡路島・論鶴羽山の柴折地蔵(柴折様)」の写真有り。但し、小さい)。以下、「解釈」の項。『ヒダル神は餓死者や変死者の霊と考えられており、人知れず死んだ者が祀られることなく周囲を彷徨う怨霊となり、自分が味わった苦しみを他人にも味わわせようとしているのだという。こうして憑かれて死んだ者は同様の怨霊となり、ヒダル神がどんどん増えてしまうという』。『また、ヒダル神を山の神や水神の仕業とする土地もある』。『現代においても主に山間部で、稀にヒダル神に憑かれたという話が伝わっている。一説によると、急激な血糖値の低下や二酸化炭素中毒』(私は所持する雑誌で、この二酸化炭素説を読み、甚だ納得したが、書庫の藻屑となっていて、当該記事を見出せない。発見したら追記する。以前に陸上自衛隊の野外訓練で、山間の窪地で複数の隊員が亡くなる事件があり、その時も二酸化炭素の滞留が原因の一つとして挙げられた新聞記事を読んだ)『がヒダル神に憑かれたときと同じ状態をもたらすといい、植物の腐敗で発生する二酸化炭素』、『または食事を摂らずに山中を長時間歩いたことによる低血糖状態をヒダル神の正体とする説もある』とある。

「乾政彥」「學友」とあるので、二人の生年から、奈良県出身の法学者乾政彦(明治九(一八七六)年~昭和二六(一九五一)年)であろう。第一高等学校・東京帝国大学法科大学を卒業している。

「大和十津川」奈良県吉野郡十津川(とつかわ)村

「柳里恭の雲萍雜志」江戸中期の随筆。四巻四冊。天保一三(一八四二)年に江戸で板行された。文雅人柳沢淇園(きえん)の随筆とされ、明治以来、翻刻も多いが、作者については、なお、疑問が残る。内容は、作者が日常的に聞き及んだ志士・仁人の言行逸話、自家の経歴などを記して興趣に富むが、全体に道徳臭が強く、粋人淇園の面影は見い出せない。序文に、淇園の二十巻に及ぶ原稿を大坂の木村蒹葭堂(けんかどう)が珍蔵し、桃花園某がそれを抜粋、四巻に纏めて成ったことを記してあるが、桃花園及び出版に関係した江戸の雑学者山崎美成(よししげ)が、淇園の名声に付会した偽作であろうとされる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の天保一四(一八四三)年版のこちらを元に電子化する。読みは一部に留めた。句読点は所持する吉川弘文館随筆大成版を一部で参考にし、記号も附した。踊り字は正字化した。

   *

○伊勢より伊賀へ越(こゆ)る道にて、予がゆくあとより、一人(ひとり)の男、いそぎ來りていふやう、「われら、大坂の者なり。過(すぎ)こし道にて、餓鬼に附かれしにや。飢(うゑ)て一足も進み申さず。大いに難澁におよべり。何なりとも、食類(しよくるゐ)の御持合(おもちあは)せあらば、少しにても給はり候へかし。」と、いへり。予、『心得ぬ事を申(まをす)もの哉(かな)。』とはおもヘど、旅中、別に食類のたくはへもなければ、刻み昆布(こぶ)のありしを、「これにても、よろしきにや。」と、とらせけるに、大いによろこびて、直(すぐ)に食(しよく)したりき。予、問(とふ)、「餓鬼のつくとは、いかなるものにてあるぞ。」と、いへば、こたへて云(いふ)、「目には見えねど、此あたりに限らず、ところどころにて、乞食など餓死したる怨念、そのところに殘り侍るにや。その念、餓鬼となりて、通行(つうかう)の者にとり附(つき)侍るなり。これにつかるゝ時は、腹中(ふくちゆう)、しきりに飢(うゑ)て、身に氣力なく、步行も出來がたき事、われら、度々なり。」と、いへり。此もの、藥種を商ひ、諸國に注文を取りに、つねづね、旅行のみ、せし、とぞ。世には、さやうの事もあるものにや。他日、播州國分寺の僧に尋ねけるに、この僧、申けるは、「われ、若輩のころ、伊豫にて餓鬼につかれたる事、あり。よりて、諸國行脚せしをりは、食事の時に、飯を少しづゝ取りおき、それを紙などへつゝみて、袂に入れ置(おき)、餓鬼につかれたる時、遣(つかは)すためなり。」と、いへり。心得がたき事にぞありける。

   *

「大和附近の山地には、殊にこの例が多かつたやうに思はれる。和歌山縣誌下卷五八七頁に、或書に曰くと書いて、熊野の大雲取小雲取の山中に、幾らとも知れぬ深い穴が幾つかあつて、それを飢渴穴と呼んで居た。旅する者がこの穴を覗くと、忽ち前に述べたやうな症狀を感ずるとて、或旅僧の實歷談を記して居る。道行く人に敎へられて、口に木の葉を咬みつゝ、漸く十町ばかりある山寺に驅付けて助かつたとある」この「或書」については、この記事を読んだ南方熊楠が、翌大正一五(一九二六)年三月発行の同じ『民族』に掲載した論考「ひだる神」(この注のために、先ほど、新字新仮名で電子化した)で、「諸国里人談」(私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終わっている。)で知られる俳人で作家の菊岡沾涼(せんりょう)の「本朝俗諺志」(延享三(一七四六)年板行)であることを明らかにしている。熊楠のその論考の私の注で原本の当該部もリンクさせておいた。「和歌山縣誌下卷」(大正三(一九一四)年刊)「五八七頁」は国立国会図書館デジタルコレクションのここの「雲取の穴」で当該部が視認出来る。後の「ダニ」の話は、その最後の割注であることも判る。

「絲我阪」「ジャパンナレッジ」の「日本歴史地名大系ジャーナル」の「地名拾遺13」の「第20回 糸我坂 【いとがざか】」に地図入りで詳しい解説がある。]

 ダニとあるのは聞《きき》誤りかも知れない。森彥太郞君の南紀土俗資料方言の部に、山路などあゆみて疲憊するをダリつくといふとあり、又日高郡山路(さんぢ)の山村に於て、ダリにつかれた時は、米といふ字を手掌《てのひら》に書いて嘗めるまじなひのあることを、同書俗信の條に記して居る。

[やぶちゃん注:「森彥太郞君の南紀土俗資料」「Googleブックス」で同書を視認したところ、二八八ページに、

   *

だ  り (だれ)山路など步みて疲憊するをだりつくといふ。

   *

とあった。太字は原本では「◦」傍点。作者の事績は判らないが、民俗学以外に言語学に詳しい方でもあるようだ。

「日高郡山路(さんぢ)の山村」この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 大和の方では又、宇陀《うだ》郡室生寺の參詣路、佛隆寺阪の北表登り路《みち》中程に、ヒダル神のといつくといふ箇處のあることを、高田十郞氏の一人雜誌「なら」第二十七號の奧宇陀紀行にのせて居る。その難に遭つた者を見たので無いが、そこに文久三年[やぶちゃん注:一八六三年。徳川家茂の治世だが、攘夷が叫ばれた年である。]に建てた供養塔があり、法界萬靈《ほふかいまんりやう》の文字の下に、十六字の偈と一首の歌が刻してある。

   まこゝろに手向けたまへば淺はかの水も千ひろの海とこそなれ

   摩尼山下 溪水津々 若供一杓 便是至仁

 今でも食物を持たずに腹をへらして通ると、ヒダル神が取憑いて一足も動けなくなる難所だといつて居る。

[やぶちゃん注:「室生寺の參詣路、佛隆寺阪の北表登り路」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「高田十郞」(明治一四(一八八一)年~昭和二七(一九五二)年)は民俗学者・随筆家。事績は雑誌「なら」の集成本のパンフレットPDF)を見られたい。

「法界萬靈」「法界」は仏教で「真理の世界・全宇宙」を指し、「萬靈」は「生きとし生ける衆生」を指す。しばしば無縁仏を合葬したものにこの塔名が使われる。この塔、現存するかは不詳。

「摩尼山下 溪水津々 若供一杓 便是至仁」「まにさんか けいすいしんしん じやくぐいつしやく びんぜしじん」「摩尼山」は和歌山県伊都郡高野町の高野山にある標高千四メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。「津々」は「溢れ出るさま・絶えず湧き出るさま」を言う。以下の二句は我流で「若(も)し、一杓(いつしやう)を供ふれば、便(すなは)ち、是れ、仁(じん)に至る」と訓じておく。]

 遙かに懸《かけ》離れた長崎縣の溫泉嶽《うんぜんだけ》の麓にも、同じやうな道の災ひを言ひ傳へた地方があつて、そこではこれをダラシと呼ぶさうである。故井上圓了氏の「於《お》ばけの正體」といふ書に、讀賣新聞の記事を引用して、ある學生がこの山の字《あざ》小田山といふ處から降《くだ》つた辻といふ阪路《さかみち》で、一人の被害者を救ひ、後に冬休《ふゆやすみ》で再びそこを過ぎた時、自分も亦ダラシにかゝつた話を揭げて居る。動かうとすれば少しも手足が動かず、休んで居ると別に苦痛は無かつた。何か食物を携へて居ればこの難が無いといふが、或年には鰯賣りの男が、鰯の荷の側で昏倒して居た例もあるといふ。

[やぶちゃん注:『井上圓了氏の「於ばけの正體」』大正三(一九一四)年七月初版。国立国会図書館デジタルコレクション等にはないが、幸い、私は柳田國男のように彼を嫌っておらず、柏書房刊の「井上円了・妖怪学全集」を所持しており、その第五巻(二〇〇〇年刊)の「第七〇項」の「高山の妖怪病」がそれである。新字新仮名であるが、それを以下に電子化しておく。〔 〕は編者注。読みは一部に留めた。

   *

       第七〇項 高山の妖怪病

 世間にて高山に登るときに、神経麻痺して手足も動かぬようになり、気絶してたおるることがある。これを天狗に襲われたとか、魔に触れたとか、地方によっていろいろの名称を与え妖怪の所業に帰するも、その実、平地と高山とは気象も気圧も異なるために、その影響を神経に及ぼして起こるに相違ない。ここに長崎県下の温泉(うんぜん)山〔雲仙岳〕の実験談を、『読売新聞』の記事を借りて紹介しよう。長崎県にては、この状態にかかることを「だらし」と呼ぶ由。

[やぶちゃん注:以下、底本では「云云。」まで全体が二字下げ。]

 古来、温泉山に登るときは、必ず摶飯(にぎりめし)と梅干しとを携うべし。梅干しは霧を払うの妙薬にして、摶飯は「だらし」を予防するがためなりとの言い習わしあり。「だらし」とは一種の妖怪的飢餓病とのみあって、いまだこれを明白に実験したる者あらざりしが、長崎高等学校医学部生徒某氏は自らこれを実験し、また他人がこの怪病にかかるを見たりという。今その話を聞くに、右の学生はこのころ暑中休暇を得て帰村せんと  する途次、右の村[やぶちゃん注:旧温泉(うんぜん)村。]と小浜村との間なる山中字(あざ)小田山の頂上、矢筈の下手辻と称する坂道において、一人の男、野に倒れおるを見たり。その男、学生を見るより幽かな声にて、「『だらし』にかかりて困りおるゆえ、摶飯あらば賜れ」という。学生はかねて「だらし」のことを聞きおるをもって、用意の摶飯を与えけるに、男は喜びてこれを食し終われば、間もなく力付きて馳せ下れり。さて、右の学生が実験したるは、その後のことにて、冬季休業のため帰村せんとて、右の山道に来かかりしに、たちまち空腹となり、ひもじさいや増して、身体の疲労尋常ならず。于足しびれてすくみたるがごとく、ちょっとも動けず。強いて足をあぐれば、その重さ千鈞(きん)[やぶちゃん注:中国古代の重さの単位。三〇斤。一鈞は周代で七・六八キログラムであるが、ここは異常な重さの比喩。]をひくがごとく、手を動かせば、縛られたるに似たり。困(こう)じ果てて石に腰打ちかくれば別に苦痛も感ぜざるが、立てば身の重さ少しも減ぜず。進退ここにきわまりながら叫べども応ずる人なきに、ぜひなくはうがごとく〔に〕坂を攀(よ)じ登りはじめたるが、たちまち昏絶倒臥(こんぜつとうが)して死生を弁ぜざるもの十数分、その前は時候にも似ず全身すこぶる熱暖なりしが、このときに至り、はじめて野嵐の冷え渡るを覚えて目をさまし、それより千辛万苦して、わずかばかり離れたる横道の茶店にたどりつき、蕎麦数椀食したれば、身心はじめてわれにかえり、寒さも相応に感ずるごとくなりて、まずつつがなく郷里に帰着したり。これすなわち「だらし」に取りつかれたるものなるが、里俗には、なにか食物を携えおればこの魔にかからずといえど、実際においては、鰯売りの男が鰯の傍らに昏倒したる例あり。その他、数人の同行者が一時におかされたるの例あり。結局は空腹に乗じて、人体内に一種強力の麻痺を与うる空気のためなるべし、云云。

 この実験談に照らすに、空腹のときに多く起こるは、高山の空気の人身に影響せること明らかである。これ温泉山に限るにあらず、諸国の高山には往々聞くことである。

   *

「小山田」叙述からこの附近と推定出来る(グーグル・マップ・データ)。]

 同じ地方の實例の最も具體的なものが四つ以上、本山桂川《もとやまけいせん》君の編輯して居た「土の鈴」第四號に出て居る。同じく溫泉嶽の周圍ではあるが、南高來《たかき》郡愛野村から島原の城下へ行く岩下越《いはしたごえ》の峠附近とあつて、前のとは別の地點かと思はれる。室生の例の如く精確に一つの地點とはきまつて居なかつたやうである。これもダラシといひ、これにつかれると軀中がだらしなくなるといつて居るが、突然手足がしびれ力が無くなり、冷汗が出て腹がこはばる。又は腹を抑へてアイタアイタといひながら來る者を見たともあつて、前の學生の實驗とは少しの相異がある。僅の食物の食ひ殘りを近い藪の中へ投げたら治つたともある。以前旅人がこの邊で餓死し、その魂が附近に留つて居るともいひ、又かつて此處で首を釣つて死んだ者があるともいふ。米の字を手掌に書いて、嘗めるとよいといふのも紀州に似て居る。

 右の如く名稱は各地少しづゝの差があるが、便宜のために分り易いヒダル神の名を用ゐて置く。少しでもこれに近い他の府縣の實驗談と、若しこの間題を記載した文獻があるならば報告を受けたい。理由又は原因に關しても意見のある方は公表せられたい。これだけは既に世に現れた材料であつて、自分はまだ特別の硏究を始めたわけではない。

[やぶちゃん注:「本山桂川」(明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)は民俗学者・文学碑研究家・文筆家。本名は豊治。長崎市出島町出身。早稲田大学政治経済科卒。民俗及び民芸の研究に従事し「日本民俗図誌」全二十巻や「生活民俗図説」などの著書がある。戦後は金石文化研究所を主宰した。その他、実用書を含めて多種多様な著作がある。

「岩下越」現在の雲仙市愛野町はここで、「島原へ行く」では、限定のしようがない。]

南方熊楠「ひだる神」(新字新仮名)

 

[やぶちゃん注:現在、電子化注中の柳田國男の「妖怪談義」の「ひだる神」に必要になったので、電子化する。但し、これは国立国会図書館デジタルコレクション等で原記載を見ることが出来ないことから、底本として所持する平凡社「南方熊楠選集4」(一九八四年刊)にある新字新仮名のそれで電子化しておく。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集3」(雑誌論考Ⅰ))にあるものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 ルビは底本が古いので拗音・促音がないが、勝手に処理した。急遽の挿入となるので、注はごく一部に留めた。]

 

   ひ だ る 神

           柳田国男「ひだる神のこと」参照
           (『民族』一巻一号一五七頁)

 ここに『和歌山県誌』から、ある書にいわく、云々、と引いたは、菊岡沾涼の『本朝俗諺志』で、本文は、「紀伊国熊野に大雲取、小雲取という二つの大山あり。この辺に深き穴数所あり、手ごろなる石をこの穴へ投げ込めば鳴り渡りて落つるなり。二、三町があいだ行くうち石の転げる音聞こえ鳴る、限りなき穴なり。その穴に餓鬼穴というあり。ある旅僧、この所にてにわかにひだるくなりて、一足も引かれぬほどの難儀に及べり。折から里人の来かかるに出あい、この辺にて食求むべき所やある、ことのほか飢え労(つか)れたりといえば、跡の茶屋にて何か食せずや、という。団子を飽くまで食せり、という。しからば道傍の穴を覗きつらん、という。いかにも覗きたりといえば、さればこそその穴を覗けば必ず飢えを起こすなり、ここより七町ばかり行かば小寺あり、油断あらば餓死すべし、木葉を口に含みて行くべし、と。教えのごとくして、辛うじてかの寺へ辿りつき命助かる、となり」とある。

[やぶちゃん注:「ここ」底本の割注に柳田國男の「ひだる神」の記事(『民族』一巻一号一五七頁)を指すことが記されてある。

「菊岡沾涼の『本朝俗諺志』」早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本(PDF第二巻一括版)で当該部(「三之巻」の「七」の「紀州雲取穴(きしうくもとりのあな)」で、56コマ目)が視認出来る。]

 予、明治三十四年冬より二年半ばかり那智山麓におり、雲取をも歩いたが、いわゆるガキに付かれたことあり。寒き日など行き労れて急に脳貧血を起こすので、精神茫然として足進まず、一度は仰向けに仆れたが、幸いにも背に負うた大きな植物採集胴乱が枕となったので、岩で頭を砕くを免れた。それより後は里人の教えに随い、必ず握り飯と香の物を携え、その萌(きざ)しある時は少し食うてその防ぎとした。

[やぶちゃん注:「明治三十四年」一九〇一年。南方熊楠は、この十月末に勝浦に向い、長期に亙る南紀植物調査を開始した。]

『俗諺志』に述べたような穴が只今雲取にありとは聞かぬが、那智から雲取を越えて請川(うけがわ)に出で川湯という地に到ると、ホコの窟というて底のしれぬ深穴あり。ホコ島という大岩これを蓋(おお)う。ここで那智のことを咄(はな)せば、たちまち天気荒るるという。亡友栗山弾次郎氏方より、元日ごとに握り飯をこの穴の口に一つ供えて、周廻を三度歩むうちに必ず失せおわる。石を落とすに限りなく音して転がり行く。この穴、下湯川とどこかの二つの遠い地へ通りあり。むかしの抜け道だろうと聞いた。栗山家は土地の豪族で、その祖弾正という人天狗を切ったと伝うる地を、予も通ったことあり。いろいろと伝説もあっただろうが、先年死んだから尋ぬるに由なし。この穴のことを『俗諺志』に餓鬼穴と言ったでなかろうか。

 また西牟婁郡安堵峰辺ではメクラグモをガキと呼ぶ。いわゆるガキが付くというに関係の有無は聞かず。

      (大正十五年三月『民族』一巻三号)

[やぶちゃん注:「川湯」恐らくこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「メクラグモ節足動物門鋏角亜門蛛形(クモガタ)綱ザトウムシ目 Opilionesに属する種群を指す。クモに似ているが、近縁ではなく、特徴も大きく異なる。明瞭な違いとしては、ザトウムシの体の前体と後体は密着し、全体として豆粒のように纏まっており(クモの前体と後体の間は顕著にくびれている)、「メクラグモ」という旧称に反して、殆んどのザトウムシは一対の機能性能のある単眼を持っている(ウィキの「ザトウムシ」に拠った)。]

【追記】

 予、那智辺におった時ガキに付かるるを防ぐとて、山行きごとに必ず握り飯と香の物を携え、その萌しあれば少しく食うて無難を得た由はすでに述べた。これに似たこと、一九二三年ケンブリッジ板、エヴァンズの『英領北ボルネオおよびマレイ半島の宗教俚伝風俗研究』二七一と二九四頁に出ず。マレイおよびサカイ人が信ずるは、食事、喫煙等を欲しながらそれを用いずに森に入ると、必ず災禍にあう。望むところの食事、喫煙を果たさずに往って、蛇、蠍(さそり)、蜈蚣(むかで)に咬まれずば、まことに僥倖というものだ。これをケムプナンと呼び、ひだるいながら行くという意味だ。かようの時は、自分の右の手の中指を口に入れて三、四度吮(す)えば災に罹らぬ、とある。

[やぶちゃん注:「サカイ人」小学館「日本大百科全書」の「サカイ」に『マレーシア、マレー半島に住む先住民、とくにマレー半島中央部山岳地帯の民族集団セノイに対し、マレー人や中国人が用いた「奴隷」の意の蔑称』で、『かつては民族名として採用されていた。現在、マレーシア政府は、先住民の総称としてオラン・アスリ(マレー語で「土着の人」の意)を用いている』とあり、同事典の「サカイ語」には、『マレー半島中部に分布する少数民族の言語。中央サカイ語(セマイ語)、東サカイ語(ジャフット語)、北サカイ語(テミアル語)などの方言に分かれ、近隣のセマング語(ジャハイク語)、セムナム語などとともにセノイ語群を形成し、オーストロアジア語族の支族であるモン・クメール語族に属する。使用人口はセノイ語群全体で約』三『万人くらいと推定されている。接辞による語形成を行う。なお、サカイ、セマングという民族名は蔑称』『のため』、『現在では使用されず、それぞれ前述の括弧』『内の名称でよばれる』とある。]

 松崎白圭の『窓のすさみ追加』下に、柔術の名人が、近所に人を害して閉じ籠った者を捕えよと、その妻が勧めても出てず、強いて勧めてのち、しからば食を炊ぐべし、食気なくては業(わざ)をなしがたしとて、心静かに食事してのち押し入りて、初太刀(しよだち)に強く頸を切られながらその者を捕えた、と記したごとく、腹がたしかでないと注意不足して種々の害にあうのである。

    (大正十五年七月『民族』一巻五号)

【増補】

 道中で餓鬼に付かるるということ、もっとも古く見えた文献は、『雲萍雑志』である(『民族』一巻一号一五七頁)と言われたが、それと予が引き出した『本朝俗諺志』(『民族』一巻三号五七五頁)と、いずれが古いか。ふたつながら予の蔵本にこれを書いた年を記しおらぬから、見当がつかぬ。

[やぶちゃん注:「雲萍雜志」は天保一三(一八四二)年の板行で、「本朝俗諺志」はそれより九十六年も前の延享三(一七四六)年である。

 また紀州有田郡糸我坂にこのことあるというについて、糸我坂は県道で、相応に人通りある処であると言われたが(『民族』一巻一号一五七頁)、明治十九年、予がしばしばこの坂を通ったころまでは、低い坂ながら水乏しく、夏日上り行くに草臥(くたび)れはなはだしく、まことに餓鬼の付きそうな処であった。和歌山より東南へ下るに藤白の蕪坂を越え、日高郡より西北へ上るに鹿ヶ瀬峠を越えてのち、労れた上でこの糸我坂にかかる。そんな所でしばしば餓鬼が付いたものと見える。

[やぶちゃん注:以上の坂はこの附近(グーグル・マップ・データ)である。]

 さて、この発作症をダリと呼ぶことも文献にみえぬでない。安永四年[やぶちゃん注:一七七五年。]に出た近松半二、栄善平、八民平七の劇曲『東海道七里渡』第四段、伊勢亀山の関所を種々の旅人が通るところに、奥州下りの京都の商人、「なるほどなるほど、仙台へ下りし者に相違もあるまじ、通れ通れと言えど答えず、体(たい)を縮め、大地にどうと倒れ伏す。こは何故と番所の家来バラバラ立ち寄りて、みれば旅人の顔色変じ、即死とみえたる、その風情、和田の今起、声をかけ、まてまて家来ども、旅人が急病心得ず、篤(とく)と見届け薬を与えん、イデ虚実を窺いえさせんと、静々と歩みより、フウ六脈(りくみやく)たしかに揃いしは、頓死にてはよもあるまじ、しかし、この腹背中へ引っつきしは心得ず、オオそれよ、思い当たりしことこそあれ、唐土(もろこし)斉の王死して餓鬼の道に落ち、人に付いて食事を乞う、四国の犬神(いぬかみ)に同じ、この病神をさいでの王と号す、俗には餓鬼ともいい、だりともいう、この旅人にも食事を与えば立ちどころに平癒せん、ソレソレ家来ども、飯を与えよ、早く早くと、その身は役所に立ち帰り、窺う間に家来ども、もっそう飯(めし)を持っていで、旅人の前に差し置けば、不思議なり奇妙なり、伏せたる病人ゆるぎおき、アア嬉しやな有難(ありがた)や、このころ渇せし食事にあい、餓鬼道の苦患(くげん)を助からんと、すっくと立ちて、そもそも餓鬼と申すは申すは、腹はぼてれん太鼓のごとく、水を飲まんとよろばい守れば、水はたちまち火焰となって、クヮックヮッ、クヮクヮクヮックヮ、クヮクヮックヮクヮ、クヮックヮラクヮノクヮ、かの盛切りの飯取り上げ、一口食ってはあらあら旨(うま)や、あら味よやな、落ちたる精力、五臓六府の皮肉に入りて、五体手足(しゅそく)はむかしに違わず、鬼もたちまち立ち去るありさま目前に、みるめ、かぐ鼻、関所の役人、皆皆奇異の想いをなし、呆れ果てたるばかりなり。和田の今起、声をかけ、コリャコリャ旅人、病気はいかに、ハイこれはこれは、先ほどよりにわかにひだるうなりますと、とんと正気を失いましたが、只今御飯を下さるとたちまち本性(ほんしょう)、全くこれはあなた様方のお蔭、エお有難う厶(ござ)ります、と一礼述べて急ぎ行く」とある。餓鬼に付かれたありさまを、よく備(つぶ)さに記述しあるから、長文ながら全写した。

 さて、この餓鬼が人に付くということ、仏典にありそうなものと見廻したところ、どうもないようだが、やや似たことがある。元魏の朝に智希が訳出した『正法念処経』一六に、「貪嫉(たんしつ)心を覆い、衆生(じゅじょう)を誣枉(ふおう)し、しかして財物を取る。あるいは闘諍(とうそう)を作(な)し、恐怖して人に逼(せま)り、他(ひと)の財物を侵す。村落、城邑において他の物を劫奪(きょうだつ)し、常に人の便を求めて劫盗(きょうとう)を行なわんと欲す。布施を行なわず、福業を修めず、良友に親(ちか)づかず。常に嫉妬を懐(いだ)いて他の財を貪り奪う。他の財物を見れば、心に惡毒を懐く。知識、善友、兄弟、親族に、常に憎嫉を懐く。衆人これを見れば、みな共にこれを指して弊悪の人となす。この人は、身壊(やぶ)れて悪道に堕ち、蚩陀羅(しだら)餓鬼の身を受く(蚩陀羅は、魏にては孔穴(あな[やぶちゃん注:二字へのルビ。])と言い、義には伺便[やぶちゃん注:「便宜を待つ」の意。]という)。遍身の毛孔より自然(おのずから)に火焰(ほのお[やぶちゃん注:二字へのルビ。])たち、その身を焚焼[やぶちゃん注:「ふんしょう」。]し、甄叔迦(しんしゆくか)樹の花盛りの時のごとし(この樹の花は赤きこと火の聚(かたまり)の色のごとし、もってこれに喩う)。飢渇の火、常にその身を焼くがために、呻(うめ)き号(さけ)び悲しみ叫ぶ。奔突して走り、飲食を求索め[やぶちゃん注:「もとめ」と訓じていよう。]、もってみずから済(すく)わんと欲す。世に愚人あり、塔[やぶちゃん注:仏塔(ストゥーパ)。仏教の比喩。]に逆らいて行き、もし天廟を見れば順行恭敬す。かくのごとき人には、この鬼は便(てがかり)を得て人身の中に入り、人の気力を食らう。もしまた人あり、房に近づき穢(え)を欲すれば、この鬼は便を得てその身中に入り、人の気力を食らい、もってみずから活命す。自余(じよ)の一切は、ことごとく食らうを得ず(下略)」と出ず。この人の気力を食らうというが、邦俗いわゆる餓鬼が付くというに一番近いようだ。

      (昭和二年七月『民族』二巻五号)

[やぶちゃん注:この直後に電子化注した『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ひだる神のこと』も一緒に必ず参照されたい。]

2023/02/20

サイト版坂口安吾「ふるさとに寄する讃歌」正規表現版へ完全リニューアル+縦書PDF公開

悲願であった坂口安吾の名品「ふるさとに寄する讃歌 ――夢の總量は空氣であった 」を処女作品集を底本として、正規表現で完全にリニュアールし、序でに、PDF縦書版も公開した。

                                        

大手拓次譯詩集「異國の香」 「緣(ふち)」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。標題のルビ(「憑」のみ附されてある)はみっともない感じがするので上付きにした。【二〇二三年三月十七日追記】詩篇にミス・タイプがあったのを修正し、また、注に重要な追加を行った。

 

  (ふち)  ボードレール

 

うつくしい緣(ふち)が繪につけくはへるやうに、

その繪がどんなにほむべき筆づかひであらうとも、

わたしは無限の自然からはなれては、

不思議も恍惚もあらうとは思はない。

 

それとひとしく、 寳玉(ビジウ)も、 裝飾品(ムーブル)も、 メタルも金箔(ドリユール)も、

かの女(ぢよ)のたぐひない美しさにしつくりあてはまるとはおもはない、

彼女のまどかなる玲瓏をかくすものは何ひとつとしてなく、

ただすべては緣飾(ふちかざ)りとなつてつかへてゐるやうに見えた、

 

それにまた、 だれもみんな自分を愛さうとしてゐのだといふ、

彼女は繻子やリンネルの接吻(ベエゼ)のなかにひたつた、

 

彼女の美しい裸躰は身ぶるひにみちて、

そして、 おそく或はすみやかに彼女のひとつびとつの動作は

猿(サンジユ)のやうな子供らしい愛嬌をふりまく。

 

[やぶちゃん注:本篇は実際には単独の詩篇ではなく、四パートから成る総標題‘Un Fantôme’ (「ある幽霊(亡霊)」或いは「ある幻想」)の第三篇である。全体は‘I  Les ténèbres’(「闇」)・‘II  Le Parfum’(「香(こう)」)・III  Le Cadre’(「額縁」)・‘IV  Le Portrait’ (肖像)から成るものである。原子朗「定本 大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)の一八八~一八九ページに拓次の訳出したボードレールの『悪の華』からの詩篇リストがあるが、それによれば(そこでは総標題は「幻想」と訳されている)、原詩の内、拓次は実はこの詩篇を「Ⅰ 暗黑」・「Ⅱ 香氣」・「Ⅲ 緣」と訳しながら、「Ⅳ」は訳していないとする。ここでは、‘III  Le Cadre’のみの原詩をフランス語のサイト「Le cadre de Charles BAUDELAIRE dans 'Les Fleurs du Mal' 」のこちらから引く。

   *

 

   Le cadre   Charles Baudelaire

 

Comme un beau cadre ajoute à la peinture,

Bien qu’elle soit d’un pinceau très vanté,

Je ne sais quoi d’étrange et d’enchanté

En l’isolant de l’immense nature,

 

Ainsi bijoux, meubles, métaux, dorure,

S’adaptaient juste à sa rare beauté ;

Rien n’offusquait sa parfaite clarté,

Et tout semblait lui servir de bordure.

 

Même on eût dit parfois qu’elle croyait

Que tout voulait l’aimer ; elle noyait

Sa nudité voluptueusement

 

Dans les baisers du satin et du linge,

Et lente ou brusque, à chaque mouvement

Montrait la grâce enfantine du singe.

