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2023/02/11

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 怒らぬ人

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。]

 

     怒 ら ぬ 人 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 依田百川の「譚海」卷二に、天明中、豐後速見郡鶴見村の妙喜尼、初め、某氏に嫁し、一子を產みしが殤(わかじに)し、夫も病沒す。其から、舅・姑に事《つか》へ、至孝だつたが、二人共、死んだので、尼と成《なり》て、誦經念佛、日夜、止まず、「何事有《あり》ても佛恩だ。」と言《いふ》て、少しも心を動かさなんだ。或人、問ふ、「もし、汝に水をかけたら、どうだ。」。尼曰く、「暴雨と思へば、腹が立《たた》ぬ。」。「木石を投げつけたら、どうだ。」。尼曰く、「瓦が自分で飛んできたと思へば、すみます。」。「老尼、常に佛恩の報じがたきをのみ憂ふ。何の暇《いとま》有《あり》て、その他を懸念せんや。」と。ある夜、闇中、寺に詣り、僧と相撞(つい)て、地に倒れ、氣絕した。僧、驚いて、救ひ活《いか》すと、直ちに合掌して、佛恩を唱ふ。譯(わけ)を問ふと、「死なゝんだが、卽ち、佛恩。」と答へた。又、「飯をたく。」とて、沸湯で、手を燒《やい》た時、「佛恩。」と稱へた。「其程、痛むに、何の佛恩か。」と、とふと、「阿鼻地獄に比ぶれば、誠に少しの痛みでないか。」と答へた。平生、耕織《かうしよく》して自給し、一毫も人に求めず、物を遣《おく》らるると、必ず、報じた。半日に布一丈二尺を織り、其術に巧みな者も、及ばず。これも「佛恩。」と言《いふ》た。八十餘歲で沒した、とある。

[やぶちゃん注:「依田百川」近代の漢学者で作家の依田百川(よだひゃくせん 天保四(一八三四)年~明治四二(一九〇九)年)については、詳しくは当該ウィキを読まれたいが、「百川」は当初の字(あざな)で、本名は朝宗(ともむね)。雅号を「學海」と称した。森鷗外の漢文教師であり、幸田露伴を文壇に送り出したのも彼である。私は「馬琴雜記」の評者として知っている。

「譚海」漢文小説集。全四巻で鳳文館より明治一七(一八八四)年から翌年にかけて刊行された。菊池三渓の「本朝虞初新誌」と並び称される。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらで視認出来る。

「天明中」一七八一年から一七八九年まで。徳川家治・家斉の治世。

「豐後速見郡鶴見村」現在の大分県別府市鶴見(グーグル・マップ・データ)。

「老尼」「選集」ではこれに当て訓で『わたくし』とルビする。確かに、近現代の小説の直接話法となら、一つの読みとしてあり得るが、「譚海」は全漢文体であることから、この読みは、「選集」の平凡社編者の手取り足取りのやり過ぎルビであるように私には思われるので、とらない。

「闇中、寺に詣り」「譚海」の原文は『嘗夜詣ㇾ寺』。

「僧と相撞(つい)て」夜間に釣鐘を二人で撞くのもおかしいから、これは、仏法の談義を戦わせたということであろう。

「阿鼻地獄」無間地獄に同じ。八大地獄の一つで、現世で五逆(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・仏身を傷つけて血を出させること。僧団の和合を破壊すること)などの最悪の大罪を犯した者が落ちる。地獄の中で最も苦しみの激しい所とされる。

「遣《おく》らるる」底本は「遺らる」。「選集」で「る」を補った。]

