ブログ・カテゴリ「大手拓次」創始・大手拓次詩畫集 蛇の花嫁 正規表現版始動 /「まへがき」・「繪について――畫集の自序――」・「序詩」
[やぶちゃん注:「大手拓次詩畫集 蛇の花嫁」は大手拓次の死(明治二〇(一八八七)年十一月三日生まれ。昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分、誰にも看取られず、結核により茅ヶ崎南湖院にて逝去。享年四十七)から六年後の昭和一五(一九四〇)年に大手拓次著で生前の友人で版画家の逸見享(へんみたかし 明治二八(一八九五)年~昭和一九(一九四四)年)氏(以下の底本の奥附の「邊見享」は誤字)氏の編纂・装幀で龍星閣から刊行された。
私は既に十年前に、ブログ・カテゴリ『大手拓次詩集「藍色の蟇」』で全電子化を完遂、サイト版で詩集「藍色の蟇」の注附初版ヴァーチャル再現版も公開している。
大手拓次は群馬県碓氷郡西上磯部村(現在の安中市)の磯部温泉の旅館「蓬莱館」の次男として生まれた。大正元(一九一二))年に早稲田大学文学部英文科を卒業後、大正五(一九一六)年には貧窮に堪えず、「ライオン歯磨本舗」の文案係に就職、当時既に同社意匠部に勤めていた逸見と知り合っている。彼は孤独な拓次の数少ない親友であった。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の画像(中見出しページ)を視認してタイピングで電子化する。拓次の絵も見られるのでリンクを張るが、「本登録」しないと見られない。なお、各詩篇の標題は詩篇本文よりやや大き目なポイントのものと殆んど同じポイントのものが混在するが、電子化では、一貫して同じ少し大きなポイントで統一した。ストイックに注を附した。
以後、「藍色の蟇」以外の詩篇を自由に電子化しようと思っていることから、改めてカテゴリ「大手拓次」を立てることとした。なお、本詩画集の詩篇の全電子化はネット上には見当たらない(抄録版は幾つか認められるが、どれも収録数が非常に少ない)。
なお、底本は国立国会図書館によって後に外装が作り替えられており、面影を残さない。Bookface氏のブログ「bookface’s diary」の「蛇の花嫁 大手拓次詩画集」で、表紙らしきもの・見開き部分(?)及び詩本文の前に掲げられている拓次のデッサンが見られるので参照されたい。]
蛇の花嫁 大手拓次詩畫集
[やぶちゃん注:前のリンク先の画像に拠った表紙らしきもの。
以下は、見返し。字は実際には、かなり薄い灰色である。]
蛇 の 花 嫁
[やぶちゃん注:続いて、中扉標題。]
蛇 の 花 嫁 大手拓次詩畫集
[やぶちゃん注:以下、「まへがき」。一行字数を同じにしたが、ルビの読みを入れたため、一行だけ突き出ている。悪しからず。]
ま へ が き
わがおもひ盡くるなく、ひとつの影にむかひて千
年の至情をいたす。あをじろき火はもえてわが身
をはこびさらむとす。そは死の翅なるや。この苦
悶の淵にありて吾を救ふは何物にもあらず。みづ
からを削る詩の技(わざ)なり。されば、わが詩はわれを永遠
の彼方へ送りゆく柩車のきしりならむ。
よしさらば、われこの思ひのなかに命を絕たむ。
[やぶちゃん注:「まへがき」の次の次の左ページのここに、
蛇の階段
1920、5、16、
と記した奇体なデッサンが載る。このクレジットの「1920」の「2」は判読に迷って二転三転した。それほどこの二桁目の数字は崩しがひどく、迷ったのである。岩波文庫原子朗先生の編になる「大手拓次詩集」(一九九一年刊)の年譜の大正九(一九二〇)年の条に(この年の十一月三日で満三十三歳。以下同じ)、『春ごろ「未刊の詩集・蛇の花嫁」と題する皮表紙ノート詩作を残す(死後刊行された『蛇の花嫁』とは内容的には無関係)』とあったが、思わず、私は当初、その年のデッサンかと思い込んだのだが、さらに後の年譜を見ると、昭和五(一九三〇)年(満四十三歳)の条に、『昭和二年以降におびただしい文語体小曲を「九月のかなしみ」と題する詩集仕立てのノート数冊に、浄書して残す』とあり、その収録する『篇数』は『四百余』とあり、同年条の末には、原先生の附記が丸括弧で以下のようにあった。