 

   *

「寳玉(ビジウ)」原詩の“bijoux”(音写は「ビジュゥ」)は「宝石」の意。

「裝飾品(ムーブル)」同前で“meubles”(「マームブ」)は「調度・家具」。

「メタル」“métaux”(メトゥ)は「金属」であるが、ここは前を受けて装飾用の金銀等で出来た豪華な「金具」の意でよかろう。

「 金箔(ドロユール)」 “dorure”(「ドロュール」)は「金箔」「金鍍金」の意。

「繻子」「しゆす(しゅす)」と読む。精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表われているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。「サテン」。原詩の“Satin”がそれ。但し、フランス語では音写は「サァタン」に近い。

「リンネル」“linge”(「ラーンジュ」)で、「家庭用布類」「ホーム・リネン」のこと。

「接吻(ベエゼ)」“baisers”(「ベェズイ」)。ドイツ語の同義の“baiser”は、しばしば、「ベエゼ」「ベーゼ」とカタカナ書きするのが普通だが、実際のドイツ語では「ビィズィ」に近い。

「猿(サンジユ)」“singe”(「サーンジュ」)。「猿・雄猿」。

 なお、堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の本篇(堀口氏の標題訳は「或る幽靈」である)の訳者註には、本篇全体は雑誌『『藝術家』一八六〇年十月十五日號に發表』とし、既に述べた『ジャンヌ・デュバル詩篇』としつつ、『この年デユヴァルはアルコールの過飲から激しいリューマチスにかかつて動けなくなりデュボア慈善病院に入院治療した。この詩はその不在の間の作だらうと見られてゐる』ある。

 さて、原子朗「定本 大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)の「補章」の「1 訳詩をめぐって」の三七四~三七五ページには、初出形が示されてあるのだが、これが以上のものとは大きく異なるのである。その前振りで、原氏は、『この拓次訳「縁」は現存する自筆草稿によれば大正三』(一九一四)『年八月十一日』(満二十六歳。大早稲田大学英文科卒業後三年目であるが、就職せず、困窮の中で作詩していた)『に成ったことが日付けの記入によって明らかだが、最初「枠」と訳した題名を「縁」にあらため、北原白秋の主宰する「地上巡礼」の大正四年一月号に、ほか八篇とともに(訳詩五篇、創作詩四篇)発表している』として、以下にその初出形(多分、その自筆原稿)が示されてある。以上の本篇の漢字表記に従って恣意的に正字化したものを以下に示す。太字は底本では傍点である。本詩集のそれとは、大いに異なるので注意して読まれたい

   *

 

  緣(ふち)  ボードレール

 

うつくしい緣(ふち)が繪につけくはへるやうに、

その繪がどんなにほむべき筆づかひであらうとも、

わたしは無限の自然からはなれては、

不思議も恍惚もあらうとは思はれない。

 

それとひとしく、 寳玉(ビジウ)も、 裝飾品(ムーブル)も、 メタルも金箔(ドリユール)も、

かの女(ぢよ)のたぐひない美しさにしつくりあてはまるとはおもはない。

彼女がまどかなる玲瓏をかくすものは何ひとつとしてなく、

ただすべては緣飾りとなつてつかへてゐるやうに見えた。

 

それにまた、 だれもみんな自分を愛さうとしてゐのだといふ、

彼女の所信を世人はをりふし噂にのぼらすだらう。

彼女は繻子やリンネルの接吻(ベエゼ)のなかにひたつた、

 

彼女のうつくしい裸躰は身ぶるひにみちて、

そして、 おそく或はすみやかに彼女のひとつびとつの動作は

猿(サンジユ)のやうな子供らしい愛嬌をふりまく。

 

   *]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 狐の難產と產婆

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここ。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和三(一九二八)年九月発行の『民族』初出である。]

 

     狐の難產と產婆

 

 古い話が新しい衣裳を着て、今でもまだその邊をあるいて居る。これはそのたつた二つの例である。

 一つは五六年前といふ。筑後渡瀨《わたせ》驛に開業する產婆、深夜に見知らぬ家に招かれて車で行つた。使の者は三十前後の商人體《てい》で、非常な早口の男であつたといふ。鷄鳴の頃にやつと產があり絹布の夜具にねかされてとろとろとしたと思ふと、江の浦街道の路傍の藁の中に寢て居た。但し枕元には紙に包んで、新しい本物の五圓札があつた。

 今一つは三十年前の因幡鳥取市での話。市中で有名な產婆が、これは駕籠で迎へられて一里ばかり郊外の立派な家に往つた。非常な難產であつたが漸くすみ、山を下り野を行くやうな感じをして、又送られて駕籠で還つて來た。翌朝緣の外に見事な雉子が二羽、その次の朝は鳩とか鶉とか、鳥ばかりの贈物が一月近くも每朝續いた。產婦の家もどう考へて見てもありさうに思はれなかつた。狐の家に相違ないといふ評判であつた。

 こんなタワイも無い話は幾ら集めても仕方が無いやうなものだが、土地と話手のかはるに伴なうて、少しづゝの變化はある。それを重ねて見て注意すれば、末には必ずどうして始まつたかゞ知れる筈である。場所と人名などの判明したものを、出來るだけ多く集めて置きたいと思ふ。

[やぶちゃん注:「筑後渡瀨驛」現在の福岡県みやま市高田町濃施にある鹿児島本線の渡瀬駅附近(グーグル・マップ・データ)。]

原民喜作品集『焰』原本による再校正開始

カテゴリ「原民喜」で、2017年に電子化注した原民喜作品集『焰』の恣意的正字化版があるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で原民喜作品集『焰』(昭和一〇(一九三五)年三月二十九東京印刷版發行・白水社發賣・私家版)の画像を入手出来たので、本日より校正を開始した。

2023/02/19

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 團三郞の祕密

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和六(一九二一)年六月発行の雑誌『東北の旅』初出である。]

 

     團 三 郞 の 祕 密

 

 先だつて八戶へ遊びに行つた時に、小井川潤次郞君から耳よりな話を聽いた。あの市の周圍の村には幾處となく、隱れ里の傳說が分布して、昔は賴むと膳椀を貸してくれた。その返却を怠つたので貸さなくなつたといつて、古い道具の一部を持傳へて居る舊家も少なくないといふことである。私が始めて椀貸元の話を書いた頃には、これはまだ算へるほどの一致であつたが、今では全く無いといふ土地が却つて珍しい位に方々で發見せられて居る。しかし三戶郡の異例は、かたまつて數多くその遺跡が有ることゝ、今一つはダンズといふ地名であつた。小井川氏は曰く、この膳椀を貸したといふ淵や池の邊には、必ずといつてもよいほどダンツカアラ、もしくはダンズといふ地名が存する。他の場處にはまだ氣がつかぬから、これが何か傳說と緣のある語では無いかといふ意外なことだが誠に大切な手掛りである。他の地方の椀貸し口碑にも、果してこの地名を伴なふ例ありや否や。或は又何かこの語を說明するやうな別の話でもあるかどうか。この答が得られたら我々の硏究は躍進すると思ふ。

[やぶちゃん注:所謂、柳田國男が拘った「椀貸伝説」である。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里』(十五回分割)で言及している。

「小井川潤次郞」(明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)は民俗学者・郷土史家。青森県八戸十六日町生まれ。昭和三(一九二八)年に『八戸郷土研究会』を結成、翌年より本書で既出の地方紙『奥南新報』などで会員とともに次々と民俗採集記事や論考を発表し、それらに注目した柳田國男・折口信夫。佐々木喜善らと交流した。昭和一〇(一九三五)年には『民間伝承の会』(後の『日本民俗学会』)の創立に参加している。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]

 しかし自分のこれに就いて、聯想し得ることは僅しか無い。佐渡には二つ山の團三郞といふ狸の大家族が居て、金《かね》を貸して居たといふ話がある。金山隆盛の數百年の間に、自然に落ちこぼれた財貨を拾ひ集めて、相川河原田の中間の山奧に、狸が長者のやうな暮しをして居たといふのである。島の方では醫者が招かれて往つて外科の療治をしたの、產婆が子を產ませてやつて莫大の禮を受けたのといふ、他の地方でもよく聽く話が記錄せられて居ないが、越後の方の地誌には却つて奇拔な傳へがある。今でもこの海岸から佐渡ヶ島を望むと、ちやうど二つ山の上あたりに絕えず彩雲のたなびくを見る、あれが團三郞の住んで居る城郭だといつて、乃ち隱れ里のあこがれは濃やかだつたのである。島に生れた湛念な人ならば、或はまだ耳に傳へた昔語りを保持して居るかも知らぬが、こゝでは主人公が狸になつてから、以前の傳承は變色したのである。それを復原してみることは可なり困難かと思ふ。

[やぶちゃん注:「二つ山の團三郞といふ狸」私の好きな化け狸で、二度目の佐渡行の時(私は佐渡が好きで親友らと三度行っている)、念願だった団三郎の棲み家であった現在の山中の岩山にある「二ッ岩大明神」(佐渡市相川下戸村。グーグル・マップ・データ)へも行くことが出来た(火事でひどく傷んでいたけれども)。私の記事では、最古層が、

「耳嚢 巻之三 佐州團三郎狸の事」(筆者は佐渡奉行経験があるので佐渡の話が有意にあり、面白い)

で、その後、柳田の「一目小僧その他」の全電子化でも、「一つ目小僧」に二箇所ほど出現(内容が乏しいのでリンクはしない)したが、何よりハマったのは、

「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」

に始まる、同書の団三郎怪談で完全に大ファンになった。以下、柳田が「島の方では醫者が招かれて往つて外科の療治をしたの」「といふ、他の地方でもよく聽く話が記錄せられて居ないが」と言っているのは大誤りで、

「佐渡怪談藻鹽草 窪田松慶療治に行事」

がちゃんとあるぞ! 柳田! いやいや、それと同期同時事件である、

「佐渡怪談藻鹽草 寺田何某怪異に逢ふ事」

が続くのは、怪奇談の中では、すこぶるリアルで、是非、続けて読まれんことをお薦めする。その後、柳田の、

『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八』

と、次の「九」で、少しく団三郎が語られてあり、その間のものでは、

『柴田宵曲 續妖異博物館 「診療綺譚」』

でも語られてある。最も新しいのは、

「譚海 卷之二 佐渡國風俗の事」

である。ああっ! また佐渡に行きたくなってきたぞぉ!

「湛念」ママ。柳田國男の思い込みの慣用語。「木綿以前の事」「海上の道」でも使用例が見つかる。「丹念」。]

 膳椀類の貸主を狸だと想像して居た例は、關東の方にもあつたやうである。それから又貉《むじな》の内裏《だいり》と稱して、地下にすばらしい大きな殿堂があり、貉がその居住者であり又頭目であつたといふ話は、武州にも上州にも近くまで遺つて居て現に私はその見取圖の如きものを一見したことがある。夢のやうな風說だが空《くう》には生れなかつたと思ふ。この地方の椀貸しは半分は洞穴であつた。以前は必ず水のほとり、又は淵の底から出して貸したのだらうが、それが橫穴の泉の出口などになると、いつと無し穴の獸の、しかも人間の姿に化けることを好む者に假托せられる傾《かたむき》になつたのかと考へる。つまりは普通の人々が漸く眞《まこと》としなくなつた結果である。佐渡の例に於て何よりも注意に値するのは、その隱れ里の狸の名が團三郞であつたことで、この點も變へるならもつと狸らしく變へたらうから、これは偶然に古い部分の殘片かと思ふ。ところが一方に遠く鹿兒島縣の方言集を見るとあの地方でも狸をダンザといつて居る人がある。これは珍しい一つの旁例であつて、或はその根源に佐渡と系統を同じくする傳說でも有るのでは無いかどうか。それを尋ねるためには彼地方に住む人たちの協力を求める必要がある。

[やぶちゃん注:「貉の内裏」不学にして、これを書いた奇談を知らない。識者の御教授を乞ものである。]

 かういふ問題を一つの鄕土の内で、解釋しようとするのはいつでも無理である。それが簡單に答へられるやうだつたら、とくの昔に問題の事實も無くなつて居たらう。誤つて居ればこそ今の形で殘つて來たのである。團三郞といふ名前が又別種の形となつて、傳はつて居る處が四國にもある。伊豫と土佐との境の山村に亙つて、これを曾我の十郞五郞の忠義な家來、鬼王團三郞の兄弟の者が、落ちて來て隱れ住んだといふ話にして居る。この兩人の事蹟は曾我物語の中でも一寸頭を出して最後までは述べられて居ない。だから如何なる遠方の山奧へでも引張つて來ることは可能であるが、これがもし小說であり史書の上の人物で無いとするとその始末はかなり妙なものになるわけである。ところが伊豫の山などではこの後日譚がやゝ進展し過ぎて居る。團三郞は奧州の常陸坊海尊などと同じく、又土地人の幸福に寄與して居た。さうして一人の老女を伴なひそれが曾我兄弟の母の滿江であつたともいへば、一方にはその女性が又山中に永く住んで、たしか近代の和靈《われい》大明神の神靈となつた、山家(やんべ)淸兵衞の物語とも交涉を持つやうな話がある。これも私にはダンザといふ言葉の、全く別途の成長であつたやうな氣がするのである。土地が相接して居ると却つて種々の影響感化がある。隱れ里の思想の古い起原を知らうとするには、寧ろ懸離れた遠方の、飛んでも無い言ひ傳へを見る方が暗示は多い。さうして私の知つて居たことは、佐渡と伊豫土佐と九州の南端と、偶然にも國の四方の隅々であつた。これが一つの信仰の末梢現象であると、速斷しようといふのでは毛頭無いが、とにかくにこの四箇所の互ひに知らぬ鄕土誌家に今後の調査によつて獲たものを、參考として交換してもらひたいと思ふだけである。

[やぶちゃん注:「伊豫と土佐との境の山村に亙つて、これを曾我の十郞五郞の忠義な家來、鬼王團三郞の兄弟の者が、落ちて來て隱れ住んだといふ話にして居る」これは、一目「小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注 始動 / 自序及び「一目小僧」(一)~(三)」、及び、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十九)』で既出既注なのでそちらを読まれたい。

「常陸坊海尊」「海尊」を「快賢」「荒尊」とするものもある。源義経の家臣とされ、「源平盛衰記」巻四十二や、延慶本「平家物語」第六末に、その名が見え、前者では、元は叡山の僧であったとするが、多分に想像上の人物で義経伝説のトリック・スター的存在として描かれる。「義経記」では、元園城寺の僧であったとし、義経の都落ちに同道して、弁慶とともに大物(だいもつ)の浦で活躍、衣川での義経の最期の際には、朝から物詣でに出かけていて、居合わさず、帰ることなく、失踪したとされる。同書では、誰よりも先に逃げようとする海尊が,ほかのシークエンスで二、三ヶ所ほど描かれてあり、その背後に「逃げ上手・生き上手」としての海尊像が、この室町期には既にキャラクター規定されていたことが知られる。東北地方を中心にその後の生存説が多く、ここでも語られるように、潜み隠れて道術を修し、仙人となったとか、人魚の肉などを食し、不老長寿となって、源平合戦や義経の物語を語り伝えたという八百比丘尼系の伝承もあるようである。私は秋元松代の戯曲が、まあ、好きだ。以上は、「狗張子卷之一 富士垢離」で注したものを転用した。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 呼名の怪

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここ。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正五(一九一六)年一月発行の『鄕土硏究』初出である。]

 

     呼 名 の 怪

 

 名を呼んで人の心神を奪ひ去る妖怪のことについて、櫻井秀君の擧げられたのは元和《げんな》四年と元久(文久?)二年と兩度の記事であつたが、その外にもこれと同じ不思議が、これは京都以外の地で起つた。月堂見聞集《げつだうけんもんしふ》卷二十九、享保十九年五月の條に左の記事がある。「同年九州の地夜に入り家々の戶を叩き候へば、開き候と其者絕入仕《たえいりつかまつり》候。是は去年五月の中旬の頃に御座候。此間は備中備後地《ち》へうつり候由。或者敎へて曰く、たぞやたぞ我名を知らでいふ人はいづくへ行くぞこゝは神やど、右の歌を書付け門戶に張る。依之《これにより》近き頃は少許(すこし)うすらぎ候由。備中國の便宜に申來《まをしきたり》候なり」。但し後段の記事に依ると、九州小倉へ行つた人の話に、彼《かの》地では何の事も無かつたといふことであるから、或は虛說であつたかも知れぬが、神宿云々の歌は文久度《ど》のものとほゞ同じであるのを見れば、由來のあることであらう。

[やぶちゃん注:「名を呼んで人の心神を奪ひ去る」所謂、本邦に古来からある「言上げ」「名指し」の共感呪術的ブラック・マジックの一種。

「櫻井秀」不詳。文学博士で日本史学者に同姓同名の人物がいるが、年齢が合わないから、違う。

「元和四年」一六一八年。徳川秀忠の治世。

「元久(文久?)二年」元久は鎌倉時代の一二〇四年から一二〇六年であるから誤り。櫻井氏の、恐らくは『鄕土硏究』記載の論考の誤記か誤植なのであろう。「文久」は幕末の一八六一年から一八六四年で徳川家茂の治世。

「月堂見聞集」本島知辰(もとじまともたつ)が元禄一〇(一六九七)年から享保一九(一七三四)年までの、江戸・京都・大坂で見聞した事を記録した雑録で、自身の意見・感想などは一切含まずに客観的に事実を書き記したものとしてよく知られる。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集 苐二」(大正二(一九一三)年国書刊行会編刊)のこちらで視認出来る。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 「憑き人」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に句読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。標題のルビ(「憑」のみ附されてある)はみっともない感じがするので上付きにした。原詩の標題‘Le Possédé’は「悪魔にとり憑かれた人」の意。「狂人」の意もある。]

 

 (つ) き 人 ボードレール

 

太陽は黑布(クレープ)でおほはれた。

そのやうにわたしの命(ヴイ)の月も影につつまれよ、

おまへの隨意に鍍金し、 あるひは煙らせよ、

また沈默にほのぐらくたもちつつ、 退屈のふかみにのこりなくしづみゆけ。

 

わたしはこのやうにお前を愛する。 しかしおまへが今にも、

半影(ペノンブル)から生ずるかげつた星のやうに

道化役がじやまをする場所におまへを誇らうとするならばそれもよい!

妖靈なる短刀(ポアナール)はおまへの鞘からはしりでよ!

燭臺の焰におまへの瞳を點火せよ!

野人の注意のなかに希望を點火せよ!

おまへのすべては、わたしにとつて繊麗なせはしい娛樂である。

 

おまへの望むものは、くろい夜、 くれなゐの曙であれ、

ふるへてゐる私の全身の筋(すぢ)は一つとして

『おお親しいペルゼエブスよ、私はお前を禮拜する』と叫ばないものはない。

 

[やぶちゃん注:堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の本篇(堀口氏の標題訳は「憑かれた男」である)の訳者註に、『雜誌『フランス評論』一八五九年一月二十一日號に發表』としつつも、『原稿によると』前年『一八五八年の作』とする。

「黑布(クレープ)」以下に示す通り、原詩の「縮み織りで作った黒い喪章のベール」を意味する“crêpe”の音写をそのままルビとした。

「命(ヴイ)」同前で“vie”、「生命・生・人生・一生・生涯」のそれ。

「月」「つき」。言うまでもないが、“Lune”であるから、英語の“Moon”のそれ。彼の人生自体が自らは輝かない月のようなネガティヴなものなのである。

「鍍金」「メッキ」。しかし、拓次はこの一行の前半を致命的に誤読している。頭の“Dors”は「眠る」の意の“dormir”の現在形であるのを、「金鍍金する」の意の“dorerと取り違えてしまっている。この頭は「好きなだけ眠ったり、煙草を吹かしたりしていいが、」である。

「退屈」原詩では“Ennui”。個人的には「アンニュイ」とルビするか、「倦怠」としたい気がする。

「半影(ペノンブル)」原詩の“pénombre”の音写をルビしたもの。物理学用語では確かに「半影」であるが、「絵画の明暗の境目(さかいめ)」や単に「薄暗がり」をも意味する。ここは最後の「薄暗がりから」の方が、以下との表現との関係上では、分りいいように感じる。

「かげつた星」原詩の“éclipsé”は「エクリプス」でお馴染みの「日食」のことであるが、ここは日食のように全部或いは一部が触(しょく)を起こして欠けている状態から、原形を漸く僅かずつ現わすように、見かけ上、見えるような感じで、という比喩を言っているものととる。

「道化師」原詩では、“la Folie”と大文字になっているのに着目すると、腑に落ちる。通常、この単語は「狂気」・「熱狂」・「馬鹿げた滑稽なこと」の意であるが、大文字で「快活を象徴する独特の帽子を被り、鈴を付け、錫杖を持った人物」とあるからである。

「短刀(ポアナール)」“poignard”は「短刀」の意であるが、音写は「ボヮンニャール」に近い。

「おまへのすべては、わたしにとつて繊麗なせはしい娛樂である。」“morbide ou pétulant;”が訳されていない。「病的か、激しく手に負えない存在であっても、」。

「ペルゼエブス」“Belzébuth”はフランス語の音写は「ベルゼビューット」に近い。所謂、「蠅の王」(「糞の王」とも)の意の、現在ではキリスト教の悪魔の中でも強大兇悪の存在とされる「ベルゼブブ」(ラテン語:Beelzebub)のことである。

 以下、英訳付きの英文サイトのものを、フランス語サイトのこちらのものと校合した。

   *

 

   Le Possédé   Charles Baudelaire

Le soleil s'est couvert d'un crêpe. Comme lui,

Ô Lune de ma vie ! emmitoufle-toi d'ombre;

Dors ou fume à ton gré; sois muette, sois sombre,

Et plonge tout entière au gouffre de l'Ennui;

 

Je t'aime ainsi! Pourtant, si tu veux aujourd'hui,

Comme un astre éclipsé qui sort de la pénombre,

Te pavaner aux lieux que la Folie encombre,

C'est bien ! Charmant poignard, jaillis de ton étui !

 

Allume ta prunelle à la flamme des lustres !

Allume le désir dans les regards des rustres !

Tout de toi m'est plaisir, morbide ou pétulant;

 

Sois ce que tu voudras, nuit noire, rouge aurore;

II n'est pas une fibre en tout mon corps tremblant

Qui ne crie: Ô mon cher Belzébuth, je t'adore!

 

以上のように、本篇も四連構成とするのが、諸訳者でも共通しており、原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)の「翻訳篇」でも四連構成に変えてある。以上の正字のものを、そのようにして以下に示す。

   *

 

 (つ) き 人 ボードレール

 

太陽は黑布(クレープ)でおほはれた。

そのやうにわたしの命(ヴイ)の月も影につつまれよ、

おまへの隨意に鍍金し、 あるひは煙らせよ、

また沈默にほのぐらくたもちつつ、 退屈のふかみにのこりなくしづみゆけ。

 

わたしはこのやうにお前を愛する。 しかしおまへが今にも、

半影(ペノンブル)から生ずるかげつた星のやうに

道化役がじやまをする場所におまへを誇らうとするならばそれもよい!

妖靈なる短刀(ポアナール)はおまへの鞘からはしりでよ!

 

燭臺の焰におまへの瞳を點火せよ!

野人の注意のなかに希望を點火せよ!

おまへのすべては、わたしにとつて繊麗なせはしい娛樂である。

 

おまへの望むものは、くろい夜、 くれなゐの曙であれ、

ふるへてゐる私の全身の筋(すぢ)は一つとして

『おお親しいペルゼエブスよ、私はお前を禮拜する』と叫ばないものはない。

 

   *]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 小豆洗ひ

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正五(一九一六)年五月発行の『鄕土硏究』初出である。]

 

     小 豆 洗 ひ

 

 淸水時顯君の、小豆洗ひは崩れ岸を意味するアヅといふ地名から出た流言だとの御高說は(鄕土硏究三卷)、御高說であるが信じにくい。最初に地名の眞の意味を忘れ、次にその地名あるが爲に小豆を洗ふやうな音を聞くといふことは、若し一箇所ならば飛んだ間違ひ又はよい加減な虛誕などといふべき事か知らぬが、弘く全國の各地に亙つて偶合のありさうも無い話である。願はくはその多くの實例を竝べて見せて下され、さうする中には必ずどうしてそんな音がしたか若しくは聞えたか、何故にその音を小豆を洗ふ音と解するに至つたかといふ、今一段と直接なる二箇の疑問が判明することになるであらうと思ふ。常陸の例は淸水君自ら擧げられ、阿波の例は遠藤君が報ぜられた(同四卷六二頁)。この外に土佐因幡甲斐羽後陸中東京等にもあつたのである。元來何の音もしなかつたのを、單に地名から小豆洗ひの音を幻覺したとはいはれぬやうである。土佐の小豆洗ひは西郊餘翰《さいかうよかん》卷三幡多《はた》郡中山田村の條に、「此里なる寺門の外に赤小豆洗ひと云ふ怪談あり、夜により赤小豆を炊《かし》ぐ音せり、須臾《しゆゆ》にして止むとかや」とあり、土州淵嶽志《どしうえんがくし》中卷にも、「宿毛《すくも》の中山田と云ふ所に寺あり、此寺の門外に赤小豆洗《あかあづきあらひ》と云ふことあり、時々夜更けて小豆を洗ふ聲するなり、半時《はんとき》ばかりにして止むと云ふ」とあるが、原因までは究めようとしなかつた。これは寺の門外とあるから、やはり小溝あり橋があつたのかも知れぬ。因幡の分は有斐齋剳記《いうびさいたふき》に「因州の留邸(おるすゐ)寺尾氏の夜話に、其國の一江崎と云ふ所に一の小溝あり、其溝にて夜水中に赤小豆磨《あかあづきとぎ》と云ひて、小豆を磨ぐ音のすること時々あり、人怪みて之を求むる者、必ず其水中に陷る。怪我は無しと。坐に良白耕ありて曰く、吾國にも此事あり、但しアヅキコシと謂ふ。鼬《いたち》の老いたるもの必ず之を爲すと云へり」とある。良白耕といつた人は何處の人であるか知らぬが、アヅキコシと呼ぶ例は自分はまだ耳にせぬ。甲州のは裏見寒話卷六に、「古府の新紺屋町より愛宕町へ掛けたる土橋あり云々、こゝを鷄鳴の頃通れば橋の下にて小豆を洗ふ音聞ゆといふ。又疊町の橋の下も此の如しと云へり」とあつて、鷄鳴の頃と限つて居るばかりであるが、津村氏の譚海卷六には、「甲州の人の談に、ムジナはともすれば小豆洗ひ絲繰りなどすることあり、小豆洗ひは溪谷の間にて音するなり、絲繰りは樹のうつぼの中に音すれど、聞く人十町二十町行きても其音耳を離れず、同じ音に聞ゆるなり」とあつて鼬も同樣だが水中に居りさうにも無い獸類の所爲にしてしまつて居る。奧州の白川でも、たしか阿武隈の水源地方の山村に小豆磨の怪あることを、白川風土記の中に記してあつたかと思ふが、只今原文を檢する方便が無い。又山方石之介氏は曾て佐々木君が陸中遠野鄕には「川に小豆磨ぎあり云々」と報ぜられたに對して、氏の鄕里羽後秋田邊では、「小豆磨ぎ」は水中の怪では無く、寧ろ山の神の所爲と信ぜられて居るといはれた。要するに比較討究のなほ必要なる理由は、第一に小豆洗ひの不思議の有る場所が、果して常に崖の崩れ又は岸の埋まり淺くなるやうな場所或はその附近か否かといふことを確めねばならぬからである。蓋し音響の怪は右の二種の外、天狗倒しとかバタバタとか、列擧すれば數多いことである。山中といふも深夜といふも結局は同じことで、孤獨寂寥の折からで無ければ今の音は何だらうと平然として穿鑿する筈で、これを變化のわざと解するのは豫め怖いといふことを伴なふからである。淸水君は土橋といふことを崩れる方へ聯想せられたやうだが、これは多分はさうで有るまい。昔から妖怪は必ず路傍に出て通行人を嚇かすのが原則であつた。つまり小賣商が市街に面して店を開く如く、怖がる人は卽ち妖怪の花客(おとくい)であつた爲で、殊に峠と坂、濟(わたし)と橋などは彼等の業務を行ふに最も適當な地點であつたのである。しかうして妖怪の中でも眼に訴へる者よりは耳を襲ふものゝ方が尤もらしい者が多く、井上圓了氏を聘《へい》せずとも解說の出來るものが、音響の不思議に多かつたことは事實である。夜間の怪聲に鳥の聲又は羽音であつたものがある如く、小豆洗ひを鼬《いたち》又は貉《むじな》といふのも必ずしも冷笑すべきで無い。佐渡の砂撒き狸のことは茅原老人前にこれを報ぜられたが、自分少年の時に下總で聞いた話にこんなのがある。或男月夜に利根川の堤の上を步行《ある》いて居ると、何か猫ほどの物が路を橫ぎつて川端へ走り下り、寄洲の水際で轉がつて居るやうに見えた。立留つて見て居た處、やがて又走せ還つて、行く手のこんもりとした木に登つた。猫だらうと思つて何氣なくその下を通ると、木の上からばらばらと砂を降らせたといふ。樂屋の方から先に覗いたからよいやうなものゝ、これが暗夜でもあつたら、又二度も三度もあつたら、必ず亦砂撒き狸の根據地を作つたことゝ思ふ。彼地方の者は確かにこれを狸だと信じて居るのである。曾て試にこの話を狸通《たぬきつう》の川瀨博士にした處が、狸はその位な惡戲はするかも知れぬといはれた。實際我邦ばかりで無からうが、鳥獸の生活狀態殊に直接食物搜索と關係の無い習癖には、明白になつて居らぬものが多い。ヲサキや犬神の話を聞いても、或種の獸の存在が全然知れて居らぬのか、然らざれば或獸の著しい性質が確かめられて居らぬのか、二者必ず其一だと思ふことが多い。といふて自分は小豆洗ひの興行權者を鼬又は貉と決定したのでは無く、又鼬や貉では實は少々困るが、何か大さ形などがこれに近い水邊に住む獸が、產育の時とか遊牝《ゆひ(ん)》[やぶちゃん注:交尾。]の時とかに、急《せ》はしく砂を搔き動かすといふやうなことが、小豆洗ひの怪の原因で無いとは斷言し得られぬと思ふ迄である。但し今一つ申添へたいことは、淸水氏もいはれた如く、何故に音も色々あらうのに、小豆を洗ふ音ばかり聽き取るのが例であつたかといふ疑《うたがひ》である。私はその答を小豆その物に關する我民間俗信の方面に覓《もと》めるのが自然の順序かと考へる。各地の小豆阪《あづきざか》小豆峠の中には、アスといふ動詞に基づいたものも決して交つて居らぬとはいはぬが、何かその外にも小豆に關した習俗がその地名の起原となつた場合が無いか否かを考へて見ねばならぬ。今一段溯つては小豆がどうしてアヅキといふかも硏究すべき一の問題である。近い頃の神符降臨の騷ぎの時も、何か赤い樹實《きのみ》の降つたのを小豆が降つたと言ひ傳へた例もある。怪談老の杖卷三に、「小豆ばかりと云ふ化物の事」と題して、麻布近所の二百俵ばかり取る大番士の家で、夜分はらりはらりと小豆を撒くやうな音がした。後にその小豆の音段々高くなり、終には一斗ほどの小豆を天井の上へ量るやうなる體で、間を置いては又はらはらとなること暫くにして罷む云々といふ話がある。卽ち小豆は既に土橋の下ばかりで洗はれて居らず、人家の天井の上でも活躍して居るのを見れば、鼬貉のみでは天下の小豆洗ひを解說し盡すことの出來ぬのも亦明らかである。猶同種の話を多く集めた上で講究を續けたい。

[やぶちゃん注:「小豆洗ひ」「小豆とぎ」は、大方は水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」で人口に膾炙している妖怪。ショキショキと音を立てて、川で小豆を洗う妖怪。当該ウィキによれば、分布は日本各地に亙り、『長野県松本市では、木を切り倒す音や赤ん坊の泣き声をたてたという』。『群馬県邑楽郡邑楽町や島根県では、人をさらうものといわれる』。文化二(一八〇五)年に白河藩藩儒広瀬蒙斎によって編まれた地誌「白河風土記」『巻四によれば、鶴生(つりう・福島県西白河郡西郷村大字)の奥地の高助という所の山中では、炭窯に宿泊する者は時として鬼魅(きみ)の怪を聞くことがあり、その怪を小豆磨(あずきとぎ)と呼ぶ。炭焼き小屋に近づいて夜中に小豆を磨ぐ音を出し、其の声をサクサクという。外に出て見ても』、『そこには何者も無いと伝えられている』。『茨城県や佐渡島でいう小豆洗いは、背が低く目の大きい法師姿で、笑いながら小豆を洗っているという。これは縁起の良い妖怪といわれ、娘を持つ女性が小豆へ持って谷川へ出かけてこれを目にすると、娘は早く縁づくという』。『大分県では、川のほとりで「小豆洗おか、人取って喰おか」と歌いながら』、『小豆を洗う。その音に気をとられてしまうと、知らないうちに川べりに誘導され』、『落とされてしまうともいう』。『音が聞こえるだけで、姿を見た者はいないともいわれる』。『この妖怪の由来が物語として伝わっていることも少なくない。江戸時代の奇談集』「絵本百物語」(桃花山人(戯作者桃花園三千麿)著・天保一二(一八四一)年刊)に『ある「小豆あらい」によれば、越後国の高田(現・新潟県上越市)の法華宗の寺にいた日顕(にちげん)という小僧は、体に障害を持っていたものの、物の数を数えるのが得意で、小豆の数を一合でも一升でも間違いなく言い当てた。寺の和尚は小僧を可愛がり、いずれ住職を継がせようと考えていたが、それを妬んだ円海(えんかい)という悪僧がこの小僧を井戸に投げ込んで殺した。以来、小僧の霊が夜な夜な雨戸に小豆を投げつけ、夕暮れ時には』、『近くの川で小豆を洗って数を数えるようになった。円海は後に死罪となり、その後は日顕の死んだ井戸で日顕と円海の霊が言い争う声が聞こえるようになったという』。『東京都檜原村では小豆あらいど(あずきあらいど)といって、ある女が小豆に小石が混ざっていたと姑に叱られたことから』、『川に身を投げて以来、その川から』、『小豆をとぐ音が聞こえるようになったという』。『愛媛県松山市に伝わる小豆洗いの話では、明治初期に川の洗い場に』五十『歳ほどの女性が小豆と米を洗っていたため、そこには誰も洗濯に寄らず、その女はやがて死に去ったという』。『小豆洗いの正体を小動物とする地方もあり、新潟県刈羽郡小国町(現・長岡市)では山道でイタチが尻尾で小豆の音を立てているものが正体だといい』、『新潟県十日町市でもワイサコキイタチという悪戯イタチの仕業とされる』。『長野県上水内郡小川村でも小豆洗いはイタチの鳴き声とされる』。『大分県東国東郡国東町(現・国東市)でもイタチが口を鳴らす音が正体とされ』、『福島県大沼郡金山町でも同様にイタチといわれる』。『岡山県赤磐郡(現・岡山市)では小豆洗い狐(あずきあらいぎつね)といって、川辺でキツネが小豆の音をたてるという』。『長野県伊那市や山梨県上野原市でもキツネが正体といわれる』。『京都府北桑田郡美山町(現・南丹市)ではシクマ狸という化け狸の仕業とされるほか、風で竹の葉が擦りあう音が正体ともいう』。『香川県観音寺市でもタヌキが小豆を磨いているといわれ』、『香川県丸亀市では豆狸の仕業といわれ』、『広島県ではカワウソが正体と』される。『津村淙庵による江戸時代の随筆』「譚海」では『ムジナが正体とされる』。『秋田県では大きなガマガエルが体を揺する音といわれる』。『福島県ではヒキガエルの背と背をすり合わせることで疣が擦れ合った音が小豆洗いだともいい』、『根岸鎮衛の随筆』「耳嚢」でも『ガマガエルが正体とされている』(私の「耳嚢 巻之八 小笠原鎌太郎屋敷蟇の怪の事」を見られたい)。『新潟県では、糸魚川近辺の海岸は小砂利浜であり、夏にここに海水浴に来る人間が砂浜を歩く「ザクザク」という音が小豆を研ぐ音に酷似していたため、これが伝承の元となったともいう』。『山形県西置賜郡白鷹町でも、小川の水が小豆の音に聞こえるものといわれる』。『また江戸時代には小豆洗虫(あずきあらいむし)という昆虫の存在が知られていた。妖怪研究家・多田克己によれば、これは現代でいうチャタテムシのこととされる』。『昆虫学者・梅谷献二の著書『虫の民俗誌』によれば、チャタテムシが紙の澱粉質を食べるために障子にとまったとき、翅を動かす音が障子と共鳴する音が小豆を洗う音に似ているとされる』。『また、かつてスカシチャタテムシの音を耳にした人が「怖い老婆が小豆を洗っている」「隠れ座頭が子供をさらいに来た」などといって子供を脅していたともいう』。『新潟県松代町では、コチャタテムシが障子に置時計の音を立てるものが小豆洗いだという』(この説については、『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十章 二つの珍しい祭日 (五)』の中で八雲が『英國で夜間あの凄いかちつかちつといふ音を發する、茶立て蟲の一種は、日本の貧之神といふ名の親類を持つてゐる。この蟲は貧之神の召使で、それが家の内てかちつかちつといふ音を發するのは、かの甚だ歡迎されない神樣の存在を報ずるものと信ぜられてゐる。』(太字は原本では傍点「﹅」)と述べたのに対する私の注を参照されたい。ここも引いて考証してある)。『長野県下諏訪などでは』、『こうした妖怪の噂に乗じ、男性が仲間の者を小豆洗いに仕立て上げ、女性と連れ立って歩いているときに付近の川原で小豆洗いの音を立てさせ、怖がった女性が男性に抱きつくことを楽しんだという話もある』。『茨城県那珂郡額田地区の伝承の小豆洗いは女性であり、その正体は』、四百『年以上前の額田佐竹氏が太田の佐竹本家と江戸氏の連合軍に攻め立てられて落城する前日に出陣し、帰らぬ旅路についた城主の父に対し、出陣祝いの小豆飯を炊いて進ぜた姫君の姿であるとする』。『この他、ひたちなか市勝田地区には、「あずきばあさん」と呼ばれる伝承が近代期までみられ、話者によっては、小豆洗いの妻と解釈もされているが、老婆が洗っていると認識された』とある。

「淸水時顯」事績不詳だが、日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の「正雪虫」(しょうせつむし)に彼の名義の「人が虫になった話」(『鄕土趣味』大正一二(一九二三)年二月発行)の記載があった。

「崩れ岸を意味するアヅといふ地名」所持する日本民俗文化資料集成第十三巻の松永美吉「民俗地名語彙事典 上」(一九九四年三一書房刊)の「アズ」によれば、『アズ ① 『万葉集』巻一四に次の二首がある。』(上句と下句を分離し、漢字表記を正字化した)

  あず(安受)の上に駒を繫ぎて危(アヤ)ほかど

   人妻子ろを息(イキ)に吾(ア)がする(三五三九)

『(崖の崩れの上に馬を繋いだように危ないけれど、人妻であるあの子を命にかけて私は思っている)』

『アズはは崩れた崖、そういう所に馬を繋ぐのは危ないので、「危ほかど」の譬喩の序である。』(以下、同前)

  あず(安受)邊(へ)から駒の行このす危(アヤ)はとも

   人妻で子ろをまゆかせらふも(三五四一)

