柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 川童の話
[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。
注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。傍点「﹅」は太字に代えた。
なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正三(一九一四)年五月発行の『鄕土硏究』初出である。]
川 童 の 話
以前數年間鹿兒島に居られた石黑忠篤《ただあつ》氏は、鳥の聲に詳しい人であるが、親しくこのヒョンヒョンを聽いてその話をせられたことがある。その說ではムナグロ(胸黑?)といふ大きな千鳥の類の群だといふことである。水虎考略後篇の卷三に、日向高鍋の某村に於て、土堤普請の番小屋の側を、夜分になると水虎數百群をなして通る。或人是非その姿を見んと思ひ、樹蔭に隱れ窺ひたれどもどうしても見ること成らず。次の夜鐵砲を持參し程を見定めて一發すれば忽然として聲を潛めた。水虎の鳴聲は飄々《へうへう》と聞える。日州《につしう》で川童をヒョウスヘと呼ぶのはこの爲だとある。尾花石黑二君の說と合致して居るが、ヒョウスヘの稱呼の由來に至つては未だ直ちには信じ難い。
[やぶちゃん注:「石黑忠篤」(明治一七(一八八四)年~昭和三五(一九六〇)年)は東京生まれで、農林官僚・政治家。「農政の神様」と称された。明治四一(一九〇八)年に東京帝国大学法科大学卒業後、農商務省に入省し、農務局に属した。二年後の明治四十三年、新渡戸稲造宅で柳田國男らと『郷土会』を開いている。戦前に農林大臣、戦中に農商大臣に就任しているが、敗戦後、公職追放されたが、昭和二十七年に解除され、第二回参議院議員補欠選挙に静岡県選挙区から立候補し、当選している。
「ムナグロ」チドリ目チドリ科ムナグロ属ムナグロ Pluvialis fulva 。シベリアとアラスカ西部のツンドラで繁殖し、冬季、本邦には旅鳥として、春と秋の渡りの時期に全国に飛来する。飛翔しながら、「ピョピョー」「キビョー」などの声で鳴く(当該ウィキに拠った)。
「水虎考略」昌平坂学問所の儒者古賀侗庵(こがどう(とう)あん 天明八(一七八八)年~弘化四(一八四七)年)が、同門下で、関東・東海の代官を歴任した羽倉用九(はくらようきゅう)や、幕臣で「寛政譜」編纂に携わった中神君度(なかがみくんど)から提供された、河童遭遇者からの聞取情報に、和漢の地誌や奇談集から集めた河童情報を合わせて、文政三(一八二〇)年に一冊に纏めた、本邦初の河童考証資料集。「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらで宮内庁書陵部蔵本(写本)全篇を画像で視認出来る。探してみたところ、かなり手間取ったが、この「水唐錄話」(他のネット・データで調べたところ、著者は黙鈞(もくきん)道人なる人物である)という書(全漢文)からの引用の「六」のこの部分(右丁)が原拠である。
「日向高鍋」現在の宮崎県児湯(こゆ)郡高鍋町(たかなべちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「日州」日向国。
「尾花」人物不詳。
「石黑」同前。]
右の水虎考略は後篇の方はあまり世に流布して居らぬ。第三卷の新聞雜記といふのは天保年間[やぶちゃん注:一八三〇年~一八四四年。]にある書生が下手な漢文で筆錄した三十篇の川童話である。この序でにその中から二三耳新しい箇條を書拔いて置かう。(一)肥後の天草には川童多く住み常に里の子供を海へ連れて行き水泳を敎へてくれる。その言ふ通りにすれば何の害もせぬが、機嫌を損じると甚だ怖しい。子供等は時々親に賴み川童を喚《よ》んで御馳走をする。その姿小兒等の目には見えて父母には見えず。只物を食べる音ばかりして歸る時には椀も茶椀も皆空である。これは佐賀の藩士の宅へ奉公に來て居た天草の女中の談。(二)佐賀白山《しらやま》町の森田藤兵衞なる者曾て對馬に渡り宿屋に泊つて居ると、夜分に宿の附近を多人數の足音がして終夜絕えなかつた。翌朝亭主に何うしてかう夜步きする者が多いのかと聞くと、あれは皆川童です、人ではありません。川童は晝は山に居り夜は海へ出て食を求めるので、この如く多く居ても別に害はせぬものだと語つた。(三)肥前では人の川童の爲に殺さるゝ者あれば、その葬《とむらひ》には火を用ゐしめず。衣類から棺《ひつぎ》まで白い物を用ゐさせぬ。これを黑葬といひ、黑葬をすればその川童は目潰れ腕腐つて死ぬものだといふ。(四)佐賀高木町の商家の娘十一二歲の者、寺子屋の歸りに隣家の童子に遇ひ、觀成院の前の川で遊ばうと約束して置いて、家へ戾つて食事をし出て行かうとする時、親がこれを聞いて用心の爲に竈の神樣を拜ませ、荒神樣守りたまへとその子の額に竈の墨を塗つて出した。約束の童子つくづくと娘の額を見て、御前《おまへ》は荒神の墨を戴いて來たからもう一緖に泳ぎたく無いといつて憮然として去つたとある。それで川童であることが顯はれた。この本にはまだ數十件の川童の話が載せてある。
[やぶちゃん注:「第三卷の新聞雜記」「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の宮内庁書陵部蔵本(写本)のここからで、書名は正しくは「水虎新聞雜記」である。「(一)」は「第十四」でここにあり、「(二)」はその後の「第十五」で前のリンクの左丁にあり、「(三)」は「第十七」でここにある。最後の「(四)」は「第十八」で前の「第十七」と同じ画像部にある。
「佐賀白山町」現在の佐賀県佐賀市白山。
「黑葬」読み不詳。当時の民間の呼び名であるなら、「こくさう」ではなく、「くろとむらひ」の方がしっくりはくる。
「佐賀高木町」現在の佐賀県佐賀市高木町(たかぎまち)。
「觀成院」この名の寺はない。恐らく「觀照院」の誤記である。現在の高木町内に観照院が現存するからである。その「前の川」は現在の同寺の様子からならば、この小流れと推定される。
「竈の神樣」「かまど神」は本邦では古墳時代まで遡れる古層の信仰であり、「火の神」であるから荒神(こうじん)に属し、性質が荒く、それ故に強い調伏力を持ち、民俗社会に於ける家屋と家人を守る守護神である。]
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