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2023/02/16

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 幻覺の實驗

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、昭和一一(一九三六)年四月発行の『旅と傳說』初出である。]

 

     幻 覺 の 實 驗

 

 これは今から四十八年前の實驗で、うそは言はぬつもりだが、餘り古い話だから自分でも少し心もとない。今は單にこの種類の出來事でも、成るべく話されたまゝに記錄して置けば、役に立つといふ一例として書いて見るのである。人が物を信じ得る範圍は、今よりも曾てはずつと廣かつたといふことは、かういふ事實を積み重ねて、始めて客觀的に明らかになつて來るかと思ふ。

[やぶちゃん注:「四十八年前」初出から機械的に計算すると、明治一三(一八八八)年となるが、当時は数えで計算するのが普通だから、翌明治十四年かも知れない。柳田は明治八(一八七五)年七月三十一日生まれであるから、十二、三歳となる。]

 日は忘れたが、ある春の日の午前十一時前後、下總北相馬郡布川《ふかは》といふ町の、高臺の東南麓に在つた兄の家の庭で、當時十四歲であつた自分は、一人で土いぢりをして居た。岡に登つて行かうとする急な細路のすぐ下が、この家の庭園の一部になつて居て、土藏の前の二十坪ばかりの平地のまん中に、何か二三本の木があつて、その下に小さな石の祠が南を向いて立つて居た。この家の持主の先々代の、非常に長命をした老母の靈を祀つて居るやうに聞いて居た。當時中々いたづらであつた自分は、その前に叱る人の居らぬ時を測つて、そつとその祠の石の戶を開いて見たことがある。中には幣も鏡も無くて、單に中央を彫り窪めて、徑五寸ばかりの石の球が嵌め込んであつた。不思議でたまらなかつたが、惡いことをしたと思ふから誰にも理由を尋ねて見ることが出來ない。たゞ人々がそのおばあさんの噂をして居る際に、いつも最も深い注意を拂つて居ただけであつたが、そのうちに少しづゝ判つて來た事は、どういふわけがあつたかその年寄は、始終蠟石のまん丸な球を持つて居た。床に就いてからもこの大きな重いものを、撫でさすり抱へ溫めて居たといふことである。それに何等かの因緣話が添はつて、死んでからこの丸石を祠にまつり込めることに、なつたものと想像することは出來たが、それ以上を聽く機會は終に來なかつた。

[やぶちゃん注:「下總北相馬郡布川」現在の茨城県北相馬郡利根町(とねまち)布川(グーグル・マップ・データ)。柳田國男は十二歳の時、生地の兵庫県神崎郡福崎町辻川から、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ、茨城県と千葉県の境に当たるこの下総の利根川端の布川に移り住んでいた。]

 今から考へて見ると、たゞこれだけの事でも、暗々裡に少年の心に、强い感動を與へて居たものらしい。はつきりとはせぬが次の事件は、それから半月か三週間のうちに起つたかと思はれるからである。その日は私は丸い石の球のことは、少しも考へては居なかつた。たゞ退屈を紛らす爲に、ちやうどその祠の前のあたりの土を、小さな手鍬のやうなもので、少しづゝ掘りかへして居たのであつた。ところが物の二三寸も掘つたかと思ふ所から、不意にきらきらと光るものが出て來た。よく見るとそれは皆寬永通寶の、裏に文の字を刻したやゝ大ぶりの孔あき錢であつた。出たのは精々七八箇で、その頃はまだ盛んに通用して居た際だから、珍しいことも何も無いのだが、土中から出たといふこと以外に、それが耳白のわざわざ磨いたかと思ふほどの美しい錢ばかりであつた爲に、私は何ともいひ現せないやうな妙な氣持になつた。

[やぶちゃん注:「寬永通寶」「その頃はまだ盛んに通用して居た」ウィキの「寛永通宝」によれば、『明治以降も補助貨幣として引き続き通用した』とあり、特に寛永通宝の内、『銅銭・真鍮銭は』一『厘単位の貨幣として主な役割を果たし』続けた、とある。そして、『鉄銭については』明治六(一八七三)年十二月に『太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失った(法的には』明治三〇(一八九七)年九月『末の貨幣法施行前まで通用)。しかし』、この明治三十年『頃より』、『次第に流通が減少し』、明治四五(一九一二)年『頃には厘位の代償としてマッチや紙などの日用品を用いるようになり』大正五(一九一六)年四月一日には『租税及び公課には厘位を切捨てることとなり、一般商取引もこれに準じたため』、遂に『不用の銭貨となった』とある。]