『(崩れた岸の所を通って駒が行くように危いけれども、人妻であるあの子を「まゆかせらふも」〈誘惑するよ〉)』

『アズ(炳)は田中道麿は「字鏡に坍、崩岸也、久豆礼又阿須とある是也、俗に云がけの危き所也」と説いた。『新撰字鏡』(五)に「坍 上甘(土)紺二反崩岸也久豆礼又阿須」とある〔正宗・森本『万葉集大辞典』ア行〕。『天治字鏡』などの古い辞書にある坍(崩れ岸)という字は日本の造字であろう。[やぶちゃん注:これは誤り。坍は大修館書店「廣漢和辭典を見ても漢語である。音は「タン」。訓は「あず」(但し、同時点には後者は載らない)。意味は『①水が岸を打ってくずす。古字』とし、『②くずれた岸』とあり、中日辞典にも所収する。「阿須」の宇も当てられ阿須、阿須川などあり、また明(アス)、明日(アス)のつくのもある』。『アズはまたアソともいい、山岳語としても用いられ、谷筋が崩れて岩などが堆積している所をいう』。『埼玉県飯能市阿須(市の南部で入間川右岸)は『新編武蔵風土記稿』には入間川の洪水により土砂が崩れ「阿須ケ崖」という数十丈の崖をつくった旨を記している』。『対馬厳原町』(いづはらまち)『阿須は阿須湾に臨み、山裾が崖をつくって海岸にわっている。琵琶湖の西岸に注ぐ安曇(アド)川は下流に安曇川町(旧旅賀県高島郡安曇町)がある。安曇はアドのほかアズ(アヅ)、アトとも呼ばれ古くは阿戸、安土、足利とも書くが、いずれも当て字。安曇川は上、中流の両岸は断崖の多い川。この川の支流に麻生(アソ)川あり。両岸の急な谷で、麻生の部落もそうした谷合の小部落。それもアゾ、アソの類ではないか。こうした地形にある阿曾原、阿蘇などの地名も同様であろう。なおアスという語には川、海などの浅くなる意味もある。「山は裂け海はあせなむ世なりとも」(源実朝)のアセである。アスには浅を当て「浅す」と訓ませている』(太字は底本では傍点「﹅」)『霞ヶ浦の出口あたりから利根川口付近にかけて、古く入江の形をなした「安是湖(アゼノウミ)」はアセた海の意である』。『対馬の上島と下島の間の浅海(アソウ)湾(浅茅湾)もこれと同様であろうか』。『和歌山県有田川上流の阿瀬川や、青森県津軽平野の黒石市あたりを西流する浅瀬石(アセイシ)川はこの辺で広い氾濫原を乱流しており、この名の一適例であろう。浅瀬石は浅石、汗石とも書かれている。あちこちにある浅川(朝川)はまさに文字通りである』。『崩崖をいうアズ、アスと土砂が堆積した川、海の浅くなるアズ、アスとは語源的につながるのではあるまいか』。『崩岸、崩崖が、その下に土石の堆積面を作ることに主体が移れば、そうした堆積地形をいう名称になるであろう〔松尾『日本の地名』、アソ参照〕』。『なお「伊豆半島から静岡、和歌山、三重の各県と豊後水道側の九州の海岸に分布するアゼトウナという植物があるが、それは生育の場所からみて、おそらく昔はアザトウナと称していたのがアゼトウナに転訛したものであろう」〔『植物和名の語源』〕とあるが、アズに生えるのであるから、アズトウナの転誼ではあるまいか』[やぶちゃん注:キク目キク科アゼトウナ属アゼトウナ Crepidiastrum keiskeanum当該ウィキによれば、『伊豆半島から西の太平洋岸に分布』し、『冬場でも比較的暖かい海岸の岩場に生える。岩の隙間に根を下ろし、太く短い茎はその表面を少し這って株を作る。葉は茎の先端にロゼット状につき、倒卵形でやや肉質であり、ふちが浅くギザギザになっている。側枝を出して立ち上がり、高さは』十センチメートル『ほどになる。花期は』八月から十二月で『直径』一・五センチメートル『ほどの黄色い花を枝先に咲かせる』とある)。『② 福岡県の旧企救』(きく)『郡で、溝や川等へ流れこんだ口に堆積する、また流れ出た辺のやわらかな細砂をいう〔『藩政時代百姓語彙』〕。同県久留米市大善寺町では、池底の腐土をいい〔『日本の民俗』福岡〕、同県春日市付近でも、河溝の細砂、河原の淀に溜るアズ(淮積土)は苗床に使う〔『筑紫の里ことば』〕。佐賀では川に流れる芥をアズ〔『全辞』〕』[やぶちゃん注:東條操編「全国方言辞典」の略。]『壱岐でも堀や溝などの底に溜まる泥土〔『全辞』〕をいうが、宅地田畠の土の流失を防ぐため、地所の下部に多くの溜池を設け、これをアズダメとかアンダメといい、ここに溜まった泥土を時折持運ぶ〔『綜合』〕』[やぶちゃん注:民俗学研究所編「総合日本民俗語彙」の略。]。『これらのアズは崩壊によって生じたアズである』。『③ 山や畑などの境界。伊豆大島、御蔵島。アソに同じ〔『全辞』〕』とある。

 因みに、この事典には、実は「アズキ」と「アズキトギ」の項があるので、それも引く。『アズキ 小豆坂、小豆沢、小豆島、小豆畑も崩崖のアズ(坍)である〔『日本の地名』〕』。『東京都板橋区小豆沢町(旧豊島区志村大字小豆沢)はアズキサワではなくアズサワである。竜福寺付近を通る崖岸(アズ)に基づくものであろう。茨城県北茨城市華川(ハナカワ)町小豆畑(アズハタ)はおそらく端(ハタ)であろう)も小豆をアズとよんでいるが、大北川』(おおきたがわ)『の支流、花園川』(はなぞのがわ)『の中流の狭い谷にある部落で、この地名も崖にちなむアズであろう。小豆の地名は「厚本」とも書かれる。愛媛県岡崎市羽根町』(はねちょう)『の小豆坂は、また厚木坂とも書かれた。アズとアズキは同じ言葉のように受けとれ、アズが生活に身近な食料のアズキに転じ、小豆の字が当てられたのではないか。瀬戸内の小豆島(谷川県小豆郡)はもと、アズキシマとよばれ、上代からこの名で知られている。ショウドシマとよぶようになったのは小豆郡(公的にショウズで、普通ショウドともいう)が設けられた明治十三年以後のこと』である。『ついでにいえば、この島は海岸にも内部にも、崖地の多い所であるが、中でも中央より東寄りにあって怪石奇峰のあるこの島第一の景勝、寒霞渓は、カソカケの名でよばれて鍵掛(鉤掛)、神懸、神駆などの字が当てられた。寒霞渓(徳富蘇峰の命名とか)を含めて、峻しい峠や崖地には鍵掛や鍵掛峠の地名を見うける。カソカケ、ガソカケ、ガツカケなどは、れた崖地や絶壁をいう語である。鍵掛をカギカケ、カイカとよぶ所もある〔松厄『日本の地名』〕』。

 以下、「アズキトギ」。『アズキトギ アズキアライともアズキサラサラとも。分布は広く各地にある』。『川端で小豆を洗う音がする。もう夜が明けたのかな。お祭りでもないのに、赤飯にする小豆を誰がといでいるのだろかと出てみると、誰もいなかった。ムジナの仕業といっていた。長野県岡谷市での例〔『峠ふところの村』〕』。『正体を見もしないで、正体をなぜ小豆ときめたかも不思議である〔『綜合』〕』とある。

「遠藤」不詳。

「西郊餘翰」土佐藩の国学者岡宗泰純が文化八(一八一一)年に土佐藩家老深尾氏に随行して記した紀行。

「幡多郡中山田村」近代の地名に「中山田村」はない。現在は高知県宿毛市山奈町山田(すくもしやまなちょうやまだ)(グーグル・マップ・データ。以下、無表記は同じ)があるが、その西方に、高知県宿毛市平田町中山があるので、こちらも候補となろう。孰れも流れは近くにある。「ひなたGPS」で戦前の地図の当該地を見たが、やはり「中山田」は、ない。

「此里なる寺門の外」現在の山田地区は北半分以上は山間であり、グーグル・マップ・データでは五宝寺(寺歴未詳)しか見当たらない。一方、中山地区には第三十九番札所赤亀山寺山院延光寺(しゃっきざんじさんいんえんこうじ)がある。どっちかは判らぬ。

 

「土州淵嶽志」植木挙因(元禄元(一六八八)年~安永三(一七七四)年:儒者。土佐高知藩医の父に家学を受け、後、京都で玉木正英に学び、帰郷後、藩の儒員となった)の編した土佐地誌「土州淵岳志」高知県立図書館公式サイト「オーテピア高知図書館」の同館の出版物リストの「土佐國群書類従」の本書の解説によれば、『土佐の国号の由来に始まり、神社、歌枕、産物、伝承、怪異譚』(☜)、『陵墓、寺院など、土佐国に関する様々な事象に及んでい』るとある。

「宿毛《すくも》の中山田と云ふ所に寺あり」そもそも、前の書もこれも寺の名を挙げないところが、寺の妖怪・怪異は憚られると配慮したのかも知れぬが、この事実は既にして信用度が異様に下がってしまう。

「半時」現在の一時間相当。

「有斐齋剳記」儒者皆川淇園(きえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)の随筆。聞書きであるが、妖狐のランクが天狐・空狐・気狐・野狐の順で記されあることで知られる。本文に出る話は、「国立公文書館デジタルアーカイブ」の同書写本92コマ目で視認出来る。

「因州」「一江崎」不詳。鳥取県鳥取市江崎町ならある。

「良白耕」不詳。

「裏見寒話」「うらみのかんわ」と読む。甲府勤番野田成方(しげかた)が記した地誌・伝承集。宝暦二(一七五二)年序。「新日本古典籍総合データベース」のこちらの写本で当該部が視認出来る。

『津村氏の譚海卷六には、「甲州の人の談に、ムジナはともすれば小豆洗ひ絲繰りなどすることあり、小豆洗ひは溪谷の間にて音するなり、絲繰りは樹のうつぼの中に音すれど、聞く人十町二十町行きても其音耳を離れず、同じ音に聞ゆるなり」』私はブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』で二〇一五年から電子化注を進行中だが、未だ「卷五」の途中である。しかし、「卷六」をざっとみたが、これは見当たらないようである。発見したら、追記する。

「奧州の白川でも、たしか阿武隈の水源地方の山村に小豆磨の怪ある」阿武隈川の源流は現在の福島県西白河郡西郷村の甲子旭岳である。

「白川風土記」文化年間、藩主松平定信の命により藩儒広瀬蒙斎(明和五(一七六八)年~文政一二(一八二九)年)らが編纂した白河地誌。明治七(一八七四)年に松平家から太政官正院地誌課へ献納された。全三十六巻。

「山方石之介」山方石之助ではないか。「山の人生」や「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(12) 「駒ケ嶽」(2)」に「助」で姓名が出る。事績は不詳だが(以下に従えば秋田出身である)、ネットでは民俗学文献の著者として見えている。

「佐々木」「遠野物語」の原著者佐々木喜善。

『氏の鄕里羽後秋田邊では、「小豆磨ぎ」は水中の怪では無く、寧ろ山の神の所爲と信ぜられて居るといはれた』『日本民俗文化資料集成』第八巻「妖怪」に所収する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊)には秋田県の項に「アズキトギ」を立項するが、『音の怪。アズキアライとかアズキサラサラともいう。水のほとりで小豆をとぐような音がするとか、アズキトギという化け物がいて、音をさせるとかいう。雄勝』(おかち)『郡ではガマが小豆に化けるともいう』とある。後の方の書き方は、或いは、水辺ではなく、山の中であってもありではあろうか。

「天狗倒し」深山で、突然、大木が倒れる大音響が起こるが、行ってみると、なんの形跡もない怪を言う。

「バタバタ」日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」の「バタバタ」に儒者で漢詩人として知られる菅茶山(かんさざん 延享五(一七四八)年~文政一〇(一八二七)年)の随筆「筆のすさび」からとして、『芸州広島で夜中、屋上あるいは庭の辺から畳を杖で打つようなばたばたという音がする。見に行っても姿は見えない。狐狸の仕業のようだがそうでもない』とある。原拠は国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』の「名家隨筆集 下」(大正三(一九一四)年刊)のここで視認出来る。

「怖がる人は卽ち妖怪の花客(おとくい)であつた爲で、殊に峠と坂、濟(わたし)と橋などは彼等の業務を行ふに最も適當な地點であつた」ここで思い出した。「小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一八)」に、本篇にお誂え向きの一話がある。

   *

 市[やぶちゃん注:松江。]の東北にある普門院の附近に、小豆磨ぎ橋といふのがある。昔、夜每に女の幽靈が橋の下へ出て、小豆を洗つたさうだ。日本の綺麗な草花に、虹の紫色を呈した杜若といふのがあつて、その花に關して杜若の歌といふ歌がある、この歌は決して小豆磨ぎ橋の邊で謠ふてはならぬ。どういふわけか分つてゐないが、そこへ現れる幽靈は、それを聞くと大變に怒るので、もし其處でそれを謠ふ人があれば、怖ろしい災難に罹るである。或る時何事にも恐れぬ侍があつて、夜その橋へ行つて聲高らかにその歌をうたつたが、幽靈が現れないから笑つて家に歸つてみると、門前で見覺のない丈の高い綺麗な女に逢つた。女が會釋をして文箱を差出した。侍も武士らしい禮をした。『妾は唯下婢であります。これは妾の女主人からの進物であります』といつて、女は消え失せた。箱を開けると血の附いら幼兒の顏が出た。家へ入ると、客座敷に頭のちぎれた自分の幼兒の死體があつた。』

   *

「佐渡の砂撒き狸」YoukaiTama氏のブログ「妖怪邸・妖堂 日記帳」の「とりあえず、砂撒き」に、『佐渡に流された順徳上皇を訪れる忠子内親王――二宮様とも呼ばれる――の為に、道に砂を撒いて清めていたという信心深い狸が、新潟県佐渡郡佐和田町――現在の佐渡市の妙照寺にいたという』とあった。妙法華山妙照寺はここ

「茅原老人」茅原鐡藏(ちはらてつざう(てつぞう) 嘉永二(一八四九)年~昭和六(一九三一)年)は佐渡出身の農事研究家で郷土研究家。個人ブログ「佐渡人名録」のこちら、或いは個人サイト(と思われる)「川上喚涛と歩いた人びと」(川上喚濤(かわかみかんとう 安政三(一八五六)年~昭和九(一九三四)年)は佐渡出身で佐渡に於けるトキ保護の元祖とされるナチュラリストで文人・地方政治家)の「茅原鐵蔵」に詳しい。

「自分少年の時に下總で聞いた話にこんなのがある。或男月夜に利根川の堤の上を步行《ある》いて居ると、何か猫ほどの物が路を橫ぎつて川端へ走り下り、寄洲の水際で轉がつて居るやうに見えた。立留つて見て居た處、やがて又走せ還つて、行く手のこんもりとした木に登つた。猫だらうと思つて何氣なくその下を通ると、木の上からばらばらと砂を降らせたといふ」本書の「自序」に載っている、少年柳田國男の妖怪間接体験の古層にある話である。

「砂撒き狸」YoukaiTama氏の「とりあえず、砂撒き」に、『新潟県大面』(おおも)『村字矢田』(やだ)『――現在の三条市の翁坂には「砂撒き鼬」と呼ばれる鼬が居り、後ろ足で砂を蹴って人に撒くといわれている。青森県三戸郡五戸町には「砂撒き狐」という狐が出る坂があり、夜に何か物を運んでそこを通ると砂を撒かれたといわれている。青森県津軽地方や新潟県、愛知県、福岡県では「砂撒き狸」と呼ばれ、夜道を歩いていると』、『砂を撒いたり降らしたりしてくるといわれ、「砂降らし」とも呼ばれる』とある。

「川瀨博士」東京帝国大学教授で林学博士の川瀨善太郞(文久二(一八六二)年~昭和七(一九三二)年)。紀州藩士の長男として江戸藩邸で生まれた。東京農林学校卒。明治二三(一八九〇)年に農商務省に入り、二年後には文部省留学生として林政学研究のためにドイツに留学、明治二十八年に帰国し、帝国大学教授となり、林政学・森林法律学を講義する一方、翌年には農商務技師・山林局森林監査官を兼任し、国の林政にも参与、大正二(一九一三)年には欧米へ出張している。大正九年、東京帝国大学農学部長となり、大正十三年、定年退官。また、明治二十五年から『大日本山林会』役員となり、大正九年には会長に就任している。木材と木炭規格統一に関する事業や、山林所得税の是正・演習林・農林高等学校の普及などに尽力した。著書に「林政要論」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。知られた大正一三(一九二四)年に発生した珍事件「たぬき・むじな事件」(知らない方は当該ウィキを見られたい)では、控訴審で鑑定人として招かれている。

「ヲサキ」オサキ(尾先・尾裂・御先・尾崎)は本邦の関東地方の山間部に伝わる狐の憑き物。「オサキギツネ」とも呼ぶ。詳しくは当該ウィキを見られたい。中部地方以西で知られる「くだぎつね(管狐)」とは異なるものとされる。その辺りは、「想山著聞奇集 卷の四 信州にて、くだと云怪獸を刺殺たる事」の本文及び私の注を参照されたい。

「犬神」私の「古今百物語評判卷之一 第七 犬神、四國にある事」を参照されたい。

「小豆阪」一番知られているのは、今川・松平連合と織田の間で二度に亙って繰り広げられた「小豆坂の戦い」のそれであろう。現在の愛知県岡崎市字羽根町字小豆坂及びその東北の同市美合町字小豆坂附近。

「小豆峠」例えば、新潟県十日町市峠と上越市大島区中野との間にある小豆峠。

『怪談老の杖卷三に、「小豆ばかりと云ふ化物の事」と題して、麻布近所の二百俵ばかり取る大番士の家で、……』「怪談老の杖」は戯作者・狂歌師・漢詩人の平秩東作(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)作で宝暦四(一七五四)年序の怪談集。私は全篇を電子化注済みである。「怪談老の杖卷之三 小豆ばかりといふ化物」を読まれたい。]

2023/02/18

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 盆過ぎメドチ談

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和七(一九三二)年十月十九日・二十二日・二十五日附の『奥南新報』初出である。同新聞は明治四一(一九〇八)年から昭和一六(一九四一)年にかけて青森県八戸市で発行された新聞で、当該ウィキによれば、『紙面の文芸欄から、数多くの文芸雑誌が生まれ、文芸欄に投稿した者たちで奥南詩文会(八戸郷土研究会)を結成するきっかけとなった』とある。]

 

     盆過ぎメドチ談

 

          

 

 もうそろそろ氷でも張らうかといふ頃になつて、メドチの話を始めるのも氣が利かないが、これでも來年の夏の手まはしとしてならば、早いと褒められてもよからう。奧南新報の記事目錄は、この節きまつて東京の一二の雜誌に揭げられるやうになつた。大よそ日本廣しといへども、こんな例は一つだつて他には無い。三浦利亢君とその一味の人々とが、鼻を高くしてござることは寫眞を見なくともよく察しられる。しかし八戶の諸君がこれに由つて、もしも世間に類の無い奇事珍聞がこゝだけに有り、それを聽かせてもらつて驚いて居るのだと、想像せられる樣だつたら、それだけは當つて居ない。たまにはそんな人も何處かに居るか知らぬが、我々は寧ろその正反對に、外でも格別珍しくは無い事柄、今まで何遍か承つたやうな話が、遠く南部の三戶郡あたりにも、歷然として存するといふことに眼を圓くして居るのである。それがどうしてその樣にびつくりすべき事なのかは、共同にこれから考へて行くによい。單に他府縣の人に物を敎へて遣るだけなら、新聞の役目の外である。それでは第一に地元の讀者に相濟まぬ。「村の話」が實際は國の話であり、或は弘く人類の話であるかも知れないわけが判つてこそ、讀んでもう一度考へて見ようといふ人が、土地にも追々と多くなつて行くのである。問題はまだ他にも幾つかあるが、先日是川《これかは》村のメドチの話を面白く讀んで、今でも覺えてゐるから一つその話をして置かう。

[やぶちゃん注:「メドチ」『日本民俗文化資料集成』第八巻「妖怪」に所収する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊)には青森県の項に「メドチ」が立項されてあり、『水の怪。河童のこと。十和田』では、『猿のような顔で身体が黒く髪をさらっと披った十歳位の子供という。女の子に化けて水中に誘う。人間に子を生ませる(大谷女子短大『十和田の民俗』)。紫尻を好む。相撲が好きだが腕を下に引くと技ける、麻幹(おがら)[やぶちゃん注:皮を剝いだ麻の茎。盂蘭盆の門火を焚く際などに用いる。「あさがら」とも。]にとける。左甚五郎が木屑に人の尻でも食えといって水に放したという伝説がある。八戸市櫛引[やぶちゃん注:青森県八戸市櫛引(くしひき:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)]では七日盆[やぶちゃん注:「なぬかぼん」。七月七日で盆行事の初めの日を指す語。地方によって、墓掃除・井戸替え・物洗いなどをする。「盆はじめ」「なぬかび」とも。]の日には馬をとるという。駒引に失敗、もう取らぬと約束したが生きていけないので滝の明神様にこの日だけと願って許されたという(川合勇太郎『ふるさとの伝説』)。下北半島の正津川の河童が悪戯をして困るのでショウズの婆さん[やぶちゃん注:「三途河婆(しょうずかばば)」であろう。所謂、地獄の三途(さんず)の川辺で、亡者の衣服を剝ぎ取るとされた鬼形の老女奪衣婆(だつえば)のこと。]に祈願して懲らしめてもらった。紫尻を嫌う。しかし一旦見こまれると逃れられず、友達や親戚に化けてきて必ず川に巡れ込む。生まれつきの運命だという(『奥隅奇譚』)(以上、石川純一郎『河童の世界』)。津軽藩若党町の子が川で溺れた。水を吐かせようと手を尽くすと、腹のうちがグウグウとなりたちまち肛門から長さ一尺六、七寸で体が平たく顛の大きなものが走り出て四辺を狂い回った。打ち殺そうとしたが川に飛び込まれた(平尾魯魚『谷の響』巻五-七)』とある。また、ウィキの「メドチ」には、『青森県の櫛引八幡宮』(青森県八戸市八幡八幡丁(やはたはちまんちょう)にある。ここ)『には、このメドチの発祥にまつわる伝承がある。江戸時代の名工といわれる左甚五郎が八幡宮の本殿を建てる際に材木を削った際の木屑を川に捨てると、木屑の「これから何を食えばいいか」という問に甚五郎が「尻でも食らえ」と答えたため、木屑はメドツ(メドチ)となって人を襲うようになった(別説では甚五郎が本殿建築に使役した木偶人形を、本殿完成後に川に捨てると、それらがメドツとなったともいう』『)。八幡は鷹にメドツを懲らしめさせた。鷹があまりメドツの頭を突くので、メドツの頭はへこんで毛が生えなくなった。また、人を襲わないと餓死してしまうメドツを八幡は哀れみ、旧暦』七月一日から十六日まで、『矢倉の入口から里川の入口までの間で人』一『人と馬』一『頭を襲うことを許したという。櫛引八幡宮の本殿には鷹に抑えられたメドツの彫刻が残されているが、風雨にさらされて彫刻が劣化したため、メドツの姿を確認することは困難になっている』。『なお、青森県八戸市尻内町には、メドツ河原という地名がある』とある。「櫛引八幡宮」公式サイトのこちらの「建物紹介」の下方の一番左の画像をクリックされたい。本殿の脇障子の左にある「鷹にメドツ(河童)」の彫刻を見ることが出来る。鷹が両脚でメドチを押さえ込んでいる。「メドチ」の語源については、「蛟(みづち)」(水中の下級の龍の一種)の訛りとする記事を見つけた。確かにそれもありかとは思うが、私は富山県高岡市伏木に六年住んだが、そこでは「緑」を「めど」と呼んでいた。河童の皮膚は青緑色とも言う。「緑色の奴」=「めどっち」「めどち」である。これも私は語源候補かと思っている。さらに、私の二〇一六年の電子化注「谷の響 五の卷 七 メトチ」も是非読まれたい

「三浦利亢」不詳。識者の御教授を乞う。名前は「としたか」と読むか。【2023219日削除線+追記】いつも情報を戴くT氏より「青森県史デジタルアーカイブス」の「01_奧南新報「村の話」集成(上・下巻)」(1998年刊)の「『奥南新報』にみる民俗記事―八戸郷土研究会を中心にして―」のページを紹介された(検索で「Fork_OM2_9998」を入れて出る記事がそれ)。これによれば、この三浦利亢は恐らく本名を三浦広蔵と言い、当初は、『はちのへ新聞社』(八戸印刷会社)の『職工であった』が、『事情により奥南新報社に転じた』とあり、『三浦が編輯人となるのは、大正六年新聞社が堀端町から番町に移って間もなく、前任者の関向堅吾が急死したためで』、『編輯発行人として三浦の名が初めて出るのは大正七年一二月一日付の第一二七四号から、八戸市議会議員選挙に政友会から立候補するために交代する昭和四年四月一九日付の第二四七六号までである。政友会は昭和四年六月の選挙に大勝し』、『三浦も当選するが、新聞社の仕事は続けている』とある。而して、』『かつて八戸に、文芸研究を目的とする「詩文会」があり、奥南新報社を会場に活動していた』が、『それを大正九年(一九二〇)一月一六日の例会で「郷土を中心とする百般の研究」をする会にし、会名を「郷土研究会」に改めようと協議している。当日の出席者は、黒沢林泉・小野寺柏舟・下斗米撫山・東光・恋川なぎさ・川合染之助・近藤喜衛(『奥南新報』主幹)・三浦利亢であった。その直後『奥南新報』に次のような「郷土研究会創立に際して」の一文を載せ、入会を呼びかけている』。――『(前略)郷土研究は単なる保守趣味ではない。郷土研究は町の体裁を飾らんがための故郷史編纂をもって能事とするものではない。吾々の生れ出た土地、吾々を生み出した人間、この生々進展し来れる力と熱とに対する深き理解を目的とする。故に故郷研究はまた同時に正しきたしかなる未来への唯一の出発点であらねばならぬ。(中略)しっかりと、しっかりと、この吾々が生れ出し郷土の上に立って、文芸問題に、思想問題に、その他故郷の上に美しき文化の果を結ばしめんためのなにかに対して、纒りのある中心のある研究をして行かうではないかと、吾が郷土の親愛なる友、思慮ある人々に向って、旧詩文会員等一同挙って堅き握手を求めてやまぬものである(光)』――『郷土研究会の第一回集会は、二月八日』、『奥南新報社で開き』、『川合染之助が「ゑんぶり」の起源について考証し、会員との意見交換をしている』とある(この「ゑんぶり」というのは、ウィキの「えんぶり」によれば、『初春の神事として青森県八戸市一円を中心とする東北各地で広く行われる予祝芸能の一種』とある)。T氏曰く、「『三浦利亢君とその一味の人々とが』と書いているのは、奧南新報の編集者である「三浦利亢」への挨拶でしょう」とあった。何時もながら、T氏に感謝申し上げるものである。

「是川村」青森県八戸市是川。]

 

          

 

 私たちの不思議とするのは、人は南北に立ち分れて風俗も既に同じからず、言葉は時として通譯を要するほど違つてゐるのに、どうして川童といふ怪物だけが、全國どこへ行つてもたゞ一種の生活、まるで判こで押したやうな惡戲を、いつ迄も眞似つゞけて居るのかといふ點である。たとへば人をみて角力を取らうといふこと、これはいやしくも川童といふものが居る限りは、必ず誰かにさういふ經驗をさせて居る。奧州方面だけには例が少ないかと思つてゐると、八戶では念入りに二人連れで化けて來てゐる。をかしいことには名前や外貌が少しづゝ違つてゐながら、角力のすきな點のみが特別に一致してゐる。九州では通例ガワッパだのガアラッパだのと呼ばれ、色も東北とはちがつて半透明の白色だといひ、一つの水溜りに千疋もかたまつて住むなどと言はれてゐるが、やつぱり人を見ると「おい角力とれ」といつて近づいて來る。取つて負けてやればキキと嬉しさうな聲をしてもう一番といひ、負けるとくやしがつて何疋でもかゝつて來る。今でも實際あつた事のやうに思つて居る者が少しはあるが、他人が通りかゝつて傍から見ると、相手の姿は少しも見えず、大の男がたゞ一人相撲を取つて居るのであつた。それがしまひには取り疲れて、夜が明けるとまるで病人のごとく、又は熱が出たり稀には發狂してしまふ者もあつて、あの地方ではこれを川童憑《かつぱつ》きといひ、修驗を賴んで加持して貰ふことになつてゐたさうだ。

 

          

 

 これは九州でも筑後川流域、もしくは豐前の小國川、これに隣接する小盆地などに、近い頃まで行はれて居た風說であるが、他の多くの地方、殊に中國から近畿方面へかけては、噂は今少しく說話化して、もう迷信の區域は通り越して居る。第一に川童を見たといふ者が非常に少なく、たまたま出逢つたやうにいふ者でも、よく尋ねて見ると後姿ぐらゐのもので、話は一體にぼんやりとして居る。その癖に川童は角力を挑むものださうな、うつかりと見ず知らずの者と、角力などを取つてはいけない、といふ類の評判ばかりは無闇に流布してゐる。彼の頭のまん中には窪みがある。その中に水が溜まつてゐる間はえらい力を持つて居る。だから是非とも角力を取らねはならぬ樣だつたら、先づ丁寧にお辭儀をするがよい。さうすると向ふもうつかりと答禮をして、その水を飜してしまふからなどと、さもさも誰かゞさういふ經驗でもしたやうに、私も子供の頃にはよく年上の友人から敎へられたものだつた。中國では川童をメドチとはいはない。私などの故鄕ではガタロ卽ち川太郞、備前備中では川子又はコーゴ、廣島縣からさきはエンコウといふ土地が多い。しかも奧州の三戶郡と同樣に手を引けばするすると拔けるから手を引くに限るといふことも、亦この地方では傳へられてゐるのである。近世の文人畫に猿猴の月を捕る圖と稱して、途方も無く長い手をした猿が、樹の枝につかまつて片手を伸ばし、水底の月を摑まうとするものがあつた。もとは禪家などの寓意に成つたものだらうが、かなり流行してたゞの民家にも屢拙いのが描かれてあつた。川童のエンコウも多分これから出た名であらう。私たちの鄕里でも一種エンコザルといふ水邊に住む猿だけが、手が左右兩方に拔け通つて、一方を縮めると一方が伸びるといふ、便利至極なのを持つてゐるやうに考へて居たのであつた。さうしてそれと川太郞とは同じものとは思はなかつたけれども、後者も亦手を引けば直きに拔けるやうに傳へて居るのだから、今からふり囘つて見ると、たしかに關係のあることであつた。さうで無かつたならば、あんな繪はこの樣に普及しなかつた筈だ。

[やぶちゃん注:「豐前の小國川」不詳。旧豊前国に小国や小国川はない。熊本県北東の山間部にある阿蘇郡小国町(おぐにまち)があるが、ここは旧肥後国であり、豊前ではないし、そこを流れる河川に小国川はなく、何より河童が遡上するにはちょっと山奥過ぎる気がする。不審である。旧国名及び河川名を柳田は誤っているとしか思われない。戦前の地図も確認したが、見当たらない。一つ思ったのは、旧豊前国の大分県と福岡県の県境付近を流れる「山国川(やまくにがわ)」を誤認したのではなかろうか?