『死後、昭和十五年に刊行された詩画集『蛇の花嫁』は、「九月の悲しみ」稿より採られたものである。なお、これらのおびただしい文語詩は、すべて特定の女性目あてに書かれたもの。「わたしはつねに思ふのは相変らずひとりの人である。そしてその人を対象として詩ができるのである。無限に出来るのである」(詩稿欄外メモより)』とあることから、これは「1930」と判読すべきものであると一回は納得した。さて、少しここで言っておくと、私は既にして、そうした特定の女性に対する詩篇が大手拓次には膨大にあることは以前より知ってはいた。但し、この時点での拓次が秘かに愛した女性が具体的に誰であるかは不明である。拓次は「ライオン歯磨本舗」広告部文案係(就職は大正四年六月。満二十七)になってより、三十代の頃は、通院している病院の看護婦や同僚(ある複数のネット記事では、その女性は歯科医院の受付をしていた、後に舞台「夕鶴」の主演女優として知られる山本安英であり、彼女は「ライオン歯磨」にも短期間ながら務めており、拓次と同僚であったともするが、どこまで信用できるかは定かでない)を恋慕し、ラヴ・レター代わりの短詩を書いては、それらの女性のデスクの引出に投函するという今で言うストーカー紛いのことをしていたことは、かなり知られている(投げ込まれた一人の女性は誰が投げ入れるのかも知らず、詩篇を読むことなく、右から左へと捨てていたとも伝えられる)。拓次は結局、未婚であったが、例えば、大正一四(一九二五)年の十一月(満三十八)には、同年夏以来、文通していた従妹と、結婚を意識して恋愛関係にあったこともある。しかし、実は最後の逸見享氏の「あとがき」(最後に電子化する)の中に、これらのデッサンのことが語られている部分があり、その「2」の中で逸見氏は『大手拓次が繪を描いてゐた!』『といふことはおそらく彼を知る限りの人々は勿論のこと、私にとつても一つの驚異である。その畫集といふのはスケツチブツクにペン一色で描いたものと、色鉛筆で描いたものとの二册であつた。それはおそろしく幻想的なもので、その畫集の自序にもあるやうに、これは彼自身、詩では到底あらはせないものを繪であらはさうとしたもので、今から』(☞)『二十年前、既にかうしたものを描出しないでゐられなかつた彼の詩魂を思ふ時、私は今更乍ら故人の特異性の尋常ならざることに深い驚きを感ずるのである』とあるのである。本詩画集の刊行は昭和一五(一九四〇)年頌二月である。機械的にそこから『二十年前』ならば、これはもう、大正九(一九二〇)年なのである。そうだ!――本詩画集の詩と絵とが――どうしてこうも――徹頭徹尾――全くかみ合わないグロテスクなデッサンであるのかという不審の理由が解けたのだ!――詩篇は確かに昭和五(一九三〇)年のものである――が、絵は実は――それよりもさらに十年も前に遡るものだった――だから、奇体なデッサン群と、恋情満々たる恋愛詩群のコラボという奇妙な詩画集となったのだ!――と納得したのであった。
なお、底本の画像は国立国会図書館に許諾を求めなくては掲載出来ない。但し、このデッサンについては、前掲の岩波文庫のカバーと本文の「初期詩篇(明治期)」の標題ページ下方に当該デッサンが使用されている。そこで、その後者の方を、トリミング補正して、以下に掲げておく。同文庫には特に転載禁止事項を挙げておらず、さらに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。
以下、「繪について――畫集の自序――」。]
繪 に つ い て
――畫集の自序――
あたまの中にもやもやしてゐる幻想を詩であ
らはすほかに畫でやつてみたくなつた。
畫なんかすこしもかけない私だが、あたまの
中の幻想があふれ出して、どうにもかうにも
ならないので、かきはじめた。子供の自由晝
のやうに、私も子供になつてかきはじめる。
之はみんな幻想のスケツチである。
[やぶちゃん注:以上の本文は実際にポイントが小さい。
以下、正式詩篇本文となる。]
序 詩
ふかき底にすわりて
汝(な)がための いのりに生くるわれなれば
孤獨なる夜(よ)のしずけさこそ
わがたましひのよろこびなれ
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