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2023/02/21

柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 ひだる神のこと

 

[やぶちゃん注:永く柳田國男のもので、正規表現で電子化注をしたかった一つであった「妖怪談義」(「妖怪談義」正篇を含め、その後に「かはたれ時」から「妖怪名彙」まで全三十篇の妖怪関連論考が続く)を、初出原本(昭和三一(一九五六)年十二月修道社刊)ではないが、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で「定本 柳田國男集 第四卷」(昭和三八(一九六三)筑摩書房刊)によって、正字正仮名を視認出来ることが判ったので、これで電子化注を開始する。本篇はここから。但し、加工データとして「私設万葉文庫」にある「定本柳田國男集 第四卷」の新装版(筑摩書房一九六八年九月発行・一九七〇年一月発行の四刷)で電子化されているものを使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問な箇所は所持する「ちくま文庫版」の「柳田國男全集6」所収のものを参考にする。

 注はオリジナルを心得、最低限、必要と思われるものをストイックに附す。底本はルビが非常に少ないが、若い読者を想定して、底本のルビは( )で、私が読みが特異或いは難読と判断した箇所には歴史的仮名遣で推定で《 》で挿入することとする。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本篇は底本巻末の「内容細目」によれば、大正一四(一九二五)年十一月発行の『民族』初出である。]

 

     ひだる神のこと

 

 三十年も以前に、學友の乾《いぬゐ》政彥君から聞いたのが最初であつた。大和十津川の山村などでは、この事をダルがつくといふさうである。山路をあるいて居る者が、突然と烈しい飢渴疲勞を感じて、一足も進めなくなつてしまふ。誰かが來合せて救助せぬと、そのまゝ倒れて死んでしまふ者さへある。何か僅な食物を口に入れると、始めて人心地がついて次第に元に復する。普通はその原因をダルといふ目に見えぬ惡い靈の所爲と解して居たらしい。どうしてかういふ生理的の現象が、或山路に限つて起るのかといふ問題を考へて見るために、先づ成るべく廣く各地の實例を集めて見たいと思ふ。一旦印刷せられて出て居る記事も、參考のため簡單に列記して、我々の共同の財產にして置かうと思ふ。

 最も古く見えて居る書物は、今知る限りでは柳里恭《りうりきよう》の雲萍雜志《うんぴやうざつし》卷三である。伊勢から伊賀へ越える或峠で、著者自身がこの難に逢つた大阪の藥種屋の注文取を助けた話を載せ、これには餓鬼がつくといふとある。目には見えねど此のあたりに限らず、處々に乞食などの餓死したる怨念、其處に殘り侍るにや云々とある。

 同書には更に附記して、その後播州國分寺の僧に逢つたところが、この人も若い頃、伊豫國を行脚して餓鬼につかれたことがある。それからは用心のために、食事の飯などを少しづゝ紙に包んで持つてあるき、つかれた人があれば遣ることにして居るといつた。

 大和附近の山地には、殊にこの例が多かつたやうに思はれる。和歌山縣誌下卷五八七頁に、或書に曰くと書いて、熊野の大雲取小雲取の山中に、幾らとも知れぬ深い穴が幾つかあつて、それを飢渴穴《がきあな》と呼んで居た。旅する者がこの穴を覗くと、忽ち前に述べたやうな症狀を感ずるとて、或旅僧の實歷談を記して居る。道行く人に敎へられて、口に木の葉を咬みつゝ、漸く十町[やぶちゃん注:約一・九一キロメートル。]ばかりある山寺に驅付けて助かつたとある。