「文人畫に猿猴の月を捕る圖と稱して、途方も無く長い手をした猿が、樹の枝につかまつて片手を伸ばし、水底の月を摑まうとするものがあつた」所謂、「猿猴捉月」(えんこうそくげつ)である。ウィキの「テナガザル」の「猿猴捉月」によれば、『仏教の戒律書』「摩訶僧祇律」『巻第七に』『猿猴』(=テナガザル)『の寓話が載る』。『話の内容は』五百『匹の猿猴が暮らしていた木の下に井戸があり、その水面に映った月を見たボスの猿猴が「月を救い出して世に光を取り戻してやろう」と手下に呼びかけ、これを掬い取ろうとして木の枝にぶら下がり、数珠つなぎに水面へ降りていったが、水面の月に手が届く寸前で枝が折れてしまい、猿猴たちはことごとく水に落ちて溺死してしまったというもので』、『身の程知らずの望みに基づいた行動は失敗や破滅を招くという戒めを説いている』。『猿猴捉月は特に禅で好まれた題材で、「猿猴捉月図」として水墨画に描かれたりしたほか』、『茶釜の意匠に採られたりもしている』とある。私も何度か同意匠の禅画で見た。そちらには室町後期から戦国にかけて生きた画僧雪村(せっそん)筆の「猿猴捉月図屏風」(メトロポリタン美術館所蔵)があるので、それもリンクさせておく。

「手が左右兩方に拔け通つて、一方を縮めると一方が伸びるといふ」中国由来の妖怪猿の特徴であり、その怪猿自体を「通臂猴」と呼ぶ。思うに、これは東南アジアに棲息するテナガザル類(霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科 Hylobatidae)の樹上移動の様子を見て、そのようなものとして誤認したものと考えられる。妖猿と河童の通性は人形(ひとがた)という点で親和性があり、古くのまがまがしい妖猿が河童と相互交換されることは腑に落ちる。]

 

          

 

 何故に川童が人を見るといつでも角力を取りたがるのか。今まであまり有りふれた話だから注意する者も無かつたが、考へて見ると奇妙なことである。川童の妖怪である所以のもの、平たく言ふと川童の怖ろしいわけは、人を引込んで尻の子を拔くからであらうが、それと角力とは何分にも兩立しない擧動であつた。人の命を取るだけの自信があり、又計畫のある川童ならば、何もわざわざ力を角して見る必要は無いわけである。だから子供などは既にそんな話を信ぜず、普通は彼が水浴びに誘ひに來るといふ方を怖れて居た。實際每年の夏になると、折々さういふ疑ひのある悲慘事が起つた。他の子供の出て居らぬ時刻に、又はその群からずつと離れた場所で、たつた一人だけで子供が水の中に死んで居る。又は今まで遊んで居たのが急に見えなくなる。さうして大抵はきまつた淵などである爲に、現場を見た者は誰もなくても、それが川童の所爲だといふことになるので、人間にこの說明し難い不幸のある限り、メドチの信用はいつになつても恢復する見込は無いだらうが、それにしては人と角力を取つて、勝つて嬉しがつてたゞ歸つて行つたといふ話が、愈々以て解し難い不思議になるのである。

[やぶちゃん注:「尻の子」河童は、人の「尻子玉(しりこだま)」を抜くと言われた。「尻子玉」とは人の肛門付近に存在すると考えられた想像上の臓器で、私が思うには、恐らく水死体が腐敗し、肛門部の粘膜が開き、脱肛している様から誤認されたものと考えられるが、実際の内痔核疾患をも連想させ、如何にも分かり易い伝承発祥とは言えるように思われる。私の古い「耳嚢 巻之四 痔疾呪の事」の「河童大明神」の注も参照されたい。]

 この點に關しては、私はもう大分前から奧州南部のメドチに注意しなければならぬと思つて居た。その理由は、私等の鄕里で水に溺れて死ぬ者は、他に說明のつかぬ限り、誰でも川童に引かれたといふ推測を受け、御互ひはすべてその危險が有るやうに怖れてゐるのだが、東北ではどうやらそれが最初から、人について定まつて居ると考へられて居るやうである。この兒は水のものに取られる相があると言はれて、注意をしてゐたけれどもやはり取られたといふ類の世間話は多い。川童に尻ご[やぶちゃん注:「尻子」。尻子玉。]を拔かれる資格といふのもをかしなものだが、今でもよく聽くのは紫臀《むらさきげつ》をした者が、特にメドチによく狙はれるといふことで、後になつてから成程あの子供は、ほんにさうであつたといふ場合が當地でも多いといふ話である。尻の紫は私の聞いた所では、モンゴリヤ系民族の常の現象ださうで、現に日本人の中にはその例はざらにある。それが川童の眼に好ましく見えるやうでは、格別我々も安心といふわけには行かぬが、とにかくに彼に選擇があり、その條件に合した者だけが取られるといふのは、何か仔細が無くてはならぬことであつた。さうして氣を付けてゐると他の地方にも、以前は同じやうに考へられて居たのでは無いかと思ふ節が、少しづゝ現れて來るのである。

[やぶちゃん注:「紫臀《むらさきげつ》をした者」蒙古斑のこと。先天的に発生する幼児性の、主に仙椎の部分の皮膚に発色する薄青い灰色の尋常性母斑(ぼはん)のこと。発疹の様にも見えるが、通常、三~五歳で消失する。詳しくは参照した当該ウィキを読まれたい。]

 

          

 

 そこでメドチが角力を取りに來たといふ話が、又大いに參考になるのである。人を途上に待伏せして、角力の勝負を挑むといふ怪物は、必ずしも川童だけでは無かつた。土佐でシバテン又は芝天狗といふものも、他にはこれといふ惡戲をした話も無いが、たゞやたらに角力ばかり取りたがる。さうしてうかうかとその相手をして居た者が、しまひには發狂したとか、命を失つたとかいふ風說ばかりが多かつた。但しこの話はまだ大分川童と似て居る。土佐には川童といふものも別に居たのだけれども、芝天が多く川の堤や橋の袂に現はれ、その形が七八歲の小兒と似て居たなどといふのも、どこと無く川童の出店のやうであつた。ところが今一種、これとはよほど性質はちがつて、しかも角力のすきな怪物が東北には居た。津輕から秋田に連なる深山幽谷に於て、山人、おほ人又時として鬼ともいつたものが卽ちそれであるが、此方は一向に人を害せんとする樣子は無く、たゞ我々を見かけて角力を取らうといふのみで、勝つたり負けたりして居るうちに段々と懇意になり、しまひには家へ遊びに來るまでになつたといふ話さへある。一旦交際を始めると中途で止めることが出來ぬらしく、怒られるとこはいからいつ迄も機嫌を取つて居なければならぬことが、迷惑といへば迷惑だつたかも知れぬが、命を奪はうとせぬのみか、時には相撲の相手をして貰ひたい爲に、薪を伐りマダの皮を剝ぎ畑を起す等、大きな力で山仕事を手傳つてくれたといふ話も傳はつて居る。つまり素直に彼のいふことをきいてさへ居れば、本人の利得に歸することが多かつた。その點がよほど九州の川童などと違つて居るのである。[やぶちゃん注:「シバテン」『日本民俗文化資料集成』第八巻「妖怪」に所収する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊)には高知県の項に「シバテン」が立項されてあるのだが、『水の怪。川の堤に出る。形はすこぶる河童に近く、このんで相撲を挑む。土佐郡土佐山村』『では小童の姿で幾十となく出てきて相撲を所望するが、相手になると化かされて一晩中相撲をとらされるという』とあった後に、『シバテンは旧暦六月六日の祇園の日』(不審。所謂、八坂神社で知られる祇園会(ぎおんえ)は六月七日から始まる)『からエンコウにとなる』とあって、土佐では河童の生育過程で名が変わることが判る。またシバテンは「コノハテング」と呼ぶところがあるともあり、別に妖怪ではなく、『人をたぶらかす生霊の一種ともいう』ともあった。]

 或はその九州の川童とても、もとはかういふ風に平穩な交際であつたのかも知れない。單に川童や芝天が出て來て角力を取らうと言つただけならば、考へて見ると怖い筈は無かつたのである。女や老翁の最初から自信のないものならば、第一にこれに應じて力《ちから》を角《かく》する氣にはならなかつたらうし、たまたまその道の心得のある者でも、負けてばかり居るやうだつたら、彼も相手にはしようとしなかつたらう。それが少しばかりの力自慢で、勝つた經驗のある樣な男が、つい挑まれて何のこいつがと、一番負かしてやる氣になつて引掛かるのである。或は實際こつちの方が强くて、相手を投倒した爲に後の祟が怖ろしかつたといふ話もある。何にもせよ人と川童との交涉は一般的で無く、必ず一定の資格ある者に限つたことは、角力も紫尻《むらさきじり》の場合と異なる所が無かつた。

 

          

 

 我々の妖怪學の初步の原理は、どうやらこの間から發明せられさうに思はれる。その一箇條としては、ばけ物思想の進化過程、卽ち人が彼等に對する態度には三段の展開のあつたことが、この各地方の川童の擧動と稱するものから窺ひ知られる。第一段には所謂敬して遠ざけるもので、出逢へばきやつといひ、角力を取らうとすれば遁げて來る。夜分はその邊を決して通らぬといふ類《たぐひ》、かうして居れば無難ではあるが、その代りにはいつ迄も不安は絕えず、或一定の場所だけは永く妖怪の支配に委棄《いき》[やぶちゃん注:ここは法律用語で「物又は権利を放棄して他人の自由に委(まか)せること」を指す。]しなければならない。それを出來るだけ否認せんとし、何の今時その樣な馬鹿げたことが有るものかと、進んで彼の力を試みようとして、しかも内心はまだ氣味が惡いといふ態度、これが第二段である。狐・クサイ[やぶちゃん注:見かけぬ用法だが、形容詞「臭(くさい)」を名詞化したものであろう。「疑わしいもの」「怪しい対象」の意でとっておく。]の化けかゝつて居るのを見破つて、却つていつの間にか自分が坊主にされた話、又は天狗を輕蔑して力自慢をして居た勇士が、これでもこはく無いかと毛だらけの腕でつかまれ、腰を拔かしたといふ類の話は、何れもこの心境の所產であつて、これには屢角力の勝負を伴なうて居た。つまり人にはさまざまの考へ方があつても、社會としては半信半疑の時代であつた。それが今一步を進めて信じない分子が愈々多くなると、次に現れて來るのは神の威德、佛の慈悲、乃至は智慮に富む者の計略によつて、化け物が兜をぬぎ正體を現して、二度と再びかやうな惡戲をせぬと誓ひ、又は退治せられて全く滅びてしまつたといふ話が起る。それは聽いて居ても面白く興があるので、次第に誇張せられてしまひには、馬鹿げて弱く愚鈍なる者が、妖怪だといふことに歸着し、それを最後として追々に說話の世界から消えて行くのである。現在の昔話に僅に殘つて居る妖怪は、この三つの種類が錯綜して、順序が明らかで無い爲に時々は誤つた解釋があるのだが、將來もう少し親切な觀察者が、細かな分類をしてくれたらこれだけは判つて來ることゝ思ふ。さうして川童の角力といふ言ひ傳へは、これに關しては可なり有力な參考であると信ずる。

 

          

 

 これは同時に又相撲といふ競技の今まで不明であつた歷史をも暗示する。何故に相撲が神社に伴ひ、もしくは必ず節日の行事であつたかといふ問題は、この方面からで無いと解說することが出來ぬやうだ。古人は腕力と勇氣との關係を、今よりも一層深く結び付けて考へて居た。力の根源を自分一箇の内にあるものと信ぜずして、何か幸福なる機會に外から付與せられるものゝ如く解して居た。石を持ち擧げて見てその重さ輕さの感覺に由つて、願ひ事の叶ふか否かを卜《ぼく》したと同樣に、相撲は又神靈の加護援助が、何れの側に厚いかを知らんとする方法の一つであつた。勝つた力士の自負自尊は非常であつたが、その背後には常に熱烈なる信仰があつたのである。神に禱《いの》つて大力を得たといふ口碑は、東北には殊に多い。それは平素の心掛け、もしくは難行苦行の致す所でもあつたが、兼て又その人々の持つて生れた約束のやうにも認められて居た。現在の遺傳論に照して不思議は無いやうなことまで、家に特別の力の筋といふものがあると傳へて、その理由を說かうとして居た。これが又地方の頭目の永く優勢の地位を保持して居た理由にもなつて居る。

 奧州などの川童が角力を挑んだのは、恐らく最初は主としてかういふ種類の人たちに向つてであつたらう。關《せき》は今日の語でいふと選手であり、又記錄把持者であつた。第二の競爭者の進出をせき止めて、自分が霸を稱して居るからそれで關取といつたのである。彼等の强力の根柢と賴む所が、近世風に自分一箇の體質又は習練と稱せられ、或は又全然別なる神佛の御利益に基づくものと信じられて居る限りは、川童や山人は是非ともこれと力を角して、我威力を承認させなければならなかつた。さうして昔の習はしのまゝに、負けて平伏したものは庇護せられ、これと抗爭して或は勝ち或は負けたものは、いつ迄も惡戰苦鬪を續けたのである。妖怪はつまり古い信仰の名殘で、人がその次の信仰へ移つて行かうとする際に、出て來てかういふ風に後髮を引くのである。日本の新舊宗敎は殊に入亂れて居る。さうして今日はおばけの話を透《とほ》してゞ無ければ、もはや以前の國民の自然觀は窺ひ知ることが出來なくなつた。

 南部地方の怪談にはこの意味に於て、尙珍重すべき色々の資料を保存して居る。たとへば今日既に童話化してしまつた猿の壻、或は大蛇のおかたになつた娘の話などにもこちらにはやゝ古さうな形のものが併存して居る。櫛引村のおほよが物語を始めとし、遠野には川童が壻入をして、子供を生ませたといふ家なども殘つて居た。卽ち水の神の信仰を宣傳し又立證しなければならぬ舊家が、いやいやながらもまだ古い因緣に繫がれて、急にはこの傳說を振棄《ふりす》てずに居たのである。をかしい話ではあるが、水の物に愛せられるといふ紫臀の子供なども、世が世であるならば亦一箇の神主の資格であつたかも知れない。

[やぶちゃん注:「大蛇のおかたになつた櫛引村のおほよが物語」この民話、どこかで読んだ記憶があるが、思い出せない。気づいたら、追記する。YouTubeのボイスコミックの「CV子安武人・花守ゆみり『大蛇に嫁いだ娘』」はこの伝承に基づく一つの変形譚であろう。主人公の娘の名は「おみよ」である。]

 

          

 

 この問題をこれだけの簡單な言葉で、說かうとしたのは無理であつたやうだ。それは又改めて詳しく述べることにして、さし當り御知らせをしたいと思ふのは、メドチといふ語の分布及び由來である。北海道の土人が水の神をミンツチと呼び、その怪談には若干の一致があることは、夙く金田一敎授がこれを說いて居られる。この蝦夷のミンツチと八戶などのメドチと、同じ語であることは大よそ明らかだが、問題はどちらが眞似たか採用したかである。南部では馬淵《まべち》と北上との分水嶺が境で、岩手縣ではもうメドチといつて居らぬらしいが、津輕にはたしかにその名がある。但し平尾魯仙翁の著書などを見ると、メドチと川童とは別々であるやうにも思はれ、前者は少なくとも長蟲のやうな形に空想せられて居る。それにも拘らず私はなほこれを川童の地方名の如く信じて居るわけは、遠く離れてこれと近い語が行はれて居る故である。現在知られて居る例は三箇處、能登の半島では我々の川童が明らかにミヅシで、頭の皿に水があり、相撲を取りたがり、又馬を引かうとして失敗したなどといふ逸話をもつて居る。次には滋賀縣で湖水東岸地方、これもミヅシといひ又同樣の俗信が行はれて居る。この兩地のミヅシと奧南部のメドチとは、聯絡が無いものとは考へられない。さうすればこれはアイヌの方が後に聞いて、少なくとも日本から名を學んだのである。

[やぶちゃん注:「南部では馬淵と北上との分水嶺が境」「北上川最北の湧水地」はここである。ほぼ同縮尺で馬淵川を示すとここである。一見、近くて同水源かと錯覚しそうになるが、後者の馬淵川を最上流まで遡上して戴きたい。すると、西の北上川源流とは反対の東へとどんどんカーブして行き、岩手県岩手郡葛巻町江刈の「馬淵川源泉」に辿り着く。されば、馬淵川(まべちがわ)と北上川は全く異なった水系であって、どこも繋がっていない。さればこそ真正の分水嶺とは言えるのである。]

 それから最後にはずつと懸離《かけはな》れて九州南部、薩摩と日向大隅の一部では亦確かにミヅシンといつて居る。ガアラッパ又はガオロといつても通ずるが、此方が多分新しからう。かういふ靈物には忌んで名を言はぬ場合があるので、第二の稱呼が起り易いのである。ガオロ・ガアラッパは共に「川童」の日本訓みであるが、九州では現在又カハノトノもしくはタビノヒトなどと稱へてこの語を避けようとする傾向も見えて居る。ミヅシンは土地の人たちが「水神」の湯桶《ゆとう》よみだと解して居るらしいが、これを八戶方面のメドチや蝦夷地のミンツチに比べて見ると、始めて古語のミヅチと同じものであり、たゞこの國の三方の端々にのみ、たまたま保存せられて居たことが判つて來るやうである。ミヅチは蛟と書き又虬と書いて居る。だから蛇類では無いかといふ人もあらうが、それに答へては支那ではさう思つて居たといふより他は無い。日本のミヅチといふ語には水中の靈といふ以外に、何の内容も暗示されて居らぬ。それが果して長蟲であつたか猿に似て居たかは、メドチを喚んで來て體格檢査をした上で無いと決しられぬ。我々の幻覺乃至空想は今でもまだ勝手次第である。

[やぶちゃん注:「虬」音「キウ(キュウ)」。「蛟」(みづち)と同義とされる龍の一種。中国では蛇は龍蛇類として同類であり、本邦でもそれを受けて蛇から龍への変異も語られる。]

 

          

 

 それから川童の手が拔けるといふこと、これもアイヌの中では知られて居り且つ說明せられて居る。昔神樣が多くの人數を集める必要があつて、急に草を束ねて小さな人形を作り、それに生命を吹込んで活躍させたが、用が濟んでしまつたのでこれを湖水に放ち棄てた。今あるミンツチの始めはこれであるといふ。色々惡戲をするが元來が一本の棒を突通して兩腕にしたのだから、片方を持つて引けばするすると拔けるのだといつて居る。

 これと半分以上同じ話が、又三戶郡にもあつたかと記憶する。少なくともこれに似た話は各地に存するのである。昔左甚五郞が某地の佛閣を建立した折に、大工の手が足らぬので人形を多く作りこれに息を吹込んで働かせた後《あと》川に捨てた。それが川童になつて今でも居るのだといふ話は、奈良縣などでも聽いたことがある。九州では肥前の或舊社の傳へとして、やはり人形が川童になつた話が殘つて居る。その顚末は北肥後戰記といふ書にも出て居るが、一つの特徵はその川童を利用したといふ橘島田麿といふ人の子孫が、澁江氏と稱して中世の豪族であり、今でも各地に分居して永く川童の取締りに任じ、現に右申す御社の神主の家もこれであることである。九州の川童はその災害も系統的であつたと共に、これを統御して水難を防止する役目も亦非常に發達して居た。これはヲサキ狐を攘《はら》ひ除《の》ける三峰山《みつみねさん》の信仰區域だけに、ヲサキ持ちの家が最も多く、人狐專門の行者の居る出雲伯耆に、人狐の跳梁して居るのと同樣に、なまじ祈禱の效能を說く者が居る爲に、いつ迄も住民にこれを忘却することを許さぬのであらうと思ふ。とにかくにこの人形の話は形跡無しには起るまい。さすれば曾てかういふ腕の拔け易い或偶像を作つて、ミヅチ卽ち水の神を祀つて居た時代があり、その風習は弘く國の南北端まで波及して居たもので無かつたらうか。現在はもうさうした祭り方をせぬ樣になつたとすれば、これ位の話の變化、想像の成長はありさうなことで、我々日本人は殊にその方面では氣が早かつたのである。

[やぶちゃん注:「一」の私の「メドチ」の注で既注。

「橘島田麿」「島田丸」の誤記。次のリンク先に原本を見よ。

「北肥後戰記」佐賀藩士馬渡俊継(まわたりとしつぐ)の編になる肥前を中心とした九州の戦国期通史である「北肥戰誌」のこと。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの『国史叢書』(矢野太郎編・大正七(一九一八)年国史研究会刊)の「北肥戰誌 一」の「澁江家由來の事」。次のページの『今の河童是れなり』と出る。]

 

          一〇

 

 最後にもう一つだけ、小さな八戶地方の世間話が、我々をして膝を打たしめた點を述べて置かう。既に信仰者を失つた水中の靈物が、なほ角力を取つて人間の關取を押伏せたといふことは、土地の人にとつては安からぬことであつた。何とかして結局彼等を負かしたといふ話にしようといふには、彼の祕密を聽き知つたといふのが最も手輕でよい。これは六つかしく言ふならば、人類の知識が進んで、次第に自然を制御して行くといふ理想を具體化したものとも言へる。便利なことには見馴れぬ若い者が二人づれで遣つて來て、歸りに後について聽く人があるとも知らず、不用心にも自分の腕の拔けやすいといふ祕密を、洩らしてくれたといふ話になつて居るが、これなども我々の妖怪に對する態度の變化であつた。さうしてこの空想にも前の型があつたのである。

 川童にはめつたにこんな失策が無かつた樣だが、同じ插話は日本では蛇壻入の話には多かつた。夜來て曉に歸つて行く不思議な壻殿を見あらはす爲に、母が勸めて絲のついた針をその衣服のはしに刺させる。さうして翌朝はその絲をたぐつて、山奧の洞穴に行つて大蛇を見たといふ迄は、古く且つ弘い言ひ傳へであつたが、我邦では通例これに立聽きの話が附いて語る。靜かに聽いて居ると岩穴の底で、唸り苦しむやうな聲がきこえる。その傍に誰か介抱をして居て、だからあれ程私が止めたでは無いか。やたらに人間の娘などに手を出すから、針を立てられて銕氣《かなけ》の毒に苦しめられるのだといふと、他の一方の呻く者の聲で、いやおれは死んでも思ひ殘すことは無い。種を人間の中に殘して來たからと答へる。なアに人といふ者は思ひの外賢いものだ。もしも菖蒲《しやうぶ》と蓬《よもぎ》の葉を湯に立てゝ、それで身を洗つたらどうする。折角生ませようとした子が皆下りるぢやないかと言つて居る。これはうまい事を聽いて來たと、早速家に歸つてその通りにした所が、果して盥《たらひ》に何ばいとかの蛇の子が死んで出てしまひ、その娘は丈夫になつたといふ風な話は、少しづゝの變化を以てどこの國にも行はれて居る。これにも尋ねて行けば又原《もと》の型はあらうが、近頃では先づ主として、水の神との絕緣をかういふ話にして說いて居る。角力の川童が腕を拔かれた理由に、これを適用して居ることは我々の文藝であつた。さうして格別古い頃からの言ひ傳へでも無かつた。しかも他の人は知つて居ないかういふ大切な知識を、持つて居るものは神主であり又は敎師であり酋長であつたことは、大昔以來かはりは無かつたらう。

 諸君は乃《すなは》ちそれを時代に適應するやうに改定しつゝ、今に至るまで我々の人生觀を指導して居られるのである。徒らに僅の珍しく古臭い習俗を、告げて驚かせるを以て能事《のうじ》終れりと、誤解せられずんば幸である。

 

大手拓次譯詩集「異國の香」 「交通」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  交   通 ボードレール

 

自然は生きてゐる柱から

ときとして錯雜した言葉を出さしめる寺である、

親しみ深い注意でそれを見る人は

象徴(サンボル)の森をとほりてそこへゆく。

 

遠くより、 隱密なる深い統一のなかに

冥合する遙かなる木靈のやうに、

夜(よる)のやうに、 又光明のやうにひろく、

匂ひと、 色と、 音とは相答へる。

 

それは子供の肉のやうに潑溂たる匂ひである、

笛の音のやうにこころよく、 牧場のやうにみどりである。

そして腐れたるもの、 ゆたかに誇揚するものは、

琥珀や麝香、安息香(パンジオアン)や薰香(アンサン)のやうな、

無限のもののひろがりを持つて、

靈と官能との感激を歌つてゐる。

 

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:本篇は「国立国会図書館サーチ」の「ボードレール = Charles Baudelaire : 明治・大正期翻訳作品集成」(ボードレール著/川戸道昭・榊原貴教編集/二〇一六年大空社刊)の書誌で調べたところ、前の「夢幻の彫刻」と同じ大正四(一九一五)年四月一日発行の『地上巡禮』初出であることが判明した。

 標題(原詩‘correspondance’)は「交通」とあるが、以下に示す原詩と、その詩想からは、こなれた訳とは言えない(但し、「交通」や「鉄道等交通機関の乗換(駅)」の意はある)。第一義の「符合」「合致」「合一」「調和」「対応」「照応」或いは「交感」「呼応」が相応しい。対象物との精神の深いところでの「交感」(「交通」)を指す。堀口大學「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)では「呼應」と訳しており、同詩集の冒頭の「憂鬱と理想」(‘Spleen et Idéal’)の中でも彼の詩的琴線を表わす象徴的な一篇である。堀口はこの詩に注して、『この詩の主題はボードレールには譜代の親しいもの』で、彼の『美術評論『一八四六年のサロン』の中にも、色彩と音響と香氣の間の呼應を說いたホフマンの『クライスレリアナ』の一節を引用したりして』おり、『また、この詩の第一、第二連の兩節は、自分の評論文『リヒヤルト・ワグネルとタンホイザー』中に引用してゐる』とある。

「木靈」「こだま」。

「琥珀」植物の樹脂が化石となったもの。黄褐色か黄色を呈し、樹脂光沢を持ち、透明か半透明。石炭層に伴って産出する。想像を絶する時間を隔てて自然が作り上げた秘宝の象徴物の一つであり、特定の条件で琥珀を燃やした際、松の木を燃やしたような香りがすることから、古くから香料として用いられ、漢方医薬として用いられることもあった。

「麝香」雄のジャコウジカ(鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に七種が現生する)の腹部にある香嚢(こうのう:麝香腺)から得られる分泌物を乾燥したもので、主に香料や薬の原料として用いられてきた。甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として古くから重要なものであった。また、興奮作用・強心作用・男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされて、本邦でも伝統的な秘薬として使われてきた。ジャコウジカ及び麝香の詳しい博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「安息香(パンジオアン)」安息香(あんそくこう)はツツジ目エゴノキ科エゴノキ属のアンソクコウノキStyrax benzoin、またはその他同属植物が産出する樹脂で、それらの樹木の幹に傷をつけ、そこから滲み出た樹液の固化した樹脂として採集する。主要な成分は芳香族カルボン酸とそのエステルで、古くから香料として利用されてきた。

「薰香(アンサン)」原詩の“l'encens”であるが、これは第一義的には特定の香料を指すのではなく、以上の三種のような神秘的なそれら等を薫じた「香」(こう/かおり)を言う。但し、原詩を見るに、上記三種と並列してあることから、私は香味料として古代から用いられてきたシソ目シソ科アキギリ属 ローズマリー Salvia rosmarinus のことを指しているものではないかと考えた。所持するフランス語辞書の“encens”の最後に『まんねんろう』とあり、これはマンネンロウ(迷迭香)でローズマリーの和名であるからである。しかし、個人ブログ「ボエム・ギャラント」の『ボードレール「コレスポンダンス」(万物照応) Correspondances』(この「万物照応」は本詩篇の邦訳題としてよく用いられるものであり、これはなかなかに良い訳と思う。この拓次の表題「交通」が「萬物照應」とあったとなら、詩想の吸収は遙かに躓かないからである)では、これを「乳香」(にゅうこう)と訳しておられる。これはムクロジ目カンラン(橄欖)科ボスウェリア属ボスウェリア・カルテリィ Boswellia carterii などの同属の北アフリカ原産の常緑高木から採取される樹脂で、芳香があり、古代エジプト以来、薫香料として用いられてきたものであり、並列に相応しい。而してフランス語の「乳香」Encensrésine oliban)」の冒頭にも、別名として“L'encens”とあることから、ここは「乳香」と訳すべきところと思う。

 以下、原詩を示す。英文サイトの英訳附きのページのものを使用し、壺齋散人(引地博信)氏のサイト「フランス文学と詩の世界」の「交感(ボードレール:悪の華)」によって連を決定稿の形である四連構成で示した。なおそちらによれば、『この詩はボードレールの比較的若い頃に書かれていたとする説もあるが、1855年に「両世界評論」に発表した18篇の中には含まれていない。おそらく』「惡の華」『初版の刊行』(一八五七年)『に併せて、新たに書いたものだと思われる。』とある。

   *

 

   Correspondances   Charles Baudelaire

 

La Nature est un temple où de vivants piliers

Laissent parfois sortir de confuses paroles;

L'homme y passe à travers des forêts de symboles

Qui l'observent avec des regards familiers.

 

Comme de longs échos qui de loin se confondent

Dans une ténébreuse et profonde unité,

Vaste comme la nuit et comme la clarté,

Les parfums, les couleurs et les sons se répondent.

 

II est des parfums frais comme des chairs d'enfants,

Doux comme les hautbois, verts comme les prairies,

Et d'autres, corrompus, riches et triomphants,

 

Ayant l'expansion des choses infinies,

Comme l'ambre, le musc, le benjoin et l'encens,

Qui chantent les transports de l'esprit et des sens.

 

   *

以上のように、本篇は四連構成とするのが、諸訳者でも共通しており、原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)の「翻訳篇」でも四連構成に変えてある。以上の正字のものを、そのようにして以下に示す。なお、そちらでは標題の「交通」に「コレスポンダンス」とルビがあるが、ブログ版では五月蠅くなるので、この注で留める。

   *

 

 

  交   通 ボードレール

 

自然は生きてゐる柱から

ときとして錯雜した言葉を出さしめる寺である、

親しみ深い注意でそれを見る人は

象徴(サンボル)の森をとほりてそこへゆく。

 

遠くより、隱密なる深い統一のなかに

冥合する遙かなる木靈のやうに、

夜(よる)のやうに、 又光明のやうにひろく、

匂ひと、色と、音とは相答へる。

 

それは子供の肉のやうに潑溂たる匂ひである、

笛の音のやうにこころよく、 牧場のやうにみどりである。

そして腐れたるもの、 ゆたかに誇揚するものは、

 

琥珀や麝香、安息香(パンジオアン)や薰香(アンサン)のやうな、

無限のもののひろがりを持つて、

靈と官能との感激を歌つてゐる。

 

   *

恐らく、拓次は第三連末がコンマとなっているのを意識して、確信犯でかく処理したものとは推察出来る。]

2023/02/17

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 川童祭懷古

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一一(一九三六)年六月発行の『東京朝日新聞』初出である。]

 

     川 童 祭 懷 古

 

          

 

 夏祭は都市の繁昌につれて、次第に華やかな又目新しいものになつて來た。見物の衆がこれに心を取られて、いつと無くその姿を移し學び、後には農村の秋春の祭禮まで、神輿に山鉾に同じ風流を競ふ例が、多くなつたのも無理はないと思ふ。當世は變り改まり、又ねんごろに根原《こんげん》を求め尋ねる。一たびこの行事の由來が、我々の遠祖の生活と、如何なる交涉をもつかを考へて見るのも、今においては必ずしも無意義の業とはいはれぬであらう。

 誰でも知つて居るのは、祇園はもと行疫神《ぎやうえきじん》であつたことである。部下の荒ぶる神々を統御して、その災禍を神を敬ひ祀る者に及ぼさぬといふ御力が、特に民衆の仰ぎ信ずる所であつた。津島の天王の信仰は夙《つと》に東國の方に行はれて居たやうだが、これは更に御葭神事(みよしのしんじ)といつて、追ひ放された疫神の行くへを、信徒に警戒せられる方式さへ設けられて居た。この二箇所の御祭を美々しく、且つ極度に面白くしようとした動機はわかつて居る。

[やぶちゃん注:たまたま、Twitter氏の2020720日の記事に『「川童祭懐古」、初出は挿絵つきだった』というタイトルで、本初出の冒頭の一部が写真版で掲載されているのだが、そこで氏も指摘されているように、この僅かな部分だけでも、初出との表記の有意に異なる箇所が三箇所も確認出来る。(底本)「華やかな」→(初出)「花やかな」、「農村」→「鄕(ごう)村」、「且つ」→「且(かつ)である。さらに、よく見ると以下の第三段落一字下げで書かれてある点(以上の最後の「動機はわかつて居る」を受けた注記附記形式に見える)も異なっている。柳田本人が書き変えたとすれば、どうということはない訳だが、前の部分で如何にも不親切な初出公開順列の操作を行っていながら、それを注記もしない人物が、どうして単行本に際して、こんなに些細な表現をこまめに書き変えるだろうか? という疑問がふつふつと沸いてきたことは確かである。

「祇園はもと行疫神《ぎやうえきじん》であつた」当該ウィキによれば、祇園信仰は『牛頭天王』や素戔嗚(すさのお)に『対する神仏習合の信仰である。明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となって』おり、『京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『を総本社とする』。『牛頭天王は元々は仏教的な陰陽道の神で、一般的には祇園精舎の守護神とされ』、「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう:略して「簠簋内伝」)にある記述が著名ではある。『中国で道教の影響を受け、日本ではさらに神道の神である』素戔嗚『と習合した。これは牛頭天王も』素戔嗚『も行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は薬師如来とされた』。『平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが』、『祇園信仰の原形である。その祭礼を「祇園御霊会(御霊会)」と』称し、十『世紀後半』、『京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになった。祇園御霊会は祇園社の』六『月の例祭として定着し、天延』三(九七五)『年には朝廷の奉幣を受ける祭となった。この祭が後の祇園祭となる。山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もある。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られ、祭列として御霊会(あるいは天王祭)が行われるようになった』とある。

「津島の天王の信仰」愛知県津島市にある津島神社に対する信仰。陰暦六月十五・十六日(現在は七月第四土・日曜日)に行なう神事に厄流しの行事があり、「葦の神事」「みよしの祭」「みよし」と呼ばれ、葦数千本を束ね、川に流したが、現在は神符を川葭の簀(す)で巻いたものを流している。他に「御葭神事」としては、陰暦六月五日に尾張国(愛知県)の熱田社で行なわれていた行事があり、寛弘年間(一〇〇四年~一〇一二年)に疫病が流行し、村人が旗・矛などを捧げて、大神に疫病の鎮まるのを祈ったのが始まりとされる。熱田八ヶ村から山車(だし)が出て、川葭を池中に流す行事などがあった。現在は南新宮祭として行なわれている(以上は総て小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 流行病に對する不安は、本來は都會のものであつた。さうして又上代に於ても、やはり新たなる外來の文化と共に、先づ中心の地を目ざしたことは史證がある。夏の祭が田舍にももし古くからあつたとすれば、その最初の目的は別であり、方法も亦おのづから異つて居た筈である。それがどの程度に感化を受け、又どれだけ以前の心持を傳へて居るか。これを明らかにするのは田舍の生活について視るの他はないのだが、先生が町にばかり固まつて住んでござる結果、今まではとかく都市の知識によつて、全國を類推せられる傾きがあつて難澁した。今度の川童祭復興の噂は、この意味に於て我々の注意しなければならぬ話である。

 田舍の舊六月は水の神の祭り月であつた。これを天王樣とも祇園とも呼ぶのが普通になつて居るが、今でもその趣旨は他に色々とある。日が照り過ぎれば、植田の泥は柔らがず、梅雨が强く降れば插した苗も漂蕩《へうたう》する。川の堰や流れを飮水にしてをれば、每日の涸れ濁りを苦にしなければならぬ。惠みも惱みも一つ神の力であつた。日本はこれほどまでに水をよく使ひ、水に賴り切つた國民でありながら、どうして昔から水の祭が、こんなにいゝ加減なのかと訝かる人もあるやうだが、實はいゝ加減で無く、又「昔から」でも決してないので、單に水道などで顏を洗つて居る人が其方に冷かだつただけである。いはゆる御靈會《ごりやうゑ》系統の都市の祭でも、この月營まれるものは水の緣が深く、濱降《はまお》り神輿洗ひ泉の御旅所、さては船の中の伎樂《ぎがく》などと、すべて水の神の祭と態樣《たいやう》を同じくして居るのだが、何か理由があつたと見えて、その神を水の支配者とする信仰は、記錄の上にはまだ現れて居らず、人はたゞ夏だから又は涼しさうだから、位にしか考へて居ない。しかも惡い病の流行は每年のことでもないから、次第にその目的がはつきりとしなくなつて、町では涼み祭などといふ淸遊氣分が橫溢するやうになつたのは、勿體ない話だと私は思つて居る。

 前年神奈川縣の秦野で簡易水道を作つたときに、赤痢が流行つて大騷ぎをしたことがある。自分たちの目には水道の出來るのが、遲きに失した爲としか見えなかつたのに、土地では却つてこれが水神の御氣に入らなかつた罰のやうに、解した人が多かつた。町ではこの類の災禍と水に對する不謹愼とが、同時に起ることが稀でないので、昔もかういつた信仰解釋が行はれ、或は水の神をその怖ろしさの半面から、疫病の神と見るやうになつたのではなからうか。さうで無ければ天王と水の神との同じ日の祭、瓜を氏神の供へ物とする理由、殊に川童と胡瓜との約束が、祇園樣の日を期限とするわけが說明し得られぬのである。

 

          

 

 文學に川童が二度目の登場をしたのは泉鏡花さん、故芥川龍之介氏などの御骨折であつて、御兩所とも私たちの川童硏究から、若干の示唆を得たやうに明言せられて居るのは光榮の至りだが、遺憾に思ふことはまだ少しばかり、川童を馬鹿にしてござる。恐らく幼少の頃に見られた近代の繪空言の影響で、あれでは我々の胸に描く所の水の童子と、相去ること遠きは素より、普通の村の人の今考へて居るものよりまだ見つともない。やはり例の化競丑滿鐘(ばけくらべうしみつのかね)の類《たぐひ》の文學に、「かつぱと伏して泣きたまふ」などとしやれ飛ばした圖柄の、延長としか見られないのである。笑つちやいけませんといひたい位のものである。

[やぶちゃん注:「泉鏡花さん、故芥川龍之介氏などの御骨折」前篇に既出既注。

「化競丑滿鐘」曲亭馬琴作で、寛政一二(一八一〇)年一月、耕書堂蔦屋重三郎から板行された浄瑠璃正本形式を模した妖怪オール・スター登場の滑稽本。国立国会図書館デジタルコレクションの明治二〇(一九九七)年共隆社刊が、一段組で読み易く、挿絵もある。]

 尤もこれには川童の側にも責任があるかも知れない。彼は零落して行く精靈の常として、やゝ化物根性とでもいふべきものを發揮し過ぎる。水全般の信仰を守らうとはせずに、たゞ自分一箇の存在を主張する。淵や靈泉に對する敬不敬には構はず、いやしくも川童を否認しようとすれば乃ち出て嚇す、といふ風に考へられ勝であつた。さうして現在のところでは、その活躍の範圍が甚だしく限局せられ、それも段々に怖くなくならうとして居るのである。その滑稽化は寧ろ運命だつたといつてよい。しかも江戶末期に出たあの烏天狗一流の似顏畫の如きは、いはゞ或個人の幻覺であつて、二つ以上を引合せて見れば、すぐにその眞でなかつたことが判る。要するに困つたものが流行したのである。

 川童を水虎だ蝹《をん》だと話した人は、日本に居るものは何でもかでも、皆支那にもあるといふ謬見から、出發して居るのだから相談は出來ない。日本の實地からこの問題を考へて見ようとしたのは、以前に水虎考略といふ四卷の書があり、その第一卷だけが流布して居る。これには諸方の見取圖なるものが載せてあるが、鼻の低いもの、犢鼻褌《たふさぎ》をかいたもの、甲羅があつて四つ匐ひのものなどが、雜然として竝んで居て、實は空想のまだ統一して居なかつたことを立證する。見た出逢つたといふ者の陳述も又區々であるが、これにはなほ一貫した特徵のやうなものがあつて、奇怪とはいひながらも心の底から、古人のさう信じて居た數々の痕跡が尋ねられる。相撲を取りたがるなどといふもその一つである。東北で山人又は大人(おほひと)といふものを除くの外、そんな氣さくな化け物は他には居ない。人に近づき交涉を持たずには居られなかつた名殘かと思ふ。紫臀《むらさきげつ》その他の體質に特徵ある者が、特に引込まれ易いといふ口碑と、かの民間說話の川童が美しい娘に壻入したといふものとは、關係がありさうである。後者は汎《ひろ》く水の靈全體についてもある話で、それを恥とも不幸とも考へずに、舊家自らがそれを信じ傳へて居た時代もあつたのである。

