西播怪談實記 多賀村彌左衞門小坊主を切し事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注凡例は最初回の冒頭注を参照されたい。底本本文はここから。]
◉ 多賀(たか)村彌左衞門小坊主を切《きり》し事
佐用郡多賀村に彌左衞門といひしもの有《あり》。
寬永年中の事なりしに、公務に付《つき》、宍粟(しそう)の役所に出《いづ》るに、道のほど五里を(へたつ)れば、歸宿の比《ころ》は、いつにても、夜に入《いり》て通る事、度々也。
或時、又、夜更て歸りしが、住家(すみか)より、廿町斗《ばかり》川上なる高山といへる所の岨(そば)を傳ひしに、年比、十二、三斗なる、いつくしき僧、いづくともなく出《いで》て、道に先立《さきだ》つ。
跡をしたふに、ほどなく家近くになりて、又、いづくともなく失(うせ)けり。
かくのごとくする事、五、七度(ど)にも及びしかども、公務なれば止(やむ)事を得ずして、又、ある時、夜更少し、村雨(《むら》さめ)、打《うち》そゝぎて、雲の絕間より下の弓張[やぶちゃん注:半月。]きらめく折節、右の岨に懸りしが、例の小坊主、又、出て、先立ゆく。
住家近く成《なり》て、稻田の中へ飛入(とび《いり》)て失けり。
『例(れい)の事。』
と、おもひ、行過(ゆきすき)しに、後(うしろ)より、飛懸《とびかか》り、足の間《あひだ》をくゝる事、手飼(《て》かい)の犬の、たはむるゝに、異(こと)ならず。
其時、刀を拔(ぬき)て切付《きりつけ》しに、忽(たちまち)、大坊主と成て、其長(たけ)壱丈斗《ばかり》に見えしを、刀を持直して、
「はつた」
と切付《きりつけ》るに、手ごたヘして、形は失にける。
家に歸り、此事を語れは、有《あり》あふもの共、手ン手に、明松(たいまつ)[やぶちゃん注:ママ。]燈(とほ)しつれ、其所を尋《たづぬ》るに、筋(すし[やぶちゃん注:ママ。])の血あり。
是を、つなぎて、十町斗行《ゆく》に、古溝(ふるみそ)の中に、幾年經(いくとしへ)しともしれぬ、狸、死(しに)居《ゐ》たりける。
然(しか)し後(のち)は、此刀を「狸丸」と名づけ、今に其家に持傳へたり。
享保の初つかた迄は、此事をおぼろに覚《おぼえ》し家僕、存命(なからへ)居(ゐ)て、語ける趣を書傳ふ者也。
[やぶちゃん注:「佐用郡多賀村」兵庫県佐用郡佐用町多賀(たが:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。
「宍粟(しそう)の役所」現在の宍粟市の市街であろう。多賀から時計回り或いは反時計回りで周回して遠回りすると、二十七キロメートル以上はあり、山越え直行はかなり厳しいが、「五里を隔」つとあり、実際にやってみると、山越えすると二十キロほどで着くので、そのルートであろう。
「廿町」二・一八二キロメートル。
「高山」不詳。「ひなたGPS」で戦前の地図を見たが、見当たらない。これが判ると主人公に家がほぼ特定出来るのだが。
「壱丈」三・〇三メートル。
「享保」一七一六年から一七三六年まで。]
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