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2023/02/25

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 少許を乞て廣い地面を手に入れた話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、底本では標題下の初出附記が「(同前)」(前記事と同じの意)となっているが、単発で電子化しているので、正規に記した。標題の「少許を乞て」は「すこしばかりをこひて」。]

 

     少許を乞て廣い地面を手に入れた話 (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 昔し、といふ物の、年代、確かに分らぬ時、チリア王ムトゴ、殂《そ》し[やぶちゃん注:亡くなり。]、其民、王の子ピグマリオンを立つ。その妹ヂド、叔父アセルバスの妻たり。アセルバスの勢ひ、王に次げり。ピグマリオン其寶物を奪はんとて竊かに叔父を殺す。ヂド、夢に其夫が自分の兄に殺されたと知り、故《こと》さらに愁ひを忘れん爲め、兄と同棲を申し出で、内實、他邦へ奔《はし》らんと謀る。王、知らず、多人《たにん》をしてその移居を助けしむ。ヂド、其人々を語らいて、味方とし、シプルス島に到り、ゼウスの祠官の一族と合體し、移民に妻《めあは》すための八十人の室女《むすめ》を掠《かす》め、アフリカ北岸の一港に航着、上陸す。さて、土人より地を買ふに、牛皮一枚で覆ひ得るだけを望み、土人、諾す。その時、ヂド、牛皮を剪《きり》て、最も細き線條《すぢ》とし、浩大なる地面を圍み、悉く其地を獲《とり》て國を建て、プルサ(牛皮)と名づく。是れ、カルタゴ國の剏《はじ》めなり(スミス「希臘羅馬人傳神誌字彙」一八四五年板、卷一)。

[やぶちゃん注:「チリア」シリア。

「ムトゴ」不詳。

「ピグマリオン」ギリシア・ローマ伝説の登場人物。テュロス王。財産を乗っ取るため、妹ディドの夫を殺した。像が生きた女となった伝承で知られるキプロス島の王とは同名異人

「ヂド」現行では「ディド」「ディードー」などと表記する。カルタゴの創設者とされる女王。フェニキアのテュロスの王女として生まれ、巨万の富をもつ叔父シュカイオスと結婚したが,父王の死後、王位についた兄ピグマリオンに夫を殺されたため,財宝を船に積んでリビアへ逃れた。この地で,一頭の牛皮で覆えるだけの地面の譲渡の約束をとりつけた彼女は,機転を働かせて皮を細く糸状に切り,これによって囲める限りの土地を入手,ここを拠点にカルタゴ(セム語で「新しい町」の意)を建設した。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠ったが、同社の「百科事典マイペディア」には、後、漂着したアエネアスと恋におちたが、彼はイタリアに去り、後、リビア王に結婚を迫られ,火中に身を投じて死んだ。ウェルギリウスの叙事詩「アエネイス」によって知られるとある。

「シプルス島」キプロス島。

「カルタゴ國」紀元前にアフリカ大陸の北岸を中心に地中海貿易で栄えたフェニキア人による国家。当該ウィキによれば、『カルタゴの建国に関して確実なのは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したこと、ティルスと同じメルカルト』『が町の守護神であったことなどである。カルタゴは同じフェニキア系都市で先に入植されたウティカやガデスの寄港地として開かれたと考えられている。なお、カルタゴ遺跡からの出土品では紀元前』八『世紀後半のものが最も古い』。『ティルスの女王ディードーが兄ピュグマリオーン 』『から逃れてカルタゴを建設したとされる。ディードーは主神メルカルトの神官の妻だったが、ピュグマリーオンがディードーの夫を殺害したため』、『テュロスを去った。ローマの歴史家グナエウス・ポンペイウス・トログスの』「ピリッポス史」に『よれば、岬に上陸したディードーは』、一『頭の牛の皮で覆うだけの土地を求めた。岬の住人が承知をすると、細く切った皮で紐を作って土地を囲い、丘全体を手に入れる。この丘はギリシア語で「皮」を意味するビュルサと呼ばれるようになった』。『ビュルサには近隣の人々が集まるようになり、同じくフェニキア系の都市であるウティカから使者が訪れ、都市の建設が始まる。皮で囲まれた土地については、地代としてアフリカ人へ貢租を支払うことになり、前』五『世紀まで支払いが続いたとされる』。『古代ローマの詩人ウェルギリウスは、上記とは異なるディードーの伝説を』「アエネイス」『で書いている』とあり、また、『ポンペイウス・トログスによるディードーの伝説に従えば、カルタゴはテュロスによる正規の植民都市ではなく、亡命者の土地にあた』り、『また、神官の妻だったディードーは宗教的にはピュグマリーオンよりも正統に属しており、メルカルト信仰の中心がテュロスからカルタゴへ移ったことも意味する』。『ビュルサの丘は、現在のサン・ルイの丘にあたる』。『古代ギリシアやローマの歴史家らの史料では』、『トロイ戦争(紀元前』十二『世紀頃)前、紀元前』八二〇『年頃や紀元前』八一四『年頃に』、『それぞれ建国されたという記述があるが』、『いずれも裏付はない』とあった。]