 同じ書には、俗にこれをダニにつかれるといふ。同縣西部の絲我阪《いとがざか》にも、これに似た處があるといふ。絲我の阪は縣道で、相應に人通りある處である。

[やぶちゃん注:「ひだる神」当該ウィキによれば、「饑神」とも書き、『人間に空腹感』や倦怠感(私はこちらが主と聞いているので挿入した)を『もたらす憑き物で、行逢神または餓鬼憑きの一種。主に西日本に伝わっている』。『北九州一帯ではダラシと呼ばれ、三重県宇治山田や和歌山県日高や高知県ではダリ、徳島県那賀郡や奈良県十津川地方ではダルなどと呼ばれる』。『山道などを歩いている人間に空腹感をもたらす悪霊の類をいう。これに憑かれると、歩いている最中に突然にして激しい空腹感、飢餓感、疲労を覚え、手足が痺れたり体の自由を奪われたりし、その場から一歩も進めなくなり、ひどいときにはそのまま死んでしまうこともあるという』。『これに憑かれるとされる場所は大抵決まっており、山道、峠、四辻、行き倒れのあった場所などが多い。土地によっては火葬場や磯でも憑かれるという』(☜これは所謂妖怪の属性に一致はする)。『和歌山県では、熊野の大雲取』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無表記は同じ)・『小雲取』(大雲取越の北。ここ)『(現・東牟婁郡新宮市と那智勝浦町の間)という二つの山のあたりに餓鬼穴』(現在、この位置は不詳)『という深い穴があり、そこを覗くと必ずヒダル神に遭ったという』。『三重県では人間のみならず、牛までヒダル神に憑かれたという』。『また滋賀県甲賀市から伊賀(現・三重県西部)西山に続く御斎峠(おときとうげ)』ここ『では、まだ朝もやの晴れない時刻に、ヒダル神が異様に腹の膨らんだ餓鬼の姿で現れ、旅人の前に腹を突き出して「茶漬けを食べたか」と尋ね、旅人が「食べた」と答えると襲いかかり、その腹を裂いてその中のわずかの飯粒を貪り食ったという』。『そのためにかつては徳川家康も、本能寺の変の際にこの峠を通るのは命がけだったという』。『ヒダル神に憑かれたときには、すぐに何かを食べ物を食べれば身動きできなくなることはないとされ、ヒダル神を防ぐためには前もって十分な量の食糧を持ち歩くと良いという。そのために弁当を持って山道を行く際には、その弁当を食べ尽さずに一口分は残すという心得が伝わっている。僅かの食べ物の持ち合わせもないときには、道端に生えている草を口にすればどうにか助かることができるといい、草すら無いときには掌に指で「米」と書いて舐めても良いという』。『また土地によっては、食べ物を近くの藪に捨てる、身につけている衣類を後ろに投げるという方法も伝わっている』。『愛知県や和歌山県では、木の葉でもいいから口に含むと助かるともいう』。『また高知県、長崎県、鹿児島県などでは「柴折様(しばおりさま)」と呼ばれる祠が峠や路傍に祀られており、ここに折った柴を供えて行くと、その場所を通る人はヒダル神を避けられるといわれている』(リンク先に「淡路島・論鶴羽山の柴折地蔵(柴折様)」の写真有り。但し、小さい)。以下、「解釈」の項。『ヒダル神は餓死者や変死者の霊と考えられており、人知れず死んだ者が祀られることなく周囲を彷徨う怨霊となり、自分が味わった苦しみを他人にも味わわせようとしているのだという。こうして憑かれて死んだ者は同様の怨霊となり、ヒダル神がどんどん増えてしまうという』。『また、ヒダル神を山の神や水神の仕業とする土地もある』。『現代においても主に山間部で、稀にヒダル神に憑かれたという話が伝わっている。一説によると、急激な血糖値の低下や二酸化炭素中毒』(私は所持する雑誌で、この二酸化炭素説を読み、甚だ納得したが、書庫の藻屑となっていて、当該記事を見出せない。発見したら追記する。以前に陸上自衛隊の野外訓練で、山間の窪地で複数の隊員が亡くなる事件があり、その時も二酸化炭素の滞留が原因の一つとして挙げられた新聞記事を読んだ)『がヒダル神に憑かれたときと同じ状態をもたらすといい、植物の腐敗で発生する二酸化炭素』、『または食事を摂らずに山中を長時間歩いたことによる低血糖状態をヒダル神の正体とする説もある』とある。

「乾政彥」「學友」とあるので、二人の生年から、奈良県出身の法学者乾政彦(明治九(一八七六)年~昭和二六(一九五一)年)であろう。第一高等学校・東京帝国大学法科大学を卒業している。

「大和十津川」奈良県吉野郡十津川(とつかわ)村

「柳里恭の雲萍雜志」江戸中期の随筆。四巻四冊。天保一三(一八四二)年に江戸で板行された。文雅人柳沢淇園(きえん)の随筆とされ、明治以来、翻刻も多いが、作者については、なお、疑問が残る。内容は、作者が日常的に聞き及んだ志士・仁人の言行逸話、自家の経歴などを記して興趣に富むが、全体に道徳臭が強く、粋人淇園の面影は見い出せない。序文に、淇園の二十巻に及ぶ原稿を大坂の木村蒹葭堂(けんかどう)が珍蔵し、桃花園某がそれを抜粋、四巻に纏めて成ったことを記してあるが、桃花園及び出版に関係した江戸の雑学者山崎美成(よししげ)が、淇園の名声に付会した偽作であろうとされる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の天保一四(一八四三)年版のこちらを元に電子化する。読みは一部に留めた。句読点は所持する吉川弘文館随筆大成版を一部で参考にし、記号も附した。踊り字は正字化した。