[やぶちゃん注:「蝹(おん)」底本の字体は(つくり)が「溫」の(つくり)となったもの。「グリフウィキ」のこれ。これは「水蝹」で、「ケンムン」「ケンモン」と呼ばれる奄美群島に伝わる妖怪。当該ウィキが特異的に詳しく書かれてあるので読まれたい。それを読むに、少なくとも漢字の「水蝹」は、六朝時代(二二二年~五八九年)の代表的短編志怪小説集「幽明録」に出る、中国伝来の水の精霊ではある。

「水虎考略」先の「川童の話」で既出既注。

「犢鼻褌」褌(ふんどし)のこと。

「大人(おほひと)」山中に棲むとされた大男の妖怪「山男」の異名。

「紫臀」臀(しり)が紫色であることを言う。]

 それからこの水底の童子の援助の下に、家が富み榮えたといふ話も方々に傳はつて居る。無論傳說であつて、事實その樣なことがあつた證據にはならぬが、少なくとも或頃さう信じた者があつたことのみは推測せしめる。淵から膳椀を貸したのが不信用のため貸さなくなつたといふ類の、後年の絕緣を說く例は無數にある。つまりは今のやうに害ばかり企てるといふ以前に、接するにその道を以てすれば、恩惠を示した時代もあり、又その中間に惡戲をして、人を揶揄してゐた段階も長かつたのである。九州の方では殊に多いやうだが、川童が人間に害をせぬ約束をした話、もしくは馬を引込まうとして失敗し、詫びて怠狀《たいじやう》を書いたり、骨繼ぎの祕藥を敎へたりしたのも、五十や六十の例ではなかつた。畠の作物ことに瓜類を悅んで、夜分に出て來て食ひ荒すといふだけでなく、人もその初生《はつな》りを串などに刺して、畠の端に立てゝ機嫌を取つたといふのも、恐らく本來は供物であつた。それが又六月の川祭《かはまつり》の行事ともなつて居るのである。

[やぶちゃん注:「淵から膳椀を貸したのが不信用のため貸さなくなつたといふ類」柳田國男が拘った「椀貸伝説」との重合型である。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里』(十五回分割)で言及している。

「川祭」陰暦六月と十二月の水神祭。この名称は西日本に多い。六月は一日・十五日・晦日(みそか)などを祭日とするものが多く、祇園・天王・津島などの神社祭礼に結びついたものもある。十二月は一日が普通で、川浸り餅(かわびたりもち:「川浸り」とは川の水に尻を浸し、又、餅を搗いて、水神に供え、水難除けと豊漁などを祈るもの)を川に投げ、供える。]

 

          

 

 國學院大學の一部の若い學者が、この水道萬能の都の中に居ながら、なほ上代の水の神の神德を仰いで、出來るだけ古式に近い村里風の川祭を、每年の行事として經營して居るのは、單なる好事《こうず》のわざとは私には思はれない。かういふ感覺こそは復習をせぬと消えるからである。たゞ氣になるのは夏休の都合か何かで、新曆六月の畠の胡瓜も無い頃にくり上げたことで、溫室の小さな花落ち瓜ぐらゐでは、果して「川の殿《との》」が滿足せられるかどうかである。月夜と瓜畑は歷史ある我々の田園幻想に、缺くべからざる條件であつた。私などの生れ故鄕では、胡瓜は祇園さんを過ぎると食べるものでないといつて居た。

 ところが土地によつてはこれと反對にこの日をすませてからで無いと、食つてはならぬといふ處があり、或は又この滿月の一晝夜だけ、絕對に食はぬといふ習俗の村もある。つまりはこの頃が全國を通じて、ちやうど胡瓜のしゆんでもあり、又これを以て水の神に供進する節日でもあつたのである。祇園には御紋瓜《ごもんうり》の口碑もあり、瓜生石《うりふせき/うりふいし》の傳說も記憶せられて居るが、神と瓜との關係は今ではもう尋ね難くなつて居る。

[やぶちゃん注:「御紋瓜」胡瓜を輪切りにした際に出る独特の形を、例えば、春日大社の神紋と同じであることから、胡瓜の輪切りを忌み、或いは食物禁忌とすることを指す。この紋様がウリ類の中でも胡瓜(きゅうり)のそれであると名指されたことから、河童の大好物で、河童伝承のある地域では、胡瓜を食わないといった禁忌もあることから、以下の「瓜石伝承」とともに柳田は言及に及んだだけのことであろう。「御紋瓜」や「瓜生石」には直接に河童との強い連関伝承はない。

「瓜生石」知恩院の「瓜生石」がよく知られる。サイト「絶景かなドットコム」の『知恩院「瓜生石(うりゅうせき)」』を参照されたい。]

 これに反してこの禁忌を犯す者の制裁は、依然として水中童子の管理する所なのである。胡瓜を食つてその香のするうちは、川に泳いではならぬといふ土地もある。これに子供の名と年とを書いて、川に流すとガタロに尻を拔かれぬといふ所もある。それを天王樣に上げるといふ場合にも、畏れて居る相手はやはり川童であつた。

 胡瓜は胡(えびす)の瓜と書くが、この信仰は輸入で無く、又中頃からの發明でもないらしい。古くは匏(ひさご)と川菜とを以て水の神に供へ、又火鎭めの祭をして居る。備中縣守淵(あがたもりのふち)の舊傳にもあるやうに、今ある昔話にも瓢簞千を持つて池に嫁入し、これを沈めて下さつたら、私も入りますといふやうなのが多く殘つて居る。目的は單なる食物以上に、これを以て水の靈の、力を試みるにあつたらしいのである。

[やぶちゃん注:「備中縣守淵の舊傳」『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(19) 「河童ト猿ト」(2)』、及び、「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(37) 「河童の神異」(3)」で言及しており、私も注を附してあるので参照されたい。]

 我々日本人はまだ外國の傳染病も知らぬ頃から、既にこの神の怒《いかり》の半面を經驗し、畏れ愼んでこれに觸れまいとして居たのである。古風な多くの信仰は學問によつて裏切られたけれども、水の災《わざはひ》は現實になほ絕えず、他には優れた說明もない場合が田舍にはあつたので、妙にこの部分だけが孤立して永く傳はつた。それをかはるがはる嘲り笑つて居るうちに、終《つひ》に今の樣な滑稽な化け物にしてしまつたのは、國民として少しく心苦しい次第だ。

 農民の生活からいふと、今でも舊六月は水の惠みの豐かに溢れる月であると共に、家々の小さな不安の抑へ難い月でもある。その滿月の夜頃を中心として、心を引締める物忌の行(ぎやう)に入つて行く心持だけは、たとへ自分はこれに倣はぬまでも、もつとよく理解してやつてよかつたのである。今日まで來由を知り得ない六月朔日、東部日本では衣脫朔日(きぬぬぎのついたち)、もしくはむけの朔日などといふ日でも、越後では川童が天竺から下る日と稱し、九州南部では川童の龜の子配りといつて、龜の子が足らぬと人間の兒を算《かぞ》へ込むなどといつて居るのを見ると、やはり戒愼《かいしん》して水に入らぬ日であつた。夏物斷《なつものだ》ちと名づけて、この日は野菜を食はず、もしくは夕顏の下へ行くなといふのにも意味がある。六月晦日は又川濯(かはすそ)祭などといつて、私等の國では水の邊《べ》の祭としたが、西國ではこの日を又水に入らぬ日として居る例が多く、天草あたりではこれを川童供養の日のやうにも考へて居る。

[やぶちゃん注:「むけの朔日」「剝けの朔日」。]

 さうかと思ふと他の一方には、この日必ず海に浴するといふ土地もあれば、人は入らぬが牛馬だけは是非とも入れるといふ處もある。つまりは只の日ではなかつたのである。汎く全國の言ひ傳へを比べて見ることが出來ぬ限り、古い信仰は消えてしまはぬまでも、年を追うてをかしくなる一方であらう。それを食ひ止めて一通りは知つて置かうとすれば、どうしても都市の若い學徒の、共同の反省に待つより他は無いと思ふ。

 

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 川童の渡り

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和九(一九三四)年十月発行の『野鳥』初出である。]

 

     川 童 の 渡 り

 

 かういふ題を揭げても、川童を鳥だと思つて居る人が有るわけでは無い。むしろ或鳥類を川童だと思つて居る者のあることを報告して置きたいのである。私はもう大分以前に、宮崎縣の耳川流域でこの話を始めて聽いたのだ。が薩摩の川内川《せんだいがは》筋でも同じことをいふさうであり、南九州ではそちこちの人がこれを知つてゐる。川童は秋の末から冬のかゝりの、雨などの降る暗い晚にヒョンヒョンと細い鼻聲見たやうな聲で鳴いて濱の方から山手へ、空中を群をなして飛んで行くものださうな。それから春さきやゝ暖かくなつた頃、やはり同じやうな夜中に同じ路筋を逆に、山から海岸へ啼いて出て來る。だからガアラッパといふものは冬だけは山に入つて住んで居る者に相違ないといふ類の話で、今でも聽かうとさへすれば、隨分眞顏になつて敎へてくれる人があると思ふ。

[やぶちゃん注:「薩摩の川内川」熊本県最南部・宮崎県南西部及び鹿児島県北西部を流れ、東シナ海に注ぐ一級河川。九州では筑後川に次いで第二の規模を誇る河川であり、最上流部は熊本県、上流部は宮崎県、中下流部は鹿児島県に属し、薩摩川内市が最下流で河口となる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 眞暗な晚だといふから、無論姿を見た人は無いのである。それを川童の渡りと推斷するには、もう一つ別の根據が無くてはならぬ。だが、信じて聽かうとする者に取つては、古いといふことが實は一つの證據なので、成程近頃になつて始めてそんな事をいひ出したとしても、誰も耳を藉《か》さうとする人が無いことだけは確である。ところが一方には羽の音がするといふ人もある。さうして羽のある川童といふのは聽いたことも無いのだから、疑ふ人々はそれは一種の鳥であらうといふのだが、たゞ一種の鳥だけでは、私等でもまだ合點が出來なかつた。自分の友人では、石黑忠篤君などがその聲を聽いて居る。さうして誰かその道の人に、あれはムナグロといふ千鳥の群だといふことを敎へられたといつて居る。この點を私はもう一度、「野鳥」の問題にして見たいのである。果してムナグロがそんな聲で啼き又その季節にさういふ去來をする習性をもつものかどうか。私は繪でより外その鳥をじつと見たことが無いのだから當然その聲は耳にして居ないのである。川口君を始め九州の鳥に明るい人がこの會には多い。ムナグロならさういふ誤解を引起すかも知れぬと、いふ程度に迄でもこの問題を進めて置きたいのが私の願ひである。

[やぶちゃん注:「石黑忠篤」前の「川童の話」で既出既注。

「ムナグロ」同前。

「川口君」不詳。知られた鳥類研究家で民俗学者でもあった川口孫治郎(明治六(一八七三)年~大正一二(一九二三)年)がいるが、本篇の当時は既に逝去されており、違う。]

 話はこれだけだが前以て御禮のしるしに、私の方でも判つて居ることを御參考にのべて置かう。鳥と人間との交涉が目標なら、こんな話でもまだ野鳥の會の領内だと思ふ。東京附近の人に考へさせると、川童がその樣に群をなして行動するといふことが既に一つの疑問であらう。この淵には居るといふ話があつても大抵は一頭で、畫に描いても又泉君芥川君が小說に書いても皆一つで濟ませて居る。ところが朝川善菴の隨筆に出て居る常陸の海邊の川童の如きは五頭か六頭か數は忘れたが、大分かたまつて漁夫の眼にふれたといつて居る。それから北へ行くと化けて女の所へ來たなどといふのは單獨だが、出逢つて見たといふ例は群になつて居る。寂しい水邊のよく川童の出て遊ぶ砂原には朝方通つて見ると無數に足の跡があり、それが小兒の足の如く又水鳥の趾痕《あしあと》のやうであつたともいつて居る。川童が出て來て角力《すまふ》を取らうといつた話は東日本に少なく西へ行くほど多いが、これも最初に出て來るのは一頭で、勝つてはふり投げても、わざと負けてやつても、後から後から仲間が加はつて來るといふ。姿を隱して始めから控へて居るらしいのである。九州の川童も人間を試みに來る時には矢張此方の樣に子供などに化けて一人で現れるのだが、一旦手に合はぬと見ると何處からとも無く多數の同勢を寄せ集めて來て、手取り足取りして相手を閉口させなければ止めない。それでゐて常は水の底に一ぱい居ても、丸で海月などのやうに透きとほつて少しも見えぬといひ、或は又形を變へることが自在で、馬の蹄で作つたほどの小さな水溜りにも、千匹ぐらゐは必ず隱れて居るといふ話もある。そんな都合のいい動物といふものが有る氣遣ひは無い。强いか强くないかは別問題として、かういふ出方をするからには化け物にきまつて居る。それが土地によつては數の力を以て我々を威迫するかの如く、以前から考へられて居たのである。

[やぶちゃん注:「泉君」泉鏡花。小説「貝の穴に河童の居る事」(初出は佐藤春夫主宰の『古東多万(ことたま)』昭和六(一九三一)年九月創刊号。初出は「貝の穴に河童が居る」であったが、昭和九年三月刊行の作品集『斧琴菊(よきこときく)』(昭和書房)に収録する際に改めた)等がある。旧「鏡花花鏡」のアーカイブ版の「277」番のPDFをお薦めする。近いうちに、オリジナル注附きで電子化する予定である。

「芥川君」言わずもがな、芥川龍之介の「河童」である。私は芥川龍之介作品の中でも、思い入れの強い作品で、

河童、及び、芥川龍之介 「河童」 やぶちゃんマニアック 注釈

の他、

芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史 同縦書版【ブログ版】

芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)同縦書版

や、お遊びの同作からの抽出、

マツグ著「阿呆の言葉」(抄)

などを公開している。なお、言っておくと、出版が本書の翌年だから仕方ないが、河童小説をソリッドに纏めた火野葦平の「河童曼陀羅」こそが、正しく筆頭に挙げられるべき正統なものと信ずる。私はとうに全篇の電子化注を終えている。未読の方はどうぞ!

 川童が冬は山に入つて山童《やまわろ/やまわらは》となるといふことを、今でも盛んに說くのは九州であるが、これは他の地方にも折々は聽く話である。山ワロは橘氏の西遊記にも出て居るやうに、裸で背高で擧動が鈍く、人の言葉はわかるが一言も物を言はず、力だけは山で働く人よりも强くて、材木をかついでその駄賃に提飯を貰つて悅んで還るといふやうな、いづれ怪物ではあらうが、かなり人間に近い逸話の持主でもある。それがヒョンヒョンと啼きながら空を飛んで行くなどといふのは、餘りとしても大膽な想像を描いたものだとも言はれるが、もともと左樣なものが全然居ないか、少くとも見たといふ人が、實は受賣であつたり、もしくは作りごとであつたりしたのだとなると、此方はまだ聲だけでも聽いて居るのだから根據がある。つまり雙方ともに、冬は山へ行くといふ古くからの言ひ傳へが、形をかへて新たに流布して居る迄のものらしいのである。紀州はドンガスだのガオロだのと、川童の異名の多くある地方であるが、それが又冬は山奧へ入つてカシャンボといふものになるといふ。靑い衣を着た少年の可愛らしい姿に見えるが、これが中々の惡戲で、人をからかつて仕方が無い。カシャグといふのも方言でくすぐることを意味するのだといふ人がある。さういふ徒《いたづ》ら者だが又一方には義理固い所もあつて、熊野も二川《ふたかは》村の何とかいふ舊家では、谷へ入つて來るカシャンボは一人づゝこの家の外へ來て、石を打《ぶ》つけて到着の知らせをするともいふ。吉野では川童を川太郞といふさうだが、これも冬になると山に入つて、山太郞となると傳へて居る。その山太郞はどんな事をする者かまだ判つて居ないが、肥後の人吉附近では山《やま》ン太郞は山の神だといひ、山神の祭文には近《ちか》山ン太郞、中山奧山の太郞各々三千三百三十三、合せて一萬に一つ足らぬ山太郞が、山に働く人々の祈願を叶へることを敍して居る。さうしてやはり亦冬の間だけ、川太郞が山に入つて山太郞になるといふ話もあるのである。山太郞の里へ下つて來る道筋は定まつて居た。二月朔日《ついたち》の朝早く或川の用水堰《ようすいぜき》の堤の上などに往《い》つて見ると、そこには必ず澤山の川太郞の足蹟があつた。長い三本の趾のすぐ後に踵《かかと》の跡があつて、人なら土踏まずといふ部分がまるで無かつたといふから、これもどうやら鳥類の足跡のやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「橘氏の西遊記」江戸後期の医師で旅行家にして文人でもあった橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。「東遊記」とともに知られたものであるが、幕府の忌避に触れることを怖れ、削除・改変されたものが底本とされていたため、元原稿に極めて近いと思われる異本「西遊記」の写本は一九九一年刊の「新日本古典文学大系」版で初めて活字化されている。従って、国立国会図書館デジタルコレクションのものでは、例えば、「標註東西遊記 上」(平出鏗二郎・明治二八(一八九五)年版)では配置された位置が異なる(「卷之三」のここ)。それと、「新日本古典文学大系」版の本文を校合しながら、以下に電子化する。読点・記号と、一部に歴史的仮名遣で推定読みを添えた。

   *

 

    山童(やまわろ)

 

 九州、極、西南の深山に、俗に「山わろ」といふものあり。薩摩にても聞(きき)しに、彼(かの)國の「山の寺」といふ所にも、山わろ、多しとぞ。其形、大(おほき)なる猿のごとくにして、常に人のごとく立(たち)て步行(あり)く。毛の色、甚、黑し。此寺などには、每度來りて、食物を盜みくらふ。然れども、鹽氣(しほけ)有(ある)ものを、甚(はなはだ)嫌へり。杣人(そまびと)など、山深く入りて、木の大きなるを切出(きりいだ)す時に、峯を越へ、谷をわたらざれば、出(いだ)しがたくて、出しなやめる時には、此山わろに、握り飯をあたへて賴めば、いかなる大木といへども、輕輕(かろかろ)と引(ひき)かたげて、よく谷峯(なにみね)をこし、杣人のたすけとなる。人と同じく、大木を運ぶ時に、必ず、うしろの方に立(たち)て、人より先に立行(たちゆく)事を嫌ふ。飯をあたへて、是をつかへば、日々、來り手傳ふ。先(ま)ヅ、使(つかい)[やぶちゃん注:ママ。]終りて後に、飯をあたふ。はじめに少しにても飯をあたふれば、飯を食し終りて逃(にげ)去る。常には、人の害をなす事、なし。もし、此方(こなた)より是(これ)を打ち、或ひは、殺さんとおもへば、不思議に祟りをなし、其人、發狂し、或は、大病に染(そ)み、或は、其家、俄(にはか)に火もへ出(いづ)など、種々の災害起りて、祈禱・醫藥も及(およぶ)事、なし。此ゆへに、人みな、大(おほい)におそれうやまひて、手ざす事[やぶちゃん注:手出しすること。]、なし。

 此もの、只、九州の邊境(へんきやう)にのみ有りて、他國に有る事を聞かず。冬より春、多く出(いづ)るといふ。』『冬は山にありて「山𤢖(やまわろ)」といひ、夏は川に住みて「川太郞(かはたらう)」といふ。』と、或人の語りき。然(さ)れば、「川太郞」と、同物にして、所によりて名の替(かは)れるものか。

   *

「山わろ」「山𤢖」「新日本古典文学大系」版脚注でも、以下と同じこと(「和漢三才図会」巻四十からの二つの引用)をしてあるのだが、ここは私の方が遙かに分がいい。何故なら、私にはサイト版『「和漢三才圖會」卷第四十  寓類 恠類』が既にあるからである。真似した訳でない証拠に、私の訓読の方が遙かに正確である。まずは、その「山𤢖」を見られたいが(図入り)、古い電子化(二〇一〇年)で表記に不満があるので、以下に原本を再確認して訓読文を修正して示す。

   *

やまわろ 【俗に「也末和呂」と云ふ。】

山𤢖

サン ツアウ

「神異經」に云ふ、『西方深山に人有り、長け丈餘、祖-身(はだか)にして、蝦・蟹を捕へて、人に就きて火に炙り、之を食ふ。名を山𤢖と曰ふ。其の名を自ら呼ぶ。人、之を犯せば、則ち、寒熱を發す。蓋し、鬼魅のみ。惟だ、爆竹の煏-𤉖(ばちつ)く聲を畏る。』と。

△按ずるに、九州の深山の中に山童(やまわろ)と云ふ者有り。貌、十歳許りの童子(わらべ)のごとく、遍身、細毛、柹褐色、長髮、面(かほ)を蔽ふ。肚(はら)、短かく、脚、長く、立行(りつかう)して、人言(じんげん)を爲して、䛤(はやくち)なり。杣人、互に怖れず、飯・雜物を與へれば、喜びて食ふ。斫木(しやくぼく)の用を助け、力、甚だ强し。若し之に敵すれば、則ち大いに災ひを爲す。所謂、山𤢖の類の小者か【川太郞を川童〔(かはわろ)〕と曰ひ、是れを山童と曰ふ。山・川の異にして同類の別物なり。】。

「川太郞」同前でリンク先から修正して引く。

   *

かはたらう

川太郞

一名川童(かはらう)【深山に山童有り。同類異なり。性、好みて人の舌を食ふ。鐵物を見るを忌むなり。】

[やぶちゃん字注:「川童」のルビは潰れており、判読が難しい。「カハワラ」とも読めなくもない。]

△按ずるに、川太郞は、西國九州、溪澗池川に多く、之れ、有り。狀(かた)ち、十歳許りの小兒のごとく、裸-形(はだか)にて、能(よ)く立行(りかう)して人言(じんげん)を爲(な)す。髮毛(かみのけ)、短く、少(すこし)、頭の巓(いただき)、凹(へこみ)、一匊水(いつきくすい)を盛る。毎(つね)に水中に棲みて、夕陽に、多く河邊(かはべ)に出でて、瓜・茄(なすび)・圃-穀(はたけもの)を竊(ぬす)む。性(せい)、相撲(すまひ)を好み、人を見れば、則ち、招きて、之(これ)を比べんことを請(こ)ふ。健夫有りて之に對するに、先づ、俯仰(ふぎやう)して、頭を揺(ゆら)せば、乃(すなは)ち、川太郎も亦、覆仰(うつふきあをむ)くこと、數回(すくわい)にして、頭(かしら)の水、流れ盡(つく)ることを知らず、力、竭(つ)きて仆(たを)る[やぶちゃん注:ママ。]。如(も)し、其の頭、水、有れば、則ち、力、勇士に倍す。且つ、其の手の肱(かひな)、能く左右に通(とほ)り脱(ぬけ)て、滑-利(なめら)かなり。故に、之れを如何(いかん)ともすること能はざるなり。動(ややも)すれば、則ち、牛馬を水灣(すいわん)に引入(ひきい)れて、尻より、血を吮(す)ひ盡くすなり。渉-河(さはわたり)する人、最も愼むべし。

 いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏(うぢ)は菅原

相傳ふ、『菅公、筑紫に在りし時に、所以有りて、之れを詠せらる。今に於て、河を渡る人、之れを吟ずれば、則ち、川太郞の災(わざはひ)、無しと云云。』と。偶々、之れを捕ふる有ると雖も、後の祟(たゝり)を恐れて、之れを放つ。

   *

なお、サイト版『「和漢三才圖會」卷第四十  寓類 恠類』の「川太郎」の項には、私の、当時としては、纏まった河童についてのかなり長い注があるので、是非、見られんことを望む。]

 それから今一つ川童の聲のことであるが、私たちの知つて居るのは、人間の子供に化けて來る時だから、無論日本語のしかも方言で、泳ぎに行かうやとか角力を取らうやといふのだが、それでも不審に思つて聽き返すと次第に判らなくなり、しまひにはキキーといふ聲ばかり高くなるといふ。或は角力を取つてこちらが負けると嬉しがつて、そこでもこゝでもキキーといふ猿のやうな聲をするので、始めて川童につかれて居ることを知るのだともいつて居る。ところが秋の終りと春の初めに、暗夜に空を飛んで山に出入するといふ土地だけが、そんな低い淋しい聲で、ヒョンヒョンと啼くといつて居るのである。どうしてその樣な一致せぬ話が、僅な地域の間に併存して居るのか。どちらも誤解であらうと言つてしまへば濟むだらうが、それにしたところで昨今の誤解では無いのである。日向では川童を又ヒョウスンボといふ者が多く、それはこの啼聲から出た名だと今でもいふが、百數十年以前の水虎考略にもその事は既に述べてあるのみならず、一方には太宰府の天滿宮境内を始めとし、川童を社に祀つてヒョウスヘの神といつた例は九州に數多く、又そのヒョウスヘの神の名を唱へて、川童除けの呪文とした歌は全國に流布して居る。卽ち曾て或一種の冬鳥の渡りの聲を聽いてそれを水の靈が自ら名のる名の如く思つた者が、かなり古くからあつたことが推測せられるのである。鳥の習性には、時代の變化が尠《すくな》く、同じ現象は何千年もくり返されて居るだらうが、たゞそれだけでは無論こんな俗信は發生しない。今でも田の神が春は山より降り、秋の收穫が終ると再び歸つて山の神になるといふ信仰が、國の隅々に殘つて居るやうに、神は年每に遠い海を越えて、島の我々を幸福にしようとして、訪れ來るものといふ考へが、夙《はや》くから渡り鳥の生態を極度に神祕化して居たのであつて、川童もムナグロの聲も、いはゞ無意識に保存して居た古い記錄の消え殘りに他ならぬのでは無からうか。

 

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 川童の話

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正三(一九一四)年五月発行の『鄕土硏究』初出である。]

 

 

     川 童 の 話

 

 以前數年間鹿兒島に居られた石黑忠篤《ただあつ》氏は、鳥の聲に詳しい人であるが、親しくこのヒョンヒョンを聽いてその話をせられたことがある。その說ではムナグロ(胸黑?)といふ大きな千鳥の類の群だといふことである。水虎考略後篇の卷三に、日向高鍋の某村に於て、土堤普請の番小屋の側を、夜分になると水虎數百群をなして通る。或人是非その姿を見んと思ひ、樹蔭に隱れ窺ひたれどもどうしても見ること成らず。次の夜鐵砲を持參し程を見定めて一發すれば忽然として聲を潛めた。水虎の鳴聲は飄々《へうへう》と聞える。日州《につしう》で川童をヒョウスヘと呼ぶのはこの爲だとある。尾花石黑二君の說と合致して居るが、ヒョウスヘの稱呼の由來に至つては未だ直ちには信じ難い。

[やぶちゃん注:「石黑忠篤」(明治一七(一八八四)年~昭和三五(一九六〇)年)は東京生まれで、農林官僚・政治家。「農政の神様」と称された。明治四一(一九〇八)年に東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省に入省し、農務局に属した。二年後の明治四十三年、新渡戸稲造宅で柳田國男らと『郷土会』を開いている。戦前に農林大臣、戦中に農商大臣に就任しているが、敗戦後、公職追放されたが、昭和二十七年に解除され、第二回参議院議員補欠選挙に静岡県選挙区から立候補し、当選している。

「ムナグロ」チドリ目チドリ科ムナグロ属ムナグロ Pluvialis fulva 。シベリアとアラスカ西部のツンドラで繁殖し、冬季、本邦には旅鳥として、春と秋の渡りの時期に全国に飛来する。飛翔しながら、「ピョピョー」「キビョー」などの声で鳴く(当該ウィキに拠った)。

「水虎考略」昌平坂学問所の儒者古賀侗庵(こがどう(とう)あん 天明八(一七八八)年~弘化四(一八四七)年)が、同門下で、関東・東海の代官を歴任した羽倉用九(はくらようきゅう)や、幕臣で「寛政譜」編纂に携わった中神君度(なかがみくんど)から提供された、河童遭遇者からの聞取情報に、和漢の地誌や奇談集から集めた河童情報を合わせて、文政三(一八二〇)年に一冊に纏めた、本邦初の河童考証資料集。「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらで宮内庁書陵部蔵本(写本)全篇を画像で視認出来る。探してみたところ、かなり手間取ったが、この「水唐錄話」(他のネット・データで調べたところ、著者は黙鈞(もくきん)道人なる人物である)という書(全漢文)からの引用の「六」のこの部分(右丁)が原拠である。

「日向高鍋」現在の宮崎県児湯(こゆ)郡高鍋町(たかなべちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「日州」日向国。

「尾花」人物不詳。

「石黑」同前。]

 右の水虎考略は後篇の方はあまり世に流布して居らぬ。第三卷の新聞雜記といふのは天保年間[やぶちゃん注:一八三〇年~一八四四年。]にある書生が下手な漢文で筆錄した三十篇の川童話である。この序でにその中から二三耳新しい箇條を書拔いて置かう。(一)肥後の天草には川童多く住み常に里の子供を海へ連れて行き水泳を敎へてくれる。その言ふ通りにすれば何の害もせぬが、機嫌を損じると甚だ怖しい。子供等は時々親に賴み川童を喚《よ》んで御馳走をする。その姿小兒等の目には見えて父母には見えず。只物を食べる音ばかりして歸る時には椀も茶椀も皆空である。これは佐賀の藩士の宅へ奉公に來て居た天草の女中の談。(二)佐賀白山《しらやま》町の森田藤兵衞なる者曾て對馬に渡り宿屋に泊つて居ると、夜分に宿の附近を多人數の足音がして終夜絕えなかつた。翌朝亭主に何うしてかう夜步きする者が多いのかと聞くと、あれは皆川童です、人ではありません。川童は晝は山に居り夜は海へ出て食を求めるので、この如く多く居ても別に害はせぬものだと語つた。(三)肥前では人の川童の爲に殺さるゝ者あれば、その葬《とむらひ》には火を用ゐしめず。衣類から棺《ひつぎ》まで白い物を用ゐさせぬ。これを黑葬といひ、黑葬をすればその川童は目潰れ腕腐つて死ぬものだといふ。(四)佐賀高木町の商家の娘十一二歲の者、寺子屋の歸りに隣家の童子に遇ひ、觀成院の前の川で遊ばうと約束して置いて、家へ戾つて食事をし出て行かうとする時、親がこれを聞いて用心の爲に竈の神樣を拜ませ、荒神樣守りたまへとその子の額に竈の墨を塗つて出した。約束の童子つくづくと娘の額を見て、御前《おまへ》は荒神の墨を戴いて來たからもう一緖に泳ぎたく無いといつて憮然として去つたとある。それで川童であることが顯はれた。この本にはまだ數十件の川童の話が載せてある。

[やぶちゃん注:「第三卷の新聞雜記」「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の宮内庁書陵部蔵本(写本)のここからで、書名は正しくは「水虎新聞雜記」である。「(一)」は「第十四」でここにあり、「(二)」はその後の「第十五」で前のリンクの左丁にあり、「(三)」は「第十七」でここにある。最後の「(四)」は「第十八」で前の「第十七」と同じ画像部にある。

「佐賀白山町」現在の佐賀県佐賀市白山

「黑葬」読み不詳。当時の民間の呼び名であるなら、「こくさう」ではなく、「くろとむらひ」の方がしっくりはくる。

「佐賀高木町」現在の佐賀県佐賀市高木町(たかぎまち)。

「觀成院」この名の寺はない。恐らく「觀照院」の誤記である。現在の高木町内に観照院が現存するからである。その「前の川」は現在の同寺の様子からならば、この小流れと推定される。

「竈の神樣」「かまど神」は本邦では古墳時代まで遡れる古層の信仰であり、「火の神」であるから荒神(こうじん)に属し、性質が荒く、それ故に強い調伏力を持ち、民俗社会に於ける家屋と家人を守る守護神である。]

大手拓次譯詩集「異國の香」 「夢幻の彫刻」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。]

 

  夢 幻 の 彫 刻 ボードレール

 

奇妙な化物ははれのかざりに、

ただ、 異形の風をする醜い冠を

その瘦骨の頭のうへにをかしくのつけてゐた。

拍車もなく、 鞭もなく馬をあへがせる、

てんかん病みのやうに鼻から泡をふく

その身とおなじやうな妖精の不思議な駑馬を。

空間をよぎりて彼等ふたりは沒し、

おぼつかない蹄のはてなさを押しせまる。

騎士はその馬のふみしだく名もない群のうへに

もへたつ刀(かたな)をひらめかす。

そしてわが家を監視する王侯のやうに、

無限の、寒冷の、境界なき墓場を徘徊する、

そこに、白い艷のない太陽の微光のなかに

古今史上の人人はかくれふしてゐる。

 

[やぶちゃん注:本篇は「国立国会図書館サーチ」の「ボードレール = Charles Baudelaire : 明治・大正期翻訳作品集成」(ボードレール著/川戸道昭・榊原貴教編集/二〇一六年大空社刊)の書誌で調べたところ、大正四(一九一五)年四月一日発行の『地上巡禮』初出であることが判明した。標題は「彫刻」とあるが、以下の原詩や、記すところの創作事実に従うなら、“gravure”は「版畫」と訳すべきところである。

 「駑馬」「どば」。足ののろい馬。

 所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊。この本の優れている点は歴史的仮名遣・正字版であることである)の本篇(堀口氏の標題訳は「或る版畫の幻想」である)の訳者註に、『雜誌『現在』一八五七年十一月十五日號に發表』されたもので、『この時の題は「モーテイマーの版畫」といふ表題だつた』。『モーテイマー(一七四一年――一七七〇年)は怪奇な題材を好んで扱ったイギリスの畫家』とある。但し、壺齋散人(引地博信)氏のサイト「フランス文学と詩の世界」の「幻想的な版画(ボードレール:悪の華)」によれば、『この詩は、モーチマーの原作をもとにしたヘインズの版画「馬上の死神」に触発されて書いたものだ。1784年に出版されている』。『版画そのものは、死をテーマにしている。だが単に死のおぞましさを表現するだけでなく、それを生との対比で描いていることは、死神がカーニバルの王冠をかぶっていることに表されている』。『ボードレールはそこに詩情を感じたのであろう』と解説され、当該のヘインズの版画も画像で見ることが出来る。この原作家であるが、複数の作品のタッチからみて、ロンドン生まれの画家・版画家ジョン・ハミルトン・モーティマー(John Hamilton Mortimer  一七四〇年~一七七九年:堀口のそれは誤り)で、インスパイアしたのは、イギリスの画家・版画家ジョセフ・ヘインズ(Joseph Haynes 一七六〇年~一八二九年)であることが、判明した。英文サイト「alamy」のこちらにヘインズのそのエッチングが載り、そこに“Death on a Pale Horse - 1784, after the drawing of 1775 - Joseph Haynes (English, 1760-1829) after John Hamilton Mortimer (English, 1740-1779) -Captions are provided by our contributors.”という注意書きで確定である。モーティマーの原画はWikimediaのここで巨大な精細図が見られる。これを見ると、両者は非常によく似ており、而して当然、孰れの画題も「蒼ざめた馬の上の死神」である。以下、ボードレールの原詩を示す。英文サイトの英訳附きのページのものを使用し、他のものと校合確認した。

   *

 

     Une gravure fantastique   Charles Baudelaire

 

Ce spectre singulier n'a pour toute toilette,

Grotesquement campé sur son front de squelette,

Qu'un diadème affreux sentant le carnaval.

Sans éperons, sans fouet, il essouffle un cheval,

Fantôme comme lui, rosse apocalyptique,

Qui bave des naseaux comme un épileptique.

Au travers de l'espace ils s'enfoncent tous deux,

Et foulent l'infini d'un sabot hasardeux.

