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2023/02/07

佐藤春夫 改作 田園の憂鬱 或は病める薔薇 正規表現版 (その13)

 

[やぶちゃん注:電子化意図や底本は初回の私の冒頭注を参照されたい。なお、前章が追加されたため、ここでは未定稿とは数字がずれるので注意されたい。未定稿の対応章は「佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その12)」となる。

    *     *     *     *

       *     *     *

 或る雨の晴れた晚であつた。それはもつと後の日であつたか、それともここに書くのが順當な頃であつたか解らない。とにかく或る雨の晴れた晚であつた。大きな圓い月が、あの丘の上から、舞臺の背景のせり出しのやうに靜に昇つて來たことがあつた。

 その晚は犬が二疋ともいつもよりももつと悲しげに、もつと激しく吠えた。

 彼は、それらの犬どもを遊ばせるつもりで庭へ出た。庭からまた外へ出た。空に月が出て居ることが彼の心を樂しくして居た。月は殆んど中天に昇つて居た。空は東の方がからりと晴れて、西の方へ行くほど曇つてその果は眞黑であつた。大きな空が一刷毛でぼかされて居た。彼は月をつくづくと見上げた。さうして步いた。遠い水車の音が、コツトン、コツトン、コツトン、と野面を渡つてひびいて來た。フエアリイ・ランドの丘の女の脇腹は[やぶちゃん注:新潮文庫版では「に」。]、月の光が細かく降りそそがれて、それは濡れて光つて居た。彼は彼の家の前の街道を幾度も幾度も往つたり來たりして步いた。月を背にして自分の短い影を見た。又は、自分の影は見ないで涯しのない月の中を見つめて步いたりした。二疋の犬は彼の後について、二疋で互にふざけ合ひながら、嬉嬉として戲れて居た。彼が立ちどまると、二疋の犬は、立つて居る彼のぐるりを、追つかけ合つて𢌞つた。彼は水のせせらぎに耳を借した。路の傍に、彼の立つて居る足の下に、あの道に沿うた渠である細い水が、月の光を碎きながら流れて居た。それは大きな雲母の板か何かのやうに黑く、さうして光つて、音を立ててふるへて居た。ふと、南の丘の向う側の方を、KからHへ行く十時何分かの終列車が、月夜の世界の一角をとどろかせ、搖がせて通り過ぎた。その音が暫く聞かれた。この時、彼にはもの音が懷しかつた。月の光で晝間のやうに明るい、いや雨の日の晝はこれよりずつと暗い――野面を越えて、彼は南の丘の方へ目を向けた。……今、物音の聞えたところ、丘の向う側には素晴らしく賑やかな大都會がある。……其處には、家家の窓から燈が、きらきらと簇つて輝いて居る……。彼は不意に何の連絡もなく、遠い汽車のひびきを聞いただけで、突然そんな空想が湧き上つて來た。さう言へば、一瞬間、ほんの一瞬間、その丘のうしろの空が一面に無數の灯の餘映か何かのやうにぼつと赤くなつた……かと思ふと、すぐに消えた。それは實際神秘な一瞬間であつた。

「俺は都會に對するノスタルヂアを起して居るな?」

 彼は、さう思ひながら、その丘から目をそらした。さうしながら、見ると彼の突立つてゐる一筋の路の前方から、或る黑い人影が彼の方へ步いて來つつあつた。それは彼とは二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]ほど距てて居た。彼はそれを見つめながら、月の光のなかをそんな風な打開けた場所を人の通つて來るのを、何といふことなく氣味惡く思つた。さうして月夜は闇夜よりも物凄いと思つた。と、その時、その人影の方から、

「ヒユウ!」

と、一聲、ただ一聲、高く口笛が聞えて來た。すると彼の犬は二疋とも、突然疾風のやうな勢で、その人影の方へ驅け出した。それが先づ彼には非常に不愉快であつた。これらの犬は彼、卽ち犬どもの主人の呼ぶ時より外には、今まで決して他の人の方へは行かうとはしなかつたからである。それがその夜に限つて、この一聲の口笛を聞くと、飛ぶやうに驅け出す。彼は或る狼狽をもつて、