   *

○伊勢より伊賀へ越(こゆ)る道にて、予がゆくあとより、一人(ひとり)の男、いそぎ來りていふやう、「われら、大坂の者なり。過(すぎ)こし道にて、餓鬼に附かれしにや。飢(うゑ)て一足も進み申さず。大いに難澁におよべり。何なりとも、食類(しよくるゐ)の御持合(おもちあは)せあらば、少しにても給はり候へかし。」と、いへり。予、『心得ぬ事を申(まをす)もの哉(かな)。』とはおもヘど、旅中、別に食類のたくはへもなければ、刻み昆布(こぶ)のありしを、「これにても、よろしきにや。」と、とらせけるに、大いによろこびて、直(すぐ)に食(しよく)したりき。予、問(とふ)、「餓鬼のつくとは、いかなるものにてあるぞ。」と、いへば、こたへて云(いふ)、「目には見えねど、此あたりに限らず、ところどころにて、乞食など餓死したる怨念、そのところに殘り侍るにや。その念、餓鬼となりて、通行(つうかう)の者にとり附(つき)侍るなり。これにつかるゝ時は、腹中(ふくちゆう)、しきりに飢(うゑ)て、身に氣力なく、步行も出來がたき事、われら、度々なり。」と、いへり。此もの、藥種を商ひ、諸國に注文を取りに、つねづね、旅行のみ、せし、とぞ。世には、さやうの事もあるものにや。他日、播州國分寺の僧に尋ねけるに、この僧、申けるは、「われ、若輩のころ、伊豫にて餓鬼につかれたる事、あり。よりて、諸國行脚せしをりは、食事の時に、飯を少しづゝ取りおき、それを紙などへつゝみて、袂に入れ置(おき)、餓鬼につかれたる時、遣(つかは)すためなり。」と、いへり。心得がたき事にぞありける。

   *

「大和附近の山地には、殊にこの例が多かつたやうに思はれる。和歌山縣誌下卷五八七頁に、或書に曰くと書いて、熊野の大雲取小雲取の山中に、幾らとも知れぬ深い穴が幾つかあつて、それを飢渴穴と呼んで居た。旅する者がこの穴を覗くと、忽ち前に述べたやうな症狀を感ずるとて、或旅僧の實歷談を記して居る。道行く人に敎へられて、口に木の葉を咬みつゝ、漸く十町ばかりある山寺に驅付けて助かつたとある」この「或書」については、この記事を読んだ南方熊楠が、翌大正一五(一九二六)年三月発行の同じ『民族』に掲載した論考「ひだる神」(この注のために、先ほど、新字新仮名で電子化した)で、「諸国里人談」(私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終わっている。)で知られる俳人で作家の菊岡沾涼(せんりょう)の「本朝俗諺志」(延享三(一七四六)年板行)であることを明らかにしている。熊楠のその論考の私の注で原本の当該部もリンクさせておいた。「和歌山縣誌下卷」(大正三(一九一四)年刊)「五八七頁」は国立国会図書館デジタルコレクションのここの「雲取の穴」で当該部が視認出来る。後の「ダニ」の話は、その最後の割注であることも判る。

「絲我阪」「ジャパンナレッジ」の「日本歴史地名大系ジャーナル」の「地名拾遺13」の「第20回 糸我坂 【いとがざか】」に地図入りで詳しい解説がある。]

 ダニとあるのは聞《きき》誤りかも知れない。森彥太郞君の南紀土俗資料方言の部に、山路などあゆみて疲憊するをダリつくといふとあり、又日高郡山路(さんぢ)の山村に於て、ダリにつかれた時は、米といふ字を手掌《てのひら》に書いて嘗めるまじなひのあることを、同書俗信の條に記して居る。