 是れ、事實譚らしいが、似たことは古く經文に見えおる。劉宋の朝に德賢が譯した「雜阿含經」一三に、佛、祇樹給孤獨園《ぎじゆぎつこどくゑん》に在《あり》し時、尊者富樓那《ふるな》、來つて、佛を禮し、白《まを》して曰く、世尊我已蒙世尊略說敎誡、我欲西方輸盧那人間遊行、佛告富樓那、西方輸盧那人兇惡輕躁、弊暴好罵、富樓那、汝若聞彼兇惡輕躁弊暴好罵毀辱者、當如ㇾ之何、富樓那白ㇾ佛言、世尊若彼西方輸盧那國人、面前兇惡訶罵毀辱者、我作是念、彼西方輸盧那人、賢善智慧、雖我前兇惡弊暴罵毀辱我、猶尙不手石而見打擲、佛告富樓那、彼西方輸盧那人、但兇惡輕躁弊暴罵辱、於ㇾ汝則可、脫(モシ)復當手石打擲者、當如之何、富樓那白ㇾ佛言、世尊西方輸盧那人、脫(モシ)以手石於我者、我當念言、輸盧那人賢善智慧、雖手石我、而不ㇾ用刀杖、佛告富樓那、若當彼人脫以刀杖而加上ㇾ汝者、復當云何、富樓那白ㇾ佛言、世尊若當彼人脫以刀杖而加上ㇾ我者、當ㇾ作是念、彼輸盧那人賢善智慧、雖刀杖而加於我、而不ㇾ見ㇾ殺、佛告富樓那、假使彼人脫殺一レ汝者、當如ㇾ之何、富樓那白ㇾ佛言、世尊若西方輸盧那人、脫殺ㇾ我者、當ㇾ作是念、有諸世尊弟子、當厭患身、或以ㇾ刀自殺、或服毒藥、或以ㇾ繩自繫、或投深坑、彼西方輸盧那人、賢善智慧、於我朽敗之身、以少作方便便得解脫、佛言善哉富樓那、汝善學忍辱、汝今堪能於輸盧那人間住止、汝今宜ㇾ去、度於未度、安於未安、未涅槃者令ㇾ得涅槃〔「世尊よ、我れ、已に世尊の略說せる敎誡を蒙る。我れ、西方の輸盧那(ゆるな)の人間(じんかん)に遊行せん。」と。佛、富樓那に告ぐらく、「西方の輸盧那の人は、兇惡・輕躁にして、弊暴・好罵たり。富樓那よ、汝、若(も)し、彼(か)の兇惡・訶罵(かば:謗り叱ること)・毀辱(きじよく:貶し辱しめること)をなすを聞かば、はた、之れを如何(いかん)とすか。」と。富樓那、佛に白して言(い)はく、「世尊よ、若し、彼の西方の輸盧那國の人、面前(まのあたり)に兇惡・訶馬・毀辱をなさば、我れ、是の念(おも)ひを作(な)さん。『彼の西方の輸盧那の人は賢善にして、智慧あり。我が前に於いて兇惡弊暴にして我れを好罵・毀辱すと雖も、猶ほ尙ほ、手石(しゆせき:素手や石)を以つて打擲(ちやうちやく)するを見ず。』と。」と。佛、富樓那に告ぐ、「彼の西方の輸盧那の人、但(ただ)、兇惡・輕躁、弊暴・罵辱たるのみならば、汝に於いては、則ち、可(か)ならんも、若し、復(ま)た、手石を以つて打擲せるあらば、はた、之れを如何とすか。」と。富樓那、佛に白して言はく、「世尊よ、西方の輸盧那の人、若し、手石を以つて我れに加ふれば、我れは、當(まさ)に念-言(おも)ふべし。『輸盧那の人、賢善にして智慧あり。手石をもって、我れに加ふると雖も、而(しか)も刀杖を用ひず。』と。」と。佛、富樓那に告ぐらく、「若し、彼の人、脫(も)し、刀杖を以つて汝に加ふれば、復た、云-何(いかん)とす。」と。富樓那、佛に白して言はく、「世尊よ、若し、彼の人、脫(も)し、刀杖を以つて我れに加ふれば、當に是の念(おも)ひを作すべし。『かの富盧那の人、賢善にして智慧あり。刀杖を以つて我れに加ふと雖も、而も殺すを見ず。』と。」と。佛、富樓那に告ぐらく、「假(か)りに、彼の人をして、脫(も)し、汝を殺さしむれば、はた、是れを如何となす。」と。富樓那、佛に白して言はく、「世尊よ、若し、西方の富盧那の人、假りに我れを殺さば、當に是の念ひを作すべし。『諸(もろもろ)の世尊の弟子有り。當に身を厭(いと)ひ患ひ、或いは、刀を以つて自殺し、或いは、毒藥を服(ぶく)し、或いは、繩を以つて自ら繫(くく)り、或いは、深き坑(あな)に投ず。彼の西方の富盧那の人は、賢善にして智慧あり。我が朽ち敗(やぶ)れたる身に、少(いささ)かの方便を作せるを以つて、便(すなは)ち解脫を得たり。』と。」と。佛、言はく、「善きかな、富樓那。汝、善く忍辱(にんいく)を學べり。汝、今、能(よ)く輸盧那の人間(じんかん)に於いて住み止まるに堪へたり。汝、今、宜(よろ)しく去(ゆ)くべし。未だ度(ど)せざるを、度し、未だ安(やす)んぜざるを、安んじ、未だ涅槃せざる者をして、涅槃を得しめよ。」と。〕云々、富樓那、かの國に到り、夏安居《げあんご》[やぶちゃん注:「し」を入れたい。]、爲五百優婆塞說法、建立五百僧伽藍、〔五百の優婆塞(うばそく)の爲めに法を說き、五百の僧伽藍を建立し、〕云々、三月過已、具足三明、卽於彼處無餘涅槃。〔三月(みつき)、過ぎ已(をは)りて、三明(さんみやう)を具足し、卽ち、彼處(かしこ)に於いて、無餘涅槃に入りぬ。〕とある。

[やぶちゃん注:「德賢」「選集」では『グナ・ブハドラ』とルビする。「佛陀跋陀羅」で、インド渡来の訳経僧であろう。

「雜阿含經」の当該部は「大蔵経データベース」で校合した。若干、表記に問題があったので、底本の漢字の一部と返り点を修正した。今まで通り、それは一々示すことはしない。底本と比べて戴ければ、自ずと判る。

「祇樹給孤獨園」須達(しゅだつ)長者が祇陀(ぎだ)太子から園林を買い取り、釈迦の教団に寄進したとされる僧院地。「祇園精舎」はその略称である。

「尊者富樓那」、釈迦仏の十大弟子の一人である富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし/サンスクリット語:プールナ・マイトラーヤニープトラ/富樓那彌多羅尼弗多羅)。詳しくは「仏教ウェヴ講座」の「富楼那とは?」、或いは、当該ウィキを見られたい。

「輸盧那」スナーパランタ。コーサラ国のカピラ城近郊ドーナヴァストゥの別称。ムンバイの北に位置したインドの古代貿易都市。ここは実は富樓那の生誕地ともされる。

「夏安居」仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をしたその期間の修行を指した。多くの仏教国では陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。安居の開始は「結夏(けつげ)」と称し、終了は「解夏(げげ)」と呼ぶ。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す。

「三明」仏が具える三つの智慧。自他の過去世の在り方を自由に知る「宿命明」、自他の未来世の在り方を自由に知る「天眼(てんげん)明」、煩悩を断って迷いのない境地に至る「漏尽明」を指す。

「無餘涅槃」肉体などの制約から完全に解放された、永遠の悟りの境界。心だけでなく肉体の煩いからも完全に離れた理想の世界を指す。それ以前、悟りを認識しているものの、生きていて、どこかに未だ肉体への執着がある状態を「有余涅槃」(うよねはん)と呼ぶ。]

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