「ヒユウ!」

と、同じやうに一聲高く口笛を吹いた。犬をよび返すためである。彼の口笛を聞くと、犬も氣がついたらしく、慌てて彼の方へ引き返した。

「フラテ!」

 人影はさう言つて、犬の名を呼んだ。

「フラテ!」

 彼も慌てて、同じく犬の名を呼んだ。

 彼のさう叫んだ聲は、妙に、あの人影の聲とそつくりであつた。さうして直ぐに同じ言葉を呼び返した爲めに、彼の聲は、ちやうど人影の聲の山彥のやうに響いた。二つの聲は、この言ひ現はし難い類似をもつて全く同一なものだと彼自身にさへ感じられた。それを犬でさへもさう聞いたに相違ない。一旦、驅け出した犬は、人影を慕うて行つたまま歸つて來なかつた。

 彼は呆然と路の上に立つて、その人影を確めようと眼を睜つた[やぶちゃん注:「みはつた」。]。人影は、路から野面の方へ田の畔をでも傳ふらしく、石地藏のあたりから折れ曲つた。さうして!

 何といふ不思議であらう! その人影は、明るい月夜のなかで、目を遮るものもない野原のなかで、忽然と形が見えなくなつた。

「あつ」と叫び聲を、口のなかに嚙み殺して、彼は家の門へ、家のなかへ、一散に驅け込んだ。

「……この村では誰も俺の犬の名を覺えて居る筈はないのだ。呼びにくい名だから。いや、子供が知つて居る。けれども彼等は、『フラテ』といふ名を『クラテ』と訛つて覺えて居る筈だ。たとひ、名を呼ばれても、俺の犬は俺以外の人間の方へ行く筈はないのだ。たとひ、行くとしても、俺が呼び返せばきつと俺の方へ歸つてくる筈なのだ。今までこんなことは一度もない」彼は一人でさう考へた。「……それにあの人影は何だつて、不意にかき消すやうに見えなくなつたのであらう?……若しや、あの時俺が、この俺自身の同一人が二人の人間に別れたのではなかつたか? 離魂病といふ病氣はほんとうにある事であらうか? 若し然うだとすると、俺は、若しや離魂病にかかつて居るのではなからうか。犬といふものは物音を聞き別けるのには微妙な能力を持つて居なければならない筈だ。わけて主人の聲はちやんと聞きわける筈だが……」

 彼の心臟の劇しい鼓動は、二十分間の以上もつづいた。彼はどういふわけか時計の振子の動くのを見つづけながら、離魂病に就てのさまざまな文學的の記錄や、或は犬のことなどを考へつづけて、心臟の鎭まる時間を待つた。心がやつと落着くと、彼は妻に命じて、犬がいつもの通りに緣の下に居るかどうかを見させた。犬があのままあの人影について行つて、もう何時までも歸らないやうに思へたからである。犬はそこには居なかつた。けれども彼の妻が呼んだ時には、彼等は運よく(と彼は思つた)歸つて來た。彼は月はまだ出て居るかと聞いた。月は出て居るといふ妻の返事であつた。

 翌日の朝になつて、彼は昨夜の出來事を彼の妻に初めて話した。彼はその夜のうちには、それを人に話すだけの餘裕もないほど怖しかつたからである。この話を聞いた彼の妻は、可笑しがつて彼を腹立たしくしたほど笑つた。突然、人影が見えなくなつたといふのは、犬がその人の足もとまで懷(なつ)いて來たので、誰かその人が、犬の頭を撫でようと身を屈めたに相違ない。その爲めに畔道を步いて居た人は、田の稻のかげに匿されて形が見えなくなつたのであらう。と、さういふのがこの事に就ての彼の妻の解釋であつた。成程、それが適當な解釋らしい、と彼も考へた。併しその瞬間に感じた奇異な恐怖は、その說明によつて消されはしなかつた。

 

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