Le cavalier promène un sabre qui flamboie

Sur les foules sans nom que sa monture broie,

Et parcourt, comme un prince inspectant sa maison,

Le cimetière immense et froid, sans horizon,

Où gisent, aux lueurs d'un soleil blanc et terne,

Les peuples de l'histoire ancienne et moderne.

 

   *]

2023/02/16

ブログ1,920,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和二十七年六月

 

[やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、六月二日・同三日・同四日附『東京新聞』に連載されたものである。本文の二行空け部分がその切れ目と考えよかろう。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合を除いて、一切、注しない。悪しからず。

 既に述べているが、梅崎春生の短編小説は、最早、上記底本全集のものは、「青空文庫」(ここ)で私よりも先行電子化された分の以下の私の底本全集中の十一篇(「日の果て」「風宴」「蜆」「黄色い日日」「Sの背中」「ボロ家の春秋」「庭の眺め」「魚の餌」「凡人凡語」「記憶」「狂い凧」。以上は順列を私の底本全集の並びに変えてある)を除き、これで、総て電子化を終えている(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」及びブログ版梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】梅崎春生日記【完】を参照)。残るのは、長編「つむじ風」のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も、七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、先ほど、1,920,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年二月十六日 藪野直史】]

 

   昭和二十七年六月

 

 世情は、烈しく動いている。ひしひしと、ひしめき合っている。そのどよめきは、たとえば日々の新聞記事から、報道写真から、じかになまなましく、私たちにつたわってくる。

 今月、二十編余りの雑誌小説を読んだ。しかしそのナマな揺れ動きをそのまま芸術の感動として打ち出した作品は、私の読んだ限りでは皆無であった。これではいけないという感じと同時に、これでいいのだという感じも、私にはある。

 文学というものは、静かな底流は反映するが、飛び散る現実の火花を、そう直ちには反映できない。そういう感じだけれども、今月の二十余編の作品が、火花からそっぽむいている点でよろしいと言っているわけでは、もちろんない。

 

 芸術は、現実に即(つ)くことからうまれるが、即き過ぎることの危険は、常に目前に横たわっている。即き過ぎることで、芸術であり得なくなった諸例は、ここに挙げるまでもなかろう。文学自身にも、そういう偏りから、自分を守ろうという、自己保全または自己防衛みたいな作用が、常に働いている。

 たとえば私小説も、その作用のあらわれのひとつとして、考えられるかも知れない。いつか上林暁が、戦争中に文学の伝統を守ったのは私小説であると、何かに書いていたように記億するが、これもあながち広言ではなかろうし、また戦後の浅薄な風俗小説に対して文学の存在を示し続けたのも、一群の私小説作家だったと言えるだろう。いわば私小説は、非芸術的な小説の氾濫によって、その存在を保証されてきたとも言えるだろう。つまり、「私小説」を守ってきたのは、「非小説」の存在なのである。

 

 実際に、今月の雑誌小説中、ある意味の安心と親近をもって接し得たのは、たとえば「毛虫について」尾崎一雄(文学界)であり、「たばこ」(群像)、「蹣跚(まんさん)」(改造)の上林暁等である。

[やぶちゃん注:「蹣跚」ひょろひょろと歩くさま。よろめくさま。]

 尾睦二雄のは、毛虫についての身辺雑記であり、上林暁のは、前者は病気のくせにたばこが止められない話であり、後者は酒を飲み歩いた時分をなつかしく追想する愚痴みたいな文章である。特にこの「蹣跚」という小説は、「血のメーデーと日本革命」という緊急特集をおこなった「改造」六月誌上に堂々と掲載されている。何たることか、と言えば、まさしくそうであろう。光に背いて孤立した地虫の生活を描くことに、一体何の意味があるのか?

[やぶちゃん注:「血のメーデー」「血のメーデー事件」。この昭和二七(一九五二)年五月一日木曜日、東京の皇居外苑(当時は左派からは「人民広場」と呼ばれていた)で発生した、第二十三回メーデーでデモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件。事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行ったものと見られている。戦後の学生運動で初の死者が出た。犠牲者は法政大学文学部哲学科三年生の学生運動家近藤巨士(ひろし 昭和五(一九三〇)年~昭和二七(一九五二)年五月六日)で、この日、全学連のデモ隊に参加し、皇居前広場で警官隊と衝突し、重傷を負い、慈恵医大病院に入院、警察の取調べを受けたが、その五日後に亡なった。直接の死因は頭蓋骨骨折で、満二十二歳であった。梅崎春生は、この事件を現場取材し、記録しており、後の「メーデー事件」裁判の証人となり、五日間、証言を行なっている。「被告は職業ではない」「私はみた」「警官隊について」「一億総鉄カブト」「郵便のことなど」がルポルタージュ記事としてある(総て私のブログ版)。小説「A君の手紙」も読まれたい。]

 しかしまた、こうも言える。たとえば尾崎一雄が毛虫に示したような嫌悪、手厚い実感的な嫌悪を、今月のどの作家が、「嫌悪すべきものに対する実感的な嫌悪」として表現し得たか。たばこに対する上林暁の理性や情緒の揺れ動き、それと同程度の全身的な揺れ動きをもって、どの作家が今日の現実なり環境に対し得たか。ということになると、やはり私小説家の強みは歴然としてくる。

 

 私はなにも、文学全体の問題を、その実感ひとつにまとめようとは思わぬし、且つ彼等が、生活を狭めることによって初めて、その実感を産み出し得たのだと信じるが、しかし読者のもっとも素朴なるものを打つのは、常にそういうものなのである。私小説を否定することは易しいが、私小説のもつそういうものをのり超えることは、これは至難のわざだ。

 だから結果としては、私小説は否定されることによって、ますますその存在を頑強にするという形に、今まではなっている。私小説家たちも、そこらの事情をつとに見抜いて、居直っている風情さえある。

 そういう現実感が、環境なり視野なりを一方的に狭めることによって、産み出されるとすれば、あとの現実とのつながりを、彼等はどこに求めるのだろう。漠然たる底辺においてつながっていると、彼等は口で言っても、そのことを実感として感じ得るかどうか。たとえば上林暁が「私小説は日本文学のバックボーンである」と書く時、日本文学に対するどのような展望と実感をもって、これを発言し得たか。[やぶちゃん注:句点はママ。]という点になると、私はある疑問と危惧を感じる。居直りのような姿勢をも、私は感じないでもない。

 あるいは、私は思う。私小説というものは、今までひどくいじめられて来たことにおいて、ひどく甘やかされて来たのではないだろうか?

 

 

 「物体X」という映画。広告で見ただけで、現物はまだ見てないがこの題名には、なにか感じがある。で、この言葉にならって、「精神X」。「精神X」なんて曖味な言葉だが、その「X」は、現代にあっては、だんだん希少になってゆくのではないか。今月の小説で、それを含有し、あるいはそれを追求する趣きのものは、数からいっても少なかった。その少数の中に、前記の尾崎、上林を入れても、いいだろう。

 ああいう形式と表現をもって、この二人は、自分の中のXを、自分なりに解明しようとしていると、言えなくはない。それはたとえば、葛西善蔵あたり以来から、常套として存統しているのである。

 またそれは、「擬態」豊島与志雄(新潮)の如く、Xをメスで切り開いて探求するというより、それを膜で包んでそっくり差出すことで、小説にするという形もあるし、「夜長姫と耳男」坂口安吾(新潮)のように、昔話の体裁を借りて、追求するという方法もあり得るだろう。それぞれの作家において、その姿勢や方法は異なるが、そのどこかに「精神X」がからんでいることにおいては、同じだろう。

 しごく無茶な分類ではあるが、彼等はかつおぶし派であって、味の素派ではない。生絹型ではあるが、ナイロン型ではない。(断っておくが、絹が本物でナイロンが偽物だと、私は毛頭思っていない。現代においては、真偽は、その効用によって決定されると、大体において思っている)

 一方、ある種の読者の側からすれば、作品とは独立したものであり、もっぱら主題と効果からなり立っているものだ、という者も出てくるだろう。一箇の主題、あるいは数箇の主題の組合せ。一つの効果、又いくつかの合成された効果。それをつくる作家の精神も、どんなに複雑であろうとも、不可知のものでなく、亀の子式方程式のようなもので表出され得る。つまりXというものは、その内側にも、外側にもない。あるらしく見せかけても、それは効果上のことにすぎない、というような。

 そういう小説が、もっと強力にその歩を踏み出すためには、その合成(?)の機能を、もっとはっきりと打ち出さねばならぬ。それはすでに新しい進路であるが、そうすることで、その路を更に拡げ得るだろう。

 その派、というのも変だが、その傾向のものを、たとえば堀田善衛や安部公房に感じるし、またすこし意味がずれるが、小山いと子などもそこに入るだろう。また今月の作品では、「最後の共和国」石川達三(中央公論)なども。この「最後の共和国」は、極端に言うと、主題だけしかない。いくつかの主題と、貧しい効果、それだけ。

 私はこれを読み、想像力の貧しさによって、主題が完全に生かされていない、と思う。小説と論文を区別するY(Xは前に使ったから)が、この作品では、不足あるいは欠乏しかかっている。また「始と終」阿部知二(中公別冊)でも、その主題効果において、合成が不十分であるように感じられる。

 で、こういうことが、考えられないだろうか。ある主題を生かすために、いくつかの効果がそれに参加する。つまり、一箇または数箇の主題を、二人乃至数人の作家が技能を持ちよって、一つの小説形式として完成すること。

 あるいは更に、主題そのものも数人によっての組合せが可能であるだろう。各自の亀の子式を持ちよることで、更に高次の精神を合成することなども。

 この方法は、手法的には別に新しいものではない。小説では、小規模で原始的な形ではあるが、たとえばイリフ・ペトロフがあるし、エラリイ・クイーンといったようなものもある。比較的大規模な形としては、これは合成というより、分業にちかいが、映画(殊にアメリカの)がある。

 ここにおいては「物体X」や「精神X」は、表現の対象にはなり得るが、制作の機構や過程の中には、介在しないし、また介在し得ない。そういう大がかりな料理になると、かつおぶしでは間に合わないのである。

 トルストイのような天才ならいざ知らず、この尨大なる現実において、現代的な主題は、手工業を超えることが、ままあることと思われる。その手に余った現実を、今からの小説は、どうやって処理して行こうとするのか。

[やぶちゃん注:「物体X」「遊星よりの物体X」(原題‘The Thing from Another World’)は、一九五一年公開のアメリカSF特撮ホラー映画。ジョン・ウッド・キャンベル(John Wood Campbell 一九一〇年~一九七一年)による一九三八年の短編SF小説「影が行く」(原題‘Who Goes There?’:「そこを行くのは誰だ?」)。但し、発表時はペン・ネームのドン・A・スチュアート(Don A. Stuart)名義)の映画化で、制作ハワード・ホークス(Howard Winchester Hawks 一八九六年~一九七七年)、監督クリスティアン・ナイビイ(Christian Nyby  一九一三年~ 一九九三年)、出演はケネス・トビー(Kenneth Tobey 一九一七年~二〇〇二年)。一般にハワード・ホークスは常に撮影現場におり、実質的には彼の手になる映画とも言われている。後に二度もリメイクされており、私は三作総てを見ている(リメイクは孰れも複数回見たが、面白いものの、孰れもグロテスク・シークエンスを売りにしており、スプラッター・ホラー系映画が嫌いな私は、それほど評価していない)。この第一作(これのみ結末は大団円)は大学時分に見て、即座に原作の矢野徹の翻訳(一九六七年早川書房刊)も読んだ程度には、感染擬似体か本当の人間かで登場人物全員がパニックになるという設定や、ストーリー展開は非常に好きな作品ではある。但し、この第一作は梅崎春生が実際に見たら、ラスト・シーンの新聞記者の報道警告で苦虫を潰したと、まず、思う。それは明らかに当時の冷戦下のソ連への反共プロパガンダの何物でもないからである。

『「夜長姫と耳男」坂口安吾(新潮)』昭和二七(一九五二)年六月号『新潮』で発表され、翌年十二月に大日本雄弁会講談社から単行本刊行された。私は安吾の文庫版全集を所持するが、「ふるさとに寄する讃歌」に次いで(リンク先は私の古いサイト版)、彼の名作の一つと考えるほどに好きな作品である。]

 

 

 「中央公論」臨時増刊は、風剌小説特集と題して、五編の風剌小説をならべている。いずれも風剌の名に価せず、低調であり、あるものは小手先の芸にとどまり、あるものは悪ふざけにすら堕している。

 これは編集部の方で、風剌小説として依頼したのか、あるいはたまたま集まった五編を、風剌特集として出したのか、私は知らないけれども、前者であるならばそれは作家の錯誤であり、後者なら、編集部の重大な錯誤である。風剌とはそういうものではなかろう。

 大体、風剌してやろうという心構えが、すでに作家のやにさがりであるように、私には感じられる。風剌とは、自らにじみ出るものである、とは私も思わないけれども、たとえば背後から組付いた捕り手を殺すために、自分の腹を自分の刀で突き通すていの気構えが、やはりそこには必要であると思う。自分を貫き通した切先をもって、背後に祖付いたものを突き剰す以外には、相手はたおせない。小手先の芸で相手を切ろうなどとは、まことにふやけた精神だ。

[やぶちゃん注:「やにさがり」「脂下り」は元は、煙管(きせる)の雁首を大仰に上に突き上げて銜えるさまを言う名詞で、その傲岸な姿勢から、「気どった態度」或いは「いかにも得意然とした高慢な態度」を言う語に転じた。]

 

 ユーモア作家なるものがいる。その職業的ユーモア作家のユーモアが、大体くすぐり以下に過ぎない事情と、これはちょっと似通っている。しかし、風剌の場合は、もっと苛烈であるだろう。自らを突き通すためには、自らを完璧に知る知恵が必要であろうし、うっかりするとそんな知恵は、それ自身が完璧な毒となって、母体を食い荒し、斃死(へいし)させてしまうかも知れないからだ。

 また、あるいは、日本的な風剌小説の一つの型として、葛西善蔵や嘉村礒多を考えていいかも知れない、と私は思う。彼等の作品には、あちこちに苛烈なユーモアがある。それ自身が一つの風剌であるような、私小説のひとつの極北を、私たちは想定できないものだろうか。

 食い破られた自画像を、きびしく風にはためかすことによって、彼等はおのずからなる風剌の実をあげたと、言えなくはないのではないか。そう私は思う。

 また、江戸時代の、抑圧された民衆の中で、川柳や俚謡の形をとって、強烈な風剌が存在した。その伝続は、別の流れをたどって、現代にも残っているはずだが、現代文学の流れには、それは未だ現われてきていない。現われてくるべきなのに、現われてこないのは、才能とか手法の欠如ではなく、それはもっぱら作家のエネルギーの問題だと思う。

 

 「伊藤整氏の生活と意見」伊藤整(新潮)を読む。だれかが、この文章を、その知的な面白さにおいて、なみいる雑誌小説のはるか上位に置いていたが、私も読んで一応面白いには面白かったけれども、知的であるということには、つよい疑問を持った。

 この戯文の面白さは、ミミックの面白さであり、つまり浅草の清水金一の面白さである。いささかくたびれた清水金一的な趣きを、この文章はたしかにそなえている。

 この戯文のからくりは、前記「中央公論」の風刺小説のあるものと、大体その構造式を同じくしている。その風剌小説があくどい悪ふざけに終始しているのに、「伊藤整氏の生活と意見」のは割にいや味なく行っているのは、これは自己抑制から生じた効果ではなく、むしろ作者伊藤整の生来の体臭のうすさに原因するものであるように、私には思われる。あくの弱さが、この戯文を、転落からわずかに救っているが、その身振りはそれほど巧妙でない。

 この「知的な面白さ」に感動した人の、知能の程度を、私はちょっとばかり疑う。戯文としても、天衣無縫のものでなく、たくらみが目立つだけに、二流以下のものである。もちろん、風剌精神というものからも、ほど遠い。

[やぶちゃん注:「伊藤整氏の生活と意見」これは二十代の頃に読んで、全く同じ感想(不満足)を持ったので、全面的に共感する。

「ミミック」mimic。物真似(をしてからかったり、ふざけたりこと)。模倣。擬態。

「清水金一」(明治四五(一九一二)年五月五日~昭和四一(一九六六)年:本名は雄三(のちに武雄)はコメディアン・映画俳優。浅草の軽演劇及びトーキー初期を彩るミュージカルや、コメディのスターとして知られる。愛称「シミキン」。「ハッタースゾ!(ハッ倒すぞ!)」や「ミッタァナクテショーガネェ(みっともなくてしょうがない)」の決まり文句で知られた。山梨県甲府市生まれ。上京し、昭和三(一九二八)年十六歳の折り、浅草オペラの一座を開いていた東京音楽学校声楽科出の清水金太郎に弟子入りし、「清水金一」を名乗った。師匠金太郎は榎本健一(エノケン)と「プペ・ダンサント」(Poupée dansante:「踊る人形」の意)を結成したが、昭和九(一九三四)年四月に亡くなったため、金一はエノケンの師匠柳田貞一門下に入り、森川信らが、大阪千日前に結成したレヴュー劇団「ピエル・ボーイズ」に参加した。昭和一〇(一九三五)年夏、浅草に古川ロッパが開いた先に出た劇団「笑の王国」に参加し、また、浅草オペラ館で堺駿二とのコンビで活躍、一躍、軽演劇界のスターとなった(この頃、「シミキン」の愛称がついた)。その後など、詳しくは、参照した当該ウィキを参照されたい。]

 

 以上、三日にわたって、いろいろと書いたが、楽しいというより、自分のことを棚に上げてものを言っている点で、私はにがにがしく、しばしば筆が渋った。

 なにも自分を棚に上げるつもりはないのだが、書いているうちに、自然と這い上ってしまうのである。まことに厭な気持だ。こういう時評を、半ば商売のように書いている人々の神経が、私にはどうも判らない。それはきっと、針金みたいな、非文学的な神経なんだろう、と思う。

 

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 幻覺の實驗

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一一(一九三六)年四月発行の『旅と傳說』初出である。]

 

     幻 覺 の 實 驗

 

 これは今から四十八年前の實驗で、うそは言はぬつもりだが、餘り古い話だから自分でも少し心もとない。今は單にこの種類の出來事でも、成るべく話されたまゝに記錄して置けば、役に立つといふ一例として書いて見るのである。人が物を信じ得る範圍は、今よりも曾てはずつと廣かつたといふことは、かういふ事實を積み重ねて、始めて客觀的に明らかになつて來るかと思ふ。

[やぶちゃん注:「四十八年前」初出から機械的に計算すると、明治一三(一八八八)年となるが、当時は数えで計算するのが普通だから、翌明治十四年かも知れない。柳田は明治八(一八七五)年七月三十一日生まれであるから、十二、三歳となる。]

 日は忘れたが、ある春の日の午前十一時前後、下總北相馬郡布川《ふかは》といふ町の、高臺の東南麓に在つた兄の家の庭で、當時十四歲であつた自分は、一人で土いぢりをして居た。岡に登つて行かうとする急な細路のすぐ下が、この家の庭園の一部になつて居て、土藏の前の二十坪ばかりの平地のまん中に、何か二三本の木があつて、その下に小さな石の祠が南を向いて立つて居た。この家の持主の先々代の、非常に長命をした老母の靈を祀つて居るやうに聞いて居た。當時中々いたづらであつた自分は、その前に叱る人の居らぬ時を測つて、そつとその祠の石の戶を開いて見たことがある。中には幣も鏡も無くて、單に中央を彫り窪めて、徑五寸ばかりの石の球が嵌め込んであつた。不思議でたまらなかつたが、惡いことをしたと思ふから誰にも理由を尋ねて見ることが出來ない。たゞ人々がそのおばあさんの噂をして居る際に、いつも最も深い注意を拂つて居ただけであつたが、そのうちに少しづゝ判つて來た事は、どういふわけがあつたかその年寄は、始終蠟石のまん丸な球を持つて居た。床に就いてからもこの大きな重いものを、撫でさすり抱へ溫めて居たといふことである。それに何等かの因緣話が添はつて、死んでからこの丸石を祠にまつり込めることに、なつたものと想像することは出來たが、それ以上を聽く機會は終に來なかつた。

[やぶちゃん注:「下總北相馬郡布川」現在の茨城県北相馬郡利根町(とねまち)布川(グーグル・マップ・データ)。柳田國男は十二歳の時、生地の兵庫県神崎郡福崎町辻川から、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ、茨城県と千葉県の境に当たるこの下総の利根川端の布川に移り住んでいた。]

 今から考へて見ると、たゞこれだけの事でも、暗々裡に少年の心に、强い感動を與へて居たものらしい。はつきりとはせぬが次の事件は、それから半月か三週間のうちに起つたかと思はれるからである。その日は私は丸い石の球のことは、少しも考へては居なかつた。たゞ退屈を紛らす爲に、ちやうどその祠の前のあたりの土を、小さな手鍬のやうなもので、少しづゝ掘りかへして居たのであつた。ところが物の二三寸も掘つたかと思ふ所から、不意にきらきらと光るものが出て來た。よく見るとそれは皆寬永通寶の、裏に文の字を刻したやゝ大ぶりの孔あき錢であつた。出たのは精々七八箇で、その頃はまだ盛んに通用して居た際だから、珍しいことも何も無いのだが、土中から出たといふこと以外に、それが耳白のわざわざ磨いたかと思ふほどの美しい錢ばかりであつた爲に、私は何ともいひ現せないやうな妙な氣持になつた。

[やぶちゃん注:「寬永通寶」「その頃はまだ盛んに通用して居た」ウィキの「寛永通宝」によれば、『明治以降も補助貨幣として引き続き通用した』とあり、特に寛永通宝の内、『銅銭・真鍮銭は』一『厘単位の貨幣として主な役割を果たし』続けた、とある。そして、『鉄銭については』明治六(一八七三)年十二月に『太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失った(法的には』明治三〇(一八九七)年九月『末の貨幣法施行前まで通用)。しかし』、この明治三十年『頃より』、『次第に流通が減少し』、明治四五(一九一二)年『頃には厘位の代償としてマッチや紙などの日用品を用いるようになり』大正五(一九一六)年四月一日には『租税及び公課には厘位を切捨てることとなり、一般商取引もこれに準じたため』、遂に『不用の銭貨となった』とある。]

 これも附加條件であつたかと思ふのは、私は當時やたらに雜書を讀み、土中から金銀や古錢の、ざくざくと出たといふ江戶時代の事案を知つて居て、その度に心を動かした記憶がたしかにある。それから今一つは、土工や建築に伴なふ儀式に、錢が用ゐられる風習のあることを少しも知らなかつた。この錢は或は土藏の普請の時に埋めたものが、石の祠を立てる際に土を動かして上の方へ出たか、又は祠そのものゝ祭の爲にも、何かさういふ祕法が行はれたかも知れぬと、年をとつてからなら考へる所だが、その時は全然さういふ想像は浮ばなかつた。さうして暫らくは只茫然とした氣持になつたのである。幻覺はちやうどこの事件の直後に起つた。どうしてさうしたかは今でも判らないが、私はこの時しやがんだまゝで、首をねぢ向けて靑空のまん中より少し東へ下つたあたりを見た。今でも鮮かに覺えて居るが、實に澄みきつた靑い空であつて、日輪の有りどころよりは十五度も離れたところに、點々に數十の晝の星を見たのである。その星の有り形《がた》なども、かうであつたといふことは私には出來るが、それが後々の空想の影響を受けて居ないとは斷言し得ない。たゞ間違ひの無いことは白晝に星を見たことで、(その際に鵯《ひよどり》が高い所を啼いて通つたことも覺えて居る)それを餘りに神祕に思つた結果、却つて數日の間何人《なんぴと》にもその實驗を語らうとしなかつた。さうして自分だけで心の中に、星は何かの機會さへあれば、白晝でも見えるものと考へて居た。後日その事をぽつぽつと、家に居た醫者の書生たちに話して見ると、彼等は皆大笑ひをして承認してくれない。一體どんな星が見えると思ふのかと言つて、初步の天文學の本などを出して來て見せるので、こちらも次第にあやふやになり、又笑はれても致し方が無いやうな氣にもなつたが、それでも最初の印象があまりに鮮明であつた爲か、東京の學校に入つてからも、何度かこの見聞を語らうとして、君は詩人だよなどと、友だちにひやかされたことがあつた。

[やぶちゃん注:「東京の學校に入つてから」柳田は十七歳の時、尋常中学共立学校(後の開成高等学校)に編入学したが、翌年には郁文館中学校に転校、進級、十九歳で第一高等中学校に進学し、東京帝国大学法科大学政治科に進んだ。]

 話はこれきりだが今でも私は折々考へる。もし私ぐらゐしか天體の知識をもたぬ人ばかりが、あの時私の兄の家に居たなら結果はどうであつたらうか。少年の眞劍は顏つきからでも直ぐにわかる。不思議は世の中に無いとはいへぬと、考へただけでもこれをまに受けて、曾て茨城縣の一隅に日中の星が見えたといふことが、語り傳へられぬとも限らぬのである。その上に多くの奇瑞には、もう少し共通の誘因があつた。默つて私が石の祠の戶を開き、又は土中の光る物を拾ひ上げて、獨りで感動したやうな場合ばかりでは無かつたのである。信州では千國の源長寺が廢寺になつた際に、村に日頃から馬鹿者扱ひにされて居た一人の少年が、八丁のはばといふ崖の端を遠く眺めて、「あれ羅漢さまが揃つて泣いて居る」といつた。それを村の衆は一人も見ることが出來なかつたにも拘らず、さては御寺から外へ預けられる諸佛像が、こゝへ出て悲歎したまふかと解して、深い感動を受けて今に語り傳へて居る。或は又松尾の部落の山畑に、壻と二人で畑打をして居た一老翁は、不意に前方のヒシ(崖)の上に、見事なお曼陀羅の懸かつたのを見て、「やれ有難や松ヶ尾の藥師」と叫んだ。その一言で壻は何物をも見なかつたのだけれども、忽ちこの崖の端に今ある藥師堂が建立せられることになつた。この二つの實例の前の方は、豫め人心の動搖があつて、不思議の信ぜられる素地を作つて居たとも見られるが、後者に至つては中心人物の私無き實驗談、それも至つて端的に又簡單なものが、終《つひ》に一般の確認を受けたのである。その根柢をなしたる社會的條件は、甚だしく、幽玄なものであつたと言はなければならない。

[やぶちゃん注:「千國の源長寺」現在、再興されたらしく、曹洞宗慈眼山源長寺として現存する。サイト「信州まちあるき」のこちらに地図入りで詳しく書かれてあるが、『信州各地、ことに北安曇では明治維新時の廃仏毀釈運動で数多くの仏教寺院が破壊されていますから、この寺もそのとき堂宇群を失ったのかもしれません』とあるので、この話は、明治以降のことと考えてよいように思う。さすれば、柳田の体験より、そう遠からぬ時期の話として生きてくるのである。

「松尾の部落の山畑」長野県飯田市毛賀(けが)は旧松尾村の内で、西に旧松尾城跡の山があるから、ここか(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 奧羽の山間部落には路傍の山神石塔が多く、それが何れも曾てその地點に於て不思議を見た者の記念で、大抵は眼の光つた、せいの高い、赭色《あかいろ》をした裸の男が、山から降りて來るのに行逢つたといふ類の出來事だつたといふことは、遠野物語の中にも書留めて置いたが、關東に無數にある馬頭觀音の碑なども、もとは因緣のこれと最も近いものがあつたらしいのである。駄馬に災ひするダイバといふ惡靈などは、その形が熊ん蜂を少し大きくしたほどのもので、羽色が極めて鮮麗であつた。この物が馬の耳に飛込むと、馬は立ちどころに跳ね騰《のぼ》つてすぐ斃《たふ》れる。或は又一寸ほどの美女が、その蜂のやうなものゝ背に跨がつて空を飛んで來るのを見たといふ馬子もある。不慮の驚きに動顚したとは言つても、突嗟にその樣な空想を描くやうな彼等でない。乃《すなは》ち馬の急病のさし起つた瞬間の雰圍氣から、こんな幻覺を起す樣な習性を、既に無意識に養はれて居たのかも知れぬのである。

[やぶちゃん注:「赭色をした裸の男が、山から降りて來るのに行逢つたといふ類の出來事だつたといふことは、遠野物語の中にも書留めて置いた」これは「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八九~九二 山中の怪人」の「八九」話のことであろう。

「駄馬に災ひするダイバといふ惡靈」私はいろいろな怪奇談や記事で考証しているが、最もお薦めなのは、「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」に尽きると思う。「一寸ほどの美女が、その蜂のやうなものゝ背に跨がつて空を飛んで來る」に相当する挿絵もある。というより、柳田はこの話を元に、ここを書いているものと私は考えている。]

 我邦の古記錄に最も數多く載せられて居て、しかも今日まだ少しも解說せられて居ない一つの事實、卽ち七つ八つの小兒に神が依つて、誰でも心服しなければならぬやうな根據あるいろいろの神祕を語つたといふことは、この私の實驗のやうなものを、數百も千も存錄して行くうちには、まだもう少しその眞相に近づいて行くことが出來るかと思ふ。「旅と傳說」が百號になつたといふことが、たゞ徒然草のむく犬のやうなもので無いのならば、今度は改めて注意をこの方面に少しづゝ向けて行くやうにしたらよからうと思ふ。所謂說明のつかぬ不思議といふものを、町に住んで居て集めようといふのは稍々《やや》無理かも知らぬが、それでも新聞や人の話、又は今までの見聞記中にもまだ少しづゝは拾つて行かれる。實は私も大分たまつて居るつもりだつたが、紙に向つて見ると今はちよつとよい例が思ひ出せない。そのうちに折々氣づいたものを揭げて、同志諸君の話を引出す絲口に供したいと思つて居る。

[やぶちゃん注:「旅と傳說」東京の三元社が昭和三(一九二八)年一月から昭和十九年一月まで発行された、本邦各地から数多の民俗資料や採集報告が寄稿された雑誌で、柳田にとっては、発表の場としてのみでなく、居ながらにしてそれらが得られる貴重な情報源の一つでもあった。OdaMitsuo氏のブログ「出版・読書メモランダム」の「古本夜話966 萩原正徳、三元社、『旅と伝説』」を参照されたい。

「徒然草のむく犬」第百五十二段の以下。

   *

 西大寺靜然(じやうねん)上人、腰、かがまり、眉、白く、誠に德(とく)たけたる有樣にて、内裏へまゐられたりけるを、西園寺内大臣殿、

「あな、尊(たふと)の氣色(けしき)や。」

とて、信仰の氣色(きそく)ありければ、資朝卿(すけともきやう)、これを見て、

「年のよりたるに候。」

と申されけり。

 後日に、むく犬の、あさましく老いさらぼひて、毛、はげたるを、引かせて、

「この氣色、尊く見えて候。」

とて、内府(ないふ)へ、まゐらせられたりけるとぞ。

   *

「靜然上人」は真言律宗勝宝山西大寺の中興の祖となった鎌倉時代の僧叡尊から数えて四代目に当たる西大寺長老。日野有成の子。元弘元(一三三一)年に八十歳で遷化した。「西園寺内大臣」は西園寺実衡(正応元(一二八八)年~嘉暦元(一三二六)年)。彼は正中元(一三二四)年四月に内大臣に任ぜられている。享年三十八。「資朝」は日野資朝(すけとも 正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)は公卿で儒学者にして茶人でもあった。元亨四(一三二四)年、鎌倉幕府の六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、佐渡島へ流罪となった(「正中の変」)が、元弘元(一三三一)年、天皇老臣吉田定房の密告により、討幕計画が露見した「元弘の乱」が起こると、翌年、佐渡で処刑されてしまった。享年四十三。参照した当該ウィキには、この話をモチーフとした菊池容斎の「前賢故実」の絵が載る)「内府」内大臣の唐名。]

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 おばけの聲

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和六(一九三一)年八月発行の『家庭朝日』初出である。]

 

     お ば け の 聲

 

          

 

 オバケ硏究の專門雜誌が、最近に盛岡から出ようとして居る。又宮崎縣の鄕土志資料には、あの地方の妖怪變化の目錄が、先々月から連載せられて居る。ばけ物は勿論至つて古い世相の一つではあるが、それを觀ようとする態度だけがこの頃やつとのことで新しくなり始めたのである。私たちの見た所では、人が今日の問題などと珍しがるものでも、大抵は以前何度と無く、だれかゞ考へて見たものばかりだ。今頃だし拔けに現れてくるといふ問題は、もうこの人生には無い方が當り前である。單にこれまで氣のつかなかつた實例、それを機緣として新しく見直さうとする心持、今一つは寧ろ久しい間ほつたらかしてゐたといふ事實が、次々に問題を新たにしてくれるのである。この意味からいふと、ばけ物なども大いに新しい部類に屬する。たとへば我々がこれに興味を抱いて居るといふと、直ぐ「有るものか無いものか」を問はうとする人が、まだ世間には充滿して居るのである。かうした一方からしか問題に近よることの出來ぬ人たちが、いはゞ現代のためにいろいろの面白い題目を貯藏して置いてくれたので、新たな怪談と觀察との學問が、ちやうど起らずにはをられぬやうに世の中はなつて居る。

[やぶちゃん注:「オバケ硏究の專門雜誌が、最近に盛岡から出ようとして居る」不詳。識者の御教授を乞う。

「宮崎縣の鄕土志資料」これは昭和六年一月に発刊された日向郷土会発行の雑誌『日向鄕土志資料』を指す。K.WATANABE氏の「日向郷土会及び『日向郷土志資料』について」に、詳細な書誌データと原本画像(PDF)が載っており、上記の冒頭も引かれてある。それによれば、『同誌は早くから妖怪研究に着手した日野巌氏の主催』になる会であるとあり、末尾に日野氏の経歴も記されてあり、同誌は昭和一四(一九三九)年九月発行の第十八輯~第二十輯で廃刊とある。]

 

          

 

 最初まだ當分のうちは、いはゆる眞面目な人々は相手になつてくれぬかも知れない。しかし氣樂で時間の多い子供とか年寄とかゞ、仲間に入つてくるならばそれで結構である。何でも出來るだけ單純な目標、殊にもつとも實際的なる每日の言葉からたどつて行くのが便利なやうである。私はある時同志の靑年を集めて試みに「ばけ物は何と鳴くか」を比較して見たことがあつた。東京などの子供は戲れに人をおどす時、口を大きく開き尖らせた十本の指を顏のそばへ持つて來て、オーバーケーとうなるやうに發音するのが普通のやうだが、これは近頃になつての改造かと思はれる。といふわけはオバケといふ日本語は、さう古くからのもので無いからである。關東の近縣から、奧羽北陸の廣い地域に亙つて、化物の鳴き聲は牛のやうに、モーといふのだと思つて居る人は多い。それがどういふわけかは考へて見た人も有るまいが、大よそ人間のしたりいつたりすることに理由の無いものがあらうはずは無い。もし今以てそれを解說し能はずとすれば、乃ちその根源にはいまだ究められざる事實があるのである。

 多くの動物の名がその鳴き聲からつけられて居る如く、オバケもモーと鳴く地方では、大抵は又それに近い語を以て呼ばれて居る。例へば秋田ではモコ、外南部ではアモコ、岩手縣も中央部ではモンコ、それから海岸の方に向ふとモッコ又はモーコで、あるひは昔蒙古人を怖れて居た時代に、さういひ始めたのだらうといふ說さへある。しかし人間の言葉はそんな學者くさい意見などには頓着無しに、土地が變ればどしどしと變化して行つて居る。今日私たちの知つて居るだけでも、まづ福島縣の南の方ではマモウ、越後の吉田ではモッカ、出雲崎ではモモッコ、越中の入善でもモモッコ、加賀の金澤ではモーカ、能登にはモンモだのモウだのといふ呼び方がある。信州でも伊那は普通にモンモであるが南安曇の豐科ではモッカといひ、松本市ではモモカといつて居る。これから考へて見ると、江戶で「むささび」のことをモモングワ、それから一轉して一般に野獸の肉をモモンヂーなどといつたかも知れぬ。上總の長生《ちやうせい》郡などでは、今でもモンモンヂャといへば化け物を意味して居るのである。