 これも附加條件であつたかと思ふのは、私は當時やたらに雜書を讀み、土中から金銀や古錢の、ざくざくと出たといふ江戶時代の事案を知つて居て、その度に心を動かした記憶がたしかにある。それから今一つは、土工や建築に伴なふ儀式に、錢が用ゐられる風習のあることを少しも知らなかつた。この錢は或は土藏の普請の時に埋めたものが、石の祠を立てる際に土を動かして上の方へ出たか、又は祠そのものゝ祭の爲にも、何かさういふ祕法が行はれたかも知れぬと、年をとつてからなら考へる所だが、その時は全然さういふ想像は浮ばなかつた。さうして暫らくは只茫然とした氣持になつたのである。幻覺はちやうどこの事件の直後に起つた。どうしてさうしたかは今でも判らないが、私はこの時しやがんだまゝで、首をねぢ向けて靑空のまん中より少し東へ下つたあたりを見た。今でも鮮かに覺えて居るが、實に澄みきつた靑い空であつて、日輪の有りどころよりは十五度も離れたところに、點々に數十の晝の星を見たのである。その星の有り形《がた》なども、かうであつたといふことは私には出來るが、それが後々の空想の影響を受けて居ないとは斷言し得ない。たゞ間違ひの無いことは白晝に星を見たことで、(その際に鵯《ひよどり》が高い所を啼いて通つたことも覺えて居る)それを餘りに神祕に思つた結果、却つて數日の間何人《なんぴと》にもその實驗を語らうとしなかつた。さうして自分だけで心の中に、星は何かの機會さへあれば、白晝でも見えるものと考へて居た。後日その事をぽつぽつと、家に居た醫者の書生たちに話して見ると、彼等は皆大笑ひをして承認してくれない。一體どんな星が見えると思ふのかと言つて、初步の天文學の本などを出して來て見せるので、こちらも次第にあやふやになり、又笑はれても致し方が無いやうな氣にもなつたが、それでも最初の印象があまりに鮮明であつた爲か、東京の學校に入つてからも、何度かこの見聞を語らうとして、君は詩人だよなどと、友だちにひやかされたことがあつた。

[やぶちゃん注:「東京の學校に入つてから」柳田は十七歳の時、尋常中学共立学校(後の開成高等学校)に編入学したが、翌年には郁文館中学校に転校、進級、十九歳で第一高等中学校に進学し、東京帝国大学法科大学政治科に進んだ。]

 話はこれきりだが今でも私は折々考へる。もし私ぐらゐしか天體の知識をもたぬ人ばかりが、あの時私の兄の家に居たなら結果はどうであつたらうか。少年の眞劍は顏つきからでも直ぐにわかる。不思議は世の中に無いとはいへぬと、考へただけでもこれをまに受けて、曾て茨城縣の一隅に日中の星が見えたといふことが、語り傳へられぬとも限らぬのである。その上に多くの奇瑞には、もう少し共通の誘因があつた。默つて私が石の祠の戶を開き、又は土中の光る物を拾ひ上げて、獨りで感動したやうな場合ばかりでは無かつたのである。信州では千國の源長寺が廢寺になつた際に、村に日頃から馬鹿者扱ひにされて居た一人の少年が、八丁のはばといふ崖の端を遠く眺めて、「あれ羅漢さまが揃つて泣いて居る」といつた。それを村の衆は一人も見ることが出來なかつたにも拘らず、さては御寺から外へ預けられる諸佛像が、こゝへ出て悲歎したまふかと解して、深い感動を受けて今に語り傳へて居る。或は又松尾の部落の山畑に、壻と二人で畑打をして居た一老翁は、不意に前方のヒシ(崖)の上に、見事なお曼陀羅の懸かつたのを見て、「やれ有難や松ヶ尾の藥師」と叫んだ。その一言で壻は何物をも見なかつたのだけれども、忽ちこの崖の端に今ある藥師堂が建立せられることになつた。この二つの實例の前の方は、豫め人心の動搖があつて、不思議の信ぜられる素地を作つて居たとも見られるが、後者に至つては中心人物の私無き實驗談、それも至つて端的に又簡單なものが、終《つひ》に一般の確認を受けたのである。その根柢をなしたる社會的條件は、甚だしく、幽玄なものであつたと言はなければならない。

[やぶちゃん注:「千國の源長寺」現在、再興されたらしく、曹洞宗慈眼山源長寺として現存する。サイト「信州まちあるき」のこちらに地図入りで詳しく書かれてあるが、『信州各地、ことに北安曇では明治維新時の廃仏毀釈運動で数多くの仏教寺院が破壊されていますから、この寺もそのとき堂宇群を失ったのかもしれません』とあるので、この話は、明治以降のことと考えてよいように思う。さすれば、柳田の体験より、そう遠からぬ時期の話として生きてくるのである。

「松尾の部落の山畑」長野県飯田市毛賀(けが)は旧松尾村の内で、西に旧松尾城跡の山があるから、ここか(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