[やぶちゃん注:「森彥太郞君の南紀土俗資料」「Googleブックス」で同書を視認したところ、二八八ページに、

   *

だ  り (だれ)山路など步みて疲憊するをだりつくといふ。

   *

とあった。太字は原本では「◦」傍点。作者の事績は判らないが、民俗学以外に言語学に詳しい方でもあるようだ。

「日高郡山路(さんぢ)の山村」この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 大和の方では又、宇陀《うだ》郡室生寺の參詣路、佛隆寺阪の北表登り路《みち》中程に、ヒダル神のといつくといふ箇處のあることを、高田十郞氏の一人雜誌「なら」第二十七號の奧宇陀紀行にのせて居る。その難に遭つた者を見たので無いが、そこに文久三年[やぶちゃん注:一八六三年。徳川家茂の治世だが、攘夷が叫ばれた年である。]に建てた供養塔があり、法界萬靈《ほふかいまんりやう》の文字の下に、十六字の偈と一首の歌が刻してある。

   まこゝろに手向けたまへば淺はかの水も千ひろの海とこそなれ

   摩尼山下 溪水津々 若供一杓 便是至仁

 今でも食物を持たずに腹をへらして通ると、ヒダル神が取憑いて一足も動けなくなる難所だといつて居る。

[やぶちゃん注:「室生寺の參詣路、佛隆寺阪の北表登り路」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「高田十郞」(明治一四(一八八一)年~昭和二七(一九五二)年)は民俗学者・随筆家。事績は雑誌「なら」の集成本のパンフレットPDF)を見られたい。

「法界萬靈」「法界」は仏教で「真理の世界・全宇宙」を指し、「萬靈」は「生きとし生ける衆生」を指す。しばしば無縁仏を合葬したものにこの塔名が使われる。この塔、現存するかは不詳。

「摩尼山下 溪水津々 若供一杓 便是至仁」「まにさんか けいすいしんしん じやくぐいつしやく びんぜしじん」「摩尼山」は和歌山県伊都郡高野町の高野山にある標高千四メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。「津々」は「溢れ出るさま・絶えず湧き出るさま」を言う。以下の二句は我流で「若(も)し、一杓(いつしやう)を供ふれば、便(すなは)ち、是れ、仁(じん)に至る」と訓じておく。]

 遙かに懸《かけ》離れた長崎縣の溫泉嶽《うんぜんだけ》の麓にも、同じやうな道の災ひを言ひ傳へた地方があつて、そこではこれをダラシと呼ぶさうである。故井上圓了氏の「於《お》ばけの正體」といふ書に、讀賣新聞の記事を引用して、ある學生がこの山の字《あざ》小田山といふ處から降《くだ》つた辻といふ阪路《さかみち》で、一人の被害者を救ひ、後に冬休《ふゆやすみ》で再びそこを過ぎた時、自分も亦ダラシにかゝつた話を揭げて居る。動かうとすれば少しも手足が動かず、休んで居ると別に苦痛は無かつた。何か食物を携へて居ればこの難が無いといふが、或年には鰯賣りの男が、鰯の荷の側で昏倒して居た例もあるといふ。

[やぶちゃん注:『井上圓了氏の「於ばけの正體」』大正三(一九一四)年七月初版。国立国会図書館デジタルコレクション等にはないが、幸い、私は柳田國男のように彼を嫌っておらず、柏書房刊の「井上円了・妖怪学全集」を所持しており、その第五巻(二〇〇〇年刊)の「第七〇項」の「高山の妖怪病」がそれである。新字新仮名であるが、それを以下に電子化しておく。〔 〕は編者注。読みは一部に留めた。

   *

       第七〇項 高山の妖怪病

 世間にて高山に登るときに、神経麻痺して手足も動かぬようになり、気絶してたおるることがある。これを天狗に襲われたとか、魔に触れたとか、地方によっていろいろの名称を与え妖怪の所業に帰するも、その実、平地と高山とは気象も気圧も異なるために、その影響を神経に及ぼして起こるに相違ない。ここに長崎県下の温泉(うんぜん)山〔雲仙岳〕の実験談を、『読売新聞』の記事を借りて紹介しよう。長崎県にては、この状態にかかることを「だらし」と呼ぶ由。

[やぶちゃん注:以下、底本では「云云。」まで全体が二字下げ。]