[やぶちゃん注:前の「妖怪古意」の「六」に先行する本篇への言及がある。

「秋田ではモコ」『日本民俗文化資料集成』第八巻に所収する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊)には、似たものとして、『モウスケ』が立項されており、『動物の怪。北秋田郡地方でコエゾイタチのこと。狐より怖れられている』とある。「コエゾイタチ」はネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ属イイズナ Mustela nivalis の別名である。当該ウィキによれば、『東北地方や信州では「飯綱(いづな、イイズナ)使い」「狐持ち」として管狐(くだぎつね)を駆使する術を使う家系があると信じられていた』とある通りで、本邦では、古くから広く妖怪的動物として知られていた。私の「老媼茶話巻之六 飯綱(イヅナ)の法」を参照されたい。

「越後の吉田」現在の新潟県燕市吉田(グーグル・マップ・データ。以下、無表記は同じ)。

『「むささび」のことをモモングワ』同じ習性を持つ異類混同がある。厳密には「モモンガ」は「ムササビ」とは別種である。前の「妖怪古意」の「七」の「モモンガ」の私の注及びリンク先を参照されたい。

「上總の長生郡」旧郡域は当該ウィキを見られたい。]

 

          

 

 オバケの地方名は、大げさにいふならば三つの系統に分れて居る。その一つは九州四國から近畿地方までに割據するもので、主として、ガ行の物すごい音から成立つて居る。鹿兒島縣でガゴ・ガモ又はガモジン、肥後の人吉邊でガゴーもしくはカゴ、日向の椎葉山でガンゴ、佐賀とその周圍でガンゴウ、周防の山口でゴンゴ、伊豫の大洲附近でガガモ又はガンゴ同じく西條でガンゴーといふなどがその例である。

[やぶちゃん注:「日向の椎葉山」前の「妖怪古意」の「九」で既注の宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)一帯。

「伊豫の大洲」現在の愛媛県大洲市

「西條」現在の愛媛県西条市。]

 對馬では子供が兩手の小指を以て目の端を張り、こはい顏をすることをタンゴウスルといひ、又はガンゴメともいふさうである。これで思ひ當るのは東京などのベッカッコウも、本來は又目ガッコであつて、卽ちばけ物の顏といふ意味であつたらしい。それから小兒の遊びのカゴメカゴメなども、「いついつ出やる、夜明けの晚に」といふからは、やはりオバケを圍んで伏せて置く仕草であつたのかも知れない。化け物をガンゴといふ言葉は奈良にもあれば、越中でも富山の周圍や五箇山ではガーゴンといひ茨城縣などにもゴッコ又はガゴジといふ語が殘つて居る。それを大和の元興寺《がんこうじ》の昔話から、始まつたやうに稱へて居たのは、本を讀んだ人たちだけのひとり合點であつた。

[やぶちゃん注:「大和の元興寺の昔話」前の「妖怪古意」の「六」で既出既注。]

 次に第三の種類はモーとガンゴとの結合したもので、九州でも薩摩のガモだの長崎のガモジョだのがある他に、紀州の熊野でガモチといひ、飛騨は一般にガガモといつて居る。私の想像ではこれが多分は古い形であつて、他の二つはそれから分れて出たもの、卽ち最初には彼自身「かまう」と名乘つて、現れてくるのを普通として居たために、それが自然に名のやうになつたのかと思ふ。人が既にオバケを怖れぬやうになつて、「かまう」ぐらゐではこはさが足らず、「取つて食はう」とでもいはないと、相手がオバケだとも思はぬやうになつてしまつた。さうしてカモーを無意味なる符號の如くに、自分勝手に變形して使つて居たことはちやうど我々の固有名詞も同じであつた。しかも唯これだけの單に一語からでも、なほばけ物に對する以前の感覺は推測し得られるのである。

 

 (附記)

家庭朝日といふ雜誌は、昔朝日新聞で新聞購讀者に無料で配布したもので、編集長は津村秀夫氏だつた。今は保存して居る人も少なく、朝日新聞社にすらないといふことである。幸ひ奈良の水木直箭《なほや》氏の手許にあり、筆寫させてもらつたが、きけば水木氏も八戶の夏堀謹二郞氏より送られたものとか、「妖怪古意」と内容が重なつてゐるが、いろいろの思ひ出の爲、加へることにした。

[やぶちゃん注:「附記」は全体が底本では一字下げ。さても、単行本でここに注記しても、最早、遅過ぎますぜ、柳田先生。

「津村秀夫」(明治四〇(一九〇七)年~昭和六〇(一九八五)年)は映画評論家として知られる朝日新聞社社員。当該ウィキを見られたい。

「水木直箭」(明治三〇(一八九七)年~昭和五一(一九七六)年)は奈良県出身の民俗学者。国学院大で折口信夫に学び、国文学・民俗学を研究、奈良県文化財審議委員・奈良市史編纂委員などを歴任した。帝塚山短大教授。編著に「柳田国男先生著作目録」・「随筆折口信夫」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「夏堀謹二郞」『八戸郷土研究会』所属の民俗研究家。]

大手拓次譯詩集「異國の香」電子化注始動 / 序詩・「異國のにほひ」(ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本訳詩集は、大手拓次の没後七年の昭和一六(一九三一)年三月、親友で版画家であった逸見享の編纂により龍星閣から限定版(六百冊)として刊行されたものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらのものを視認して電子化する。本文は原本に忠実に起こす。例えば、本書では一行フレーズの途中に読点が打たれた場合、その後にほぼ一字分の空けがあるが、再現した。

 以下、見返し・扉と続き、次に大手拓次の「序詩」。以下、本文冒頭の「異國のにほひ(ボードレール)」となる。「序詩」は有意にポイント落ちであるが、読み難くなるだけなので、再現しなかった。――66になった遠い思い出に始動する――]

 

 

   異國の香 大手拓次譯詩集

 

 

   異 國 の 香

 

 

 

     序 詩 おほて・たくじ

 

   手に微笑の丘を秘めて

   うづくまる陰影のいきものは

   秋の眞晝のごとく

   言葉をかろくにごらせて

   とほく彼方の魂をよみがへらす

 

 

 

 

  異國のにほひ ボードレール

 

秋のあつたかいゆふぐれに

ふたつの眼をとぢて、 おまへの熱い胸のにほひをすひこむとき

わたしは單調なる太陽の火のきらきらする

幸福の濱べのあらはれるのをみる。

 

めづらしい樹と美味なる果物とを

自然があたへるところの懶惰の島

へいぼんな、 つよい肉體をもつた男たち

またはれやかな眼でびつくりとさせる女たち

みいられるやうなこの季節にあたり、 お前のにほひにみちびかれて

わたしはぼうつとした海の景色につかれはてながら

帆と帆ばしらとにみちた港をみる。

そのときに空氣のなかをとびめぐり鼻のあないつぱいになる

みどりいろの羅望子(タマリニエ)のにほひが

わたしの靈魂のなかで水夫のうたともつれあふ。

 

[やぶちゃん注:本篇は「国立国会図書館サーチ」の「ボードレール = Charles Baudelaire : 明治・大正期翻訳作品集成」(ボードレール著/川戸道昭・榊原貴教編集/二〇一六年大空社刊)の書誌で調べたところ、大正六(一九一七)年三月一日発行の『感情』初出であることが判明した。原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年岩波文庫刊)の年譜によれば、当時、大手拓次は満二十九、前年六月に「ライオン歯磨」広告部文案係に就職している。その大正五年十一月には本書の編纂者逸見享ら(社友・同人計八名)とともにボードレールの作品名をとって『異香詩社』を結成、翌年一月に『異香』創刊号を出したが、それ一回で潰れている。原子朗「定本 大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)に、初出『感情』のものに原氏が原詩の三、四連の行空けがないのは、雑誌編集者の恣意とされ(すこぶる同感である)、行空けを施したものを掲げておられる(196197頁)ので、以上の正字のものを用いて、以下に再現する。

   *

 

  異國のにほひ ボードレール

 

秋のあつたかいゆふぐれに

ふたつの眼をとぢて、おまへの熱い胸のにほひをすひこむとき

わたしは單調なる太陽の火のきらきらする

幸福の濱べのあらはれるのをみる。

 

めづらしい樹と美味なる果物とを

自然があたへるところの懶惰の島

へいぼんな、つよい肉體をもつた男たち

またはれやかな眼でびつくりとさせる女たち

 

みいられるやうなこの季節にあたり、お前のにほひにみちびかれて

わたしはぼうつとした海の景色につかれはてながら

帆と帆柱とにみちた港をみる。

 

そのときに空氣のなかをとびめぐり鼻のあないつぱいになる

みどりいろの羅望子(タマリニエ)のにほひが

わたしの靈魂のなかで水夫のうたともつれあふ。

 

   *

「羅望子(タマリニエ)」原詩の“tamariniers”。マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科タマリンド属タマリンド Tamarindus indica の、ここは、その木の茂った葉の匂い。アフリカ原産で、インド・東南アジア・アメリカ大陸などの亜熱帯・熱帯で栽培される。

 以下、原詩を示す。フランス語サイト‘Les Grands classiques’のこちらのものを、前掲(後者)の原氏の同書に載る原文と校合した。

   *

 

   Parfum exotique   Charles Baudelaire

 

Quand, les deux yeux fermés, en un soir chaud d'automne,

Je respire l'odeur de ton sein chaleureux,

Je vois se dérouler des rivages heureux

Qu'éblouissent les feux d'un soleil monotone ;

 

Une île paresseuse où la nature donne

Des arbres singuliers et des fruits savoureux ;

Des hommes dont le corps est mince et vigoureux,

Et des femmes dont l'oeil par sa franchise étonne.

 

Guidé par ton odeur vers de charmants climats,

Je vois un port rempli de voiles et de mâts

Encor tout fatigués par la vague marine,

 

Pendant que le parfum des verts tamariniers,

Qui circule dans l'air et m'enfle la narine,

Se mêle dans mon âme au chant des mariniers.

 

   *

本篇は詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal)の初版(一八五七年)に発表したもので、彼が二十歳の時に出逢って、二十年余り同棲生活をした、まさにファム・ファタール(femme fatale:宿命の女)と呼ぶに相応しいパリ・パンテオン座の下っ端女優でサント・ドミンゴ生まれの混血であったジャンヌ・デュバル(Jeanne Duval  一八二〇年~一八六二年)を讃えた一群の「ジャンヌ・デュバル詩篇」の一つとしてよく知られるものである。原氏も讃えておられるが、何より、本篇の訳は後代の知られた訳者らからは、飛び抜けて古いにも拘らず、拓次は逐語的ではなく、しかも、ボードレールの詩想をしっかりとつらまえ、さらに、「オホテ・タクジ・ワールド」の自家薬籠中のものへと変じていて、実に素晴らしい。なお、以下のボードレールの詩篇は総て「悪の華」に載る詩篇である。]

2023/02/15

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪古意

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、この「妖怪古意」は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和九(一九三四)年四月発行の『國語硏究』初出である。]

 

     妖 怪 古 意

        ――言語と民俗との關係

 

          

 東北の名物は算へきれぬほどあるが、特に言語の側から考へて見るによいのは、秋田沿海部のナマハギなどが主たるものであらう。昔の年越の節であつた舊正月十四日の夜深に、村の靑年の中から選拔せられた者が、蓑笠で姿を隱し、怖ろしい面を被つて鍬と庖丁とを手に持ち、何か木箱やうの物をからからと鳴らしつゝ、家々に入つて來て主人と問答する。小兒等がこれを懼るゝことは鬼神に對すると同じであるが、成人の男子は曾て自分もこれに扮したことのある者が多い故に、單に嚴肅なる一つの儀式としてこれを視て居る。南太平洋の多くの島々で、 Duk-duk その他の名を以て知られて居る神祕行事と、細かく比較をして見なければならぬ重要現象の一つであるが、その點は他にも發表したものがあるから今は說かない。こゝにはたゞその名稱の由つて來たる所、言葉がどの程度にまで人間の心の動きを、永い後の世に痕づけて居るかといふことを、この尋常で無い事實に沿うて、考へて行かうとするだけである。

[やぶちゃん注:「ナマハギ」「ブリタニカ国際大百科事典」の「なまはげ」から引く(コンマを読点に代えた)。 『秋田県男鹿市や潟上市』(かたがみし:ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無表示は同じ)『などで大みそかの晩に行なわれている,なまはげと呼ばれる鬼が家々を訪ねて回る行事』一九六四『年からは、男鹿市の真山神社(しんざんじんじゃ)で 』二月十三日から十五日(今日では 二月第二金曜日から日曜日まで)に、『なまはげ柴灯祭り(せどまつり)も行なわれているが、本来は小正月』(一月十四日又は 十五日)『の晩の行事』であった。『最も知られている男鹿市の例では、大みそかの晩、神籤(みくじ)で選ばれた若者が、赤鬼・青鬼の面を着け、藁蓑に藁靴姿で、手には木製の包丁と手桶を持って家々を回る。家々では主人が正装して迎え、家の中に入ったなまはげは、大きな音や声で子供や初嫁たちをおどし戒めるとともに、餅や酒、ごちそうのもてなしを受ける。なまはげの名は、いろり端に座ってばかりいるとできるナモミという皮膚の赤みをはぐ「ナモミ剥ぎ」からきているといわれ、怠け心とそれに象徴される悪疫をはらう意味がある』。一九七八年には『「男鹿のナマハゲ」として重要無形民俗文化財に指定された。同様の行事は、山形県のアマハゲ、石川県能登半島のアマメハギなど、東北地方から北陸地方にかけて分布している。また、鹿児島県の甑島列島』下甑地区『でも、大みそかの晩に、鬼が家々を訪れて子供を戒めるとともに餅を授けるトシドンの行事がある』とある。実際、我々に知っているナマハゲやその類似例では、概ね鬼形(きぎょう)面であるが、ウィキの「ナマハゲ」によれば、『なまはげには角があるため、鬼であると誤解されることがあるが、鬼ではない』。『なまはげは本来、鬼とは無縁の』、『怠惰や不和などの悪事を諌め、災いを祓いにやってくる』『来訪神であったが』、『近代化の過程で鬼と混同され、誤解が解けないまま鬼の一種に組み込まれ、変容してしまったという説がある』。『浜田広介の児童文学』「泣いた赤鬼」(昭和八(一九三三)年)の『ような、赤(ジジナマハゲ)と青(ババナマハゲ)の一対となっていることがあるが、そのような設定がいつ頃からあるのかは不明である』とあり、名称についても、『冬に囲炉裏(いろり)にあたっていると手足に「ナモミ」 「アマ」と呼ばれる低温火傷(温熱性紅斑)ができることがある。“それを剥いで”怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与えるという意味での「ナモミ剥ぎ」から』「なまはげ」「アマハゲ」「アマメハギ」「ナモミハギ」『などと呼ばれるようになった。したがって』、『ナマに「生」の字を当て「生剥」とするのは誤り』であるとある。

「南太平洋の多くの島々で、 Duk-duk その他の名を以て知られて居る神祕行事と、細かく比較をして見なければならぬ重要現象の一つであるが、その點は他にも發表したものがある」これは大正一三(一九二四)年十一月発行の『敎育問題硏究』に初出された「神に代りて來る」のことであろう。但し、そちらの「六」で、『メラネシヤの島々の Duk-duk などに近いものがあると言ひます』(本底本と同じシリーズの「定本柳田国男集」第二十巻で示すと、ここの左ページ十行目)と述べている対象は、知られた『八重山』の面を被った来訪神である『赤マタ・黑マタという二人の神』である。この記載の前後を見ても「ナマハギ」は挙がっていないものの、但し、この前の「四」の冒頭で言及している東北地方の『福島宮城邊では一般にカセトリと呼んでゐ』るとある『年祝ひの有る家へ、面を被り色々の變裝をして、訪問し、ぎ伎藝を盡して酒肴の饗應を受けて歸』るというそれは、明かに「ナマハギ」と同根の来訪神であることは言を俟たない。また、この「Duk-duk」であるが、「慶應義塾大学所蔵メラネシア民族資料データベース」のメラネシアのスマルク諸島ニューブリテン島ガゼル半島で収集されたと推定される「舞踏用彩色手持人形」の解説によれば(複数の方の解説を接合してある。一部のコンマ・ピリオドを句読点に代えた)、『ニューブリテン島ガゼル半島の人びとは、人を模った飾り棒や飾り板を持って踊る集団舞踏を好むことで知られてきた。最下部に持ち手が付けられ、軽量材で作られた展示資料もその一種と考えられる。頭の上に載る三角錐状の飾りには、一対の同心円模様が描かれている』が、これは『当該地域でドゥクドゥクと呼ばれる男性結社が、儀礼用の仮面』(☜)『に描いてきた意匠と同一である』とあり、『このような形態は、ドゥクドゥクと同地域に存在する秘密結社イニエット Iniet への加入時に使用される人形にも認められる』とある。別な方の解説には、『ガゼル半島やデューク・オブ・ヨーク諸島、ニューアイルランド島南部では、男性秘密結社によって、トゥブアン Tubuan やドゥクドゥク Dukduk と呼ばれる大型の仮面とそれに纏わる知識が独占的に保有されている。トゥブアン仮面は黒色に彩色された円錐形の被り面で』、『前面には同心円文・多重円文による眼が描かれる。ドゥクドゥク仮面も円錐形の被り面であるが、細長であること、鮮やかな色で彩色される点で異なる。またトゥブアン仮面に特徴的な同心円文・多重円文の眼は、ドゥクドゥク仮面には描かれない。それぞれの仮面の制作権は個人や母系集団によって保有され、他の成員には秘匿され、製作される。葬送儀礼の際には、両仮面の演者は葉で拵えた衣装を身に着け、舞踏を行う』とあった(この面の管理には非常に興味がある。私は二十代の頃、南太平洋の人々の信仰に興味を持ち、大学ノート三冊程の多数の論文・記事からの抜書を作成したことがある。既に書庫の藻屑となって見出すことは出来ぬが)。]

 

          

 

 ナマハギは現在もなほ行はれて居る。秋田では通例生剝の字をこれに宛てゝ、ナマハゲと呼んで居る者が多く、また八郞潟の西岸の村々、男鹿の神山の麓の里ばかりに、限られたる風習の如く思つて居る人もある。その推斷の共に誤りであることは、比較に由つて追々に明らかになつて來るのである。ナマハゲといふ語の意味は、土地のこれに携はる人々にも、もう說明が出來なくなつて居るが、僅か前まではナモミハギといつて居たことは、今なほ次のやうな唱へごとを口にしつゝ、その生剝が遣つて來るのを見てもわかる。

   ナモミコ剝げたか剝げたかよ

   庖丁コ磨げたか磨げたかよ

   あづきコ煮えたか煮えたかよ

[やぶちゃん注:以上の唱え事は一字空けでベタに続くが、ブラウザの不具合を考え、字空け部分で改行した。

「神山」「しんざん」と読んでおく。秋田県男鹿市北浦真山(しんざん)の峰である真山には、真山神社があるが、ここは元修験道の霊場として栄え、真言宗赤神山光飯寺(あかがみさんこうぼうじ)があったが、おぞましい廃仏毀釈で神社のみが残った。当該ウィキによれば、『本社の特異神事として柴灯祭(せどまつり)があ』り、『正月』三『日の夕刻』、『境内に柴灯を焚き、この火によってあぶられた大餅を』、『お山に鎮座する神に献じて、その年の村内安全、五穀豊穣、大漁満足、悪疫除去を祈る祭儀である』が、『なまはげは』、『この神の使者「神鬼」の化身と言われ』、平安中期の『長治年間』(一一〇四年~一一〇六年)『より行われてきた』とあった。恐らくは、「神山」は「眞山」の誤りではなく、神の祀れる山の意で用いているのであろうと好意的にとっておく。]

 同じ縣の河邊郡戶米川《とめがは》村女米木(めめき)、又は由利郡大正寺《だいしやうじ》村などにも、同じ行事があつて現にこれをナモミハギといつて居る。そのナモミは「秋田方言」に依れば、火斑(ひがた)卽ち長く久しく火にあたつて居る者の、皮膚に生ずる斑紋のことで、由利郡でさういふとあるが、他の郡にも無い語ではあるまい。ヒガタは國語辭典などには全く出て居ないが、東京でも知られて居る語であり、又ヒダコともアマメともいつて通ずる。一言でいふならば働かぬ者の看板である。それをこの年の夜の怖ろしい訪問者が、庖丁を磨ぎすまして身から剝ぎ取り、小豆と一しよに煮て食つてしまはうといふのが、右の唱へごとの出來た時の趣意であつた。これにも若干の演戲性を含んで居るが、とにかくに以前は小さな子供ばかりを、嚇かさうとして居たので無いことは想像し得られる。

[やぶちゃん注:「河邊郡戶米川村女米木」現在の秋田市雄和女米木(ゆうわめめき)。

「由利郡大正寺村」現在の秋田市雄和新波(ゆうわあらわ)。拡大すると、旧村名を冠した「大正寺郵便局」他が確認出来る。

「ヒガタは國語辭典などには全く出て居ない」小学館「日本国語大辞典」に「ひかた【火形】」で立項されている。『方言』とし、『強い火にあたって足のすねなどに生ずる赤み』とあり、採集地を青森県・宮城県仙台(「ひがた」「ひがたよった」)・岩手県・秋田県(「ひがたがたかった」)・山形県米沢・福島県相馬郡を挙げてある。

「ヒダコ」小学館「日本国語大辞典」に「ひだこ【火胼胝】」で立項し、『火鉢や炬燵』『などの火に長くあたったとき、皮膚にできる、暗紅色のまだら模様。あまめ』とある。『語源説』として、『茹蛸』『のような色になることからか』とある。小学館「日本国語大辞典」には、同様の斑紋とし、後に『方言』の条で採集地として、富山県東礪波郡・石川県江沼郡三木・福井県坂井郡雄島(おしま)・長野県上水内郡(かみみのち)・三重県鳥羽・京都府竹野郡・奈良県吉野郡十津川・山口県阿武郡見島・徳島県。熊本県下益城郡を挙げる。]

 

          

 

 右のナモミが野草の名の、ヲナモミ・メナモミと關係があるらしいことは、夙《はや》く折口君などがこれを說いた。關係はあるかも知らぬが少なくとも直接では無く、又今はまだ少しも證跡が無い。火斑のナモミは北部の地に行くと、m g に變つてナゴメとなつて居る。靑森縣の西津輕郡では、やはり小正月に同じ行事があつて、これをナゴメタグレ、もしくはシカダハギといふさうである。シカダは火斑のことでナゴメも同じもの、タクルといふ動詞は捲き起すことで、剝ぐといふよりも一段と適切に、惰け者の皮をむく意味をよく表現して居る。

「ヲナモミ」キク目キク科キク亜科オナモミ属オナモミ Xanthium strumarium で、好く知られているトゲトゲの俵型の「ひっつき虫」がその実である。当該ウィキによれば、種子には配糖体のキサントストルマインと脂肪油が含まれており、『この脂肪油には、動脈硬化の予防に役立つとされるリノール酸が』多く『含まれ』、『生葉には、タンニンが多く含まれ、タンニンの収斂』『作用によって、消炎や止血などに役立てられる』。『漢方薬としても知られる蒼耳子(そうじし)は、秋ごろ』『に、とげの多い果実を採取して、日干ししたものを呼んでいる』。『この中国名の蒼耳子の由来は、果実の形が女性の耳飾りを連想させるところからきているといわれている』。『日本で紅花油が食用として用いるのと同様に、中国では蒼耳子からとる青耳油を食用として用いるため、栽培もされている』。『民間療法としては、動脈硬化予防、頭痛、熱に効果があるとされ、風邪の頭痛、解熱、筋肉疲労痛に用いられる』。『また、茎葉はあせもや皮膚ただれに効用がある浴湯料としても利用され、全草を花期に採って粗く刻み、日干しにしたものを青耳草(そうじそう)と』称し、『風呂に入れる』。『虫刺されにも』、『生葉を揉んだしぼり汁をつけると』、『回復を早めるとも言われている』。但し、『全草、特に果実や若芽には弱い毒性があるので、頭痛、めまい、悪心、嘔吐を引き起こす恐れもあり、薬草として使用する場合の分量には十二分に注意する必要がある』と注意書きがある。

「メナモミ」キク亜科メナモミ属メナモミ Sigesbeckia pubescens 。調べると、風邪・できもの・中風・動脈硬化・脳溢血予防、特に手足の麻痺に効果があるとあった。オナミミの異名ではないので、注意されたい。

「シカダは火斑のことでナゴメも同じもの」「シカダ」は不詳だが、「ナゴメ」はサイト「秋田県能代市の伝統文化」の「能代のナゴメハギ」に、『ナゴメとは冬に怠けて囲炉裏の火にばかりあたっていると股や脛につく火斑(火形)のこと』とあるのを確認出来た。因みに、この「ナゴメハギ」は「ナマハゲ」と同系統の来方神であるが、その写真を見ると被る面は角のある鬼形ではなく、寧ろ、能・狂言(女面・翁・べしみに酷似し、狐のそれまである)の影響が感じられるが、或いは、これは古形のそれを、そうした形に入れ代えて保存しているものかも知れない。]

 これと殆と同一の語は、又太平洋の側面にも行はれて居る。例へば岩手縣下閉伊郡の岩泉《いはいづみ》地方では、ナモミは火斑を意味し又ナモミタクリの行事もある。これも正月十四日の晚に、蓑に手甲《てつかう》蒲脛巾《がまはばき》雪靴といふ裝束で、面を被つて家々を巡るのがナモミタクリであり、その假面をナモミメンと呼んで居る。九戶《くのへ》郡久慈町でも小正月の天ナガミといふ者が遣つて來るが、これは子供の行事であつてホロロ・ホロロと唱へつゝ家々を訪れて餅を乞ふばかりで、そのナガミを剝ぎ又はタクルといふことは言はない。この地方的の變化も私たちには意外では無い。成人の忘れた多くの儀式を、引繼いで保管する者はいつも兒童であつたからである。

[やぶちゃん注:「岩手縣下閉伊郡の岩泉地方」ここ

「九戶郡久慈町」現在の岩手県久慈市の内。]

 同じ岩手縣でも上閉伊の釜石附近では、右の小正月の訪問をナナミタクリといひ、これが大ナナミと小ナナミとの二種に分れて居た。小ナナミは前の久慈地方のナガミの如く、少年たちの餅をもらひあるく行事であり、大ナナミは男鹿のナマハギと似て居た。神樂面の中の成るべく怖ろしいのを被り、腰には注連繩《しめなは》を蓑に卷いて、家々にあばれ込むのは若者團の役目であつた。このナナミタクリと秋田のナモミ剝ぎと同じ語であることは、比較によつて全く疑ひが無いのである。嶺を一つ隔てた遠野の盆地などは、この名がもう無くなつて同じ行事だけがある。箱に何かを入れてからからと鳴らして來る代りに、こゝでは小刀を瓢《ひさご》の中に入れて、打振つて村中をあるくといふことである。それをモコ又はモウコといふ者もあるが、本當の名はヒカタタクリであつた。惰《だら》けて火にばかりあたつて居るやうな者を、ひどい目に遭はさうといふことは中世以後の風であらうが、いつの間にかこれほど廣く、互ひに相知らぬ土地まで行き渡つて居たのである。

 

          

 

 だから今後の採集によつて、なほ他の地方からも似た例が出ることゝ思つて居る。能登の鹿島郡などでは、除夜の晚はアマメハギといふ者が來て、足の皮を剝いで行くからといつて、子供たちを早く寢させる習はしがある。勿論半ば以上戲れであらうが、曾てこの地方にも火斑を剝ぐと稱して、年越の夕に訪れた者があつた痕跡には相違ない。アマメといふのが亦秋田などのナモミのことだからである。同じ半島も西海岸の皆月《みなづき》あたりへ行くと現にまだ一部分にはこの行事が活きて居る。それは正月の六日年越の夜、靑年等天狗の面を被り、素袍《すはう》を着て御幣を手に持ち、從者三人槌《つち》や擂小木《すりこぎ》を手に携へて、家々を巡つて餅を貰つてあるくといふのが、以前のアマメハギの殘形であらうかと思はれる。これと同種の行事ならば、昔の年越であつた小正月の宵にも、中國四國その他の田舍で、今なほ到る處の村に行はれて居る。たゞその名稱が奧羽のものと別なので、簡明に系統の同一を證し得ない迄である。甲州の平野の村々で道祖神祭といつたのも、裝束はこれとよく似て居たが主として新婚の家を訪ひ、嫁壻をいぢめて酒食の料を徵發することに力を注いだ。越後の出雲崎などは獅子の面を被つて來る爲に、普通これを獅子舞とは呼んで居るが、やはり法螺貝などを吹き怖ろしい樣子をして押しあるくので、小兒がこれを見て閉息することは、秋田のナマハギや閉伊のモウコも同じであつた。近年弊害があるので面だけは警察で禁じたといつて居る。さうすれば終《つひ》には普通の獅子舞と同じものになつてしまふだらうが、その獅子舞すらも子供たちには元はこはかつた。御獅子に嚙んでもらふと惡い所が治るといつて、惡戲をする私たちは屢手をその口の中へ入れられた。その日は年越の宵では無かつたけれども、これなども曾てはナマハギと同じ趣旨を以て、自分等の鄕里の方を𢌞つて居た名殘では無いかと思ふ。

[やぶちゃん注:「西海岸の皆月」石川県輪島市門前町(もんぜんまち)皆月

「素袍」歴史的仮名遣は実は二種ある。ここに出るように「素袍」とも書くが、本来は「素襖」が正しく、その場合の歴史的仮名遣は「すあを」となる。直垂(ひたたれ)の一種で、「大紋」(だいもん)と同系列の服装である。孰れも江戸時代に武家の礼装に用いられたが、その順位は、「直垂」が最高で、次が「大紋」、「素襖」はその下で平士・陪臣の料とされた。生地は布(麻)で、仕立ては直垂、大紋とほぼ同じであるが、前二者の袴の腰の紐が白であるのに対し、共裂(ともぎれ)が用いられ、後ろに山形の腰板が入る。また、胸紐・菊綴(きくとじ)は、組紐の代りに革が用いられ、この故に一名「革緒(かわお)の直垂」とも称された。背と両袖、及び、袴の腰板と左右の相引(あいびき)のところに、紋を染め抜く。頭には侍烏帽子を被り、下には熨斗目(のしめ)の小袖を着るのが正式である(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

          

 

 私は前に岩手縣の海沿ひを旅して居た際に、閉伊の大槌の宿舍に於て詳しくあの土地のナゴミタクリの話を聽いた。こゝではこの小正月の訪問者を、モウコ、ガンボウ又はナゴミタクリといつて居た。モウコもガンボウも共に畏ろしいものを意味して居る。ナゴミといふのは何の事ですかと、知らぬ顏をして私は尋ねて見た。さうすると宿の主人の年四十餘なる者が、きまじめにやはり妖怪のことでござりませう。この邊ではナゴミは怖いものだと思つて居ますと答へた。火斑ある皮をタクリに來るといふことは、もうあの土地では言はなくなつて居たのである。土地で忘れたといふことは、その單語のやゝ古いといふことを意味するだけで必ずしも獨立の解釋を支持する力にはならない。モウコ又はモコといふ名稱なども、近頃文字を解する者はほゞ一致して蒙古のことだといふやうになつて居るが、それは弘安の役などの歷史知識が、普及せぬ以前には考へられさうにも無く、たまたまさういふ說を立てゝも記憶せられさうにも思へぬから、起原のよほど新しいものと見ることが出來る。しかも一方には彼が人間の火斑を剝ぎに來るといふことも今こそこの樣に弘く言ひ傳へられて居るけれども、又決して最初からあつた信仰では無く、寧ろこの行事が幾分か形式化して、人がその言動に劇的の興味を、少しづゝ抱き始めてから後の話と思はれるから事によるとその今一つ以前の名が、モコ又はモウコであつたかも知れぬのである。假にさうだとすると、こんな小さな一語でもやはりその起りを尋ねて見なければならない。それをしなければその又以前の事を考へて見る足場が無くなるからである。

[やぶちゃん注:「ナゴミタクリ」所持する民俗学や妖怪関連論文を見たが、見当たらなかったが、ネットではウィキの「天狗」の「天狗の種類」に記載があった。天狗の『伝承も各地に伝わっており、変わったものとして、紀州に伝わる、山伏に似た白衣を着、自由自在に空を飛ぶ「空神」、長野県上伊那郡では「ハテンゴ」といい、岩手県南部では「スネカ」、北部では「ナゴミ」「ナゴミタクリ」という、小正月に怠け者のすねにできるという火まだらをはぎとりに現われる天狗などが伝えられる。姿を見た者はいないが、五月十五日の月夜の晩に太平洋から飛んでくる「アンモ」も』、『この類で、囲炉裏にばかりあたっている怠け童子の脛には、茶色の火班がついているので、その皮を剥ぎにくるという。弱い子供を助けてくれ、病気で寝ている子はアンモを拝むと治るという』とあった。]

 

          

 

 所謂モクリコクリの名稱は、かなり夙くから中央の文獻にも見え、これをお化けのことの樣に、思つて居た子供も少なくは無かつた。それが暗々裡に東北の蒙古說を誘發したまでは意外とも言へない。我々の不思議とするのは、寧ろこの善意なる初春の訪問者が、さういふ異國の兇賊の名と解せられて、何人もこれを否認せぬ時代まで、なほ以前からの外形と言葉とを、ほゞもとの儘で持ち續けて居たことである。妖怪そのものに對する日本人の觀念が、極めて目立たずに少しづゝ變つて居たのである。さうしてその過程を明らかにする手段が、今ではもうこの二つの幽かなる痕跡以外に、我々の爲に殘されては居らぬのである。單なる學者の心輕い思ひ付きが、多數の信奉者を混亂させた例は、この方面にはまだ幾らもある。たとへば嬉遊笑覽その他の隨筆に引用せられて居るガゴゼ元興寺《がんごうじ》說なども、これを首唱した梅村載筆《ばいそんさいひつ》の筆者などには、格別の硏究があつたわけでも無いが、誰でもこれを聽いた人は覺えて居て、一生に二度や三度は少年等に言つてきかせる。昔大和の元興寺の鐘樓に鬼が居て、道場法師といふ大力僧に退治せられたことが靈異記にある。それ故に妖怪をガゴゼといふのだといふのは、ちやうど陸中などのモウコと同じく、もしもこの時始めてばけ物が日本に生じたといふので無ければ、これに命名し又改名するのが、學者物識りの役目であつたことを意味するもので、二つながら我々の想像し得ないことである。これは要するにさうでは無いやうですと言ひ得る者の、一人も居り合はさなかつた席上の說であつた。言葉はそれを使用する者の地に立つて考へて見なければ、少なくともその起りを知ることは出來ない。さうしてモウコは又婦女兒童の語であつたのである。

[やぶちゃん注:私はここで江戸の考証随筆を非学術的な思いつきで当てにならないといったニュアンスで記している柳田に対する、〈鏡返し〉の批判をしておく。柳田や折口信夫は本邦の近代の民俗学を指揮したが、ある時点から、二人は、ある種の確実な性的象徴に基づく論考を語らないようにしようという密約があったと私は考えている。而して、元詩人志望で官学に組み込まれた柳田と、同じく詩人の素質を持ったまま、独自の浪漫的世界を夢見た折口(彼が同性愛者であったことは人口に膾炙している)によって、民俗学の学術的土台は、結果して、変形した象牙の塔になってしまったのではなかったか? 柳田の晩年の「海上の道」などは、私の若き日の大先輩で、歴史地理学専攻にして日本海運史を専門された方が、「一抹の学術性もない、思いつきの軽薄なロマンチストの産物以外の何ものでもない。」と一蹴されたのを思い出すのである。熊楠の柳田批判などは、まさにそうした一番痛いところを突くものでもあったのである。