 奧羽の山間部落には路傍の山神石塔が多く、それが何れも曾てその地點に於て不思議を見た者の記念で、大抵は眼の光つた、せいの高い、赭色《あかいろ》をした裸の男が、山から降りて來るのに行逢つたといふ類の出來事だつたといふことは、遠野物語の中にも書留めて置いたが、關東に無數にある馬頭觀音の碑なども、もとは因緣のこれと最も近いものがあつたらしいのである。駄馬に災ひするダイバといふ惡靈などは、その形が熊ん蜂を少し大きくしたほどのもので、羽色が極めて鮮麗であつた。この物が馬の耳に飛込むと、馬は立ちどころに跳ね騰《のぼ》つてすぐ斃《たふ》れる。或は又一寸ほどの美女が、その蜂のやうなものゝ背に跨がつて空を飛んで來るのを見たといふ馬子もある。不慮の驚きに動顚したとは言つても、突嗟にその樣な空想を描くやうな彼等でない。乃《すなは》ち馬の急病のさし起つた瞬間の雰圍氣から、こんな幻覺を起す樣な習性を、既に無意識に養はれて居たのかも知れぬのである。

[やぶちゃん注:「赭色をした裸の男が、山から降りて來るのに行逢つたといふ類の出來事だつたといふことは、遠野物語の中にも書留めて置いた」これは「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八九~九二 山中の怪人」の「八九」話のことであろう。

「駄馬に災ひするダイバといふ惡靈」私はいろいろな怪奇談や記事で考証しているが、最もお薦めなのは、「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」に尽きると思う。「一寸ほどの美女が、その蜂のやうなものゝ背に跨がつて空を飛んで來る」に相当する挿絵もある。というより、柳田はこの話を元に、ここを書いているものと私は考えている。]

 我邦の古記錄に最も數多く載せられて居て、しかも今日まだ少しも解說せられて居ない一つの事實、卽ち七つ八つの小兒に神が依つて、誰でも心服しなければならぬやうな根據あるいろいろの神祕を語つたといふことは、この私の實驗のやうなものを、數百も千も存錄して行くうちには、まだもう少しその眞相に近づいて行くことが出來るかと思ふ。「旅と傳說」が百號になつたといふことが、たゞ徒然草のむく犬のやうなもので無いのならば、今度は改めて注意をこの方面に少しづゝ向けて行くやうにしたらよからうと思ふ。所謂說明のつかぬ不思議といふものを、町に住んで居て集めようといふのは稍々《やや》無理かも知らぬが、それでも新聞や人の話、又は今までの見聞記中にもまだ少しづゝは拾つて行かれる。實は私も大分たまつて居るつもりだつたが、紙に向つて見ると今はちよつとよい例が思ひ出せない。そのうちに折々氣づいたものを揭げて、同志諸君の話を引出す絲口に供したいと思つて居る。

[やぶちゃん注:「旅と傳說」東京の三元社が昭和三(一九二八)年一月から昭和十九年一月まで発行された、本邦各地から数多の民俗資料や採集報告が寄稿された雑誌で、柳田にとっては、発表の場としてのみでなく、居ながらにしてそれらが得られる貴重な情報源の一つでもあった。OdaMitsuo氏のブログ「出版・読書メモランダム」の「古本夜話966 萩原正徳、三元社、『旅と伝説』」を参照されたい。

「徒然草のむく犬」第百五十二段の以下。

   *

 西大寺靜然(じやうねん)上人、腰、かがまり、眉、白く、誠に德(とく)たけたる有樣にて、内裏へまゐられたりけるを、西園寺内大臣殿、

「あな、尊(たふと)の氣色(けしき)や。」

とて、信仰の氣色(きそく)ありければ、資朝卿(すけともきやう)、これを見て、

「年のよりたるに候。」

と申されけり。

 後日に、むく犬の、あさましく老いさらぼひて、毛、はげたるを、引かせて、

「この氣色、尊く見えて候。」

とて、内府(ないふ)へ、まゐらせられたりけるとぞ。

   *

「靜然上人」は真言律宗勝宝山西大寺の中興の祖となった鎌倉時代の僧叡尊から数えて四代目に当たる西大寺長老。日野有成の子。元弘元(一三三一)年に八十歳で遷化した。「西園寺内大臣」は西園寺実衡(正応元(一二八八)年~嘉暦元(一三二六)年)。彼は正中元(一三二四)年四月に内大臣に任ぜられている。享年三十八。「資朝」は日野資朝(すけとも 正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)は公卿で儒学者にして茶人でもあった。元亨四(一三二四)年、鎌倉幕府の六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、佐渡島へ流罪となった(「正中の変」)が、元弘元(一三三一)年、天皇老臣吉田定房の密告により、討幕計画が露見した「元弘の乱」が起こると、翌年、佐渡で処刑されてしまった。享年四十三。参照した当該ウィキには、この話をモチーフとした菊池容斎の「前賢故実」の絵が載る)「内府」内大臣の唐名。]

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