 熊楠謂く、右は、吾國でも西史を讀む人のみな知る處で、其時吾々がヂドだつたら、どんな形に牛の皮線條で地面を圍んだら、最も多く地を取り込みえたかといふ算學上の問題に、予抔、每々腦漿を搾つた事である。然し、此話は餘り氣が付《つい》た人はない樣な物の、實は東洋にも古くから傳えた事で、たゞヂドの話が移つたか、印度や支那にも自ら發生したかゞ分らぬ。

 西晉の安息國三藏安法欽譯「阿育王傳」三に、摩田提(マヂヤーンチカ)尊者、罽賓《けいひん》國で大龍を降し、自分一人坐るにたる丈の地を求め、龍、承諾した。そこで、尊者、其身を大にして、國中に滿たして、跏趺《かふ》して坐した。龍、大《おほい》に呆れ、「汝、かばかりの廣き地を、何にするぞ。」と問ふ。尊者、「我に諸伴黨《はんたう》ある故。」と答ふ。復た問ふ。「伴黨は幾人ぞ。」。答ふ。「五百羅漢あり。」と。龍、言《いは》く、「もし、他日、五百羅漢が一人でも減ずる場合には、その時、必ず我に此國を還せ。」と。尊者、入定して、『後世、五百羅漢が常に五百ながら存し得べきか。』を觀ずると、必常、五百、有《あり》て、一人も減ぜぬべきを知《しつ》た。因て答へて、「いかにも、龍の望み通り。」と約定した。扨、尊者、無量の人をつれて、此國に來り、自ら、之を、村落城邑に安住せしめた。又、人を將《ひきつ》れて、飛《とん》で、香山《かうざん》中に向ひ、鬱金《うつこん》の種を取って罽賓國に種《うゑ》んとした。龍、怒つて、「鬱金を幾時のあいだ種る積りか。」と問ふ。尊者曰く、「佛法が續く間《あひだ》だ。」と。龍、問ふ。「佛法は、幾時、永く續くか。」。答ふ。「千歲だ。」と。聞いて、龍、その種を與へた、と出づ。

[やぶちゃん注:「阿育王傳」は「大蔵経データベース」を確認した。]

