西播怪談實記 佐用鍛冶屋平四郞大入道に逢し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。前回述べた通り、底本では標題欠損であるため、標題は初回に電子化した「目次」のものを使用した。【 】は二行割注。挿絵は所持する二〇〇三年国書刊行会刊『近世怪異綺想文学大系』五「近世民間異聞怪談集成」にあるものをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]
◉佐用鍛冶屋平四郞大入道《おほにふだう》に逢し事
年は元祿の初《はじめ》つかたの事なりしに、佐用郡佐用邑に、鍛冶屋平四郞といへるもの、有《あり》。
平生、殺生を數寄《すき》しか[やぶちゃん注:「が」。]、比《ころ》は五月廿日あまり、雨もそぼふる暗き夜《よ》なれば、
『鮎をとらんには、究竟(くつきやう)の夜なり。』
と思ひ、ひとり、網を持(もつ)て立出《たちいで》、先《まづ》、大成《だいなり》といふ所へ行て【大成は河の字《あざ》。】、河の半《なかば》にすゝみ、網を、
「さんふ」
と打入《うちいれ》、曳(ひき)て見るに、何やらむ、懸《かかり》たるやうに覚へければ、右の方へを迥《まは》りて引《ひく》に、川上の方へ、網を、引《ひく》もの、在《あり》。
『怪し。』
と、おもひ、雲透《くもすき》に見れば、其長、壱丈斗《ばかり》の大人道、網のいわを取《とり》て、川中《かはなか》を、上へ、上へ、と、引《ひき》てゆく。
[やぶちゃん注:「元祿の初つかた」元禄は元年が一六八八年で元禄一七(一七〇四)年に宝永に改元している。
「雲透」雲を透かしてものを見ること、或いは、雲間を漏れてくる僅かな光、或いは、その光を頼りとして対象物を見ること。多く、この「雲透にみる」の形で用いられる。平安末期以降の用語。
「いわ」これは「岩・巌・磐」であるが、「錘」「沈子」と書くと意味が分かる。漁網を沈めるために附ける素焼きの土器や陶器で作った錘(おもり)のことである。挿絵を見られたい。]
平四郞、元來、不敵ものにて、少《すこし》も恐れず、
『網を引とらんは、安けれども、破(やぶり)ては、無益(むやく)なり。引行《ひきゆか》ば、いづく迄も附《つき》て行《ゆく》べし。若《もし》、又、我に懸(かゝら)ば、手繩(てなは)を持《もつ》て、くゝしあげん。』[やぶちゃん注:「くゝしあげん」「括(くく)し上げん」で「固く括ってやる・縛り上げてやろう」の意。]
と、おもひ、引《ひか》れてゆくに、五、六町、行《ゆき》て、網を放(はなち)ければ、
『今宵は、猟も有《ある》まじ。』
と思ひて、歸《かへり》しと也。
右の平四郞は、享保の末つかた迄は、存命なりければ、予、直噺(ぢき《ばなし》)を聞ける趣を書つたふもの也。
[やぶちゃん注:底本では、最後の「と思ひて」の後に本文に「網を放」とあって、その右に「歸しと也」とミセケチしている。さて。佐用辺りでは殺生好きは巨大人間に遭遇することが多いらしい。先の「新宮水谷何某化物に逢し事」も巨大山伏だった。
「享保の末つかた」享保は最後が二十一年でグレゴリオ暦一七三六年。初回冒頭注で述べた通り、作者春名忠成は寛政八(一七九六)年の没年である可能性が高い。
「大成は河の字」というのは、川の一部の流域に特定の名をつけることを言っている。川漁・海漁ともによくあることである。なお、名前が流域の各所で名を変えることも珍しくない。例えば、鎌倉市を貫流するどうってことない短い滑川がよく知られる(上流から「胡桃(くるみ)川」→滑川→座禅川→夷堂(えびすどう)川→炭売川→閻魔川と変わる)。どこだかは判らないが、気になるのは佐用町の中の南の端に目高(めたか)のピークに「大成山城跡」(グーグル・マップ・データ)があることで、ここが見える佐用川の下流(ここで千種川に合流する)辺りのように私には思われた。]
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