 古来、温泉山に登るときは、必ず摶飯(にぎりめし)と梅干しとを携うべし。梅干しは霧を払うの妙薬にして、摶飯は「だらし」を予防するがためなりとの言い習わしあり。「だらし」とは一種の妖怪的飢餓病とのみあって、いまだこれを明白に実験したる者あらざりしが、長崎高等学校医学部生徒某氏は自らこれを実験し、また他人がこの怪病にかかるを見たりという。今その話を聞くに、右の学生はこのころ暑中休暇を得て帰村せんと  する途次、右の村[やぶちゃん注:旧温泉(うんぜん)村。]と小浜村との間なる山中字(あざ)小田山の頂上、矢筈の下手辻と称する坂道において、一人の男、野に倒れおるを見たり。その男、学生を見るより幽かな声にて、「『だらし』にかかりて困りおるゆえ、摶飯あらば賜れ」という。学生はかねて「だらし」のことを聞きおるをもって、用意の摶飯を与えけるに、男は喜びてこれを食し終われば、間もなく力付きて馳せ下れり。さて、右の学生が実験したるは、その後のことにて、冬季休業のため帰村せんとて、右の山道に来かかりしに、たちまち空腹となり、ひもじさいや増して、身体の疲労尋常ならず。于足しびれてすくみたるがごとく、ちょっとも動けず。強いて足をあぐれば、その重さ千鈞(きん)[やぶちゃん注:中国古代の重さの単位。三〇斤。一鈞は周代で七・六八キログラムであるが、ここは異常な重さの比喩。]をひくがごとく、手を動かせば、縛られたるに似たり。困(こう)じ果てて石に腰打ちかくれば別に苦痛も感ぜざるが、立てば身の重さ少しも減ぜず。進退ここにきわまりながら叫べども応ずる人なきに、ぜひなくはうがごとく〔に〕坂を攀(よ)じ登りはじめたるが、たちまち昏絶倒臥(こんぜつとうが)して死生を弁ぜざるもの十数分、その前は時候にも似ず全身すこぶる熱暖なりしが、このときに至り、はじめて野嵐の冷え渡るを覚えて目をさまし、それより千辛万苦して、わずかばかり離れたる横道の茶店にたどりつき、蕎麦数椀食したれば、身心はじめてわれにかえり、寒さも相応に感ずるごとくなりて、まずつつがなく郷里に帰着したり。これすなわち「だらし」に取りつかれたるものなるが、里俗には、なにか食物を携えおればこの魔にかからずといえど、実際においては、鰯売りの男が鰯の傍らに昏倒したる例あり。その他、数人の同行者が一時におかされたるの例あり。結局は空腹に乗じて、人体内に一種強力の麻痺を与うる空気のためなるべし、云云。

 この実験談に照らすに、空腹のときに多く起こるは、高山の空気の人身に影響せること明らかである。これ温泉山に限るにあらず、諸国の高山には往々聞くことである。

   *

「小山田」叙述からこの附近と推定出来る(グーグル・マップ・データ)。]

 同じ地方の實例の最も具體的なものが四つ以上、本山桂川《もとやまけいせん》君の編輯して居た「土の鈴」第四號に出て居る。同じく溫泉嶽の周圍ではあるが、南高來《たかき》郡愛野村から島原の城下へ行く岩下越《いはしたごえ》の峠附近とあつて、前のとは別の地點かと思はれる。室生の例の如く精確に一つの地點とはきまつて居なかつたやうである。これもダラシといひ、これにつかれると軀中がだらしなくなるといつて居るが、突然手足がしびれ力が無くなり、冷汗が出て腹がこはばる。又は腹を抑へてアイタアイタといひながら來る者を見たともあつて、前の學生の實驗とは少しの相異がある。僅の食物の食ひ殘りを近い藪の中へ投げたら治つたともある。以前旅人がこの邊で餓死し、その魂が附近に留つて居るともいひ、又かつて此處で首を釣つて死んだ者があるともいふ。米の字を手掌に書いて、嘗めるとよいといふのも紀州に似て居る。

 右の如く名稱は各地少しづゝの差があるが、便宜のために分り易いヒダル神の名を用ゐて置く。少しでもこれに近い他の府縣の實驗談と、若しこの間題を記載した文獻があるならば報告を受けたい。理由又は原因に關しても意見のある方は公表せられたい。これだけは既に世に現れた材料であつて、自分はまだ特別の硏究を始めたわけではない。

[やぶちゃん注:「本山桂川」(明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)は民俗学者・文学碑研究家・文筆家。本名は豊治。長崎市出島町出身。早稲田大学政治経済科卒。民俗及び民芸の研究に従事し「日本民俗図誌」全二十巻や「生活民俗図説」などの著書がある。戦後は金石文化研究所を主宰した。その他、実用書を含めて多種多様な著作がある。

「岩下越」現在の雲仙市愛野町はここで、「島原へ行く」では、限定のしようがない。]

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