 六祖大師の門人法海等集「六祖大師緣起外記」に、唐の儀鳳二年[やぶちゃん注:六七七年。]、大師至曹溪寶林、覩堂宇湫隘不ㇾ足一ㇾ、欲ㇾ廣ㇾ之、遂謁里人陳亞仙曰、老僧欲檀越坐具地、得不(ウルヤイナヤ)、仙曰、和尙坐具幾許闊、祖出坐具、示ㇾ之、亞仙唯然、祖以坐具一展盡罩曹溪四境、四天王現ㇾ身坐鎭四方、今寺境有天王嶺、因ㇾ茲而名、仙曰、知和尙法力廣大、但吾高祖墳墓並在此地、他日造ㇾ塔、幸望存留、餘願盡捨永爲寶坊云々。〔大師、曹溪の寶林に至るに、堂宇、湫隘(しうあい)[やぶちゃん注:土地が低く、狭いこと。]にして、衆(しゆ)を容(い)るるに足らざるを觀(み)、『之れを廣くせん。』と欲す。遂に里人の李亞仙に謁して曰はく、「老僧、檀越に就いて、坐具の地を求めんと欲す。得るや不(いな)や。」と。仙曰はく、「和尙の坐具、幾許(いかばか)りの闊(ひろ)さなるや。」と。祖、坐具を出だして之れを示す。亞仙、唯だ、然(うべな)ふ。祖、坐具を以つて一たび展(ひろ)ぐるや、盡(ことごと)く曹溪の四境を罩(つつ)み、四天王、身(しん)を現じ、坐して四方を鎭(しづ)む。今、寺の境に「天王嶺(てんわうれい)」あり、茲(こ)れに因ちて名づく。仙曰はく、「和尙の法力の廣大なるを知れり。但(ただ)、吾が高祖の墳墓、並(みな)、此の地に在り、他日、塔を造らんとせば、幸(ねがは)くは存留されんことを望む。餘(よ)は、盡(ことごと)く捨てて、永く寶坊と爲(な)さんと願ふ。」云々と。〕尊者と大師が神通力を以て、或は、身を一國に滿《みつ》る大《おほき》さにし、或は、坐具一枚で土豪の所有地を盡く罩(おほ)ふたは、ヂドが、牛皮を、細《こま》かき線條に切《きつ》て、廣い地面を圍んだ算勘上の頓智と大違ひだが、小さいものをだしに使つて廣大の地面を取《とつ》た趣きは同じ。又、慈覺大師「入唐求法巡禮行記」卷三に云く、五臺山五百里内、奇異の花開敷如ㇾ錦、滿山遍谷香香氣薰馥、每臺多有慈韮生、昔孝文皇帝住五臺遊賞、文殊菩薩化爲僧形、從皇帝乞一座具地、皇帝、許ㇾ之、其僧、見ㇾ許已、敷一座具、滿五百里地、皇帝恠ㇾ之、朕只許一座具地、此僧敷一座具遍浩五臺大奇、朕不ㇾ要共住此處、遂以慈韮五臺山、便出ㇾ山去、其僧在後、將零陵香子慈韮之上、令ㇾ無臭氣二一、今ㇾ見每臺遍生慈韮二一、惣不聞臭氣、有零陵香、滿臺生茂、香氣氛氳、相傳云、五臺五百里、敷一座具地矣。〔五臺山五百里の内、奇異の花、開き敷くこと、錦のごとし。滿山遍谷、香り、香氣、薰馥(くんぷく)たり。臺(うてな)每(ごと)に、多く慈韮(ねぎ[やぶちゃん注:推定訓。])の生ずるあり。昔、孝文皇帝、五臺に住みて、遊び賞す。文殊菩薩、化(くわ)して僧形(そうぎやう)と爲(な)り、皇帝に從ひて、一つの座具の地を乞ふ。皇帝、之れを許す。其の僧、許され已(をは)りて一つの座具を敷くに、五百里[やぶちゃん注:当時の一里は四百三十四メートルであるから、二百二十五キロメートル。]の地に滿つ。皇帝、之れを怪しみ、「朕は、但(ただ)一つの座具の地を許せしに、此の僧、一つの座具を敷きて、遍(あまね)く五臺に浩(ひろ)ごること、大いに奇なり。朕は、共に此處(ここ)に住むを要せず。」と。遂に、慈韮を以つて、五臺山に散(はな)ち、便(すなは)ち、山を出でて去る。其の僧、在(あり)て後(のち)、零陵香の子(み)を以つて、慈韮の上に散らし、臭氣を無からしむ。今、臺(うてな)每に、遍く慈韮を生ずるも、惣(すべ)て、臭氣を聞(か)がず、零陵の香、有り、滿てる臺(うてな)に生ひ茂りて、香氣、氛氳(ふんうん)たり[やぶちゃん注:香気が甚だ盛んなさま。]。相傳へて云ふ、「五臺の五百里は一つの座具を敷くの地なり。」と。〕