「嬉遊笑覽その他の隨筆に引用せられて居るガゴゼ元興寺說」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻のここで視認出来る。狭義の当該部は短いので、以下に示す。但し、かなり読み難いので、所持する岩波文庫版第五巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)の当該部(リンク先とは版本が異なる)を参考に一部に語句を入れ、歴史的仮名遣の読みや句読点・記号等を補塡した。特に最後の部分は岩波文庫のそれを恣意的に正字化して採用した。

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○【「見聞集(けんもんしふ)」】の跋に、「或時は顏をしかめて『がごうじ』とおどせども、問(とひ)やまず。」。又【「籠耳(かごみ)」】といふ草子に、「小兒の啼を止る時、『むくりこくりの鬼が來る』といふこと、後宇多院弘安四年、北條時宗が執權のとき、元の世祖、せめ來(きた)る(「筠庭」云(いふ)、「此說、わろし。元は蒙古なれば、『鬼がくる』とは夷賊を云なり。『蒙古國裏』といふことのいひ、誤りなり。蒙古高句麗(ムクリコクリ)の二賊をいふなり。【「吾吟我集(ごぎんわがしふ)」】に、「鬼ぐるみわりそこなひて手の皮をむくりこくりと身は成りにけり」」。顏をしかめて、「がごじ」といふは、大和國元興寺(がんこうじ)の鬼の事【「本朝文粹(ほんてうもんずい)」】に見えたり。又、手をくみ、顏にあてゝ、『手々甲(ゼヽカヾウ)』といひて、小兒をおどす事もあり。予が幼き時、乳母どもが、姑獲鳥(ウブメ)が來るといへば、身にしみて恐ろしかりし云々)あり。行風(かうふう)が【「古今夷曲集」】の序に、「土佐の手々甲、大和の元興寺(カヾウジ)」といへり。さて、これらの「手々甲」は、卽(すなはち)、【「大鏡」】の「めかゝう」なること、【「籠耳草子」】に、「手をくみ、顏にあて」とあるにて、しるし。又、土佐といふは、彼處(カシコ)に元興寺の如き古事あるにもあらず。唯、邊鄙の國なれば、鬼あるやうにいひ傳へしならん(おもふに、目に錢をあてゝ、さる戯れする事もあれば、「錢元興(ゼヽガヽウ)」といひしにや。もと、手をあてゝすることなれば、「手々甲(ゼヽカヾウ)」と書(かき)たりと見ゆ)。今も土佐國の小兒、「手々甲(テヽカウ)」といふことをするは、いたく違(たが)へり。人をおどすわざにはあらで、小兒、集り、互(たがひ)に手をくみ合せ、手の甲を互に打(うち)ながら、向ひ、「河原で、かわらけ燒(やけ)ば、五皿・六皿・七皿・八皿、八皿めにおくれて、づでん、どつさり、それこそ鬼よ、簑着て、笠、きて、來るものが、鬼よ。」とこれをいひつゝ、手の甲を打(うつ)なり。その終りにあたる者を「鬼」と定む。これ、いづくにてもする「鬼定め」なり(常陸にて、「鬼ごと」を「鬼のさら」といふも、よしあり)。「後撰夷曲集」(播州の人、是誰(ぜすい)といふ者の歌)、「節分のまめなやうにと名付子はそれこそ鬼にかなぼうしなれ」。右の諺を、とれり。今の「手々甲」は、名のみにして、其實、違へり。又、おもふに、今、「てんがう」といふも「手々甲」にや。「てんがう」は、もと、「てゝんがう」と、いへり。「松の葉」永閉ぶし、くわんくわつ一休に、「けゝらけいあんてゝんがう」と有(あり)。又、物など乞ふを、否、とて、うけがはぬにも、べかかうすること、あり。「續山井」(寬文七年撰)、「折る人にべかゝうといへいぬざくら 友靜」。此句、上にいへる、「べか犬」をいへり(又、「後撰夷曲集」、「所望する一枝をくれぬのみならずこの目むきつゝあべか紅梅 正友」)。[やぶちゃん注:以下、岩波文庫版では、私の好きな「姑獲鳥(うぶめ)」のことが記されてあるので引きたいところだが、長くなるので、ここまでとする。]

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ここに出る「べか犬」は「子犬。犬の子」或いは一説に、「べっかんこうをしたような目の赤い犬」ともする。「べいか」「べか」とも呼ぶ。なお、この「ガコゼ」は知られた妖怪の名である。「元興寺」「がごじ」「ぐわごぜ」「がんごう」「がんご」或いは「元興寺(がんごうじ)の鬼」などと呼ばれる古い妖怪で、当該ウィキを見られたいが、『飛鳥時代に奈良県の元興寺』(嘗ての南都七大寺の一つで、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院であった法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転したもの。奈良時代には近隣の東大寺・興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退し、現在は三つに分かれている。それは当該ウィキを見られたいが、そこには『興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった』とあるので、ここらに相当するか(三つの内の二つが含まれる一帯が旧地である)『に現れたと』され、平安初期に書かれ、伝承された最古の説話集「日本國現報善惡靈異記』(にほんこくげんほうぜんあくりやういき:現行では略して「日本霊異記」と呼ぶことが多い)の「雷の憙を得て生ま令(し)めし子の强き力在る緣」や「本朝文粋」などに記載がある。鳥山石燕の「画図百鬼夜行」などの近世の妖怪画では、僧形をした鬼の姿で描かれてある。私は「元興寺(がごじ)」と聞くと、つい、別な妖怪「泥田坊」(当該ウィキ参照。以下の絵もある)の偏愛する鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」の絵を誤記憶無条件反射を起こすのを常としている。

「梅村載筆」かの林羅山の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの「日本隨筆大成 卷一」(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)の当該部(「人卷」の十三条目)を用いて以下に示す。一部、衍字らしきところがあったので、所持する吉川弘文館随筆大成版で訂した。

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○小兒をおどしすかし時、面をいからしてがごぜと云ふことはいかんと云ふに、元興寺とかけり、是をがごぜと云なり、大和の元興寺に鬼ありけること、本朝文粹に載たる道場法師が傳にあり、復震動雷電とかきてしだらでんとよめり、又我他被此とかきてがたひしとよめり、又鞁の曲に、都曇答臘と云ことあり。是をたらたら(タウタウ)たらとよめり。

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吉川弘文館随筆大成版でも同じだが、「鞁」(意味は馬の「曳き綱・ 手綱・ 腹帯」しかない)はママ。これは「皷」(つづみ)の誤字ではなかろうか?

 

          

 

 遠い昔の世のことは、私たちにはまだ明瞭には知れて居ない。人が老幼男女を通じて、一樣に眼に見えぬ神靈を畏れて居た時代には、多分はモノといふ總稱があつたらうといふことになつて居る。沖繩には今なほマジモノといふ語が行はれ、又バケモノといふ語も内地には出來て遺つて居る。しかし實際にこれを怖がつて居る者の間には、別にそれよりも一段と適切なる語が、新たに生れて來るのが自然であり、又必要なことでもあつた。ガゴやモウコといふ語は現在の使用階級に取つては、必ずしも簡單に過ぎもせず、又餘りに幼稚でも無かつた。さうして日本のかなり廣い地域に亙つて、今でもまだ活きて働いて居るのである。

[やぶちゃん注:「マジモノ」母音の口蓋化が起こる沖縄方言では「マジムン」が正しい。所持する日本民俗文化資料集成第八巻に所収する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊)によれば、『魔の物。ユーリーと混同されるが、『ユーリーはふつう』、『幽霊を意味し』、『人間の亡霊に限っていう。マジムンは豚、家鴨』(あひる)、『犬、牛、器物などに変化』(へんげ)『して出るモノ。家にはほとんど出ず、道の辻などに出る。定まった場所に出るものもあるが、徘徊するものもある』。『ユーリーは背が高く顔だけが真っ赤で、木にぶらさがっていて、足のないものを見た人がいる。また歩くのに足音も足跡もないという人もいる』(以上の最後の部分は折口信夫の「沖繩採訪記」に基づく)とある。また、似た呼称に宮古島の「マズムヌ」があり、こちらは『人の死霊もあれば動物の怪もある。幽霊との区別はつけにくいが、幽霊は初めから人のほうをむいているが、マズヌムはこれが最後というときにだけ顔を人に向ける。相手を食い殺すとか呪うとか生きていたときの怨みつらみを晴らそうとする』。『この霊が来たときは山羊』(やぎ)『の臭いが強く漂うのでカンカカリア(巫女)』(ユタの宮古列島での呼称)『にはすぐわかるという』とある。因みに、この「マ」は恐らく「魂」を意味する「マブイ」の「マ」と通底しているものであろう。因みに、私は私のオリジナル怪奇談蒐集である「淵藪志異」の「十五」と「十六」で、擬古文で沖縄の出身の方から直に聴いた怪奇談を擬古文で紹介してある。この二篇は別に高校生向けに書いた原話に基づくもので、その原話「沖繩の怪異」も、こちらで電子化してある。是非、読まれたい。前者は「イキマブイ(生霊)」、後者は「シニマブイ(死霊)」である。]

 前にも一度書いたことがあるから、こゝにはたゞ分布のざつとした色分けを述べて見よう。所謂化物を意味する兒童語は、大體に全國を三つに分け、それも少しづゝ改まつて來たやうである。最近の實狀によつて言へば、モウコの方言區域は東北六縣よりも大分廣い。岩手秋田の二縣はこの頃は寧ろモッコが多く、外南部ではアモコとさへいつて居るが、山形縣各郡はほゞ一圓にモウ又はモウコである。それから仙臺でも元はモウカ、福島縣でも岩瀨郡などはマモウだから、僅な變化を以てこのあたり迄は來て居るのである。日本海の側では越後にモカ、出雲崎の附近は既にモモッコで、それが富山縣の北部までは及んで居る。石川縣に於ても金澤はモウカ、能登はモウがあり又モンモウがある。蒙古の一說を以て總括することは出來なくとも、これを別個の發生と見ることは先づ六つかしからう。

[やぶちゃん注:「前にも一度書いたことがある」これはちょっと読者を馬鹿にしている。それは実にこの後に配されてある「おばけの聲」(昭和六(一九三一)年八月『家庭朝日』初出。凡そ本篇より三年前)を指すからだ。せめても、単行本化する際に、次章参照注記をするのが、普通だろ! 柳田!]

 次に信州では長野の周圍からはまだ聽き出さぬが、犀川上流の盆地ではモッカもしくはモモカ、天龍水域ではモンモが行はれ、甲州も亦モンモであるといふ。靜岡縣は内田武志君の方言新集に、靜岡市以西は大體にモーン又はモーンコ、東部には一部にモーモーといふのがあるが、主として行はれるのはモモンガーもしくはモモンジーであつて、偶然にモモンガも同一系統の語であつたことを確かめ得たのである。

[やぶちゃん注:「犀川上流の盆地」現在の安曇野市附近。そこから上流は梓川と名が変わってしまう。

「モモンガー」前段の不快で注するも気も減衰したが、一言言っておくと、以上の「化け物」の児童語の方言の内で知っているのは、これだけである。或いは「ももんがあ「もんもんがー」であるが、私自身は使ったことはなく、小説や手塚治虫の漫画で見たというだけのことである。所謂、動物のモモンガ(哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga。博物誌は「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)」を参照。なお、老婆心乍ら言っておくが、ムササビとモモンガは全くの別種である。誤認している方はリンク先をどうぞ)由来で、これらは、「頭から着物を被り、肘を張って、モモンガのような恰好をしたり、手の指で目や口を大きく広げた顔を作り、怪物、即ち、実在しない「化け物」の真似をして、子供などを嚇す戯れ」或いは、その時に挙げる同名の叫び声そのものを指す。さらに、転じて、人を罵って言う語にも用いられるが、そこには人間じゃない化け物レベルといういまわしい卑称のニュアンスが含まれるわけである。]

 

          

 

 さて妖怪を何故にモウといひ始めたかについては、たわいも無いやうな話だが私の實驗がある。曾て多くの靑年の居る席で試みにオバケは何と鳴くかと尋ねて見たことがある。東京の兒童等は全くこれを知らない。だから戲れに仲間を嚇さうとする場合に、妙な手つきをしてオバーケーといひ、もしくはわざとケーを濁つていふこともある。つまり我名を成るたけこはさうに名乘るのである。ところが或信州の若者はこの問に對して、簡明にモウと鳴きますと答へた。丸で牛のやうだなといふと、他に鳴きやうがあらうとは思はなかつたといつた。それから氣をつけて居るのに、子供がモウと唸つて化物の眞似をして居るのを折々見る。これは誰でも試みることの出來る實驗で、もし東北のモウコが他の聲で鳴くといふ例が幾つか現れたら、私の推定は覆へることになるのだが、私だけはこれが鳴き聲といふのもをかしいが彼の自らを表示する聲から、そのまゝ附與せられた名稱であつて、犬をワンワンといつたのと同じ態度だと思つて居る。

 そのワンワンを又化物の名として居る地方がある。たとへば筑前の博多ではオバケの小兒語がワンワン、同じく嘉穗《かほ》郡ではバンバン、肥後玉名郡でもワワン、薩摩でも別にガモといふ語はあるが、小兒に對してはワンを用ゐ「ワンが來《く》ッど」などといつて嚇すさうである。かういふ土地でも實驗は容易に出來る。もし化物がワンといつて現れるので無かつたら、かういふ名稱は新たに生れることは出來なかつたらう。從つて歷史を奈良朝に托せんとして居るガゴゼなども、一應はやはり彼が出現の合圖の聲に據つて、起つたものと見て置いてその當否を究むべきである。ガゴゼは自分等の鄕里播磨などで、以前はさういつたといふことであるが、近世はもう無くなつて居る。京都でも文獻には見えて今はさうで無く、本元《ほんもと》と言はるゝ北大和も唯ガンゴである。但しこのゼといふ接尾辭は、東北のコなどとは違つて、偶然に附着したものでは無いやうに思はれる。四國では阿波が一般にガゴジ又はガンゴジであり、伊豫にはガンゴといひ又ガガモもあるが、周桑《しうさう》郡の兒童語には鬼をガンゴチといふのがある。それからずつと飛び離れて、關東の方でも水戶附近がガンゴジ又はガンゴチ、これと隣接した下野芳賀郡もガンゴジーである。理由の無い附會にもせよ、元興寺說の起つたのは、始めはこれに似よつた音を以て、呼ばれて居たことを推測せしめる。

[やぶちゃん注:「嘉穗郡」旧郡域は福岡県の中央部。当該ウィキの地図を参照。

「肥後玉名郡」旧郡域は有明海奥の東岸。当該ウィキを参照。

「周桑郡」現存しない。旧郡域は当該ウィキの地図を参照。

「下野芳賀郡」旧郡域は栃木県東南端一帯。当該ウィキの地図を参照。]

 

          

 

 化物をガゴ又はこれと近い音で呼ぶ區域は、殆と完全に前に揭げたモウコ區域と隔絕して居る。たつた一つの例外らしく見えるのは越中であるが、これとても多分は對立であつて、一地の二つの言ひ方が併存して居るのでは無からうと思ふ。さうしてこの地方は雀、蟷螂又蝸牛の方言でも見られる樣に、不思議に異種の語の入り交つて居る處である。大田君の富山市近在方言集に依れば、幼兒を嚇す語に「泣くとモーモに嚙ましてやるぞ」といふとあるが、それは新川郡の平野でのことらしく、五箇の山村では別に子供を威《おど》すのにガーゴンといふ語がある。卽ちこの縣の奧地だけに、ほゞ孤立してこの系統の分布を見るのである。それから又ずつと飛び離れて、關東では常野境上《じやうのさかひかみ》のガンコジがあり、その南に繼いで新治稻敷等の諸郡のゴッコがある。これがどの位の版圖を持つかはまだ調べられて居らぬが、とにかくに現在はさう廣く及んでは居ないやうである。注意すべき類似は却つて遠方にある。卽ち山口縣では、山口も下關も、共に鬼やおばけがゴンゴであつた。石見ではこれをゴンといふ兒童もあるが、別にゴンゴジー又はゴンゴンジーといふのも怖ろしい人又はモノのことだから、つまりこの地方と常陸の一角とは一致して居るのである。さうして此方は九州の北部、及び四國島の北東二面とも接續して居る。阿波のガゴジのことは既に述べた。讃岐はまだ當つて見ないが、伊豫にもガンゴチがあり、又喜多郡などはガンゴであつて、たゞその南の宇和四郡だけが、第三のガガモ系に屬して居る。九州の方では筑前のバンバンなどがあるが、それを飛び越えて肥前は佐賀藤津の二郡がガンゴ又はガンゴウ、對馬でも同上、肥後は南端の球磨《くま》郡がガゴウで、嶺を越えて日向の椎葉村《しいばそん》がガゴもしくはガンゴ、大分縣にも亦處々にガンコがある。起原が一つで無かつたならば、これまでの弘い一致は現れまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「大田君の富山市近在方言集」在野の民間史学者田村栄太郎(明治二六(一八九三)年~昭和四四(一九六九)年)の著作で、昭和四(一九二九)年郷土研究社刊。

「常野境上」この読みの「常野」は「ちくま文庫」版のルビを参考に附した。「堺上」は私のあてずっぽである。ここは現在の東京都武蔵野市境であるが、「今昔マップ」の戦前の地図で見ても、広域地名の「常野」は存在しない。不審。

「佐賀」佐賀県の旧佐賀郡は当該ウィキを参照。有明海湾奥の東岸。

「藤津」郡の旧郡域は当該ウィキを参照。有明海湾奥の西岸。

「球磨郡」旧郡域は当該ウィキを参照。熊本県南東部の広域相当である。

「日向の椎葉村」平家落人伝説で知られる宮崎県東臼杵郡椎葉村。]

 

          一〇

 

 そこでなほこの序でに問題とすべきことは、これと東日本一帶のモウコ乃至はモモンガと、丸々緣無しに別々に生れたか否かであるが、私はやはり始めは一つだと思つて居る。これも當然に實驗から入つて行くべきであるが、恐らくは化物はさういふ聲を發するものと、思つて居る子供又は子供らしい人が、今でも機會ある每に見出し得られると思ふ。それがもし違つて居たら、乃ち私の假定は覆るのだが、そんな心配は先づ無ささうである。現在のおばけを意味する方言には、別に第三種の g m の二音を組み合せたものがあつて、その分布の狀態は一段と廣汎であり、しかもこれを調理する母音の傾向が、かなり顯著に前二者と共通して居る。これを兩者の中間に置いて考へると、變化の道筋は大よそ判つて來るやうに思はれるからである。少し事々しいが他日追加の便宜の爲に、表にして置くことを許されたい。私の手帖に拔き出してあるのは、今のところ次の十餘例に過ぎぬが、これは追々に增加する見込がある。

  鹿兒島縣   ガモ、ガモジン(ガゴ)

  長崎市    ガモジョ(アモジョ)

  出雲     ガガマ

  伯耆東伯郡  ガガマ

  加賀河北郡  ガガモ(モウカ)

  飛驒一圓   ガガモ

  備後福山   ガモージー

  伊豫喜多郡  ガガモ(ガンゴ)

  伊豫西宇和郡 ゴガモウ

  紀州熊野   ガモチ

  伊勢宇治山田 ガモシ

[やぶちゃん注:表は底本では二段組だが、ブラウザの不具合を考え、一段とした。]

 右の諸例の中で備後や長崎の如く、語尾に元興寺と同樣の一音節を添へてあるものゝ多いのは、私には意味のあることに思へる。我々のオバケは口を大きく開けて、中世の口語體に「咬まうぞ」といひつゝ、出現した時代があつたらしいのである。その聲を少しでもより怖ろしくする爲には、我邦では k g 音に發しかへる必要があり、又折としてはその g 音をまゝなく(吃る)必要もあつたかと思はれる。それが今日のガモ又はガガモの元だといふことは、昔を考へて見れば必ずしも無理な想像では無い。私などの幼ない頃の言葉では、妖怪はバケモンであり又ガゴゼであつたが、なほ昔話中の化物だけは、やゝ古風に「取つてかも」といひつゝ現はれた。カムといふ言葉が端的に、咬んでむしやむしやと食べてしまふことを意味したのである。その用法は南の島にはまだ殘つて居る。これが嚥下の動作までを包含せぬ動詞となつて後も、なほ努めて日常の「食ふ」とか「たべる」とかいふ語と、差別した語を使はうとしたことは、關東でよく聞く蚊がクフや、犬がクラヒツクなどと異曲同工と言つてよからう。

[やぶちゃん注:「ままなく」不審。新潟及び東北地方の方言で「吃(ども)る」の意の方言である(小学館「日本国語大辞典」で確認)。何故「不審」なのか? 柳田は東北人ではない。ここで東北弁を用いる必要は全くない。されば、「どもる」という語をわざわざ使ったのは何故だ? ちゃんとそうした方言まで私は知ってるぞって誇示したかったのか? それとも差別言辞だからか? だったら、丸括弧で示す必要はないよね? 訳わからんこと、すな!]

 

          一一

 

 鳥や獸のやうな言語の丸でちがつたものゝ聲でも、我々は何かこちらの言葉で物を言つて居るやうに聽かうとした。梟は糊《のり》つけ乾《ほう》せ、畫眉鳥《ほほじろ》は一筆啓上仕り候といふやうに解せられて居た。まして化物は人間の幻を以てこしらへたもの、それが最初から意味の無い聲を出して來る筈は無かつたと思ふ。しかも彼等の要求は、以前はさう過大又複雜なもので無かつたのが面白い。「かまう」は多分猛獸などの眞似で、實際にその意圖があつたので無く、やはり「小豆が煮えたか」[やぶちゃん注:ホトトギスの聞き做(な)しの一つ。]と同樣に、相手が懾伏《せうふく》[やぶちゃん注:相手の勢いに圧され、怖れてひれ伏すこと。]し畏怖するを以て目的とする恫喝の語であつたのであらう。その語義が一旦は不明になつて、却つて語感の展開して來たことは、今ある小正月のナマハギやナゴミもよく似て居る。咬まうがモウとなつたのは所謂アクセントの問題である。東北の方では西南とちがつて第一音節の ga に力が入らなかつたものと思はれる。さうなると蒙古人のことだといふ新說も生れ易く、又は亡靈をモウコンといふ新語を案出し得られた。化物と亡靈とは本來は同類で無いのだが、それがモウと鳴いて出て來る奧州や信州では、亡魂と解せられて居る一種中間の化物が加はつて居る。さうして冥界の危險は世と共に痛烈になつた。この混同は日本の固有信仰の爲に、一般に有害であつたと言つてよい。

 一方この邦の言語學の側からいふと、これには又他では得られない幾つかのよい史料を含んで居る。陸中の上閉伊などでは、お化けをモウコといふ語と併立して、別に西國流のガンボウといふ名も傳はつて居る。第二音節のモウに力を入れた發音のし方も、最初からのものでは無くて、曾てはガの音に重きを置いて居た單語が、こゝにもあつたことを想像せしめるのである。ガゴウといふ語はやゝ古く文獻に錄せられて居るから、これが今邊土に遺つて居るガモウなどの、一つの音訛《おんくわ》の例だといふことは信じ得ぬ人があるかも知らぬが、私の說明は無造作だ。一方は日本語として少し意味があり、他の一方は無意味だ。人の空想から生れた語ならば、少しでも意味のある方が前のもので、それが慣用によつて約束せられた後で無いと、他の一方の轉訛は起り得まいと思ふのである。ガゴゼ、ガンゴジ等の不可解なる接尾語が、諸處に殘つて居るのもその痕跡だと見られる。だから古く知られて居る故に正しい元の語だとも言はれぬと同時に、音韻の訛りは常に或傾向に沿うて進むとしても、それには屢々社會的原因とも名づくべきものが參與して、單なる生理作用だけではその過程を解釋することが不可能だといふこと、かういふ相應に重要なる定理も、行く行くはこれから導いて來ることが出來さうである。つまらぬ小さな問題の樣に見えて、その實は決してさうで無い。

 

          一二

 

 オニといふ日本語の上代の意義は、頗る漢語の「鬼」とは異なつて居た。これを對譯として相用《あひもち》ゐた結果が、いつと無く我々のオニ思想を混亂せしめたことは、曾て白鳥博士なども力說せられたことがあつた。それと同樣に方言のモウコ、ガゴジ、ガモジョ等を、直ちに標準語のお化け又は化け物に引直すことは卽ち又常民信仰史の眼に見えぬ記錄の數十頁を、讀まずにはね飛ばしてしまふやうな不安がある。方言は早晚消滅すべきものであらうが、殘つて居るうちは觀察しなければならぬ。さうしてその意義を尋ねるのが學問だと私は思ふ。所謂、お化け話の民間に傳はつて居るものは、今でもまだ若干の參考を我々に提供する。人に恨みを含み仇を復せんとする亡魂は別として、その他のおばけたちは本來は無害なものであつた。こはいことは確かにこはいが、きやアといつて遁げて來れば、それで彼等の目的は完了したやうに見える。單に化物などといふものはこの世に無い筈といつたり何がこはいなどと侮つたりする男が、ひどい目に遭はされるだけである。さうして時あつては產女(うぶめ)が子を抱いて居た者に大力を授けたり、水の精が約束を守る者に膳椀の類を貸してくれる等、素直に彼が威力を認めその命令に從順である者に大きな恩惠を付與したといふのみならず、更に進んでは妖怪變化と見えたのは、實は埋もれたる金銀財寶であつたといふ話にまで發展して居るのである。人をそこなふ爲に現れるので無かつたことだけはよくわかる。目的は要するに相手の承認、乃至は屈伏にあつた。それ故に通例は信仰の移り變りの際に、特にこの種の社會現象が多いものと、昔からきまつて居るのである。東北諸處の田舍の年の夜の訪問者が、家主も謹んで迎へ、又これに攜はつて居る若者も、嚴肅なる好意を抱いて演じて居るに拘らず、單に火斑剝離者の名を以て知られ、もしくは化け物と共通の名を以て呼ばれて居るといふことは、これをやゝ零落せんとする前代神の姿として、始めて解し得る不思議である。彼等はたゞ自分の威力を畏れ又崇めなかつた者をのみ罰せんとして居たのである。だからその表現には恫喝があつた。取つて咬まうとどなりつゝその實は咬まなかつた。神祕に參加せざる未成年者のみがそれを知らぬ故に大いに慄へたのである。しかも信仰は愈々變化して、今では兒童の最も幼ない者の間に、僅かに殘壘を保つに過ぎないのに、他の一方には何とかしてお化けを怖ろしい形に作りかへて、いつ迄もこれを信じようとする者が絕えない。おばけの話の年と共にあくどくなるのは、考へて見ると面白い人心である。

[やぶちゃん注:所謂、現代の心霊映像や都市伝説(urban legend)、グレイ型宇宙人を見れば、未だになんにも変わっちゃいませんぜ、柳田先生。]

 

       附  錄

 

 お化けを意味する我々の方言が、土地によつて始終變つて居たらしいことは、今ある複合語の中からもこれを窺ふことが出來る。たとへば東京は現在一樣にオバケといふが、なほ關西のアカンベを、ベッカコウといふ語だけは殘つて居る。ベッカコウは卽ち目のガゴで、わざと目を剝いてこはい顏になることである。下野の河内郡などでは、瞼に腫物が出來て赤く脹れて居るのをメカゴもしくはメカイゴといふ。これも眼だけのガゴであらうと思ふ。仙臺のお化けの聲はモウカであるらしいが、なほ隱れ鬼の遊戲はカクレカゴであり、水に住む源五郞蟲をガムシといつたと濱荻《はまをぎ》に見えて居る。この源五郞蟲は恐らく「田がめ」の誤りであらう。この蟲の水中の擧動が似て居ると見えて、これを妖怪と同じ名で呼ぶ例は、備前丹後その他の地方にある。鹿兒島縣の種子島などでも今では妖怪をガモといふやうになつて居るらしいが、この田鼈《たがめ》だけは東北流にタモツコウといふさうである。なほこの因みにいふと、タガメのガメも石龜のことで無く、やはり水中の怪物の名として、かなり廣い區域に行はれて居るから、或はガモ、ガガモの方から導かれたものかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「源五郞蟲」鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科Caraboidea のゲンゴロウ類、若しくは狭義のゲンゴロウ科 Dytiscidae 又は同科のナミゲンゴロウ Cybister japonicus や、同オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ類を含んでいよう。標準和名のそれはゲンゴロウ族ゲンゴロウ属ゲンゴロウ Cybister chinensis となる。

「ガムシ」「牙蟲(がむし)」。柳田はこれを異名ととっているらしい雰囲気があるが、大間違いである。「ガムシ」は鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ハネカクシ下目ガムシ上科ガムシ科 Hydrophilidaeに属する多くの種群を指す。因みに和名のそれは、当該ウィキによれば、『ガムシ亜族(大型種)では胸部下に後方に向かって』一』つの尖った突起があり、これを獣の牙に例えて、牙虫と呼ぶようになったと言われる』とある。

「濱荻」複数あるので、不詳。小学館「日本国語大辞典」によれば、一つは、江戸中期の方言辞書で一冊。堀季雄編。明和四(一七六七)年成立で、『江戸へ出る庄内地方の婦人のために江戸語と庄内方言を対照させて解説』したもので「庄内濱荻」とも呼ぶ。次に、江戸末期の方言辞書で三冊。匡子(きょうし)編。文化一〇(一八一三)年頃の成立で、『仙台方言約』二千六百『語を』、『いろは順に配列して解説を加え、対応する江戸語を示』したもので、「仙臺濱荻」とも呼ぶ。三つ目は、江戸末期の方言辞書で一冊。野崎教景編で、天保一一(一八四〇)年から嘉永五(一八五二)年頃に成立したもので、『久留米を中心とする九州方言約』六百『を』、『いろは順に配列し、江戸の俗語と対照しながら』、『語源・正字を解説』したもので、「久留米濱荻」「筑紫濱荻」とも呼ぶ。柳田の叙述は以上を仙台方言として示しているようなので、二つ目のがそれらしくはあるが、原本に当たれないので確認のしようがない。

「田がめ」「田鼈」半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目タイコウチ上科コオイムシ科タガメ亜科タガメ Lethocerus deyrollei。博物誌は前のげんごろうなんぞもひっくるめて私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 水蠆」を参照されたい。]

 次に氷柱《つらら》を豐前あたりでモウガンコといふのも、同じ言葉の適用かと思ふが、北九州には今はモウといふ語は消えかゝつて居る。植物の畸形をさしてバケバケなどといふことは、東京附近でも折々聽く語であるが、その中で最も普通になつて居るのは薯蕷《やまのいも》の子のムカゴである。加賀は今日はモウカの地域であるが、零餘子《むかご》のみはゴンゴといひ、越中も各郡ともにガゴジョ、飛驒もガゴジョであつて、たゞ袖川村などがガモンジョになつて居る。九州も豐後筑後肥前などがすべてカゴで、浮羽《うきは》郡吉井だけはヤマイモカンゴ、壹岐島はイモカゴ、廣島縣の一部ではマカゴといつて居る。ムカゴの「ム」は多分芋であらう。或はヌカゴともいつて古くから文筆にも現れて居るが、本來はお化けのガゴから出て、もう一度優雅な k 音に復したものなることは、他の諸例から類推し得られる。怪物を曾てガゴといつて居た地方は、今よりも廣かつたものと思はれる。岩手縣のモウコ地帶にガンボウのまじつて居るのも、やはりこの地方に或時代の變化があつたことを想像せしめる。

[やぶちゃん注:「薯蕷」は音「シヨヨ(ショヨ)」で狭義には所謂、「自然薯(じねんじょ)」=「山芋」=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica を指す。「日本薯蕷」とも漢字表記し、本種は「ディオスコレア・ジャポニカ」という学名通り、日本原産である。ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya とは別種であり、別種であるが(中国原産ともされるが、同一ゲノム個体は大陸で確認されておらず、日本独自に生じた可能性がある。同種は栽培種であるが、一部で野生化したものもある)、現行では一緒くたにして「とろろいも」と呼んだり、同じ「薯蕷」の漢字を当ててしまっているが、両者は全く別な種であり、形状も一目瞭然で異なる。

「零餘子」「ぬかご」とも読み、「珠芽」とも書く。ウィキの「むかご」によれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモDioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。「零余子」という表記については、私が恐らく最もお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の「日刊☆こよみのページ スクラップブック (PV 415 , since 2008/7/8)」の「零余子」の解説中に、『零余子の「零」は数字のゼロを表す文字にも使われるように、わずかな残りとか端といった小さな量を表す文字ですが、また雨のしずくという意味や、こぼれ落ちるという意味もあります』。『沢山の養分を地下のイモに蓄えたその残りが地上の蔓の葉腋に、イモの養分のしずくとなって結実したものと言えるのでしょうか』とあり、私の中の今までの疑問が氷解した。

「浮羽郡吉井」現在の福岡県うきは市吉井町(よしいまち)。]

2023/02/14

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 かはたれ時

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名語」彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、この「かはたれ時」は昭和五(一九三〇)年三月発行の『ごぎよう』(『九卷十一號』と底本の『内容細目』にある以外は書誌詳細は不詳である)初出である。]

 

      か は た れ 時

 

 黃昏を雀色時といふことは、誰が言ひ始めたか知らぬが、日本人で無ければこしらへられぬ新語であつた。雀の羽がどんな色をして居るかなどは、知らぬ者も無いやうなものゝ、さてそれを言葉に表はさうとすると、段々にぼんやりして來る。これがちやうど又夕方の心持でもあつた。卽ち夕方が雀の色をして居る故に、さう言つたので無いと思はれる。古くからの日本語の中にも、この心持は相應によく表れて居る。例へばタソガレは「誰そ彼は」であり、カハタレは「彼は誰」であつた。夜の未明をシノノメといひ、さては又イナノメといつたのも、或はこれと同じことであつたかも知れない。

[やぶちゃん注:「かはたれ時」以上の言及は前篇の「三」でも述べており、私もそこで注を附してあるので繰り返さない。

「シノノメ」「東雲」をかく読むのは無論、当て訓。原義は不詳で、幾つかの記載は「篠(しの)の目(め)」とする。古く本邦の民家の明かり採り用の窓には篠竹(しのたけ:単子葉植物綱タケ亜科メダケ属メダケ Pleioblastus Simonii の細いしなやかなそれで編まれてあった。その編み目から日の出直前の雲の有意な輝きから差す明かりから転じて、「夜明けの東の空の輝き」を指すようになり、更に広く夜明けの時間帯をも言うようになったというものだが、どうも風流に後付けした感がしなくもない。そもそも古民家の窓にそんな細工をしたろうか。小学館「日本国語大辞典」には、或いは「篠の芽」かとするが、これは、恐らくメダケの新芽が紅色を帯びるからであろう。私は寧ろこの方が腑に落ちる。

「イナノメ」「しののめ」と同義の万葉以来の語であるが、語源は諸説ある。小学館「日本国語大辞典」の「いなのめの」の補説によれば、まず、『「いな(寝)のめ(目)」が朝方開く』と出し、次に『いな(稲)のめ(目)(稲の穂の出始める意)を夜明けにたとえるところから』とする(所謂、稲作文化のサイクル象徴説である。これも十把一絡げ的で最近の私は信じていない)。次に『「イナ(鯔)のめ(眼)」』(「イナ」は出世魚のボラ(条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus)の下から二つ目の大きさの時の名)『が赤いところから』とするのだが、これは魚類学上では見逃せない誤りで話にならない。ボラの目は赤くなく、黒いからである。見た目の魚体が似ており、目が赤いのは、近縁ではあるものの、全くの別種であるボラ目ボラ科メナダ属メナダ Liza haematocheilus である。メナダの別名にはアカメボラの異名がある。まあ、しかし、昔はメナダもボラと一緒くたにされて