[やぶちゃん注:『法海等集「六祖大師緣起外記」』も「大蔵経データベース」と校合したが、「仙」とあるところが、熊楠の引用では「僊」となっている。同じ意味であるので、「仙」とした。返り点もおかしい箇所があった(一二点を挟まずに上下点がある)ので勝手に修正した。

「入唐求法巡禮行記」は原本データベースがメンテナンス中であるため、確認出来なかったことから、熊楠のものを採用したが、一ヶ所、「選集」の読みから、「住」が「往」になっているのを訂した。

「孝文皇帝」北朝北魏の第六代皇帝(在位:四七一年~四九九年)。]

增補 (大正十五年八月二十七日記)

 「聊齋志異」卷十二に云く、紅毛國舊許中國相貿易、邊帥見其人衆、不ㇾ聽ㇾ登ㇾ岸。紅毛人固請、但賜一氈地足矣、帥思一氈所ㇾ容ㇾ無幾、許ㇾ之、其人置氈岸上、僅容二人、扯ㇾ之容四五人、且扯且登、頃刻氈大畝許、已數百人矣、短刀並發、出於于不意一、數里而去。〔紅毛(オランダ)[やぶちゃん注:「選集」のルビ。]國は、舊(むかし)、中國と相(たがひ)に貿易することを許さる。邊帥(へんすい)は、其の、人、衆(おほ)きを見て、岸に登るを、聽(ゆる)さず。紅毛人は、「ただ一氈(いつせん)の地を賜はらば、足れり。」と固く請ふ。帥、思ふに、『一氈の容るる所、幾(いくばく)も無し、』と、之れを許す。其の人、氈を岸の上に置くに、僅かに二人を容るるのみ。之れを扯(ひきさ)くに、四、五人を容るる。扯き、且つ、登るに、頃-刻(しばらく)にして氈の大きさ、畝(ほ)ばかり、已(すで)に數百人となる。短刀を、みな、發(ぬ)き、不意に出でて、數里を掠(かす)めて去れりと。〕

[やぶちゃん注:「聊齋志異」のそれは卷十二の「紅毛氈」。快刀乱麻の柴田天馬訳(昭和三〇(一九五五)修道社刊)が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める。「邊帥」海辺警備隊の隊長。

「畝」約六アール。]

 是は何の地と明記せぬが、伊能嘉矩氏が『民俗』二年二報に書かれたるをみると、臺灣を右に似た謀事《はかりごと》で紅毛が取《とつ》たらしい。鄭亦鄒《ていせきすう》の「鄭成功傳」には、蘭人が、當時、據臺《きよたい》の日本人を紿《あざむ》き、「臺灣府志」の舊志には、蘭人が土蕃をだまして、いずれもヂド同樣、牛皮線條で地面を圍ひ取《とつ》たとある由。又、同氏は「增譯采覽異言」を「野史」から孫引いて、西班牙人が一牛皮の屋を蓋ふの地を呂宋《ルソン》王に求め、許可された後、多く牛皮を縫合《ぬひあは》せ、以て土地を圍み取たと述べらる。

 此話は「明史」に、はや、出でおり、萬曆時佛郎機强與呂宋互市、久ㇾ之見其國弱可取、乃奉厚賄遺ㇾ王、乞牛皮大建ㇾ屋以居、王不ㇾ慮其詐而許ㇾ之、其人乃裂牛皮聯屬至數千丈、圍呂宋地乞如ㇾ約、王大駭、然業已許諾、無ㇾ可奈何、遂聽之、而稍徵其稅國法、其人既得ㇾ地、卽營ㇾ室築ㇾ城列火器、設守禦、具爲窺伺計已竟、乘其無一ㇾ備、襲殺其王二一其人民、而據其國、名仍呂宋實佛郎機也。〔萬曆の時、佛郞機(フランキ)、强いて、呂宋(ルソン)と互市(とりひき)をなす。之れを久しくするに、其の國の弱くして取るべきを見(みてと)り、乃(すなは)ち、厚き賄(ないない)を奉じて王に遺(おく)り、牛皮の大きさのごときの地に、屋を建て、以つて居まふことを乞ふ。王、其の詐(あざむ)くことを虞(おもんばか)らずして、之れを許す。其の人、乃(すなは)ち、牛皮を裂き、連-屬(つな)ぎて、數百丈に至り、呂宋の地を圍みて、約のごとくせんことを乞ふ。王、大いに駭(おどろ)く。然(しか)れども、已(すで)に許諾したれば、奈何(いかん)ともすべきなく、遂に之れを聽(ゆる)す。而(しか)も、稍(しだい)に、其の稅を徵すること、國法のごとし。其の人、既に地を得て、卽ち、室を營み、城を築き、火器を列べて守-禦(まもり)を設け、具(つぶ)さに窺伺(きし)の計(けい)[やぶちゃん注:機会を狡猾にうかがうこと。]を爲し、已に竟(をは)りて、其の備え無きに乘じ、其の王を襲ひて殺し、其の人民を逐(お)ひて、その國を據(と)れり。名は「呂宋」の仍(まま)なるも、實は「佛郞機」なり。〕とある。「佛郞機(フランキ)」は、其頃、回敎民が總ての基督敎民を呼《よん》だ名だから、爰に言《いへ》る「佛郞機」はスペイン人を指したものだろう。「ゲスタ・ロマノルム」六四語、賢い處女が僅かに三吋[やぶちゃん注:「インチ」。七センチ六ミリ。]平方の布片で王の身に合《あふ》た襦袢を作つた話も本條に近い。それに似た話が「毘奈耶雜事」二七の大藥傳にあるが、緣が遠くなるから畧する。

[やぶちゃん注:「明史」は中文サイトで校合し、返り点のおかしい部分を勝手に訂した。

「ゲスタ・ロマノルム」「ゲスタ・ローマーノールム」(ラテン語:Gesta Rōmānōrum) は中世ヨーロッパのキリスト教社会に於ける代表的なラテン語で書かれた説話集。「ローマ人たちの事績」を意味するが、「ゲスタ」は中世に於いては「物語」の意味合いとなり、「ローマ人たちの物語」と訳すべきか。古代ローマの伝承などを下敷きにしていると考えられているが、扱っている範囲は古代ギリシア・ローマから中世ヨーロッパ、更には十字軍が齎したと思われる東方の説話にも及んでいる。題材はさまざまなジャンルに亙るが、カトリックの聖職者が説教の際に話の元として利用できるように、各話の「本編」の後に「訓戒」としてキリスト教的な解釈編が附されてある(Wikibooksの同書に拠った)。「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション」の「ゲスタ・ロマノールム」によれば、『現存する』百十一『冊の写本数から『ゲスタ・ロマノールム』はヤコブス・デ・ヴォラギネの』「黄金伝説」と『並ぶ人気を博した書物であったと推察される』が、『聖人伝を纏めた』それ『と異なる点は題材で』、「ゲスタ・ロマノールム」には『若干の聖人伝に加え、伝説、史話、逸話、動物譚、笑話、寓話、ロマンスなど、ありとあらゆるジャンルの物語が登場する。そして、どの話の後にも教訓解説』『が書かれている。この内容の豊かさ故に』本書は『後にシェイクスピアの』「ヴェニスの商人」、『さらには芥川龍之介に至るまで影響を与えた』。『ラテン語で印刷された』本書は一四七二年に『ケルンで刊行されて以来、様々な増補、改変が行われた。従って』、本書には『決まった物語数というものはない』。『写本は』十三『世紀頃に編まれたと考えられているが、印刷本が刊行されるようになってから』百八十一『話が定本となり、さらに編者によって各話が改変されたり、数十話が付け加えられたりしたらしい』とあった。]

 日本でやゝこの類の話とみるべきは「甲子夜話」續篇四一に出づ。豐太閤が曾呂利新左に「望みの物をやるから、言へ。」といふと、新左、「紙袋一つに入るほどの物を。」といふ。太閤、「小さい望みかな。」と、これを許し、曾呂利、喜んで退く。曾呂利、出仕せざること十日、太閤、人をして伺はしむるに、大なる紙袋を作りおり、「この大袋をお倉にかぶせ、その中に積んだ米を、皆な、賜はる筈。」という。太閤、使者より、これを聞いて、「紙袋一つに相違なきも、倉一つの米は、與へ難い。」と笑はれたそうだ。

[やぶちゃん注:『「甲子夜話続篇」續篇四一に出づ』私のブログ・カテゴリ「甲子夜話」で先ほど「フライング単発 甲子夜話續篇卷之41 五 椛町、岩城升屋の庫燒失せざる事 附 曾呂利の話」を電子化しておいたので見られたい。]

追 加 (大正四年二月『民俗』第三年第一報)

 『鄕土硏究』二卷一號に、久米長目氏、「仙臺封内風土記」を引《ひい》て、宮城郡の洞雲寺、元、異人夫婦、住む。慶雲中、僧定惠、來つて、「此地に寺を建てんと欲し、携《たづさへ》る錫杖を地に樹《た》て、その影の及ぶところ丈を借らん」と言ふ。二人、之を許せば、其所居《そのをるところ》の境内、悉く、影の及ぶ所と成つたので、不得止《やむをえず》、其地を引渡し、自分等は、他の山間へ立退いたと有る。

 印度說に云く、過去世トレタユガの時、マハバリ王、其威力を恃《たの》み、諸神を禮せず、又、牲《にへ》を供えず[やぶちゃん注:ママ。]。韋紐天(ヴヰシユヌ)、諸神に賴まれ、彼を罰せんとて、侏儒の梵志ヴアマナに生れ、王に謁して、三步で踏み得る丈の地面を求む。王、「そは、あまりに少《ちい》さ過ぎる。今、少し、大きい物を望め。」と言ふたが、「外に望みない。」と言ふ。「お安い事。」と王が三步だけの地面を許すと、「然らば、約束成つた印に、吾手へ水を掛け給へ。」と乞ふ。因て、水を注いで、手に懸くるや否や、侏儒の身、忽ち、長大して、天地に盈《み》ち、初步で、大地を履盡《ふみつく》し、第二步で天を履盡し、第三步もて冥界を略取せんとす。此時、大《マハ》バリ王、『これは。大神に外ならず。』と悟り、地に伏して降參した。一說には、第一步で天、第二步で地を丸で踏み、第三步の下ろし所がないので、便《すなは》ちバリ王の頭を踏んで地獄まで突込《つつこ》んだと有る(上に引たバルフヲル「印度事彙」三卷九八九頁。ヴァイジャ「梵英字書」八七五頁[やぶちゃん注:この前者は「選集」で書名と巻数の数字を補って、著者名を後に回した。])。

[やぶちゃん注:「過去世トレタユガ」「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『ヒンドゥー教神話での宇宙の紀年』を「ユガ」と呼び、その『世界創造説によれば、世界は生成と壊滅を繰返すとされ、創造から帰滅までの期間を』四『期に分ける。第』一『期クリタ・ユガ、第』二『期トレーター・ユガ』(☜これ)、第三『期ドバーパラ・ユガ、第』四『期カリ・ユガで、』この第四『期は神の』千二百『年間にあたり、』一、二、三『期は順次その』四、三、二『倍である。第』一『期は黄金時代で正義が完全に行われ,人間の寿命も』四千『歳あるが,次第に悪くなって』、『ついには暗黒に帰着する。神の』一『年は太陽暦の』三百六十『年とされ、第』四『期は太陽暦の』四十三万二千『年に相当するわけであるが、年数については諸説がある。現在は第』四『期カリ・ユガが約』五千『年ほど過ぎ去ったところであるという』とある。

「マハバリ王」「マハーバリ」或いは「バリ」は、主にインド神話に登場するアスラ(神々に敵対する存在を指す)の王の名。「マハー」とは「偉大な」を意味する敬称。詳しくは当該ウィキを読まれたい。以上の話もそこに記されてあり、リンクも細かくついているので、ここでは以下、注を省く。

『バルフヲル「印度事彙」三卷九八九頁』スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India (一八八五年刊第巻)の原本の「989」ページのにある‘VAMAHA’(熊楠の言う「侏儒の梵志ヴアマナ」)の当該項目が確認出来る。

『ヴァイジャ「梵英字書」八七五頁』不詳。]

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